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キュウリとアイスコーヒー

 なぁんにもない田園風景。故障して動かなくなった車。レンタカーの契約書。見たこともない土地。電源が切れたスマホ。着替えの入ったカバン。クレジットカードと現金。それがすべてだった。

 あたしには、もう何もなかった。あたしの黒い髪が直射日光をあびて、アスファルトみたいになっている。風すらななびかない灼熱(しゃくねつ)の畑。しかたなく、ヴァカンス先で被る予定だった麦わら帽子を使う。なさけなかった。


 どうしてこんなことになってしまんだろう。今まで順風満帆だったはずなのに。


 東京の有名な私立大学を卒業して、新卒で東京のそこそこの会社に就職した。入社1年目で3歳年上の会社の先輩と付き合いはじめた。でも……


 付き合って3年目の冬のクリスマス。

 おしゃれなレストランで、私はプロポーズではなく別れ話を切り出された。


 いままで目を輝かせてみていた東京の夜景は、残酷な凶器となり、グラスに注がれた少し高い赤ワインは、まさに人間の血のように濁ったものに見えた。


「無理なんだよ。君といると息苦しいんだ」


 そう言って、追いすがる私に彼はとどめを刺した。

 その失恋は、私の心を痛めつけた。時間が経てば消えるだろう。そんな甘い見通しは、間違いだった。


 あの冬は、まるで雪のように私の心に痛みを積もらせていく。それ以来、仕事は失敗続き。


 限界を感じた私は、1か月の長期休暇を取って、海外に逃げ込もうとしたのだ。


 そして、このざまよ。悲劇も積もれば喜劇になる。


 壊れたレンタカー会社に連絡しようにも、スマホの充電を忘れて、万事休す。空港でぶらぶらするつもりだったから、出発までにあと3時間くらいある。でも、どうしよう。最近通り過ぎたコンビニは、車で15分くらいかかったはず。歩くと何分かな。


 こんな炎天下に歩けば、熱中症の危険もある。泣きそうになりながら私は日焼け止めを塗りたくった。せめてもの抵抗。


『なにやってんだぁ、あんたぁ?』


 後ろの畑から声が聞こえた。ビニールハウスからおばあさんが現れたのだ。思わずびっくりして悲鳴を上げかけたが、何とか飲み込んだ。


「ああ、車の故障かぁ? そりゃあ、運が悪かったなぁ」

 彼女は、私の様子を見て納得する。


「はい。それでレンタカー会社に電話をしようとしたんですが、電源が切れちゃって――」

 もしかしたら電話を貸してくれるかもしれない。そんなほのかな期待を込めていた。


だけど、そんな期待は本当に小さかった。だって、彼女は70歳くらいのおばあちゃん。朝からずっと畑仕事をしているような様子。


 きっと、携帯なんてものは持っていないだろう。持っていても携帯を携帯しているようには見えない。


「ああ、ええよ。ほら、貸したる」

 そう言って彼女は畑の近くに置いてあった茶きんからスマートフォンを取り出した。リンゴのマークの最新形。畑作業のおばあちゃんから、こんな現代的なものを渡されるなんて思ってもいなかったあたしは、思わず笑ってしまう。


「なんじゃい、失礼じゃね。田舎者をなめんじゃねえぞ」

 口調はきついのに、笑っている。とてもやさしい笑顔の老婆は、頭にかぶっていた手ぬぐいをほどき、畑近くにあるバスの停留場の小屋を指さす。時刻表は、すかすかで1日に数本しかないバスの予定表を見ながら、彼女はこういうのだった。「向こうで、車屋がくるまでコーヒーでも飲むぞ」、と。


 ※


 彼女は、水筒に入れていたアイスコーヒーを蓋にそそぎ私に手渡す。氷でキンキンに冷やされたアイスコーヒーは、まるで黒いダイヤだった。


「ほれ、飲め、飲め」


「ありがとうございます」


「しっかし、災難だったなぁ。海外旅行めえに、車が故障かぁ」

 簡単に雑談を済ませると、私たちはコーヒーを飲んでくつろいだ。直射日光をあびないだけでも、こんなに体が楽になるなんて知らなかった。バス小屋のわきには大きな木があって、影を作り出してくれている。


「失恋かぁ?」


「えっ……」


「やっぱぁ、そうだ。図星だ。女ひとりで海外旅行なんてぇ、失恋くらいしかねぇ」


 わっはっはと男のように笑う老婆につられて私も笑う。恥ずかしいけど、とても恥ずかしいけど、なんだかおもしろかった。


「そうです、失恋です」

 あたしは笑いながら答えた。半年間抱え続けていた苦しみを吐き出すように。


「やっぱかぁ。そうじゃ、そうじゃ。しゃあねぇ。人間、生きてりゃ別れることもある」


「おばあさんも?」

 こんな明るい人にもつらい別れがあるのだろうか? 3口目のアイスコーヒーは少しだけぬるくなっていた。


「そりゃあ76年も生きてれば、ある。じいさんも2年前に逝っちまったしな。子供たちにも、1年に2回も会えればいいほうだぁ」


「さびしいですね」


「まぁな。でも、いまはスマホがある。ラインで孫たちとおしゃべりだってできるし、好きな映画だって見れる。この村にはスーパーも本屋もねぇが、通販でなんでも買える。ばあさんは、幸せもんだぁ。東京もんにはわらわれるかもしれねぇけどなぁ」


「……」

 あたしにもいつかそんな風に感じられる時が来るんだろうか。


「いいこと教えてやる。食え」

 そう言って、おばあさんは小屋のわきからきゅうりをとってきてあたしに渡す。


「えっ?」


「朝とれたばかりのきゅうりや。くえくえ。それですべてわかるじゃろぉ」


 そう言われるままに、きゅうりをかじる。スーパーで買うよりもはるかにみずみずしい食感が口に広がった。


「なぁ? 全然違うだろぉ? こっから東京に行くまでに野菜はどうしても乾燥する。味が落ちる。スーパーに並ぶ野菜は、本物じゃねぇんだよ。人間もおんなじだ。生きてりゃよ、こころが乾燥しちまうんじゃよ。そんなときは、難しく考えちゃならねぇ。うめぇもん食べて、寝て、たまにあそべぇ。そんな時は、簡単でいい。むずかしいこと考えるのは、ゲンキのときだけでええ」


「ありがとうございます」


 きゅうりを食べ終えると、ロードサービスの車が見えた。


「よかった、よかった。じゃあ、ばあさんは家に帰るとするかねぇ。テレビで映画見ながら、昼に冷やし中華でも食わんといかんから」


「本当にありがとうございました。きゅうりおいしかったです」


「ええ、ええ。ばあさんのおやつじゃ。気にすんな。じゃあな。はぶ あ ないす とりっぷ」


 そうおばあさんは言いながら、ゆっくりと歩いて行った。あたしも農道を歩き車に向かう。(完)

以前、ノベルアップさんに書いたものです!

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