血を仰ぐ(ヴィゼロ視点)
ヴィゼロさん視点、とりあえず書いときました。
ゼノ様とカラン様が出て行った扉を見つめながら、私は胸の内に吹き荒れるやり場の無い激情をなんとか収めようと、深く息を吸った。
ついさっきまで呼吸をするのでさえ体力を削られたのに、今はずっと楽に息が吸える。徐々に体中に生気が行き渡り、点滅する視界が晴れ、靄がかかったようだった頭が鮮明になっていく。口の中の鉄臭さに顔をしかめた。味覚と嗅覚が戻って来たようだ。
(……これで良かったのだろう。)
さすがに、自分が彼に隷属させられたのだと気付いた時は頭に血が上ったが。
しかし、一時の激情が過ぎ去ってしまえば、彼に隷属しているという事実は、私に不思議な安心感をもたらした。彼ならば、この命を丁重に使ってくれるだろう。私の仕様のない自尊心を除けば、彼に仕える事は誇らしいことだ。彼がいなければ、今この土地も、領民も、あり得なかったのだから。
ヒョロリと背ばかり高くて、いつも私やシュウに打ち据えられては歯を食いしばって泣いていたあの気の弱い子供が、まさか私の君主になる時が来るなど考えてもみなかったことだ。幼い彼に対して嫉妬や嗜虐心を抱いていた若かりし頃を、今になって苦々しく思い出す。
私は立ち上がって膝のほこりを軽く払うと自分のカップを手に取り、底に残った赤茶色に濁った液体を最後の一滴まできっちり飲み干す。そして、カップをハンカチで拭って丁寧に血の痕跡を消した。
部屋の外でゼノ様達と問答していた使用人が私の方を心配そうに窺いながら、室内に戻って来る。
「旦那様、お疲れでしょう。何かお食事されませんか? ゼノ様から滋養に良いというお薬をいただきました。まだ台所の火は落としておりませんので、温かい物がご用意出来ますよ」
「……いいや、物を食べられる気分ではない。何か温かい飲み物を用意してくれ」
「承知いたしました」
体が急速に正常に戻りつつある今、本当は酷い空腹を感じていた。ここ数週間は固形物をほとんど食べられておらず、執拗な喉の渇きから口にする飲み物だけで命を繋いでいる状況だったのだ。
しかし、顔色の良い状態でイーギル様の前に出るわけにもいけない。極限まで弱り切った状態で、イーギル様に屈服する様子を周囲に見せつけなければならないのだから。自由に飲み食いして良いのはイーギル様にお許しをもらった後だ。
用意された温かいジグの乳を飲みながら、久しぶりに感じることができた味に心が癒されていく。反射的に涙が溢れそうになった。
「旦那様、ご気分が優れませんか?」
側で給仕をしていた使用人が怪訝そうに声をかけてきた。私はゆっくり首を振ると、空になったカップを置き、すかさずお代わりを注ごうとする使用人を手を上げて制止した。
「……ゼノ様の様子はどうだった? リィラが酒を出したせいで、気分を害されていただろう? 何か仰っていたか?」
彼は驚くほど酒に弱い。といっても、飲んで意識を失ったり、前後不覚になるわけではない。むしろその逆だ。動きは鋭敏さを増し、目には見るものを畏怖させるような怜悧な光が滲み出す。
おそらく、酒は彼の理性のタガを外してしまうのだろう。彼が何重にも施した自制心の縛を、酒は簡単に解いてしまう。
私は、彼が完全に酔った姿を一度しか見たことが無いが、今思い出しても身震いしてしまう。あの夜、屍体の転がるなか、返り血を心地よさげに浴びながら自分が引き起こした凄惨な光景を肴に酒をあおる姿はまるで夢の一場面のようで、現実だと思えなかった。
「確かにお顔の色が良くありませんでしたが、やり取りや足取りもしっかりしていらっしゃいましたし、特に酔った様子はお見受けしませんでしたよ。旦那様の事を大変心配されていました。良いご友人ですね」
「ああ……そうだな」
友人という言葉に、つい目を伏せてしまう。少なくとも、ゼノ様の方は私に対してそれに近い感情を持っているのだろう。そうでなければ私に対してあんな表情はすまい。
「お弟子様も、大変気持ちの良い方で、宿泊の手配をしたリィラ様にとても感謝していらっしゃいましたよ。お酒の件も、もてなしの気持ちが嬉しかったと」
「リィラにそんなつもりはあるまい。あれはただのゼノ様への嫌がらせだ」
「ふふっ。ええ、存じております」
使用人が出て行き、ひとりになった部屋で、再びせり上がって来た、もはや行き場のない気持ちを飲み下す。
(ゼノ様は、カラン様をどうするつもりだ。)
私には一目見て分かった。あの面差し。あの霊子の輝き。私が生涯お仕えしたいと望んだ姫様の、可憐なお姿を思い出さずにはいられなかった。彼女への従属が出来たらどれだけ名誉な事かと、かつて思い描いていた気持ちが再燃した。昔は、努力さえすればそれが叶うゼノ様が妬ましくて仕方なかったものだ。
けれど、近くで対面していて印象が変わった。カラン様は姫様とは違う。穏やかな表情で会話に耳を傾ける姿も、私の視線にも全く動ぜず見返す感情を窺わせない目も、あの天真爛漫できまぐれだった姫様とは大違いだ。
(それでも、カラン様に王の素質が受け継がれている事は間違いない。)
カラン様に集う炎の霊子量は、祖王の再来とまで言われたあの姫様と遜色なかったではないか。カラン様の瞳の奥に、私は確かに底知れぬ力がうごめくのを窺い見た。もう一度、“王の騎士”として仕える事が出来るかもしれない、そう思わせるほどの。
あの方がいれば、フィアラム王国の再興も夢ではない。ゼノ様はそのために、これまで動いてきたのでは無かったのだろうか。
(しかし、もう考えても仕方のない事だ。)
私はこれから、ゼノ様の思うままに動く事となる。彼に隷属させられたのなら、私が再び“王の騎士”を名乗れる日は来ないだろう。もはやこれ以上、君主の上書きをする事は困難だ。ゼノ様が私に取り憑かせたのは、かなり高位の悪魔に違い無いだろうから。
術師というのは、契約出来る悪魔の強さも数も、個人の限界がある。そして隷属の呪術に使用できるのは、ある程度人の言動を理解できる中高位の悪魔だけだ。
つまり、隷属者が死ぬまでの間、術師は限られた使い魔の一体を手放す事となる。もちろん人の人生を縛るなど倫理的な問題もあるが、この術が頻繁に行われないのは、そのリスクが大きいからだ。だから多くは、別の術師を従える事によって自分の使役出来る悪魔の数や種類を実質的に増やす事ができる場合に使われる。
ろくに悪魔を扱えぬ私をイーギル様が隷属させたのは、私が“王の騎士”としてフィアラム王の側に常に侍り、王自らが“私の盾”と呼んで取り立てて下さっていたのを多くのヴィントレット貴族が目にしていたからだろう。イーギル様は、自らの威光を高める小道具として私を欲したに過ぎない。
そして、隷属従僕の君主の書き換えをするにはさらに難しい。元々憑いているのより上位の悪魔を使って、再び隷属の呪術をかける必要がある。新たに憑かせた悪魔に、それまで憑いていた悪魔を殺させるのだ。普通は。
元憑いていた悪魔を生かしたまま、その動きを封じる様な器用な真似など、圧倒的な力の差がないと出来まい。
(王家の血というのを、私は甘く見ていたのかもしれないな……)
“神饌”として生まれたゼノ様が、そこまで力を持っているとは思わなかった。しかし、たとえ王位継承権を持って生まれなかった者であっても、その血はやはり、一貴族などよりずっと尊いのだろう。
それでも、と私は急に押し寄せて来た眠気に飲み込まれそうになりながら考える。
あのままではいけない。今のゼノ様の姿は、私の目には、大量の宿り木に寄生され、枯れかかっている樹木の様に見える。彼は自分の身を削る事になんら頓着しない事が問題だ。自らを顧みないあの姿勢はもしかすると、私を含め、周囲の者が施したの幼少時の教育の影響だろうかと、リィラが生まれ親となった今になると罪悪感を感じる。まるで罪滅ぼしの様に身を削る彼の姿は、見えているだけに可哀想だった。
(ゼノ様は、これから、私を使ってどう動く?)
普通に考えれば分かることだ。私はこれからヴィントレット貴族にとっての獅子身中の虫となる。イーギル様に隷属しているのは、私と、今のイーギル様の奥様だけだ。イーギル様は、祝賀や議会が開かれる折に、私を護衛として使う。もうすぐ開かれるイーギル様の娘の誕生会でも、私は呼ばれるに違いない。簡単に他人を信用しない貴族達に近づき、情報を流し、その首に何時でも手が届く私を、駒として使わない手はないだろう。
しかし、少し意外でもあった。ここ数年、ゼノ様は貴族達とも、過去のしがらみとも、なるべく距離を置いて、ひとりのただの薬師として生きている様に見えた。私もそれを責めるつもりは無かったし、むしろ彼が自由に生きる事を望むなら、私からはもう何も言うまいと思っていたのだ。
今になって後戻りのできない一手を打って来るとは思わなかった。やはりカラン様を然るべき身分に戻すためだろうか。口ではああ言っていても、彼もまた無くなった故郷を欲しているのだろうか。
(それとも、ただ私を助けるためだったりしてな。)
まさか、流石にあり得ない。そんな事の為に高位の使い魔を手放すなど。
私は自分の考えを鼻で笑おうとして、できなかった。決して嬉しいわけではないのに、顔が自然と緩むのが分かる。
笑うと、なんとなくこの先の不安が払拭される気がした。私は意識を蝕む睡魔に抗うのをやめ、心地よい倦怠感に身を任せる。
私がしばらく動けなくなって幸いだったのは、リィラがこの村の長としてしっかりと指揮が取れる事を確かめられた事だ。これから私がここを空けても、村に問題は起こらないだろう。
(明日には、イーギル様の所へ向かう準備をさせなければ。手土産は何が良いだろうか……)
目を閉じると、意識のずっと奥の方から、どこか懐かしい旋律が聞こえてくる気がした。その優しい響きに、私は考える事をやめる。
今日は久々に深く眠れそうだ。
ゼノさんの過去、めんどくさいんですよ。必要になったら書くかもしれませんが。
更新滞っててすみませんでした。なんとか暇をもぎ取ったので、更新頻度は戻ると思います。
できれば明日も更新したいです。




