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箱庭の技法  作者: 游魚
失われた物語
4/31

朝焼け

 


 微かに甘い香りと、汗で張り付いた前髪を額から払う、ひんやりした繊細な指先の感触に、僕はゆっくりと目を覚ました。なんだか柔らかい物の上に頭がのせられている。


「あら、お目覚めかい? 坊ちゃん」


 目を開くと、見知らぬ女の顔が見えた。豊かな胸の谷間から、切れ長の瞳を細めてこちらを見下ろしている。艶のある長い栗色の髪が一房落ちて、さらりと僕の頬にかかった。


 ぎょっとして身を起こそうとして、ガクンとバランスを崩す。左手が無くなっている事を忘れていた。ベットから落ちそうになった僕の体を女は優しく支え上げ、クスクスと笑い声をあげる。薄布越しに伝わる女の体温と柔らかさに体が硬直した。


「あらまぁ。せっかちさんだこと」


「おいおいカヨよ。私のかわいい甥っ子をたぶらかしてくれるな。……カラン、美人だからって簡単に気を許すなよ。そいつは性悪だからな」


 僕が状況を飲み込めず混乱していると、眠たげな男の声で自分の名前が呼ばれるのが聞こえた。そちらに目を向けると、細かい透かし彫りの施された衝立の向こうから、うっそりと長身の男が姿を現わす。


 擦り切れたマントに、ぼさぼさの褐色の髪、高い鼻に乗っかった丸眼鏡……僕を助けてくれた男だ。


「あら、ひどい言いようだねぇ。妬いてるのかい? 男の嫉妬はみっともないよ」


「まさか。……あんまりベタベタするなよ。膝枕なんてして…」


 男の拗ねたような口調に、カヨと呼ばれた女は鈴を転がすような声で笑うと、ベットから降りて男の体にしなだれかかった。その身を飾る装身具同士が擦れ合いシャラシャラと涼しげな音をたてる。


「あんたにはいつももっとイイコトしてあげてるだろう? しかし失礼じゃないか。このカヨに坊やの子守をさせるなんてさ」


 男は答えずにベットに歩み寄ると、膝をついて僕と目線を合わせてきた。その視線が左手へと向き、痛ましそうに一度目が閉じられる。


「カラン、体は痛むか? 意識ははっきりしているか?」


「……ええっと、あなたは誰ですか?」


 質問の答えではなく、疑問に思っていた事が真っ先に口をついて出た。男は大仰な仕草でしまったと額をたたく。


「ああ、すまない。自己紹介がまだだったな。私はゼノ……ゼノヴィスだ。カラン、お前の母の兄、つまり伯父だよ。お前が小さいころに一度だけあったことがある。覚えてはいないだろうが」


 記憶にある限り、両親が親戚の話をしていたことなどないし、会ったこともない。昔はごく少人数との近所付き合いがあったのみで、家族意外とほとんど顔を合わせる機会がなかった。ゼノヴィスのような特徴的な人物なら覚えていそうなものだが全く思い出せない。


 ただ、眼鏡の奥に見える緋色の瞳は母にそっくりで、それだけでも母の兄だと信じられる気がした。


「おや、確かに二人とも目元がそっくりだねぇ。甥っ子なんて言ってるけどほんとは息子なんじゃないかい、ゼノ?」


 目の前に割り込んできたカヨが、僕とゼノヴィスを見比べてからかうように笑った。勘弁してくれよ、とゼノヴィスがうろたえる。


「カラン、まぁいきなり伯父だと言われても信用できないかもしれんが……」


「いえ、信じますよ。あなたは僕を助けてくれましたし」


 ゼノヴィスは虚を突かれたような顔をした後わずかにうつむいた。


「とりあえず、当分の面倒は私が見るから安心してくれ。食事は食べれそうか?」


 僕は首肯する。一番の疑問が解消されて落ち着くと、今度は体が空腹を訴え始めていた。


 ゼノヴィスがカヨに目配せすると、カヨは軽く頷いてベット脇に垂れていた紐を三度引く。しばらくすると部屋の戸がノックされ、癖のない赤毛を肩で切りそろえた少女が、朝食の乗った盆を手に持ちしずしずと入ってきた。


「サヨ、ご苦労だったねぇ。巫女長は何か言ってたかい?」


 カヨが少女に問いかけると、少女は無表情に小首を傾げた。


「いいえ、カヨねえさん。ねえさんのお客は身分を隠そうとする方が多いから。今回もなんにもいいやしなかったわ。あの人は銭さえきちんと払ってくれるなら客が誰だろうと気にしないわよ」


 そうだったら良いけどねぇ、とつぶやきながらカヨは盆を受け取と、少女の耳に口を寄せて何やら囁く。少女はこくりと頷いて、スッと部屋を出て行った。


「……しばらく見ないうちに、サヨも大きくなったな」


 少女の出て行った扉を見つめながら、ゼノヴィスがポツリとつぶやいた。


「えぇ。よく気が利いて器量よし。……将来は立派な巫女になれるよ、あの子は」


 カヨはそう言うと、きびきびとした動作で食事の用意をし始める。どうやら朝食は僕一人分しか用意されないらしい。どうしよう。僕だけ食べてしまっても良いのだろうか。


 僕が食事に手をつけないのを見て、カヨがゼノヴィスをジロリと睨む。


「見っともない顔するんじゃないよ。どうせ食べないだろう?」


「今日は流石に腹が減ってるんだ。食事くらい準備してくれたって良かったじゃないか」


「いただいたお代は一人分だからねぇ。支払い以上のサービスはしないよ」


 ゼノヴィスは諦めたようにため息をつくと、僕に食べるように促した。

 どうやら夜も僕にベットを譲って床で寝ていたらしい。ゼノヴィスは床に胡座をかくと、くたびれたカバンをまさぐって干した果物を探し出し、ゆっくりと齧り始める。


 ぐずぐずしている僕を見かねたようにカヨが木製のスプーンを差し出してきた。


「ほら、あんたも気にせず食べな。冷めちまうよ」


「……いただきます」


 朝食として出されたのは、スープとパンだ。


 しかし、同じスープとパンでも、孤児院でよく出ていたのとは天地の差である。黄金色のスープにはたっぷりの野菜と、肉まで入っている。パンは白くてふわふわで、ハチミツとバターがかかっていた。あまりの豪華さに若干気後れしつつ、僕はそっとスープを口に運ぶ。


 しかし、その一滴が舌に触れた瞬間、豪華な食事に対する気後れなど吹き飛んでしまった。身体を構成するあらゆる細胞が、食事から栄養を吸収しようと急激に活動を始める。空腹感が一気に飢餓感に置き換わり、僕は夢中で食事をかき込んだ。左手で器を持てないのがもどかしい。


『……ん? のおぉ⁉︎ なんじゃコリャ⁉︎ 美味い‼︎』


 突然頭に、歓喜の声が響いた。自分の物でない意識が自分の中で目を覚ましたのをなんとなく感じて、僕は一瞬手を止める。


(そうだ。もう一つ、聞いておきたい事があるんだった)


 一旦スプーンを置こうとするが、もう一つの意識がもっと食べろとうるさく急き立てる。

 結局、出された物を全て平らげてから僕は盆を向こうに押しやり、ゼノヴィスに向き合った。ちなみに頭の中では、皿についたハチミツも舐めろとうるさい声が聞こえるが、それは意識の底に押し込める。


「どうしたカラン? 何か言いたい事でも?」


「ゼノヴィスさん、質問があるんですが…」


「“さん”だなんて他人行儀な! 気軽にゼノと……いや、“おじさん”と呼んでくれたまえ!」


「えっと、じゃあゼノさん。僕の体の事について質問が……」


 信用すると言ったとはいえ、いきなり初対面の人を伯父と呼ぶのは気がひける。そう思って呼びかけたのだが、ゼノヴィスはガックリと項垂れた。


「おじさんと……いやいや強制は良くないよな、うん。徐々に信頼関係を築いていけば……またいずれ……」


「その、聞いて良いですか? “悪魔憑き”についてなんですが……」


「あぁ……カラン、その質問は後にしてくれ。ちゃんと説明するには時間も情報も足りない。歩けそうか? 悪いが、長居は出来ないんだ。できれば早いうちにここを出たいからな」


 僕はゼノヴィスに頷くと、ベットから下りる。立ち上がると、一瞬鼻の奥がツーンとして、目の前が白く点滅した。どうもかなり貧血気味らしい。左手が無いせいか、真っ直ぐ立っているはずなのに、体が傾いている気がする。


 でもまぁ、動けないわけじゃない。


 僕は手早く乱れた服を整えると、ゼノヴィスの後に続こうとした。7歳の時からずっと孤児院の中で過ごしていたのだ。外の世界で生きる術など分からない。今ゼノヴィスに見限られたら、どうしようも無くなってしまう。なるべく足手まといにならないようにしなければ。


 しかし僕の様子をじっと見ていたゼノヴィスはカツカツとこちらに近づくと、ひょいっと僕を抱えあげた。


「えぇ⁉︎ いや、歩けますよ! 下ろしてください!」


 驚いて降りようともがくが、軽くいなされてしまう。急に動いたせいか、頭がくらくらして本格的に目の前が暗くなった。へにゃりとした僕を荷物のように肩に担ぎ上げると、ゼノヴィスは呆れた声を出す。


「そういう嘘は禁止だ。大人しく担がれろ」


「ふふっ。慌ただしいねぇ。サヨについていけば人に会わずに外に出られるよ。番所にも話は通してある」


「いつもすまんな。昨晩のことは……」


「分かってるよ。客との一夜を言いふらすような野暮なことしないさ」



 部屋を出るとサヨと呼ばれていた少女が扉の傍に控えていた。抵抗虚しく抱えられたままの僕を一瞥すると、無言で腰を落として一礼し、廊下を先導し始める。


「また、妙なのを拾ったのね、ゼノ様?」


 入り組んだ薄暗い廊下や階段を通り抜け、鉄柵に囲まれた裏庭に出たところでサヨがぼそりと呟いた。僕を見るピンク色の瞳には不愉快そうな色が見える。


「あたしの時みたいに、厄介なことになっても知らないわよ。カヨねえさんにも迷惑かけて……」


「サヨは知らないかもしれないが、大人のイイ男には厄介事がつきものなのさ。それに、私は妙なのなんて拾ったことないぞ。こいつは私のかわいい甥っ子だ」


 サヨはキッと僕を睨み上げると、膨れっ面でそっぽを向いた。


「またわけのわからないこと言って。……甥っ子って、ゼノ様が捜してた? やっと見つかったのね。良かったじゃない。もうここにも来なくてすむのかしら? 清々するわ」


 それまでヘラヘラしていたゼノヴィスが鉛を飲んだような顔で押し黙る。急に訪れた沈黙にサヨは慌てたように言いつくろった。


「べ、別に来るなと言ってる訳じゃないのよ? お金を落としてくれるお客は大歓迎だわ。あたしの竪琴の腕も大分上達したから、そろそろお客の前で演奏してもいいって言われたの。今度聞かせてあげてもいいのよ。……久しぶりにゼノ様の歌も聴きたいわ」


「サヨの竪琴か。それは楽しみだな。しばらくは来れそうにないが、今度必ず聴きに来よう」


 ゼノヴィスは嬉しそうにサヨを見て笑った。サヨは口をへの字にすると、乱暴なしぐさで鉄柵の扉を開く。


「さっさと出て行きなさい。カヨねえさんに心配かけるような事したら、許さないから」


 サヨに押し出されるように裏通りへ出た。ゼノヴィスは、雑然とした狭い裏通りを、僕と荷物を抱えているとは思えない軽い足取りで抜けていく。


 人通りの無い表通りに出ると、朝の清涼な風が頬を撫でた。眩しい朝日が目にしみる。高い塀に囲まれた孤児院では、どちらも感じられなかったものだ。


 自分の人生が大きく変わる予感に、僕は身震いして朝焼けの空を見上げた。



お読みくださりありがとうございます。

朝焼けは雨の前兆ですね。

次の投稿は明日の12:00くらいに…なるはずです。

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