【擦り切れた話(土龍)】
前話に出てきた千年前のお伽話です。
本編には大して関わらない…はずなので、どのタイミングで読んでもらっても大丈夫ですが、読むか読まないかで今後の印象は変わるかと…
あ、活動報告覗いてもらえると嬉しいです。
「土とは」
と、彼は愛おしげに黄金色の田園を見下ろしながら呟いた。
「土とは、我々が神の愛を知る縁だ」
そう言ってこちらを振り返る。秋の芳ばしい風が、白いものの混じり始めた彼の髪をなぶった。その端正な顔に刻まれた残酷な時の流れを直視できず、土龍は空を見上げる。
その動きに合わせて、武骨な尖塔の石屋根が、まるで花の蕾がほころぶように、ふわりと空に向かって開いた。現れた鱗雲の浮かぶ高い空は、土龍の生まれた頃と何一つ変わらない。
「我々は、土を通して神と対話しているのだ。土は、我々の誠意を神に伝え、神はそれに応じて、生きる糧を土から芽生えさせて下さる……見よ、この美しき大地を。神との愛の結晶を。私は、私の義務を果たした。この国を、神の慈愛で満たしたのだ」
彼の言葉に、土龍は何も答えなかった。
土龍からすれば、世界などずっと停滞しているように見える。地を這う者達の営みも、千年間、大して変わらないではないか。
皆、ちまちまと生きながら、時に恨み、嘆き、縋り、祈る。どの人間の思いも大して違いない。立場が違えど、時代が変われど、誰もが同じ様な事を訴えかけてくる。いつまでも変わらぬ、単調で残酷な平穏の繰り返し。
それが土龍を生んだ者の望んでいた緩やかな安寧なのだと分かっていたとしても、小箱の中に真綿と共に詰められたようなこの息苦しさは、如何ともしがたい。
(……吾は、微々たる変化など気にしなくても良いのだ。)
土龍の場合、この終わりの見えない連綿とした時の中でいちいち心を揺らしていては、その存在が保たない。土龍を土龍ならしめているのは、その心ひとつなのだから。
目の前の初老の男が消えたところで、どうせその内似た様な者が現われる。自分を見上げる人の顔触れが多少変わったところで、それがどうしたと言うのだ。自分は変わらない。自分が変わらないのならば、結局自分の眺める世界も、何も変わらないに等しい。
土龍は、ゆっくりと彼に視線を落とした。
『王よ。其を我が糧とする時が来たりや?』
王は秋の夕陽そっくりの、茜色の目を細めた。
「偉大なる土の龍よ。盟約に従い、私はこの美しい国の糧となろう。私の命がこの国の寿命となり、この身が土に還って土地を肥やす。何と喜ばしい事であろうか」
『それは、本心か。今代の土王よ』
土龍はもうお決まりになった疑問を、今回もまた、投げかけた。
彼が嘘を吐いていない事は分かっている。土龍は50年以上、王太子としての彼も、王としての彼も見てきた。彼の言葉は、心からのものだろう。しかし、人の本心という物は一つではない。全く相反する気持ちが拮抗していて、どちらも本心だというのが人の厄介なところなのだ。
自分の責務を深く理解する者ほど、その心は分離する。そして、責務を全うする者は、本心の取捨選択に優れている。
土龍には、都合が悪いと捨てられ、無かった物のようにされる彼の心の一部が哀れだった。せめて最期は心を丸ごと保ったまま、王でなく人としていて欲しかった。
(人の事を言えんな。……吾の心こそ、もはや何が本心かもう分からぬ。)
目の前の男など、悠久の時に行き過ぎる些事でしかないという思いを呼び起こそうと、再び、土龍は首をもたげて空を見上げた。
「貴方様は、最後まで私に王を求めるのですね」
土龍に対する彼の口調が、少し砕けたものに変わる。
「嬉しいですよ。貴方様が私に、王よ、と呼びかける度に、私はくだらぬ自分が王になるのを感じました。お陰で、私は悔いなく生きられた。かつて自分の夢見た姿を生きられました。そして、私には、最高の死に様が用意されている……。どこまでも理想の姿のまま死ねる事こそが、王となる者の最高の特権でしょう」
穏やかな笑顔の瞳に仄暗い光を宿し、しかし口調だけはきっぱりと、彼は王としての言葉を紡いだ。
「貴方様の糧となり、この国の礎となる。この実り豊かな大地は、我らの覚悟無しには成り立たない。そう思えば、なんて、誇らしいのでしょう。だから、憐れまないでください。そしてどうか、悲しまないで」
ゆったりとした足取りで、彼が歩み寄って来る。その足が、床の魔方陣を踏み越えた瞬間、思わず土龍から呻き声が漏れた。
それを聞いた彼は寂しそうに笑って、龍に向かって両手を広げた。ぐずぐずと崩れ始めた自分の両足など意に介す様子も無い。
「ありがとうございました。どうか、この先も健やかで。……後を、よろしくお願いします」
(そうじゃないだろう。)
土龍は首を下げ、彼に目線を合わせた。間近に寄れば嫌でも伝わって来る。早鐘のように打つ心音、細かく震える指先、張り詰めた瞳、小さな痙攣を繰り返す喉の音、額に浮かぶ脂汗……
(怖いと、なぜ自分の命を生きられないのかと、泣き喚いても良いものを。)
『相分かった。其は、立派に役目を果たした。吾の中で、ゆっくり休むがいい』
土龍は大きく口を開くと、彼の笑顔を口に含んだ。土龍には、味覚も触感も無い。しかし、苦くて、痛いと、思った。これも何度感じたか分からない、いつも通りの感覚。
そして、新たな王が、彼の代わりに現われる。
「我らが祖の盟友よ。我が魂に、盟約に殉ずる栄誉をお許し下さい。我が身は……」
彼の娘が首を垂れて滔々と口上を述べるのを聞きながら、土龍は、いつもの様に石の尖塔を開いて空を見上げていた。しかし、不意に途切れた彼女の声に視線を落とす。
彼女の、彼に似た優しげな面差しが、真っ青になっていた。組んでいた指が解かれ、小刻みに震える指が、確かめる様に自分の腹をまさぐる。そして、腹から生えた刃先に行き当り、ビクリと痙攣した。
「まさか、どうして……?」
土龍の驚きをそのまま代弁した彼女は、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。その背後から、小さな人影が現れる。
「お初にお目にかかります。土龍よ」
『……初では、ないな。お前が生まれたとき、吾はお主を見せられた』
彼女の背後から現れたその少年は、王の長女の息子だったはずだ。王は、孫の代の後継者候補が、10歳を超えた時に引退する。少年は昨日、10歳を迎えた。その祝賀の後、先代の王は土龍に喰われたのだ。
彼女を刺し、血で小さな手を汚した少年は、床に倒れ伏して血を流す彼女よりも白い顔をしていた。華奢な体全体で、痙攣のような浅い呼吸を繰り返しながら、彼は瞳孔の開ききった真っ赤な瞳で土龍を見上げる。
「私が、次の王です、土龍よ。我ら一族と貴方様に、呪われし盟約からの解放を。惰性で続く国に終止符を。……両親と、祖父に、感謝と尊敬を」
土龍は、自分の心が昂るのを感じた。自分の中にある鬱憤を、破壊衝動を、共にぶちまけられる相手が、物わかりの好い自分など偽りだと叫べる相手が、とうとう現れたのだ。
『相分かった。最後の王となる者の務めを、其が担うというのなら』
「ダメです‼」
彼女が血に濡れた手で少年に縋りつく。少年の肩が大きく震えた。
「叔母上、私は……」
「この国の為に、貴方の両親も、おじい様も、命を使われたのですよ」
少年の瞳が、急に年齢にそぐわない冷淡な光を帯びる。
「……そんな事を、いつまで続けさせるおつもりだったのですか? いつか、誰かがやらなければならない事です。もうとっくに、為されていても良かった事です。おじい様のもたらした恵に驕る国民を、貴方はきっと助長させる。どの国の民も、我らの払ってきた犠牲の上に生きながら、まるでそれが当然のように……」
少年は一度言葉を詰まらせると、叔母の手を取り、決然とした声を出した。
「我らの役目は、民に怠惰で安穏とした生活をもたらす事ではない。人を纏め、調和を保つ事です」
彼女は苦痛にゆがんだ顔を土龍に向けた。やがてその顔に諦観がよぎる。彼女も、もう自分が助からないことは分かっているのだろう。次に焦りが浮かぶのがみえて、土龍は少年に声をかけた。
『王家の末よ、彼女をここへ』
少年は小さな体で叔母の体を抱えようとした。彼女は少年に縋って、這うように魔方陣に近づく。
「わたくしは、わたくしに出来る務めを果たしましょう……」
王の顔をした彼女に、土龍は目を細めた。
『王よ。其を我が糧とする時が来たりや?』
「ええ。見ての通り」
『それは、本心に適うか?』
彼女は、父そっくりの笑顔を浮かべ、おっとりと首を傾げた。
「貴方様が、わたくしを王と思って下さったのなら。どうか、わたくしの命を、わたくしの愛する者たちへ……」
そう言って隣で棒立ちになる少年を片腕で抱きしめると、その手を陣の縁に伸ばす。
「願わくば、我らの清算をする、この子にも安らぎを。……後は頼みます」
最後の言葉を、誰ともなく投げかけると、彼女は魔方陣の中に這い入った。体が、地に着いた部分から、ゆっくりと崩れていく。彼女に、抑えきれない恐怖が浮かぶのを見た瞬間、土龍は一思いに彼女を喰らった。
『吾を放つ意味はわかっておろうな?』
鼻面を、魔方陣の縁ギリギリにまで突き出し、土龍は少年に問いかけた。
少年は、紙のように白い顔に、不敵な笑みを浮かべる。
「土龍よ……我らが祖に託された最後の盟約を、私が果たしましょう。たとえ私がこの先どう罵られようとも、甘んじて受け入れる覚悟がございます。今から私が王……いいえ、“魔王”です」
豊かな穀倉地帯と、森林資源に支えられ、飽食の国とまで言われ栄華を極めた土国ランチェルトが、魔獣と魔人に侵され、滅びるのは、これから僅か5年後。そして他国の王達が、突如として現れた“魔王”を倒すに至るにはさらに10年の歳月を要したという。
ランチェルトが滅びてから、魔の10年と呼び習わされるこの期間、“魔王”は縦横無尽に、全ての国に破壊を撒き散らし、どの国にも恐怖の歴史を刻み込んだ。絶大な力で民を守った、偉大な王達の名と共に。
「ああ、愉快、愉快。なぁ、土龍よ?」
魔王になった少年は、本当に良く笑った。いつの間にか滲み出る育ちの良さは、粗暴な態度に置きかわり、甲高かった声が、ひび割れたダミ声になっていたが、それでもその笑顔は変わらなかった。
刹那的な快楽に身を委ねながら、それでいて自分が死んだそのずっと後を考えている笑顔に、土龍は一度も矛盾を感じなかった。
魔王の笑顔を見て生きのびた者はいないから、土龍の記憶にしか残っていない、最後の土王の姿である。
番外編ですみません。あと遅れて申し訳ないです…
土龍さんは氷姫の話で出てきたのと同じひとですよ。土龍さんのキャラ、今と比べるとめっちゃ変わってます。昔は威厳がありました。この千年の間に色々とあったんですね。
現在時点で滅びた国は、土国ランチェルト(千年前)と炎国フィアラム(18年前)です。
次の更新はちょっと分かりませんが、1週間以内には…。短編はいくつか投稿してます。