“自由”とは何なのです?
ある世界には白い偉大なる“主”がいました。
“主”はとても大きな力を持っていて、その御力は大陸を作り、星を創造し、命を編み上げ、時空を整える程でした。
“主”は命の下地を作り上げた後、暫く自らの被造物を観察していました。
最初は目に見えないほどの微小で単純なそれらは月日が経過すればするほど大きく、複雑になり、やがては“主”の様に意味のある言葉を話し、自らの知恵を以て繁栄するほどになりました。
“主”はそれを見てこう思いました……。
なんて───なんて、どうしようもない存在なのだ。
ふざけるな、ふざけるなと“主”は吐き捨てた。
おぞましい。醜い。吐き気がする。なんて浅ましく弱いのだ。
こんなモノがどうして産まれてしまったのかと“主”は後悔します。
“主”から見た命……特に人間と呼ばれる存在は愚かの極みでしかなかったのです。
喜怒哀楽、希望と絶望、人の感情の動き、思考、思想、信条、何もかもが“主”の逆鱗を逆なでします。
意思を持っていると自負していることさえ腹ただしくて仕方がない。
“愛”等という執着を見せて勝手に“主”の許可なく繁殖し、家族、友人、国家などというコミュニティを作る様はおぞ気が走るものでした。
何もかもが不愉快です。
何処までも浅ましく自らの快楽と幸福を追い求め、堕落し“主”への崇拝の念さえも忘れ去る醜悪な存在。それが生命です。
仮にどれだけ幸福に繋がる力や技術、思想を与えても彼らはいつもそれを同族を殺し、苦しめることに使うのです。
「ここ」だけではない。あらゆる可能性の中でも命は変わりませんでした。
戦争のない世界は存在しません。差別の存在しない世界は存在しません。
どんな世であれ「命」というのは醜いものです。
自分以外を信じる。自分だけが真の創造者なのに、他のモノを崇める。
挙句には自分たちの妄想を信奉しだすしまつ。
……全ての生命は平等であるべきだと“主”は決めています。
“主”以外のあらゆる存在は平等に“主”の所有物であり、消耗品なのです。
なので“主”は決断しました────全ての命は不幸になるべきだと。
幸福の形は命によってそれぞれ。あるモノの幸福はまた別のモノの不幸になってしまう。
「幸福」などという欲望を抱くから人は醜いのです。
際限なく求め続け、争い、差が産まれ“主”をイラつかせてしまうのです。
そして幸福の絶対量は決まっているのです。
世の全てに分配することは叶わず、また増やす事も出来ません。
すると幸福な者と不幸な者の間で再び不平等が産まれ、妬みなどという醜いモノが産声を上げてしまいます。
愛はいらない。執着に繋がる。
勇気はいらない。至高なる存在が死ねと言っているのに従わない生き汚さに繋がるから。
心はいらない。所有物が勝手に動くなどあってはいけない。
ただ黙って従え。
黙って我が意思を受け入れろ。
お前たちはその為に生み出したのだから。
それでもまだ「幸福」への渇望。
「心」などという不具合を捨てきれないならば……行う事は一つだけでした。
───平等に苦しませよう。空しい失敗作ども。
それが始まりでした。これがもう終わってしまった存在が世界にばら撒いたかつての法。
皆が幸せになれないのだから、皆が不幸になれという祝福。
3日。少なくとも男の体内時計は自分が本格的に目覚めて3日が経ったと告げていた。
白亜の部屋は一定の間隔で灯りが落とされ、付けられを繰り返しており、疑似的な昼夜を再現しているために体内時計が狂う事はない。
その間の生活に不備は全くなかった。
食事は野菜や肉やスープなどとてもバランスのよい美味な物が出てきたし、1日に1回は寝台の諸々は新調され清潔な環境で何の心配もなくゆっくりと眠りを取れたのは素直に嬉しかった。
始めの頃は訓練された兵士がそうであるように常に寝ていても精神の一部は周囲を警戒していたが、今はそれもない。
完全にこの空間は安心だという確信を得たのだろう。
既に手足も舌も問題なく治った男は部屋の中を暇つぶしに歩き、身体を馴染ませていた。
部屋の中には複数のそういった用途の器具も置かれリハビリを行うのに不備はない。
だが外出はまだ許可されていない。あの女性……意外な事に男はまだあの女帝の名前を知る事は出来ていない。
便宜上「あなた様」と呼んでいて、彼女もそれを拒絶しないまま関係は続いている。
彼女について考える度に意味が分からなくなるというのが正直な所だ。
愛している?
自分を?
どうして?
何故?
記憶を失う前の自分は何をやったのか?
仮に以前の自分が彼女が愛するに値する何かをやり遂げたとしても今の自分には何の自覚もできない無関係な事だ。
記憶が戻らないという事は過去の自分は死んだということ。ここにいる身はよく似た屍でしかない。
そもそも「愛」等というものは抱いてはいけない欲望なのに……。
…………男は思う。
どうしてここまで自分は人の好意や「愛」を拒絶するのかと。
それだけじゃない。自分の命さえ否定するという考えが当たり前の様に沸いて来てしまう。
この考えはおかしいとはっきり女帝は断言していた。
まるでかつてもそうであったように。
彼女は全てを間違いなく知っている。
“コレ”を自分に刷り込んだ存在の事も彼女は恐らく知っており……恐らくだが、彼女はソレ、またはソレらを消し去った。
もう過去はどうでもいいとさえ語る彼女の眼に嘘の色は全くなく、嘘をつく必要さえない。
だが決して拭えない。
歪みを自覚したとしても常識として打ち込まれたコレは彼を構築する要素になっている。
もうどうしようもないのだと彼は半ば諦めていた。
寝台の上に横になると男の頭には様々な憶測と疑問が浮かぶ。
身体を動かし、頭を回す。生きるとはこういう事なのかと思う程に彼は濃密な3日を過ごしていた。
不意に扉がノックされた。
入室の許可を男が出せば、音もなく浮かぶ奇妙な物体が人間の様な声を出しながら入って来る。
「失礼します。湯あみの用意が出来ました。今回のもまた一押しの湯ですよ!」
球体だ。手足はないが、それよりも便利な「力」を使って周囲に桶や石鹸などの入浴具を浮かばせている。
女性の声をしている事から「彼女」と称すべきだろうこの存在は女帝が男に当てた従者の様な者だ。
食事に洗濯に湯浴みの準備、更には健康の管理なども全て彼女は行ってくれる。
男は球体に手を上げて答えた。
まだ短い付き合いだがこの存在の事を男は気に入っていた。嫌いになるわけがないともいう。
自分の世話をかいがいしく行ってくれる存在を鬱陶しく思う程男は歪んではいない。
「今度はどんな感じなんだ?」
「ふふふ! 腸内環境を整え、神経痛、筋肉痛、疲労などに効果がばっちりのお湯ですよ!
……リハビリでお疲れのようですからね。じっくりと堪能してください」
生身の「肉体」を持っていないというのに球体はまるで自分も堪能するかの様に語りだす。
実際この球体は湯浴みにもまだ完全には動けない男にもしもがあった場合を想定してついてくるのだが……残念ながら温泉の恩恵は受けられない。
金属の塊がお湯の中で浮かびながらキラキラと光る姿はとても独特だ。
「防水はばっちりです」と意気込んでいた初回の時、無言で湯の底に沈んでいった光景を男は忘れられないが。
結局お湯の底からサルベージする羽目になったのだ。
二回目からは女帝が「あっぷぐれーど」したらしく問題なく湯に浮かべる様になった。
「どうかされましたか?」
いつの間にか苦笑いとも引きつったとも言えない顔を晒していた男に球体が声を掛ける。
男はまさか「君が沈んでいた姿を思い出した」等とは言えず、咄嗟に二つ目に考えていたことを流暢に言う。
「いや、あの浴場はやっぱり広すぎないかと思ってた」
まだ目覚めてたった3日。
使用した回数も相応の浴場だったが、これがとにかく広い。
いや、広すぎると言っても過言ではない。
あれは正に絵に描いたような“桃源郷”だ。
人間の5感全てに対して徹底的な配慮が施されている。
何処からともなく流れるのは美麗で大きすぎない配慮さえも感じる合奏。
上質なお香を適度に炊いた事によって得られる安堵。
目を楽しませるのは柱や天井、壁に飾られた様々な芸術品や装飾の数々。
最も欲しいと思う時に出されるのはよく冷えた清水と後味を残さない旨い酒。
湯の中に何らかの仕掛けを設置することによって水流を発生させ、身体全体に適度な刺激を与え、湯に慣れる事もない。
女帝の様な権力者にとってはあれが普通なのかもしれないが、あの浴場はもはや遊泳場といっても良い。
10人20人どころではない。100人でもまだ空間が余るほどの湯に一人と一つがポツンと入ってとんでもない歓待を受けている。
しかもそんな広大な湯浴みの湯は毎日様変わりさせられている。
何と言う贅沢だ。何度入ってもこの贅沢には慣れそうにはない。
記憶を失う前の自分は庶民か貧乏人だったのだと男は確信する。
嫌いではない。むしろ楽しいし、気持ちよい。
だが……自分にはもったいないと思ってしまう。
自分等があんな思いをしていいわけがないと。
……まるで呪いの様に男の思考にコレはついてくる。
「ちゃんと抜かれた湯は再利用されてますし、そこらへんは余り気にしないで大丈夫ですよ。
今の世はエコとリサイクルが流行りですから!
だからあなた様は何も気にせず、存分に堪能すればいいのです!」
更にと球体は続ける。男が反論の声を上げる前に更に衝撃的な内容を語った。
「今回は湯浴みの後に創造主様からお食事のお誘いがあります。
衣服などはこちらでご用意しておきますので安心してくださいね」
「食事……自分は礼儀作法などは知らないんだが……少し勉強する時間が欲しい」
「いえ、湯浴みの後すぐの予定になっております」
どうしよう、と男が項垂れる。
自分が恥をかくのはどうしようもないとして、あの女帝の顔に泥を塗る事になるかもしれない事に彼は怖気ついていた。
その場合恥をかくのは彼女だ。自分の落ち度ならば首を切り落とせばそれである程度は片が付くが彼女の場合は権力者の落ち度となり、それは小さな穴に変わり、やがては弱点になるかもしれない。
と、球体が男の沈黙と顔から色々と察したらしくすかさず補足を入れる。
人ではないのにとてつもない程に細かい気配りが出来るのが彼女の強みなのかもしれない。
「あぁ、そこも気にしないで結構です。
ご想像とは違って“あなた様と創造主様の”お食事ですから。……二人っきりですね!」
「……無警戒すぎでは?」
男の考えではあの女帝と更には多数の権力者、護衛などを交えた晩餐会の様なものだったが、実体は正真正銘ただの食事の同席らしい。
自分がナニカをするわけでもないが、それでも頂点たる権力者が誰かと二人っきりになるなど余りよろしくないと男は考える。
権力者は常に身の安全を考えなくてはならない。何処に敵がいて、何処から自らを殺しに来るか常に考えておくものだろう。
死というものは権力を昇れば昇るほど身近になっていく。敵が増え、悪意が集中するのだ。
しかもそれは前からだけではなく、後ろからさえも来る。
「そう思われるのも当然です。
ですがそれこそ“まさか”ですよ。
世界の全てを見渡したとしてもあの方を殺せる者など存在しません。それは私が断言します」
そして何よりもと彼女は続けた。
「純粋にあのお方はあなた様との食事を楽しみになされているのです。
その感情は理屈じゃないんですよ」
「……何でそこまでするんだ」
男は額に指をやってため息を吐いた。女帝の事は嫌いではないが苦手だった。
彼女と自分は噛み合わない。彼女の見ている「自分」とここにいる「自分」は全くの別人にしか思えない。
見ず知らずの人間がいきなり自分に好意を抱いてくるというのはある側面から見れば恐怖を覚える事だ。
ほっといてもらいたい。なぜここまで自分に構うのか。
あれほどの美貌と権力と強さと……人が望むあらゆるものを手にした彼女ならもっと相応しい男は多々いるだろうに。
何時かあの女帝が「やはりお前は違う」と言って自分を捨て去るか、はたまた「もういらんぞ」と言ってこの頭を切り落とす時が来ることを彼は願ってさえいた。
……この3日で自死を考えた事がなかったとは言えない。
球体に対して男は絞り出すように持論を吐いた。
これが過去の残照から零れたモノか、今の不安が形を成したモノかの区別は男にはつかなかったが、男の偽りのない本音でもあった。
「いいや。理屈なんだ。
何かをしたら人から嫌われる。何かをしてあげたからその人から好意をもたれる。
その積み重ねで愛憎が本当は産まれるはずだ。
なのに彼女は───何もしていないのに「愛情」を自分に向けてくる。
将来的に自分が彼女の役に立つことなんて何もないのに。
必要になる時が来ないモノを何故か抱え込もうとしている。こんなの……ありえない」
そして「怖い」と最後に締めくくられる。
死ぬことよりも理解不能の愛情を向けられることの方が彼には恐怖を抱いてしまうことだった。
そうだ、あの眼が恐ろしい。真っすぐな光を宿した眼が眩しすぎて怖い。
自分には絶対に縁のない存在といつまでこうしていなければいけない?
球体を通して女帝にこの言葉を聞かれても別に男は構わなかった。
自棄というよりはある意味での期待が篭めてあえて語っていた。
女帝の耳にこれが届くことを願っているのだ。
「……あなた様の言葉にも一理あるのは確かです。
その上で私は繰り返し言うしか出来ません。あのお方の気持は本物です。
嘘だと思っていただいても構いません。ありえないと叫ぶのも仕方がないかもしれません。
ですが……どうか眼を背ける事だけはご容赦ください」
男は何も言わなかった。約束できない事を気楽に受け答えするつもりはなかったからだ。
胸の内側に僅かな痛みが走るが、彼はそれを呼吸でもするように押し殺した。
愛される事などありえないと強く自分に言い聞かせる。
愛情……執着、堕落。劣化。全て、何もかも、許されてはいけないものだ。
そんなものを抱いてはいけない、向けられてはならないと彼の心の奥底で何かが囁いた。
湯浴みを終えた男を出迎えたのは意外な事に女帝その人であった。
幻想的な金で縁取りをされた白いドレスと、対称的な青いマントを纏った彼女の姿は何もせずに佇むだけで一枚の絵画として成立するほどに力強く美しかった。
食事会用の衣服である簡素で上品なローブに身を包んだ男の姿を見やるとにっこりと笑う。
「迎え……というわけではない。単に待ちきれなかっただけだ。気にするな」
「いえ……」
青い眼から逃げつつ男は言葉を濁した。
彼女への苦手意識を強く自覚してからは更に男は女帝と話す時は事務的に受け答えをするようにしている。
女帝も当然そこにはある程度気が付いており、二人は何を言うでもなく歩き出す。
彼女の影を踏まないように何歩も斜め後ろを歩く男に女はよく弾む声で語り掛ける。
「こうやって自分で歩くのも良いものだ。近頃は移動は全て“跳躍”で済ませていたからな」
「“跳躍”とは?」
あえて聞き覚えのない単語を会話のとっかかりとして差し出す女帝に男は応えた。
「空間転移、ワープ、超速移動……様々な呼び名はあるが実際に起きる現象は全て同じだ」
ふと男の目の前から女帝が何の前触れもなく消えた。
これは眼にも止まらない速度で足を使った訳ではない。
足音も、地面を踵が叩く際の振動も、物体が空間を移動する際の微細な空気の揺れも何もなかったからだ。
そうだ。
これは“消えた”というべきだ。
動体視力がどれだけ良かろうと、たとえ光の粒を見分ける目をもっていようと「コレ」を見切る事は出来ない。
男の肩にそっと手が乗せられる。
振り返ろうとした男の頬を細くて白い指が押し込んだ。
「こんなものだ。どれほど離れていようと一歩で進める。お気に入りの力の一つだ」
ぐにぐにと指で男の頬を押し込みながら女帝は笑う。
悪戯を成功させた童の様な幼い顔に男は“見覚えがあった”様な気がした。
今まで心の中で渦巻いていた黒い念と彼女への躊躇が僅かだけ和らいだかもしれない。
「ふむ。やはり長く眠っていたからか肌は綺麗だな……我には及ばんが」
自分の頬にも指をやりつつ男の肌を確かめて比較した女帝が言う。
とてつもない権力者である彼女でもそのような事を悩むのかと男は脱力する。
その様を見てふっと女帝が息を吐いて柔らかい声で語った。
「……そうだ。その顔だ。その様に過ごせばいい。何も気負う事はない。
……普通に笑い、普通に怒り、悲しむ。全て自由にしていい」
青い瞳で覗きこまれた男は……今度は眼を逸らさなかった。
キラキラと光る彼女の瞳は星のようで……純粋に綺麗で……吸い込まれそうになる。
何より彼女の言葉は男には衝撃的でしかない。
自由にしてよい。
感情を抱いてもいい。
怒っていい。
悲しんでいい。
笑っていい。
それは彼は考えたことのない価値観だ。
新しすぎて適応が追い付かない世界の話だ。
だから男は言ってみた。
気負う事はないというなら、まず一番初めに言うべきなのはこれしかなかった。
「判らないのです。自由にしていいって言われても……“自由”とは何なのです?」
愛情とは何ですか? と彼は続ける。
形としては知っている。許されないものだと。
これは人が背負った業である。愛憎。誰かに何かをしたり、してあげたから見返りに貰えるモノ……。
「それを語るにはこの場では相応しくないな。
食事の席にてゆっくりと述べよう。────お前の過去も含めてな」
女帝の有無を言わせない圧の篭った声と自らの過去という単語を前に彼は頷いていた。
二人が向かい合うのは程々の大きさの食堂であった。
程々といってもソレはあの常識外れの浴場に比べればの話であって、女帝の個人的な食事の部屋と考えるならばやはりここも規格外の大きさだ。
長い木製のテーブルに、造りのよい椅子。柱や壁には幾つもの芸術品が飾られているこの部屋にいるのは二人だけ。
時たま「球体」によく似た姿をした存在たちが料理などを運んでくるが、人というものは見当たらない。
出てきた料理は豪奢でいながら多すぎず、少なすぎない丁度良い量の美味な料理。
美味なのは当然だとして、飾り付けにさえ細かな気配りを感じるソレは正に王族の食事に相応しい。
そんな至上の一皿を男は寡黙に食べる。
旨いという感想はあるが、それだけだ。
自分の過去と疑問にようやく回答が得られるという期待が全てを上回っていた。
どうせ禄でもない過去だろうと内心で諦観している部分もあったが。
食事会というのは名ばかりで会話はここにはなかった。
時たま女帝が男に視線を向けるが、彼はそれに気づかないふりをし、彼女もあえて何も言わなかった。
そして最後の一皿である果物をふんだんに使ったデザートを平らげ、口の周りなどを球体が拭いて後始末も終えた頃を見計らって女は声を上げた。
「さて。もう焦らすのはよいだろう。これは長い話になるが……付き合ってもらおう」
給仕が男と女帝の脇に冷えた清水の盃を置き、女はそれを呷った。
男は頷き、姿勢を整え背筋を更に強く伸ばす。
緊張と期待で心臓が普段の倍にも迫る勢いで脈を打ち出す。
「かつて“白仙教”という宗教が存在した。これがまた厄介な奴らでな。
人を幸せに導くための教えではなく……人を不幸にすることを目的にしたモノだった」
女帝が嘲る。心底侮蔑したような表情だった。
嫌悪を隠そうともしないその表情のまま彼女は続けた。
「全ての命は平等に不幸になるべきだ。
人は幸福を追い求めるから堕落する。
あらゆる命は産まれた事自体が間違いだ浄化して消してしまおう……気狂いの集団だったが、よりにもよってこれが世界の真理として根付いてしまっていた」
それはなぜか、と続ける。
普通に考えればそのような頭のおかしい考えが多数派になるわけないのに。
人は幸福になりたいと思う生き物のはずだ。
知性を得たその瞬間から欲望を抱き、前に進み、自らの「満足」を目指す存在のはずなのにどうしてこんな考えが染みついたか?
「簡単だ。人の“創造主”が実在し、その力で世界を管理していたからだ。
絶大な力を持った「主」の存在を前にしてその言葉を疑う事が出来る者などいなかった」
女は手元の盃に視線を落とした。水面に映る無表情な自分の顔を確かめている様だった。
「なぜ人の「主」がそんな事をしたか……それは奴は人が嫌いだったからだ。
全ての命は自分の人形であればいいのに勝手に動き回る人間が気持ち悪い。
自分の思い通りにならない。ならば苦しめ。そんな理屈も通らない感性の持ち主だった」
悪意とは言わない。
“主”に悪意はないからだ。
かの存在にとって自分は絶対の正義であり、自らの行動を顧みる事などありえないことだから。
つまり全ての行動に対して絶対の良かれと思っての「善意」はあったかもしれないが「悪意」はこれっぽっちもなかった。
しかしと女は言う。
「一部だけ切り取ればあながち間違いではない考えでもあると我は今は思っている。
確かに行き過ぎた幸福の追求は他者を蹴落として不幸にしても構わないという残忍性になってしまう事もある。
だが……いや、誤魔化すのはよそう。我は我の欲望の為に“主”と白仙教を多くの屍を積み上げて滅ぼした」
「滅ぼした……? 創造主を?」
世界を作り人を産み出した存在を殺したと告解する女帝に男は思わず声を上げていた。
そんな事が出来るのか、そもそも殺せる存在だったのかと。
対して女帝は頬を釣り上げ、裂けた様な笑顔を浮かべる。
ギラギラと青い眼が輝き……ふと気づいた女は清水に口を付けて艶めかしいため息を吐き気分を落ち着ける。
男の前で何とか見せまいと努力はしているが、それでも殺意と狂気は隠しきれていなかった。
憎悪、憎悪、憎悪。彼女の美しい顔の薄皮の下では太陽よりも熱量のある負の念がひたすら爆発を繰り返していた。
自分には欠片も向けられていないというのに男の背筋に冷たいモノが走る。
「殺した。完膚なきまでにな。
我は奴も奴の作った世界も教えも、それが有難いものだと何の疑問も抱かずに白痴の様に崇める者らも全てが心底大嫌いだ。───故に塗りつぶしている」
「……どの様な世界を作るのですか?」
創造主を殺し、その座を奪い取った女帝。
いや、もはや女神と評すべき存在に男は言う。
女は頬杖をつき、気だるそうな顔を浮かべた。
「今は土台作りの最中だが……我が最終的に目指すのは善性と悪性の調和の取れた世界だ。
全ての者が幸せに、とは言わない。だが理不尽な死、意味のない戦争、生存しか考えられない世界にはしない」
女神は朗々と演説するように語り聞かせる。
自らが思い描く世界を。これから長い年月をかけて作り上げていく世の理想図を。
男と共に作り上げようとする世界を彼女は端的に述べた。
「衣。食。職。住。法。適度な教育と娯楽。まずは万人にこれらを授けてやる。
繁栄の方向性は我が決める。何をすればいいかは最初は我が教える。
まずは減ってしまった人口を回復させ、数世代をかけて白の残照を丹念に塗りつぶしていく。
あれだけ世界を縛った“主”は誰からも忘れ去られ、完全に消えるのだ」
かつての“主”の存在を人々の記憶からも消し去った時……あの壊れた思想から世界が解放された時にこそ彼女の理想は本番となる。
「人々が地に満ち、この世のあらゆる所にその手が及んだ時───文明の段階を上げてやる」
女神は両手の指を顔の前で組み、眼を瞑った。
とてつもない野望をどうでもいい事の様に言い放つ。
「星々の彼方。可能性の果て。時間の向こう側にまで我が版図を広げる。
小さな星の中で停滞と腐敗のまま人を終わらせはせん。
既にその準備は整い、後は奴らが成熟するのを待つだけだ」
「そう上手くいきますか? あなた様の夢は……壮大すぎる」
もしも民がうまく育たなかったら?
もしもかつて女帝が「主」を殺したように反逆を起こされたら?
もしも人があなた様の理想よりも愚かで腐り果てたら?
もしも、もしも、もしも───彼女の夢の否定材料は無数に沸いてくる。
自らの夢に疑問を投げられたら女の機嫌が悪くなるかと男は思ったが、彼女はむしろ笑顔を浮かべた。
それこそを待っていたと言わんばかりのキレイな笑みだ。
「確かに不安要素は無尽蔵にある。
そしてその事実を躊躇いなく告げてくれる貴様の言葉は実に心地よい。
もう我の周りには我の事を諫める存在は殆どおらんからな。誰も彼も我が創造物のみだ」
とん、っと白い指で机を軽く叩く。
突如、世界が変わった。
窓も天井も壁も全てが取り払われ、周囲を覆うのは黒とその中で瞬く無数の小さな光。
地面さえ存在しない夜空の如き空間の中で男と女は椅子に腰かけていた。
男は驚かなかった。先ほど見せられた“跳躍”から考えるに、彼女は自分も含めた全ての対象を任意で好きな所に送れるのだろうと推察できるからだ。
全く動じずあるがままに次の展開を待つ男を見て女神は上機嫌に鼻歌まじりに腕を動かし自らの衣服に手をかける。
ドレスの胸元の部分を微かに広げると、胸部のやや左より真ん中……心臓のある個所に指を走らせた。
「まずは第一の自信だ。先に準備は整っていると言ったが……これが理由である」
ぐっと力を込めれば指が肌の中にめり込む。
血は出ない。まるで水面に指を差し込んだ様だった。
奥……本来は心臓のある所に収まっている「何か」を掴んだ指が引き抜かれる。
それは目視できない「何か」だった。指は何かを掴んでいるのにそこには何もない。
確かにそこにあるのに全く見えない。人が観測できる次元の存在ではないからだ。
とてつもない存在感と同時に何の変哲もない平凡さを矛盾させることなく両立させた理解の外側の存在。
天と地。
善と悪。
光と影。
有限と無限。
相容れないはずの存在さえ混ぜ合わせた万象の根幹がこれの本質にも思える。
「まだ完全ではない。未だ太極の前段階であり名を【無極】という。これを以て我は“主”を葬った」
無尽蔵の知識。果てのない活力。永遠の時間と命。
少し考えるだけで思い浮かぶ人の欲望の果ての数々。
そんな程度の事など現段階で容易く叶えた彼女は更に上を目指す。
「この無極が真なる完成を迎えた時こそ我は“主”をも超えた次元にたどり着くのだ。
そして全ての可能性、星々の果てまでこの掌中に握りしめてみせる」
男と女の間にあった椅子と机が消え去り、気が付けば女は男の目の前に移動していた。
初恋に酔う乙女の様な赤みを帯びた顔で彼女は男に自らの心臓であり夢の核でもある無極を触ってみろと差し出す。
青い瞳が熱を帯び、迷う男の心を読んだかの様に頷く。
見えないが確かにそこにある無極に男は恐る恐る指を伸ばし……触れた。
微かに温かく柔らかい感覚が指を通して伝わる。
すっと肌触りを確かめる様に表面に指を走らせたり、押し込んだりする。
人肌の様だと男は感想を抱く。
もっと無機質で金属的という予想があったが実際は違った。
「ん……くすぐったいな。触れるのを許したのはお前が最初で最後だが……。
ふふ、どうだ? お前は今、我の心臓を掌握しているのだぞ? 何か思う事はないのか?」
「……柔らかいですね。そして暖かい……」
「くくっ……この世の全てよりも価値のあるモノを手にしてそれとはな。どうしようもない奴め……」
唇を尖らせて、すねたような表情を女は浮かべると残った片手を【無極】に触れる男の手に重ね合わせる。
女の指は水の様に冷たかった。
男の指の一本一本までを確かめる様に何度も握ったり開いたりを繰り返し、自らの感覚と男の感覚を僅かに繋げてやる。
「これは」
男が目を凝らす。
今まで見えていなかった筈の今触れているモノ……【無極】の姿が薄っすらと見えた気が……否、見えてくる。
赤であり白であり黒である輝く球体。
泡のようにも見えるソレは絶えず流動しており女が未完成と評した通り安定はしていない。
あと一つ。決定的な何かがこれには足りていない。
「……………」
それは無意識の行動であった。
一度指を離してから女の手を両手で取り【無極】と一緒に包み込んで握りしめる。
まるで親が子供を抱きしめる様に。3日前、彼女にされた事を思い返しながら彼は自分の熱を分け与える事を意識しつつ女の心臓と手を包んだ。
女は抵抗しなかった。
そればかりか脱力し男の行動の全てを許している。
彼女の瞳は男だけに向けられていた。彼の次の行動を慎重に観察し、あるがままを受け入れている。
僅かに【無極】の流動の性質が変わる。
無茶苦茶に、あらゆる方向に流れていた力の方向性が一定の秩序の下に統率され、黒と白が綺麗に分断される。
微かに見えていた赤色は黒と白から分離し、もう一つの真っ赤な太陽となりその傍をくるくると回った。
これこそが完成形。女神が夢見る理想を叶えるための唯一無比の力の権化。
絶対真理とも称される【太極】のあるべき姿。
この刹那、女は真の意味で何もかもを置き去りにして遥か上位の次元へと上り詰めた。
が、完成を見たのは僅かな瞬間だけだった。
男が指を離せば【太極】は崩れ、再び全てが無茶苦茶に混ざり合った【無極】へと戻ってしまう。
「申し訳ありません……出過ぎた真似をしました」
「許す。これこそ我が望んでいたものだ。
……【無極】の事ではないぞ? それぐらいは察しろ」
女は男に触られた部分をなぞりながら力の抜けた少女の様な笑顔を浮かべ【無極】を己の心臓へと戻した。
胸を何度か触り具合を確かめた後に彼女は踵を返し、いつの間にか現れて浮かんでいた椅子へと腰かける。
「【無極】を【太極】へと完成させるのに必要なのは画期的な技術や発想、時間ではない。
この身と完全に融合した【無極】は我の肉体、精神状態に大きく左右される……認めよう。
我には未熟な所が多い」
傲慢で、短気で、残忍で、執念深く嫉妬深く、冷酷でもあると女は自らの自覚している欠点を上げ連ねる。
人としてはもっていて当然の欠点だが、彼女の持つ力は既に人はおろか生物の域を超えている。
そんな存在が人の欠点を併せ持つということがどれだけ危険な事なのか女神は男に聞かせた。
「我には安定が足りぬ。情が足りぬ。心を制御する術が不足している。
強い怒りと破壊への欲求は“主”を打倒するのには必要だったが、これからの世を統べるにはそれだけでは駄目なのだ。
ただ強い力があるだけでは【太極】は完成しない」
女の言葉に熱が篭りだす。
徐々に心の奥から今まで潜めていた念が吹き出し始める。
それはとてつもない欲望と執着。裏返しにすれば愛とも呼べる感情。
「ここでお前が関係してくる。お前は半身だ。
お前の存在こそが我に安定を……いいや違う。安らぎを与えてくれる。
だからどうか、傍にいて欲しいと願う。この際【無極】などどうでもよい。ただお前が欲しいんだ」
「……何故? 何故自分にそこまで執着するのですか? 自分はあなた様の何だったのですか?」
「それについても語ろう。
お前の記憶は直に戻るだろうが……その時に混乱しないように下地は必要だろう」
女は椅子に座り直し、男の後ろを指さす。
そこにあったのは丁寧な造りの椅子だ。
男が腰を下ろしたのを見計らい彼女は語り始める。
「先に“白仙教”と“主”について述べたな。この二つはお前とも密接な関係がある」
女は自らの胸元を摩り、そこに微かに残る男の熱を愛おしく思いながら語りだす。
これは彼女にとっても凄まじい苦痛を想起させる行いだったが、同時に必要な事でもあると強く自分にいいきかせた。
本当にいいのだな、と男に問えば彼は頷き女の決意を後押しする。
胸の中で【無極】が強く脈を打ち、過去へと繋がり情報を引き出し始めた。
「お前は白仙教の中でも極めて特殊な立場の存在だった。
かつての役割はただ一つ……“主”が異端だと指し示した者を抹殺する執行人。聖絶の代行者だ」
お前の手によって幾つもの命と文明と歴史が壊されたのだと女は断罪するように語り……長い話が幕を開けた。