魔獣
僕は寝起きが良い方だ。目が覚めた瞬間から、睡眠中に途切れていた感覚器が働き出し、あらゆる情報が流れ込んで来る。この間のように夢を見ることも、寝ぼける事も、普段はほとんどない。
瞼に落ちる光を感じて目を開くと、天井からぶら下がった天秤時計が、朝日を反射しながら微かに揺れているのが見えた。それを見つめながら、いつもの癖でしばらく周囲を窺うが、人の気配を感じない。僕は静かに起き上がると、辺りを見回す。
うず高く積み上げられた本の壁の向こうでは完全に気配を殺したゼノヴィスが、長い体を折り畳む様にして眠っていた。あんまりに静かなので、微かに上下する胸を見なければ死んでいる様に見える。
昨晩はアルムの話が出てからお互いあまり会話を続けられず、直ぐに就寝した。知らない場所で寝付けるか少し心配だったのだが、布団に入るなりすんなり寝付けてしまった。これまでの石の床に藁と薄布を敷いた寝床よりずっと寝心地が良い。
ちなみに僕の使った布団はゼノヴィスの持っているカバンから出てきたものだ。明らかにカバンに収まる体積ではないのだが、一体あのカバンの中はどうなっているんだろう。
『あぁぁ……よく寝た。寝るっていうのもいいもんだなぁ……』
頭の中で、寝惚けたような声が聞こえてくる。自分の中にもう一つの意識があるという違和感にはまだ慣れないが、声をかけられても驚かなくなってきた。
(悪魔も寝るんだね)
『うん? 身体があるから出来る事だぞ。この間しばらく意識を失って気付いたが、意識が無くても存在出来るんだな』
思い返してみると、白衣の男達に痛めつけられた時、この悪魔は妙に静かになっていた。あの時は意識を失っていたのか。
(……そういえば、名前を聞いてなかったよな。名前はあるんだろう?)
確かアルムは召喚時に名前を唱えていたはずだが、やたらと長かった事くらいしか覚えていない。
『はぁ……聞いたら教えてもらえると思ってるのか? 俺様の名前を? バカか』
(呼びかけるのに不便じゃないか。確か、ルーサン……なんとかいったよな。ルーサンでいいか?)
『“様”を付けろよ小僧』
偉そうな口調で悪魔は言うが、悪魔が魔術師より優位な立場である事などあってはならないはずだ。そう教えられた。
(……じゃあ、“ルーさん”で)
『何が変わった⁉︎』
優位に立たれるわけにはいかなくても、対等なら問題ないはずだ。ルーさんには納得されなかった様だが、僕は納得したので、この呼び名でいいだろう。
僕は眠っているゼノヴィスを起こさない様にそっと外に出ると、服を脱いでかたく絞った布巾で体を拭った。孤児院では毎日体を洗っていたので、体を清めないのは気持ち悪い。
「ルルル……キュクルルル」
歌う様な高い声に目を向けると、ツィルが朝日を浴びて気持ちよさそうに羽を膨らましていた。僕の視線に気づくと、検分する様に僕の体を眺めたあと、つまらなそうに鼻を鳴らす。
その視線に釣られる様に、僕も自分の体を見下ろした。巻かれている包帯も外してみる。
(うわ、体がピンクの斑ら模様)
小さな生傷が絶えないのはいつもの事だが、今は火傷の痕の様な大きい瘢痕が体を淡い斑ら模様にしていた。化膿もしていないし痛くもないのであまり気にならないが、これもルーさんが治してくれたんだろうか。
(……ちょっと雑じゃないか?)
治すなら綺麗に治して欲しい。これではなんだか、生皮に直接大柄な花模様を刷り込まれたようで、こっぱずかしいじゃないか。
『おいコラ小僧、まずは礼を言え。痛くないし、別に動くのにも困らないだろ?』
ルーさんが重視するのは痛みと動き易さらしい。たしかにそれは重要だ。
(確かに。ルーさん、治してくれてありがとう)
『お、おう。まあ今は俺様の身体でもあるからな』
照れたような口調になるルーさんに、意外と良いやつだなぁと思いながら、僕は朝日に温まり始めた身体をゆっくりほぐして行く。筋肉の一つ一つの動きを確認するが、特に問題はない様だ。
そうと分かればもう少し体を動かして、左手のない状態に慣れておきたい。左手の切断面は膨らんで少し長くなってはいるが、この調子だと元どおりになるにしても、数ヶ月はかかるだろう。
さっき見た時計では、今はまだ明けの4時を過ぎたくらいだ。ゼノヴィスが起きるまでなら、馬車から少し離れても大丈夫だろうか。
僕は少し迷ったあと、背負子を背負い、山の中に足を進める。軽く運動するついでに薪を拾おうと思ったのだ。それに、山の中なら人に会う事もあるまい。
足場の悪い獣道を、体の軸を確かめながら進む。今まで動物などいない環境にいたせいか、周囲の生き物の気配を騒がしいほど感じた。木の葉の擦れる音も、小鳥の鳴く声も、新鮮で心地いい。
途中で手頃な薪を拾ったり、軽く走ったりしながら山を登ると、岩肌が剥き出しになった崖に行き当たった。まるでこれ以上登る事を阻む様な、横に長く延びる切りたった崖を前に、僕は足を止める。調子に乗ってちょっと奥まで来すぎたかもしれない。
(しかし、なんだかここは静かだな)
崖の前で木々が途切れて、少し開けた場所になっているからだろうか。辺りに満ちていた生き物の気配が途切れている。陽の降りそそぐ音が聞こえそうなシンとした雰囲気がどこか神秘的だ。
ちょっとここで一息つこう。そう思って僕は滲んだ汗を袖で拭いながら、何気なく崖の上を見上げた。そこで、思わぬものが目に飛び込んできて身体が固まる。
「……⁉︎」
高い崖から張り出した木の枝に、ちょこんと腰掛ける少女の姿が見える。逆光でよく見えないが、どう見ても華奢な少女だ。あんな所から落ちたらひとたまりもない。
凝視する僕に気付いたのか、少女は遠くに茫洋と彷徨わせていた視線をこちらに向けると、パタパタと目を瞬き、首を傾げる。
『お……⁉︎ アレは……』
ルーさんが何か言いかけたと思った時、背後にぞくりと悪寒が走った。振り向きざまに跳び退る瞬間、大きな複眼に映った自分と目が合う。
「キィィィーーーー」
金属を引っ掻く様な声と共に、顔の半分近くが複眼に占められた、大きな獣が左脇を掠めて行った。左手があったら、持っていかれていたかもしれない。咄嗟に突き出した薪が、腕の代わりにその牙の餌食となる。生温かい息が手にかかる感覚に、ゾッと背筋が冷えた。
ふらつきながらも体勢を立て直し、子供の腕ほどもある太さの薪を噛み潰している獣から、ジリジリと距離を取る。対人ならまだしも、獣を相手にこの状況で勝てる気がしない。せめて何か武器になるものが欲しいが、残念ながら丸腰だ。仕方なく、僕は背中からもう一本薪を取り出し構える。
(何なんだよこの不気味な生き物⁉︎ 外にこんな動物いたか⁉︎)
僕の知っている動物に、こんな異様な見た目のやつはいない。体つきは狼の様だが、鼻面には不規則にいくつも角が生えているし、顔の半分は何処を見ているか判然としないぬらぬらした四つの複眼だ。こちらを見ながらゆらゆらと頭を振る仕草も不恰好で、見れば見るほど気味が悪い。こんな爽やかな朝に彷徨いていちゃいけない見た目である。
『あ〜コレは魔獣だぞ。頼むから怪我するなよー』
(魔獣⁉︎ ……ってたしか人食べるんだっけ⁉︎)
魔獣とは、王の加護の少ない土地に単独で生息し、人間などの霊子量の多い生き物を好んで食べる生き物、だったはずだ。小さい頃、読んだ物語の中に出てきたのは覚えているが、実際に見たのは初めてである。
僕は感情を映さない魔獣の目を見て、いかに自分が美味しくないかを必死に訴えてみたが、裂けた口から滴る涎に意思疎通は諦めた。どうにかして戦うしかなさそうだ。最初から逃げることなど考えていない。背中を向けた瞬間に殺られるのはわかりきっている。
(やっぱり狙うなら目か鼻か……。角が邪魔だな。腹や頭に一発入れられれば……)
『殴ってぶっ飛ばせばいいんじゃないのか?』
(僕の腕力と相手の体重を考えろ! 無理!)
ただでさえ僕は腕力が足りないのだ。あの巨体に僕の貧弱な拳を叩き込んだところで何のダメージも与えられまい。それに素手であの角だらけの頭を殴るなんて考えるだけでぞっとする。
単純な力だけでなく、素早さも体力も相手の方が勝るだろう。しかも牙や角といった立派な武器も持っている。長引かせるのは得策ではない。手早く的確に、相手の急所を突いて相手から優位性を奪えればいいのだけど。
再度魔獣が向かって来る。僕は、その動きに合わせて崖を駆け登って飛び上がり、思い切りよく宙に身を踊らせた。そして、僕を追って伸び上がった魔獣の大きく開いた口から、その喉の奥にまで、真っ直ぐ薪を突き入れる。
「ーーーガフッ」
今の角度だと、きっと食道の奥に上手くはいったのだろう。
魔獣は苦しげに口から泡を吹きながら、背を丸めて何度もえずいた。
僕は足元のおぼつかない魔獣の腹を蹴りあげ、横倒しになったところで頭を持ち上げ足で首をへし折ろうとした。しかし相手が大き過ぎて上手くいかない。仕方ないので、少し可哀想だが気道を塞いで窒息させる。大きな痙攣が終わった後、完全に脈が止まったのを確認してから、僕はそっと体を離した。
(……仕留めた、のかな?)
『ほおぉ! 肉体があると、こういう戦い方をするんだな! なかなか面白かったぞ!』
呑気なルーさんの歓声を聞き流し、辺りの気配を伺う。幸い、もう物騒な気配は感じなかった。
戦闘で思わぬ時間を食ってしまった。またこんなのが出てこられてはたまらないので、急いで来た道を戻ろうと僕は踵を返す。
ふと思い出して崖の上の枝を見上げたが、そこに少女の姿はもう見えなかった。
少し短めですみません。
次の更新は12/8になりそうです。