【腥風が吹く(風龍)】
ヴィントレットで
「オオオーーーィィイッ!!! またぞろ雷王ンとこの船を沈めやがったのは、どこのどいつだぁっ⁉︎」
空を震わすような大音声とけたたましい足音に、風龍は億劫そうに目を開いた。
かつて魔王が起こした大地震ですら揺らがなかったヴィントレットの王宮が、降り注ぐその主の怒気にはビリビリと震えている気さえする。
見下ろせば、浅黒い肌をまだらに赤く染めた髭面の男が、筋肉隆々の手足を高く上げて、こちらに続く螺旋階段を全力で登って来るのが見えた。その姿は、さながら猛進する雄牛だ。装飾的で華奢な階段が、踏み抜かれやしないか心配になる。
『……もう、うるさいねぇ? そんな事できるの、アタシしかいないじゃあない? いちいち大声出さないで。そんなに興奮してたら脳の血管、ぷっちんしちゃうよぉ?』
そう答えながら、風龍は狭苦しい魔方陣の中で身を起こす。そして、そのままの勢いで魔方陣の境界を踏み越えて来そうだったこの国の王を、突風で吹き飛ばした。
きりもみしながら石の床に叩きつけられたにも関わらず、王はすぐさま跳ね起き、魔方陣の縁でがなり立てる。
「風龍この野郎っ! どういうつもりか説明しやがれ!」
『やだねぇ、野郎じゃあないよぉ?』
風龍は羽毛の生えた翼で、大きく裂けた口元を隠しながら、細長い体で器用にしなを作って見せた。
「お前、俺がガキの頃は男口調だっただろうが⁉︎」
『当代の風王に合わせてあげるのが、アタシの流儀なのぉ。だって、アタシとアンタは、いつか一心同体になるかもしれないでしょう?』
そう言って王を流し目で見ると、王は苦虫を噛み潰したような顔で風龍を見上げる。
「はぁ? 俺とは似ても似つかねぇじゃないか! ふざけるな」
『えぇ? ふざけちゃいないよぉ? アンタ、本質はとっても繊細でナイーブでしょお? それに昔はおリボンやフリルがとぉっても好きだったじゃない? ああ、あの頃は女の子みたいに可愛かったのに、こんなむさ苦しいおっさんになっちゃって。時の流れって残酷ぅ。無理して取り繕わなくてもいいのにぃ』
風王は何か言い返そうとしたが、話題を逸らされている事に気付いたようで、反論を飲み込む。
「くっ……俺の許可無く風人を動かしただろう! 沈んだエレットネールの船に、何人の人間が乗っていたと思う⁉︎」
その様子を風龍は見下ろしながら、くつくつと笑声を漏らした。
風龍がその船を狙ったのは、そこにエレットネールの貴族が乗船していたからだ。出来るだけあの国の王族は減らしておきたかった。今後のことを考えれば、必要な犠牲だ。
しかしこの王は、貴族が死んだ事など関係なく、巻き添えになった者達のことを考えて、風龍に腹を立てているのだろう。
やはり、繊細でナイーブで、真っ直ぐで思いやりがあり、どこまでも優しい。今代もまた、この国は王の器に恵まれた。これが殆ど奇跡の様な幸運なのだと、風龍は他の国を見て思う。そして、その幸運に縋って成り立つこの世の危うさに、ただただ言いようのない恐怖を覚えるのだ。
『……アンタ達が風人と呼んでるのは、本来アタシのしもべ。許可も何もないじゃない。それにぃ、数百人死んだところで微々たるものよ。この先起こる事に比べたらね』
風龍の言葉に、王は眉間に深い皺を刻んだ。
「また、その話か……言っておくが、俺はエレットネールとの戦争を起こすつもりなどないからな。せっかくフィアラムの滅亡は、平和的に収まったんだ」
『平和的、ねぇ? 地を這う者達は哀れだわぁ。俯瞰的に物を考えられないのね。それにフィアラムはまだ、ちゃんと滅亡できちゃいないわ』
風龍はケラケラと笑い声を上げた。国の滅亡には“魔王”がいる。意外にも、炎のは妙に真面目なのだ。今どうしているのかは知らないが、あの呑気な律儀者は、無理にでも約束を果たそうとするだろう。
王は聞きたくないとでも言うように、首を振って風龍から目を逸らした。
「……人同士で殺し合うなんぞ、狂気の沙汰だ。民にそんな事を強いる為に、王を務めている訳ではない」
『その考えはね、ええ、もちろん正しいわ。でもねぇ、今回ばかりは、アタシの言う事を聞いてちょうだい? あの国は潰さないといけないのよ、今のうちにね。そうでないと、この先もっと大きな災厄が起こるわよ』
風龍は、翼を魔方陣ギリギリまで大きく広げると、その長い首を伸ばして姿勢を正し、高いところから風王を見下ろした。こうしてみると、人は風龍の鉤爪程しか無く、あまりにひ弱で無個性に見える。
この矮小な肉体に自らが降りる事を、風龍は初めて真剣に想像してみる。そして自分が、切ないほど恋しい気持ちになった事に戸惑った。
どうしてだろう。その理由を考えてみようとしたが、答えを出すのが怖い気がして、思考を止める。
そして目の前の、今、最も大切なものについて考えを戻した。
『お願いよ。アタシは、この国を……アンタ達を守りたい』
その懇願に似た言葉に、王は目を見開いた。
風龍は、王の暗赤色の目に映る小さな自分の姿と、ジッと見つめ合う。
『アタシは、まだまだ大丈夫。そして貴方達も大丈夫なはずだ。なぜなら、今まで2千年、何の問題も……我らには、そう、我らには、起こらなかったではないか……だから、これからも起こらない。そうだろう?』
同意を求めた風龍に、王の赤い視線が突き刺さる。
「……なぁ、風龍よ。お前は守ると言うが、それは一体、何からだ?」
王に静かに問われた風龍は、目を瞬いた。そんな事、決まっているではないか。
『我らの、意に添わぬ者たち全てから。平穏を望む我らに賛同しないのなら、アタシの愛する者に敵意を持つのなら……それはこの世の破綻を招く害悪でしょお?』
「……………そうか」
王は、ゆっくりと風龍から目を逸らした。
「俺も、考えが甘かったのかもしれないな。確かに、あの国の魔術師に対する扱いが普及する事を看過していては、後に取り返しのつかない事態になるかもしれない……フィアラムが滅びた今、隣国である我がヴィントレットが、食い止めるべきか」
『そうよ。あそこの国は、もう解放してあげた方が、きっと幸せよぉ。雷のはもう、あの国の礎として機能してないみたいだし……。ほんと、どいつもこいつも情け無いったらありゃしない。まともなアタシ達が、正してあげないと』
王は、目を閉じると、静かに息を吐いた。そして、小さく呟く。
「将来の捨て石となれるなら、望むべくもない、な……」
思案に沈む風龍に、王の声は届かなかった。
風龍は、ついこの間、あの国の病巣とも言える孤児院に、配下の悪魔を無理矢理干渉させた時の事を考えていた。
風人をエレットネールに侵入させ、白聖石と法術でガチガチに守られたあの孤児院の結界に綻びを作って、悪魔を送り込んだのだ。そんな無茶が可能になったのも、風龍の遣わす悪魔の干渉に耐えうる様な風術師が、あそこに囚われていたからである。
しかし、今考えてみれば、それもこれも仕組まれていた事の様に思えてならない。少なくとも、風龍が作った綻びに乗じて、別の魔術の干渉があったのは確かだ。そしてその後、程なくして、エレットネールの研究施設は壊滅したという。
誰かの思惑に乗せられて、良い様に利用されているのでは、という考えが頭をよぎって、風龍は慌てて打ち消した。まさか、考え過ぎだろう。
とにかく、破綻しようとしているあの国は、早くこの世界から消してしまわなければ。エレットネールから浸潤して来る病変に、風龍の大切な国が侵されないうちに。
この国だけは守らねば。
蓄積されてきた膨大な年月の思い出が、風龍の思考をかき乱す。湧き上がる使命感に胸を昂らせ、薄緑色の羽を、巻き起こしたそよ風に舞い散らせながら、風龍はふと思い浮かんだ懐かしい歌を口ずさんだ。
『安らぎに耐えうる人は幸いよ。理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを。与えてこそ与えられ、赦してこそ赦され、そうして死してこそ、永遠の命を得られるのですから……♪』
歌い出すと、風に吹き散らされる残り香の様に、最も古く、密やかな思い出が風龍を包んだ。風龍は、深く思索する事を放棄して、不意に訪れた哀愁に身を任せる。
その様子を、当代の風王がどんな顔で見上げているのかなど、風龍は気にしようともしなかった。
お読みくださりありがとうございます。
いくつか番外?を書きたい気分なので、章を変えてみます。
主人公以外の視点がしばらく続くと思います。たぶん。




