怒りは常に愚行に始まり悔恨に終わる 3
お婿さん視点です。
半径約258クルムル。北端は雷国エレットネール、南端は海に接し、東には氷国グラスネーヴェを山頂にいただくスカイツ山脈の山裾を、西にはかつて土国ランチェルトと呼ばれた昏迷の黒土を含む、炎の恵みに満ちた常夏の国———それが炎国フィアラムだ。
その首都、まばゆい黄金と常緑に彩られた陽気な王都コフェルスは、祝賀ムードに沸いていた。
王宮を中心として放射状に広がる美しい街道には、今日ばかりは仕事を放り出して来た人々がひしめき、口々に彼らの王族の姫の結婚を言祝いでいる。
その活気と喧騒は王宮にまで届き、祝宴の準備と客人の接待に追われる使用人達をさらに急き立てているようだ。誰もが忙しなく、しかしそれぞれ顔には喜色を浮かべて、この日を相応しく滞りなく成し遂げるために奔走していた。
そんな華やかな非日常の空気の真っ只中で、私だけが異質だ。
(王都のなんと……騒々しいことか)
私は、騒々しいのが嫌いでは無かったはずだ。故郷シディムの人々も、片田舎とはいえやはり気質はフィアラム国民で、何かにつけて祭を開催しては夜通し騒いでいることもしばしばだった。遠くに聞こえるそんな喧騒に苦笑しながら眠る夜は、田舎城主としての充実をしみじみと感じたものだ。
それなのに、ここの興奮と喜びに満ちた騒音はどうしてこんなに耳障りなのだろう。
(……私もまだまだ青臭い)
目を閉じる。
私は貴族だ。貴族として、遠い祖王の血を受け継ぐ者として生まれたからには、必ず従わなければならない命運がある。その事に不満を感じるのは、例えば自分に空を飛ぶ翼が無い事や、水の中で呼吸できない事を嘆くのと同じくらい不毛で滑稽な事だ。
目を開けて、自分の左手を見下ろす。
その薬指には、黒聖石の嵌った霊鋼石の指輪が嵌っている。黒聖石の素になっているのは、この国の次代王の血だ。つまり、これから私の妻となる姫様の血である。フィアラムで最も高貴で霊子に満ちた血を宿すその指輪は、私には少し熱く感じた。これを嵌めてまだ1日足らずだが、すでに指輪に触れる皮膚の部分が少し赤くなっている。
しかし、耐えられぬほどの苦痛ではない。この指輪を生涯つけていられる程度の血が我が身に流れているがために、私は婿として王家に迎えられたのだ。これを身につけた瞬間から私はこの王家の一員で、婚儀はそれを対外に周知するための形式的なものに過ぎない。
私の家系が王家から別れたのは5代も前のことで、それなのに現在婚礼が可能な年齢の男性貴族の中で最も王家の純血に近い血を引いているのが私であったというのは不思議な気がするが。
とにかく、より濃い祖王の血筋を未来に繋ぐ事こそ、貴族の最も重要な義務である。その義務を果たす事に比べたら、私の小さな不満——例えば住み慣れた故郷を離れる事や、10年近く連れ添った前妻と別れることになった事も、実に些細な問題である。
私は、諦観と苛立ちが入り混じった言葉にならない複雑な感情を、溜息とともに体の外へ吐き出す。
「お疲れでしょうが、もう少しお時間を下さいませ」
その私の溜息を、叱責と受け止めたのだろう。しゃがみこんで私の衣装の帯を神経質に整えていた侍女が萎縮して焦った声を出す。
彼女はかれこれ半時間近く私の腰帯を整えるのに費やしていた。婚礼服の帯や飾りには、巻き方や色組みにそれぞれ誰が決めたのかも分からないような意味がある。それを律儀に確認していれば、時間がかかるのも当然だ。責めはしないが、鬱陶しくはある。
「ああ、まだ着付けに手間取っていたのか。あまりに長くそこにいるものだから、てっきり私は若いお嬢さんを腰に取り付かせて歩くのが、ここ都会の今風の流行りなのかと」
皮肉混じりの冗談に、侍女は顔を赤くしたり青くしたりと忙しい。上手い返しをよこすどころか、表情を取り繕う事すら出来ないのかと私は呆れる。
「……もういい。離れなさい」
「あ、でもまだ」
「大丈夫だ。私は式中これを身につける」
私は椅子の背に掛けていた愛用の黒いマントを羽織る。覆い隠してしまえば、中にどういう装いをしていようが分からない。
「ですが、婚儀の礼装にマントは……」
「黒いマントはあらゆる色を受け入れ、陰に生きるという忠誠と従順の表れだ。王家に使える侍女が、まさか知らないなんて事はないだろう? これこそ、私の喜びと決意を表現する装いとして相応しい」
適当にそれらしい由縁を付け加えて厳しい表情でそう言うと、侍女は目を白黒させながらも曖昧に頷いた。
思わず吹き出しそうになる。なんと、こんなに容易く手玉に取れそうな子供に身の回りの世話をさせるなんて、呑気にも程がある。国土を保ち、創世の龍と通じる“血”を保つ王家の地位は絶対的だ。周囲との折衝が不可欠な地方貴族とその従者の方が、よほど日常に緊張感を持って生活しているのだろう。
窓際に目をやると、壁にチラチラと反射光を投げかけている繊細なデザインの天秤時計が暮の1時を指していた。まだ式が始まるまで2時間もある。
(そうだ、暇つぶしにこの愚鈍な侍女を使う主人の顔を拝みに行ってみようか)
そう思い立った私は姫様の部屋へ向かおうと、あえて何も言わずに花婿の支度部屋を出る。周囲を目だけで確認したが、私の行動を咎める者はいなかった。
今私の護衛をしているのは、私が故郷から連れてきた騎士の1人だ。共に連れてきた3人のうち残り2人は護衛騎士は、姫様の支度部屋と、王族の私的な場所である離れへの警備に当てられ、ここにはいない。
護衛騎士は夫婦で一部共有されるとはいえ、私だけでなく、姫様周辺の護衛の主導権をこちらに譲られたのは意外だった。先程の侍女の態度然り、王家はよほど長閑な生活をしているのだろうか。
(いや、むしろその逆か)
姫様を護衛するだけの余裕も無いくらい、何か警戒すべき事が起こっていると見るべきかもしれない。そうでなければ、姫様の周囲は彼女の護衛騎士で固めるはずだ。
個人の護衛騎士まで城の警備に充てられているのだとすれば、それは普通ではない。いくら外部の人間が出入りする日だからとはいえ、婚儀へ出席を許されるのは身分も血筋も確かな者ばかりで、式の進行は型通り。混乱が起きる事など、まず考えられないからだ。
護衛を主導するのが私の騎士のため、私も城の構造は簡単な図面上での把握をしている。しかしやはりさすが王宮と言うべきか、実際に歩くとなると勝手が違った。緩やかなカーブを描く廊下の壁に連なる巨大な肖像画と、歴代の王が使役したのであろう悪魔達の彫像に囲まれて、騙し絵の中に入ってしまったような錯覚に陥る。
私は分かれ道の真ん中に立つ悪魔の彫像を見上げながら、どちらの道が正しいのか思案していた。彫像の目が魔石でできているところを見ると、これは何かの法具なのだろう。道案内でもしてくれれば良いのだが、私が正面に立っても、口をぱっくり開いて尖った乱杭歯を見せている狐の顔とコウモリの翼の悪魔はピクリとも動かない。
「それは、守護の法具ですよ。この道の先に進む者の選別を行います」
不意にかけられた声に、私はハッとして周囲を見渡した。斜め前に、制服に身を包んだ背の高い騎士が立っている。
すぐ側にいるのに悟らせない気配の無さにもそうだが、何より向こうから私に声をかけて来た事に驚いた。身分の低い者の方から声をかけるなど、無礼にあたる。私の不興を買うことを恐れないのは、ある程度の身分があるからか、よほど物を知らない馬鹿かのどちらかだろう。
どちらにせよ不快には変わりないと眉をひそめ、やがてその騎士が赤い瞳を持っている事に気がついた。
じっと目を覗き込む私に、彼は私よりやや明るい色味の赤目を細めて穏やかに笑う。
(魔術師? いや、ここは王宮。もしかすると……)
「急にお声がけして申し訳ありません。私に何かお手伝いできる事はありますか?」
おそらく、迷っている私を見かねて声をかけて来たのだろう。緋色の目の騎士は、遠慮がちにそう尋ねる。
「……私が誰か分かっているか」
「シディム卿とお見受けしましたが。この城は慣れた者でも、歩いているうちによく遠近感が狂ってしまうのです。外から来られた方が戸惑われるのも仕方がないかと」
怯む事なく受け答えするその態度に、私は確信を強める。
「お前は神饌か」
騎士は変わらぬ微笑みを浮かべたまま、ゆっくり首を横に振った。
「この城には、何人も魔術師の血を持つ者が仕えております。赤い目だといっても、それが神饌だとは限りません」
肯定とも否定とも取れるその答えに、私は口の端で笑う。この城にも、まともな受け答えができる者がいたじゃないか。
「不躾な事を聞いたな。お前、名前は? どこの所属だ?」
「自己紹介は次の機会に。もしまたお会いする機会があれば、ですが。それより、どこかに向かわれる途中だったのでは?」
不用意に名乗ろうとしないところを見ると、やはり王家に近しい者なのだろう。ここで暮らしていけば、どうせいずれ知れる事だ。私は深く追求せずに話を戻す。
「ああ、姫様の部屋に伺おうと思ってな」
「お約束はされていますか?」
「夫が妻に会うのに予約が必要なのか?」
「そうですね、失礼いたしました。姫様のお部屋は、右手の廊下を進んで3つ目の扉です。この先道の分岐もありませんし、迷われる事はないかと」
淀みなく答えると、騎士は一礼して立ち去ろうとする。
「ちょっと待て。これは私が通っても反応しないのか? 守護の法具なのだろう?」
私が指差した彫像にちらりと目をやると、騎士は苦笑いした。
「ああ、大丈夫ですよ。この城の警備は、驚くほど身内に甘いですから」
*
私が部屋に入っても、姫様は私の方へ向き直ろうともしなかった。鏡越しに私の姿を確認した彼女は、薄く紅をひいた可憐な唇を僅かに歪めると、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
「…………下品な色」
私の服装に対しての言葉かと思ったが、それは違ったようだ。彼女は自分のドレスの長い裾を摘むと、溜息を吐いた。
「私も黒にすれば良かった。やっぱり白は嫌いだわ。無垢で純真ぶって、それでいて潔癖で傲慢な色だもの」
「ああ、姫様にはよくお似合いだ。なんてお美しい」
つい私がそう口にすると、白を纏った彼女は、真紅の瞳に苛立ちを浮かべてやっとこちらを振り返る。
「それはどういう意味かしら? シディム卿」
これほど間近で姫様に会ったのは初めてだ。彼女の美しい顔を正面から見た時、私は唐突に理解した。表情を取り繕う事を強いられず、若く、我慢を知らず、わがままで考えも浅はか。そしてその自覚もない。彼女はきっとそういう人間だ。
しかし、誰もが彼女に膝をつかずにはいられないだろう。彼女を目の前にすれば、誰もがその抗いがたい魅力の元に屈するはずだ。
「言葉のままの意味です。何かお気に障る事を申しましたかね」
実際、私はその側まで歩み寄ると、床に広がったドレスの裾を踏まないように気をつけながら膝をついて白い手袋に装われた彼女の手をとる。
「私はただ、己の妻の美しさに感嘆しただけですよ。私はお若い方が好みそうな流行りの詩篇で愛を囁く事も出来ませんし、田舎者ゆえに王家の方に相応しい賛美の言葉も持ち合わせません。その点はお許しいただきたいですな」
できるだけいつも通りの口調を心がけたが、胸の内では心臓が不規則な音を立てて暴れている。指輪をはめた指が、その鼓動に呼応してズクズクと痛んだ。
彼女に手を振り払われた瞬間、その態度に腹が立つどころか、母親に冷たくあしらわれた子供のような心細い気持ちが胸に去来した事も、私は不思議に思わなかった。彼女に縋らなければこの国は成り立たないのだから、それは人間の生存本能のようなものから来る自然な感情なのだろう。
姫様は私が触れた手をもう片方の手で撫でながら、突き放すような口調で言う。
「花婿の支度部屋は別に用意されてるはずでしょう? どうしてこちらに来たの」
「男の支度に時間はかかりませんからね」
私は肩をすくめると、立ち上がって彼女から一歩距離を取る。
「楽なものですよ。それに今日の主役は貴女ですので、なるべく凝った装いは控えようかと。そうすると、部屋で待機というのはあまりに手持ち無沙汰で」
「だからって、わたしの部屋に来るかしら?」
「一刻も早く貴女のお姿を見たかったのだと、そう言えば信じて下さいますか」
「まさか」
意外にも、彼女は好意を素直に信じようとしなかった。信じたくない者は信じない性質なのかもしれない。
「では本音を。私が無防備に近い貴女の側に近づく事を阻む方は、一体ここに何人くらいいるのかと、少し興味が湧きまして」
「……あら、それはわたしも興味があるわね」
私の言葉に、彼女の側にいた侍女がピクリと反応した。右手が腰のあたりに伸ばされている。主人の思考は従者の行動に反映される。やはり私は全面的に信用されているわけではないらしい。
自分の侍女を片手で制し、姫様は無表情で首を傾げた。
「ここに来るまでに、貴方を引き止めたのは一体何人かしら?」
「一人も。ただの一人もおりませんでした。そもそも今日の私達の護衛は、私が連れてきた護衛騎士達に任じられていますからね。しかし、さっそくこうして信用を示していただけるとは。嬉しい限りです」
流石にこの部屋に入る時に引き止めれれるかと思ったが、ここの部屋を守っているのも私が連れて来た騎士1人のみで、驚くほどすんなりと入室できてしまった。
「思い上がらない事です。貴方様は所詮、その血ゆえに選ばれただけの婿。あまり姫様に無礼を働くと後悔する事に……」
「口を慎みなさい」
姫様が何か答える前に、堪え性のない侍女が食ってかかってきた。すぐにその不用意な発言は主人に遮られるが、私の発言を挑発と受け止めてしまった時点で向こうに知られたくない事情があるのだと丸分かりだ。
しかし態度があからさま過ぎる。そこまで深刻な事ではないのか、それとも侍女たちには詳しい事まで知らされていないのか、そのどちらかでなければもう少し慎重な対応をするだろう。
「……失礼、シディム卿。もちろん貴方を信用しているわ。ただ、こちらに来たばかりの不慣れな貴方がたに、全て丸投げなのかと呆れただけなのよ。この城での立ち振る舞いについて助言できる誰かを付けるようにと指示はしていたはずなのだけれど。負担をかけてごめんなさいね」
「いいえ。人材不足なのでしょう」
人手ではなく人材と言ってしまったのは、王宮の従者たちの応対があまりに朴訥過ぎたせいだろう。主人の指示があったにもかかわらず私に案内が付いていない事を考えると、命令系統がきちんと機能しているのかも怪しいものだ。
多少なりともまともな対応ができたのは、あの緋色の目の騎士くらいである。
(そういえば……)
その姿を思い返しながら、私はふと違和感を覚える。
(彼は、一体どこから現れたんだ?)
あの時、背後には護衛騎士が控えていた。それを追い越して私に直接声をかけたというのは考えにくい。確か彼は、私の左手側に立っていた。
(左の廊下を通って来たのか?)
守護の法具に守られた廊下の右手側は、ここ王女の私室につながっていた。では廊下の左手側は、一体どこに繋がっていたのだろう。
お、お久しぶりです。間が空いてほんと申し訳ありませんでした…。別サイトの別作品にかかずらっておりましてですね…?(必死の言い訳)
お婿さんことシディム卿は作者的にはモブ枠だったのですが、書いてみると意外と雄弁な方でした。そのせいで、書きたいとこまで全然進まみませんでした…(・ω・`)
過去話にもうちょっとお付き合い下さい。
…感想大歓迎ですよ…




