奏
親父が死んだらしい。
妾宅から知らせが届いた。腹の上だろうか。ありえなくもないーー
くだらない。顔も覚えていない親など、いないようなものだ……
17歳の誕生祝いと称して父から男に送られてきた、小さな箱。
顔は合わせないくせに、毎年贈り物は寄越す。まめなのか、そうでないのか。
なにやら凝った模様の布で包まれ渋い色合いのリボンをかけられ、威張っているように見えた。
たかが箱のくせに。
父も箱の装飾も気に入らず、受け取ってからずっとテーブルの隅に転がしておいたそれを、ようやく手に取った。
記憶の隅にある、ふんぞりかえって威張る父を手で捕えたような気分になり、締めつけるように強く握る。
軽く揺すると、手がずしりとした重みとゆらゆら揺れるような感触に包まれる。
己の年齢、箱の大きさからして時計かなにかだろうと踏んでいたのだが、それにしては重過ぎる。
揺れる感触からして、どうやら液体が入っているらしい。
まあ、中身はなんでもいい。親父からの「最後の」贈り物なんて気味が悪い。さっさと開けてしまおう。
苦もなく滑らかにリボンを解き、布をぺり、と剥がした。
中は、軽い桐の箱だった。
木箱に入れるなんて、中身は大層なものなのかもしれない。
まあ、父から特別に価値のある代物が俺に贈られるとは到底思えないが。
深く被った蓋をするり、と持ち上げる。
ーー無色透明の液体を満たした、女物の香水瓶が微笑んでいた。
一瞬、目を疑った。息子に女物の香水を寄越すとは、どういう了見なのだろうか。今までの贈り物はサッカーボールや財布といった極めて常識的なものだったので、不気味としか思えなかった。
父の考え、想いなんざどうでもいい。
実子として、長男として、父の葬儀を執り行わねばならない。
不本意ながら、神妙な顔をして親戚一同の前で「それなりの跡取り息子」を演じなければならない。
嘆息し、香水瓶をテーブルの端に押しやる。
持ち運びの振動で緩んでいたのか、瓶の蓋が分厚いテーブルクロスに転がる。
その時、瓶の下に紙切れが折りたたまれていることに気付いた。
なんだろう。遺書などという、気持ちが悪いものではないだろうな……
おそるおそる紙切れを引き抜き、そっと折り目を開く。
ーーカシワギ カヲル樣
細い、女の文字が踊っていた。
末筆の署名を見ただけで、ぴんと来た。
これを書いたのは、顔も名前も知らされなかった、異母妹だ。
その存在の噂が、己の母を死に追いやった。
メモ書きのような手紙には、父の死んだ妾宅の住所と、
「今度、うちへいらしてください。」
とあった。
片親は違えど、血の繋がった兄妹には変わりない。仲良くしましょう。
まだ15の子どもの、少女の考えそうなことだ、と思った。
父の贈り物に手紙を仕込めるということは、それなりに父とは近しいはずだ。
会うことのなかった、己よりは。
父の入り浸った期間を考えると、まるまる15年間、そばに父がいたことになる。
5つの頃に会ったきり、愛されなくなった自分。
愛された妹と、自分。
母が違うだけなのに。
父の愛、そんなものは羨ましいとも感じなかったし、とうの昔に欲しいとは思わなくなった。
それなのに、憎いはずの異母妹と父の愛について考え始めた自分がいた。
勝手に、異母妹の姿を空想する。
瞳は、髪は、肌は、体格はーー
日焼けした肌の色や雪のような色、赤毛や縮れた髪、しっとりと黒い髪、瓜実、下膨れ……
無数の形や色が混じり合い、ちらちらと目の前を横切る。
途端にめまいがして、座り込んだ。
考え事をしすぎたようだ。無理もない、奇妙なものに出会いすぎた。もう、今日は休むことにしよう。
立ち上がり、そこで男は部屋中に立ち込める濃い官能的な香りに気が付いた。
香水瓶に目をやると、蓋が外れていた。
少し漏れていたものが気化したのだろう。
くらくらする視界で瓶にしっかりと蓋をすると、部屋の窓を開けた。
夜の冷たい風が、咽かえるほどの香りをすばやく連れ去っていく。
父の弔いが一通り済んだら、妾宅に顔を出そう。
なぜか、そう思った。
引き出しから便箋を取り出すと、異母妹当てにすらすらと短い手紙を綴った。
異母妹の母親、父の愛人の名は知らないのだ。
異母妹はまだ子どもだが、いいだろう。母親に上手く伝えるだろう。遊びに、行ってやる。
封筒に封をし、明かりを抑えたランプと微笑を湛えた香水瓶が見守る中、枕を抱き締めて眠りについた。
「あなたは太陽だった。
私の胸の中を照らす。
存在を知られなくても、構わない
太陽はこちらを振り向かない
小さな惑星に棲む生命など知らない
ただ自ら輝くだけ 」
椅子の上の小さな背が、僅かに動いた。
ふう、と息を吐く。
少女は鉛筆を置くと机から離れ、出窓のカーテンを開ける。
あらゆる布製品に染み込ませた、濃厚な麝香の香りが舞い上がる。
夏の眩い日差しに照らされる窓辺に佇み、馬車がやってくるのを待つ。
来客への緊張からか、心が弾むのか、日差しが強いためかーー少女の頬や耳が色づく。
少女は高熱にうなされているかのように、途切れ途切れにつぶやいた。
「お待ちしておりましたの、オにぃさま....奏は、オにぃさまにお目もじ叶う日を、10の頃より.....待ち望んでおりましたのよ。あの夏に密かに拝見して以来、オにぃさまはわたくしの........太陽ですの...お母様は、しばらくは、お出かけになったままですから....
どうか、わたくしを.....いいえ、きっとお気に...召しますから......」
およそ口に出してよいとはいえない胸の内を残らず吐いた少女は、女中に気取られぬようにワードローブを開いた。
そろり、と真新しいワンピースを取り出す。
客を迎える側が着飾るのは、礼儀に反する。
貴金属のあしらわれた薄手のミニドレスを、猫のように身体を曲げて静かに脱いでいく。
細身ながらも嗜みとして締めさせられているコルセットを外す。
襟と袖口にレースをあしらっただけの、薄青のワンピースに袖を通す。
煌めく水晶を連ねた首飾りを外し、小さな真珠を雌蕊に見立てた耳飾りをつける。
その過程で一度も女中の邪魔が入らなかったのは、幸運であった。
片付けを手伝われたら、あの日記帳に触れられてしまう。それだけは避けねばならない。
姿見の前に立つと、やっと馬蹄のたてる音が聞こえた。
着替えた服たちを、女中が片付けたかのように丁寧に仕舞う。
お出迎えをしなくては。
仕上げに胸元と膝の裏に香水を吹きかけ、そっと部屋を出た。
奏子、というらしい異母妹の住処が見えてきた。
屋敷はあまり大きくはない。しかし、その脇にある温室は植物園のような大きさだった。
これは成金趣味の父の与えたものかもしれないと思ったが、なんの感情も湧いてこなかった。
屋敷の前に到着し、玄関の正面に降り立つ。
気がつかなかったが、既に玄関に人影があった。
あの、少女だった。
どっ、と心臓が跳ねた。
くらくらと、あの贈り物を開けた時と同じめまいに襲われる。
ーーあの少女、細面で細身、母上とは似ても似つかぬ...女は男親に似るというが、父とも似ていない。
もはや覚えていないはずの父の顔の輪郭が、色が、鼻の形が少女のそれと混じり合い、奇怪な模様を作る。
突然屈み込んだ兄を訝しみ、少女が近づいてくる。
「オにぃさ...カヲル様、いかが遊ばしました...?」
愛くるしいかんばせが曇っている。
男は、なんでもない、お招きいただきありがとう、奏子さん、と告げる。
このような複雑な立場の親族と、どのように口をきいたらよいのか、さっぱりわからなかった。
少女は型通りの礼をした後、
「役所には奏子の名で届けを出しておりますが、本当の名は奏子と申しますの...これは、ほんの身内にしか知らせないことなのです、オにぃさまにはぜひこちらの名で、と思いまして...」
そう告げ、もじもじとしながら見上げてくる。
よろしい、奏子さんとお呼びしましょう、と告げると少女の顔は喜びに輝いた。
屋敷に通され、茶でもてなされた。
出された茶から部屋から少女から、ほのかにあの香りが漂ってくる。男はとうに香りに酔っていた。
請われて、生前の父の話などを少女にしてやった。デリケートな話題を持ち出す思慮の浅さはやはり子どもであった。
子どもらしい振る舞いといえば、それだけだった。顔も仕草も可愛らしいが、どこか妙に大人びている。
実の母の死ぬ原因となった少女だが、憎む気にはなれなかった。罪は、ないのだから。
談笑してやっている間中、先ほどからのめまいを堪え続けた。
このような少女しかおらぬのに、部屋を借りて休むなどできない。誤解されては困る。
泊まる約束もしていないのだから、具合が悪くとも眠ることは避けた方が良い...
早く馬車に戻れれば...
長く馬車に揺られてお疲れでしょう、庭をご案内いたしますよ、と少女の声が聞こえた。
体調が優れないのを隠しきれなかったらしいが、外に出られるのは好都合だった。
この香りから、やっと逃れることができる。
少女に温室へと案内された男は、いよいよ妙だと気がついた。
ーーここにも、あの香りが漂っている
小さな青い花をつける蔦が、そこら中の壁面や天井を埋め尽くしていた。
花が開いたばかりなのだろう、生々しい香りが湿気を含んで、もやもやと立ち込めている。
何層もの霧のベールに覆われて、温室の奥まで見通すことはできない。
この花の香りをずっと、吸わされていたわけだ。
単なる父や少女の趣味で香らせていたわけではないようだ。
男は袖で目と鼻、口を覆ったが、思わず咳き込んで膝をついた。
今までで一番濃く妖しい香りがする。怪しい、予感もする。
慌てたような、狂喜しているような少女の声が歪んで聴こえる。
「おにィさま...?おニィさま?おニィさま!おにィさま!おにぃさま!おにぃさま、おにィさまおにィさまおにィニィさまにィさまにぃさまニィ、にぃにィにィにぃにぃにィにぃにぃにぃニィにィーーーー」
少女は唇を震わしてふふっ、っと微笑んだ。
おにィさまが、落ちた。
これで、わたくしと、いっしょ。
待っていて、一番きもちよく、して差し上げますから。
だから、半端なところで消えないで。
ぐう、と男が声を漏らした。
めまいがひどく、立ち上がることができない。
少女が恐ろしいが、それでも逃げることがかなわない。
全身から冷や汗が噴き出している。
お、ニィさま?
少女がゆっくりと近寄ってくる。
男と向かい合うと、両手でそっと頭を起こさせた。
顔全体が青いのに、汗をかいていた。
愛する男の灰色の瞳が虚ろになっている様に、少女は興奮した。
ああ、やはりーーわたくしの、太陽が、落ちた。
うふふ、ふふっ、と微笑み、男に告げた。
「カヲルおニィさま、お身体の具合がとても悪そうですわ。この奏子が、楽にして差し上げます。ご案じ召されないで、痛くも、苦しくもありませんからーーどうか楽になさって」
極めて優しい声で告げると、そっと顔を近づけてーー男に口付けをした。
離れられぬように男の肩を掴み、口付けに反応しない弛緩した唇から舌を侵入させた。
唾液を流し込むため、男を上体を軽く押し倒す。
男は白目を剥いていた。細かく震えてはいたものの、死んでいるように見えた。
くたり、と男が重みに耐えきれずに倒れると、少女は口付けを激しくした。
「ニィさま、美味しい?奏の毒はーー美味しい?ふふっ、可愛い、ニィさまーー初めてだったのかしら、こんなにして、嬉しそうーー」
白目のまま震えの止まった身体を観察し、楽しげに言った。
「うふ、ふ、ふふふっ、あっ、あははははは、はっはははははは......
5年前のお父様とて、もう少し保ちましたのに...ニィさまは早いですわ。やっぱり...わたくしをお気に召したのね!」
男は死んでいないが、浅い呼吸をすることと、狂った少女の独り言を聞く以外は何もできない。
「あははははは!ニィさま、にぃさま、わたくしが妻となって差し上げますわ。血の濃い結婚こそ、望まれるのですわ。10の頃より、お父様からのニィさまへお誕生日の贈り物は、わたくしが贈っておりましたの。5年想い続けるおなごなど、そうおりませんわ。だからーーだから、わたくしこそがニィさまに相応しいおなごなのです。異を唱えた者は、お母様も誰も彼も大丈夫ですの...皆、黙らせましたの。
だから、ニィさまは、わたくしをーー愛してくださるだけでいい」
俺は、親父のせいで、今日でーー
ぼんやりした意識の中、目を開ける。
そこには、ワンピースを乱雑に脱ぎ捨て、男のズボンのベルトを外して引き抜こうとする姿があった。
あ、と思う間もなくーー太いベルトが男の首に巻きつけられた。
首を軽く締められ、あっけなく男は意識を手放した。
少女がそっと、ズボンのファスナーに手をかけたところだった。