我が貴様を幸せにする
今まで執筆してた話がひと段落したので、前々から温めてきたネタを一つ投稿します。
壁ドン系女子に愛されたい、という願望のある方はどうぞ。
───愛されなかったということは、生きなかったことと同義である。
───生きる必要などない。
懐かしさを感じる軽快な旋律が鳴っている。
痛みと刺激が男を目覚めさせた。
瞼を開ければ涙があふれ、網膜が光によって突き刺される。
零れた涙を拭おうと手を動かそうとして……動かない。
赤子の様に頼りない手の感覚は朧で、麻痺毒でも呷ったようであった。
男は無理に全身に力を入れようとはせず、一度脱力してから唯一何とか動く目玉だけで周囲を探る。
そこは真っ白な部屋であった。清潔で純白の光が満ちている。
しかし生活感はない。本来は存在する筈の家具などは存在せず、男はここは自分の──少なくとも──住んでいた家ではないと悟った。
では、何処に住んでいたのだろうかと思いかえそうとして……何も浮かばない。
男の記憶はこの部屋よりも真っ白だ。
名前……職……家族……何も出てこない。
残っているのは僅かにこびりついた一部の知識だけ。
唇の間からうめき声にもならない情けない息だけが漏れる。
「自分」という存在が何処に立っているのかさえ分からない彼がまず最初に覚えたのは不安だ。
恐怖と入り混じったソレが彼の心臓の奥から這いずりだし血管を通って体を凍らせていく。
ふーふーと荒い息を吐きながら無茶苦茶になった感情を整理し、改めて彼は現実から逃げるために今を直視した。
この無機質な部屋はとても……興味深い、かもしれない。きっと。
まず自分の身を包んでいるのはとてもふかふかの布と毛布と、見たことのない丈夫そうで柔らかい掛物。
恐らくこの部屋の持ち主は相当な財力があるのだろう。
こんな綺麗な部屋に上質な寝具まで整えられるのだから。
次に見たのは自分の身体につなげられた何本もの管。
それらは腕や足に伸び、絶えず何らかの液体を送り込んでいる様だった。
こんなものを男は見た事はなかったが、外してしまおうとは思わなかった。
本能的にこれらが自分にとって害のあるものではないと理解したのだ。
他にも幾つもの発光する銀色の箱が男の寝台の近くには配置され、それらは規則正しく発光している。
暫く男は周囲を見渡す。窓もないのに部屋の中は明るく、耳障りとなる音もない。
もしも自分の身体が健康的であったならば、ここは最高の寝室と思えたかもしれない。
暫くぼーっと無感動に天井を眺めていると微かな音……声が近寄って来る。
その音はあっという間に大きくなり、ぷしゅーという抜けた音と共に部屋の一部の壁が横に“ずれ”て出入口になる。
入ってきた人物に目線を向ければそこにいたのは人ではなかった。
いや、生き物かどうかさえ怪しい。
そこにあったのは「玉」だ。
人間の頭部ほどの球体が淡く発光して浮かんでいる。
青白い表面に見た事のない記号を複数浮かばせては消しているソレは宙を滑りながら男に近づく。
一瞬だけ球体が閃光を出し、男の全身が照らされる。
不思議と男は脱力してそれらすべてを受け入れていた。
彼の中には勿論警戒心があった。だがそれ以上に諦観がある。
身体は動かず、現状は全くの不明。言葉さえ碌に喋れない状態で未知の存在が目の前にいる。
仮にこの存在が自分を殺そうとしていたら、成す術はなく死ぬだろう。
どうしようもないのだ。あるがままに様子を見るしかない。
死は不思議と恐ろしくはなかった。
むしろ拷問されるかもしれない方が面倒だ。
「おはようございます。聞こえていたら首を縦に振ってください」
球体が声を発する。柔らかな女性の声だ。
男は頷く。
「ありがとうございます。
貴方の身体はまだ長く深い眠りから目覚めたばかりです。
声が出ない、身体が動かないのもそのせいです」
だろうなと思い再度男は頷く。
球体は更に言葉を続けた。
「安心してください。私達は貴方の味方です。
いきなりは信じられないかもしれませんが……」
構わないと男は目線とわずかに動く様になった腕で告げる。
どちらにせよ自分に主導権はなく、喚いたところで何も変わらない。
すると球体が僅かにホッとしたような気配を出す。
よく分からない無機物で顔も何もないというのに、人の様な感情表現を見せる……珍しい存在だと男は思った。
「既に我が主には貴方が目覚めた事は伝えてあります。近い内に足を運ばれるでしょう」
頷きながら球体の零した主という言葉から男は推測を重ねる。
この存在は何らかの権力者の所有物であり、上位の存在の力は未知数だ。
これだけの見た事もない施設に、未知の技術で作られた球体を保有する主は恐らくだが何処かしらの国家のかなり上位の身分の者だろう。
彼の中で咄嗟に沸いた考えは「捨てられるな」というものだった。
何故ならば自分を手元に置いておいた所でメリットなどないからだ。
今の自分では何の役にも立たない。何故自分は助けられたのかさえ男は判らなかった。
何らかの情報源としての保護だったとしても何もかもが曖昧な今の自分では恐らく権力者の望んだ答えは提示できない。
ならば捨てられるだけだ。必要ないものは捨てるか殺される。
それは常識であり、仕方のない事だから。
そんな現実を前にしても男は焦らない。仕方ないのだ。
見苦しく命乞いの言葉を考えるよりも、彼は理由があったとはいえ自分の身を保護し、このような豪奢な部屋まで用意してくれた恩人への感謝と別れの言葉を考えようとする。
そうすれば多少は機嫌がよくなって少なくとも苦しい最期にはならないかもしれない。
ここで男は気付いた。寝台の隣の机に置いてある小さな銀色の箱に。
彼はそれが無性に欲しくなった。気になって仕方がない。
手を伸ばそうと足掻くが腕は僅かに上がるだけで箱には届かない。
腰を持ち上げようにもピリピリと痺れが走るだけで足腰は全くいう事を聞かない。
奥歯を噛みしめ、苦悶の表情を浮かべながらも動こうとすれば球体から青白い光線が伸びて、銀色の箱を包み持ち上げる。
そっと箱を掌の乗せられた男は感謝を述べようと舌をもつれさせた。
「ァ……ぐぁあ……ぉうぅお……」
獣の呻きの方がまだましという耳障りで白痴な音が唇より漏れる。
感謝の言葉には程遠いソレ聴いた球体は強く発光してから答え……箱の側面についている小さな歯車を回す。
綺麗な音色が箱より流れる。男はそれを聞きながら瞼を閉じて脱力した。
箱だけは絶対に離さないように握りしめていたが。
何もかも空虚な男だったが、無意識的にこの音楽は好きだと思えている。
部屋の明かりが落とされる。完全という程ではないが、人間が快適に眠れる程度の優しい暗黒に。
急速に意識が薄れていく中、男は球体の囁きを聞いた。
「もう暫くおやすみになるのですね。よき夢を。
大丈夫、次に目が覚めた時にはもっと良い事がありますよ」
自分にとっての良い事などあるのだろうかと男は最後に思った。
暗闇の中、一つの言葉を男は反芻していた。
それは男の心の根に巣食った呪い。彼が全てはそういうものだと諦めてしまった根幹。
たった一つの言霊が彼がまだ「彼」であった頃の全てを固定してしまった。
何もかもを無くしても、これだけは消えない。
男が生きていても死んでいても、これは確定された真理として彼を蝕み影の様についてくる。
──あんたは……誰かを愛する事も、愛される事もない。
──幸せになっちゃいけない。だってそれは今までの●●●への裏切りになるんだから。
──何より、あんたも我々も■■■なんだ。そんな奴らがなれるわけないだろう。
突き刺すのでもなく投げ捨てるでもない。
これは大人が子供に言い聞かせるような調子だ。
我が子と呼ばれている存在に便宜上親と呼ばれた存在が伝えた唯一の教育らしい教育。
顔もどんな声音だったかも忘れたが、その言霊は酷く淡々と確定された事を告げていた。
ある意味ではこれは一種の慈悲でもあったのだろう。
存在しないモノを追いかけ続ける事ほど無様な事はないのだから。
下手に希望をもたせて破滅の道を歩かせる位ならばはっきりと断じてしまうほうが優しいとさえいえる。
そして彼はこれに納得した。してしまった。
どうしてそんなことを言うのとさえ思わなかった。
あぁ、そうなのか。自分の人生はそう決まっていて、変える事は出来ないんだと受け入れ、そう生きようと決意を抱いた。
そして彼はそうやって生きようとして……。
男が見たのは最初とは変わって薄暗い部屋の天井だった。
目だけを動かせば、眠りに落ちる前とは違った種類の……よく判らない丸いモノが体のあちこちに張り付けられており、新しい無機質な箱がベッドの隣に置かれている。
腕を動かして彼は自分の顔を撫でた。
…………。
腕が、動く。
男は確かめる様に手足を慎重に動かす。指の一本ずつまで丁寧に稼働を確認していく。
その結果、まだまだ万全とは言えないが先ほどの不随が嘘の様に体は頭に従ってくれた。
よかったと男は思った。
何もいい事などないと思ったが、あれは撤回することにした。
もちろん手足が動いたのは嬉しいが……これならば単純な労働位は出来そうだという事に彼は喜ぶ。
相変わらず何の記憶も思い出せない彼はせめて奴隷としてまだ顔も知らない恩人に恩返しができると考えているのだ。
“役割”があるかもしれないという事実は彼を安心させる。
何も出来ず、ただ寝床の上で横になっているだけの存在に価値はなく、完治の見込みがない患者の治療など全てにおいて無意味だ。
だって無駄だろう。延々と苦しむ患者とそれに対して貴重な時間と物資を割く介護者……誰も得しない。
少なくとも今の自分はまだ無駄な完全な無駄な存在に、誰からも必要とされていない存在には堕ちていないかもしれない。
最も恩人が自分に何を求めているか判らない今では全て楽観的な思い込みでしかないのだが。
ふと、壁と一体化した扉の外に気配を感じた男は息を呑む。
胸がざわめきだした。以前の“球体”とは違い足音がする。
男は足音を聞きながらこれから出会う事になるであろう人物の分析をすることにした。
力強く自信に満ち溢れた足音だ。体力、精神的にも優れている。
年齢は若いか、相当に鍛えられた肉体の持ち主だ。
歩幅はそこまで大きくはない……女性なのかもしれない。
音の響きと歩行による振動はそこまで重くはない……やはり女性だろう。
音の間隔からしてどうやら相当に急いでるようだ。
そんなに自分に価値があるのだろうか? と男は思う。
再び壁がずれるように滑って開く。
入ってきた人物はやはり女性だった。
男は彼女を見て……見て…………何も思わない。
ただ一言、綺麗な人だと内心で白痴の様に零した。
鮮やかで長い金髪は部屋の光を反射して周囲を燃やすように輝いている。
成熟した女性の理想図の様な豊満な体型に真っ白な肌。
所々に金で刺繍の施された白いマントとドレスを着た長身の女だ。
彼女を一言で表すならば「支配者」という言葉だろう。
そんなものには恐らくあまり縁のなかったと自分で思う男でさえこの女性がけた違いの傑物だと一目で理解できた。
しかし何より男の興味を引いたのは眼だった。
青く透き通った眼にはとてつもない意思が宿っている。
真っすぐで、少女の様に純粋で……眩しい、眩しすぎる。
視線を交えたのは一瞬だけだというのに男の胸に痛みが走る。
何故だか判らないが、男はこの女性を苦手だと思った。
天敵と言ってもいい。草食獣が肉食獣の事を本能で知っているのと同じだ。
太陽を直視しない様に人が目を逸らすのと同じく、彼も女性の顔から視線を外す。
これはとても無礼行為だ。生殺与奪を完全に握られた者がする行為としては最悪。
女性がもしも気に入らないと思えばそれだけで全ては完全に終わる。
しかし女性は何も言わず歩き、寝台の傍まで寄る。
僅かな間だけ彼女は男を見つめてから、ようやく口を開いた。
「具合はどうだ?」
中性的な落ち着いた声だった。
外見から想像した通りの確かな知性と覇気も混ざっている声。
男はなるべく相手の目を見ないように気を付けながら答えた。
「てあしはもう動きます。いたい所はありません」
舌は体程うまく動いてはくれなかったが、何とか会話が成立する程度の単語は吐き出せた。
そうか、と女性は言うと近くにあった椅子を引っ張り出してそこに座る。
どうやらここに多少の長居をする気らしい。
ただ足を組んで座っただけのその様は、さながら頂点に君臨する帝王だ。
どんなつまらない椅子でも彼女が座ればそれは玉座に変わる。
こんな何も覚えていない男と話して何が楽しいのだろうかと彼は思う。
聴取など部下に任せればいいものをと。
だがちょうどいい機会でもあった。隠し立てするよりもさっさと言ってしまうべき事がある。
「あの……じぶんは何もおぼえていません。
あなた様のおやくにはたてないです……にくたい労働するにも時間がかかりそうです。だから……」
自分に価値はありません。どうか今の内に捨ててしまって下さい、とは続けられなかった。
視線を通じて圧が強まり、黙れと言われた様な気がした。
やはりというべきか彼女は僅かばかりの苛立ちを覚えている。
だがそれは男の記憶がない事や、単純な労働力として使えない事に対してではなく、もっと別の事に向けられている様に見えた。
もっと根本的で、理不尽な事に彼女は怒っている。
「それを判断するのは我だ。お前ではない」
完全なる正論に男は次の言葉を紡げなかった。
自分の命は元より自分のモノではないのに何を勘違いしていたのだろうか。
彼女が生かすといえば生きる。死ねと思えば死ぬ。ただのモノだというのに。
「少し話をするぞ。付き合え」
上位者からの言葉に男は頷く。
かといって何を話せばいいかも判らない。
沈黙する男に女は支配者として当然の如く、相手の都合をあえて無視して一方的に話し出す。
「我がお前の命を救った。お前の命はお前のモノではない。勝手に考え、勝手に動くな」
モノとして女は男を扱うように言う。
それは正しい事なのだろう。男の運命の全ては彼女の手の中に収まり、彼女はそれを離す気はない。
ならば男が無駄な事を考える前に釘をさすのは当然だ。
勝手に持ち主の手元から消えてしまう道具など冗談にもならない。
「はい。わかりました。自分はあなた様のどうぐです」
不思議な事に男は道具として扱われる事に何も思う事はなかった。
自分は道具なのだと心から納得し、言い聞かせて“そう”有り続ける。
何もおかしくはない。人は誰しも誰かのいう事を聞いて生きていく存在だ。
縋る存在、律してくれる存在が人には必要だと男は考えている。
本当の意味で自立し、自分で考え、自分の望みを貫いて生きていける人間などこの世に本当にいるのだろうか。
……目の前の彼女はもしかしたらその数少ない例外なのかもしれないが。
だから自分の意思など必要ではないし、そもそも必要とはされていない。
男の言葉を聞いて、何故か女の美しい顔が不機嫌に染まる。
男に怒っているのではなかった。彼女はやはり別の要因に苛立ちを覚えていた。
ふん、と鼻から息を漏らし感情を処理した女は再び口を開く。
先ほどよりも感情に満ちた声が響く。
「お前は……」
言葉は何も続かなかった。
彼女もこの先に何と言えばいいのか判らなかったのか口をつぐんでしまう。
重い沈黙だ。女帝を悩ませる問題は男には判らなかったが、それでもこのままなのはまずいという事は判断できた。
だから新しい話題を男は投げる事にした。
「なぜ助けてくれたのですか?」
記憶も有益な能力も肉体的な価値さえない自分などを何故覇者である貴女は助けたのですか?
という問いかけだった。
男は自分の命が助かった事に歓びを覚えるのではなく、何故自分等が生かされているのだろうかと心底不思議に思う性分故にこれは当然の疑問だ。
だが男にとっての当然は彼女の不興を買うものだったらしく、ギリっと奥歯にヒビが入る音が部屋に響く。
女帝の心に怒りの灯が燃え上がったのを感知しつつ男はあえて話を続けた。
このままいけば彼女は自分を殺してくれるという淡い期待さえ込めて。
彼にとっては自分の全ては無価値だ。
肯定されてもそんな事はありえないと否定してしまう程に。
「命を救うのに理由がいるのか?」
「おかしなことです。たすける価値のないモノは存在します。自分には“価値”はありません」
何も出来ない存在を生かす理由などないと男は断ずる。
時間と金と資源と記憶の無駄だ。何もいい事はない。
記憶はないが、心の底にそうあれとこびりついた妄執が彼を突き動かしていた。
愛されない。愛せない。幸せに出来ない。なれない。どんな風になっても彼は自分をそう評している。
存在していたくない、という自己否定の塊が彼を満たしている。
女の顔が硬直し、瞼が一瞬だけ閉じられる。
「そう、か」
男の言葉を聞いた女がゆっくりと立ち上がる。
それを男は期待の眼差しで見ていた。
彼女は武器の類などは所持しておらず、腕は女性らしい細腕だったが……仮にあの腕が薙げば自分の身体はバラバラになるだろうという予感がある。
二人の間の僅かな距離はあっという間に詰められ……女は、男を抱きしめた。
なぜ、と男が疑問に思う前に後頭部に腕が回され柔らかい感触と甘い匂いの中に男は放り込まれる。
「ダメだな。本当に。……中々思っていた通りにはいかないものだ。
もっと言いたい事は他にあるのにな。許せ。やはり我は不器用らしい」
はぁと憂鬱気に女はため息を吐く。
艶やかな吐息が男の髪をくすぐった。
今までの苛立ちは消え失せ、女は男の頭を母親が息子にしてやる様に撫でる。
先ほどまでの硬質な声が溶けだし、男の身体を割れ物でも扱うように丁重に扱う。
女の纏う空気が微かに変わる。
超越者然とした気配はそのままに、張りつめていた様な剣呑さが潜まる。
まるで気心の知れた親族に接するかの様な気楽さが代わりに表に現れた。
「もうよい。取り繕うのはやめだ。最初からそうすべきだった」
男は困惑しながらも、確かな心地よさに身をゆだねる。
こんな経験は……本当に、心の底から、初めてだった。
誰かに思われた事などなかったであろう彼にとってはこれは未知で……嫌いではない。
「時間がかかるだろうが、まずはその何処までも後ろ向きな考えを改めろ。
我も協力する。……お前には確かな価値がある。まずはそれを認めるのだ」
肩を掴み真正面から男を見つめて女は言った。
真っすぐすぎる瞳で女は男に懇願している。
一対の青い宝石をちらと見てしまった彼は慌てて眼を逸らそうとしたが、今度は両の頬を指で固定されて逃げられない。
視線で男は焼かれていた。
真っすぐ過ぎる言葉が突き刺さり、その傷跡には熱い感情が流し込まれる。
石の様に堅い心が割られ、解されようとしている。
こんな僅かな時間と数少ない言葉だけの関係だというのに、男の心は揺れていた。
全く訳が分からない存在に遭遇してしまった人間がそうなるように、彼は取り乱し、冷静さを失ってしまう。
「何故? なぜ? なんで?」
空っぽなのに。何もないのに。価値などないのに。
例え昔の自分がどんな存在で、ナニカを成し遂げたのだとしても今の自分は無能で無価値なのに。
期待に応えられるわけがないのに。
「“何故”と問うか。そんなものは決まっている」
続く一言に男はそんな馬鹿な……とさえ言えなかった。
太陽よりも灼熱の感情が込められた言葉。
女はありきたりで陳腐な言葉を吐いたのだ。
愛しているからだ、と。
男は反射的に叫んでいた。
駄々を捏ねる子供の様に。
自らの立場も相手の立場も、これからどうなるかも全て投げ捨てて。
これだけは絶対に否定しなくてはいけないという刷り込まれた常識の残照があった。
「うそだ! そんなことありえない! ふざけているのか!!」
あるわけがない。認められない。ありえない。
もう存在さえしない筈のかつての彼の残照がひきつった様に叫び声を上げていた。
「そう来るのは判っていた。……わかっていても少しは傷つくんだぞ。女心の判らない奴め」
告白を全力で否定されたというのに女の顔にあったのは微笑みだ。
全て予想通りで、予想通り過ぎて笑ってしまっていたのだ。
彼女は男を寝かしつける様に寝台に倒すと、腕を組みふふんと鼻を鳴らした。
「まだ全ては始まったばかりだ。誰にも邪魔はさせん。
……じっくりとお前を調教してやる。
“自分は愛されない”だと?
実に、実に下らん。全ては旧世の過ちの産物。
今や我が法だ。お前の考えは15年も昔のカビの生えた狂信の刷り込みでしかない」
心底楽しそうに女は微笑みを獰猛な笑みへと変えた。
自らが欲しい「者」の為には世界さえ平然と焼き尽くす迫力がそこにはある。
“覇”をむき出しにした様相は美しくもあり、全ての見るモノに心底の畏怖を与える。
紛れもない。名乗りこそしていないが彼女こそ驚嘆すべき覇者なのだ。
この世の全ては彼女が支配し決める。
そんな女帝がたった一人の男に狙いを定めたという事実の重さを男は理解しきれていない。
「お前が記憶を取り戻そうが戻すまいが正直どうでもよい。
もう過去に意味はない。お前を縛っていたモノは全て我が葬った。重視すべきなのはこれからだ」
誓うぞ、と女は続ける。
先ほどの告白よりも更に熱のこもった宣誓が男の鼓膜を叩いた。
「我が貴様を幸せにする。拒否など認めん。決して逃がさんぞ」