【3】
――夜。
すでに夜の幕が降ろされた歓楽街は、派手な光で満ち溢れている。昼は閑散としていたここも、夜になると途端に息を吹き返した。ここは夜の区域、とも呼ばれて、会社帰りのサラリーマンや、派手な化粧と色気たっぷりに肌を見せた呼び込みの女たちが多くいた。
私たちは別にここに用があるというわけじゃない。
この歓楽街の先にある裏山に私たちの拠点があった。裏山のふもとにある、もう廃れてしまったホテル。前はいかがわしいことをするホテルだと知って、行くことに多少の抵抗もあったけれど、今となっては今すぐにでも行きたい場所だった。唯一、心安らげる場所と言ってもいいかもしれない。何しろそこが私と志成が二人っきりでいられる世界なのだから。
そこへと行こうとして歓楽街の表通りを避けるように裏路地に入ったのだけれど、案の定、私は襲われた。本当なら傍に志成がいるのだけれど、志成は歓楽街でお買い物中。私は一人で待っていたから、何ともタイミングが悪かった。
私の前に現れたのは、一匹のウサギ。ウサギというだけで可愛らしいものを想像するけれど、残念なことに私の前に現れたウサギはおよそウサギらしくなかった。
まず大きさ。私の身長をはるかに超える二m。そして、その色。そのウサギは真っ黒だった。真っ黒な毛並みのウサギはいる。でも、目の前のウサギは毛並みどころかすべてが黒だった。空に広がる夜闇は透き通っているけれど、このウサギは闇という粘土で練り上げたかのように真っ黒だ。目も、口も、耳も――黒。色らしい色は、一切ない。そんなものは無用と言わんばかりの、黒さだった。
このウサギはウサギじゃない。ウサギの形をした、何か、だ。
私たちは普通にこの存在のことを『化け物』と呼んでいる。何のひねりもないけれど、でも、見た目通りの姿をした『何か』にぴったりな言葉だった。
ウサギはぴょん、と跳ねる。その巨体が跳ねれば、着地した時の震動で地面が揺れるかと思ったのだけれど、それは音さえ一つなく、揺れもしない。ぴょん、と跳ねて、ウサギは私との距離を徐々に縮め始めた。
私は懐からカッターを取り出す。蓋がついた大ぶりの黒いカッターナイフだ。
ウサギの形をした何かに、大ぶりとはいえ大きさ的には圧倒的に劣るカッターナイフは通用しないように見えるけれど、それが面白いことにこの『化け物』には有効だった。
少しでも、この『化け物』の体に刃が当たれば、この『化け物』はす、と空気に溶け込むようにしていなくなってしまう。
倒したのかはわからない。ただ、一度消えてしまえば二度と目の前に現れなかった。だから、倒したことになるのだろう――という認識程度。
『化け物』は夜に一度だけ、現れる。なぜか、私の前だけに。煩わしいし、こうして、戦うというのも面倒くさい。そして、どうして私の前にだけ現れて襲うのかという疑問だけが残される。それもまた、苛立つ一因になっていたりするのよね。
私はじりじりと近づいてくるウサギと対峙する。
ウサギは私の様子をうかがっているのか、襲ってくる気配なかった。
志成が近くにいれば志成が退治してくれるのだけれど、あいにく、志成はいない。まぁ、私だけでも大丈夫だけれど。でも、早く片づけないと志成に心配をかけてしまう。むしろ、心配かけさせた方がいいのかしら? そうすれば志成はずっと一緒にいてくれそうだし。
そんなことを考えながら、私は一歩、ウサギへと近づいて――足を止めた。
「え?」
目を疑う、とはこのことかもしれない。
いつも『化け物』は動物の形で現れていた。このウサギもそう。でも、ウサギの様子がおかしい。痙攣したかのように、体を震わせていた。その震えが一際大きくなった途端、ぴた、と、止まる。何なのかしら? と様子をうかがっていた次の瞬間だった。ウサギの背中に、翼が生えた。ばさり、と音を立てさせ現れたそれは鳥のような羽毛に覆われた翼ではなく――蝙蝠に似たそれ。
「何……?」
その体もまためきめきと言わんばかりにきしませながら体格すらも徐々に変わっていく。犬、違う。何かしら? でも、一言で言えるなら大型の猛獣。ライオンや虎に似た、その体つき。
『化け物』に対して私は久しぶりに恐怖を抱いた。むしろ、ここまで大きな恐怖や不安は、初めてかもしれない。
顔はウサギ、体は大型の猛獣、背中には蝙蝠の羽。
つぎはぎだらけの――正真正銘の『化け物』と成り代わったそれが、私の前にいる。
思わず、私は後退してしまう。
こんなことは初めてだった。何が起きたのかわからないし、本当に、目の前にいる『化け物』がどういう存在なのか、わからない。果たして、このナイフが通用するかどうか、怪しくなってきた。
つまり、私が戦っても、勝てるかどうかわからない。志成がいればおそらくは勝てるはずだろうけれど。あいにく、志成はまだ帰ってきていないのよね。
ウサギだった『化け物』はその丸太のような太い足を一歩踏みしめた。地響きでもしそうなのに、ただ無音だけが響く。
私は後退し続けた。どうしよう、と考えても、本当に頼りなくなってしまったナイフで応戦する構えを取る。今までにない緊張と、異常な風景と、異様な雰囲気に覆われてしまったこの空間が、ひたすらに戦意に不安の影を落とした。
絶対にこの『化け物』の動向を見逃すまいと、瞬きをしない。瞬きをしたその瞬間に、何が起こるかわからないから。でも、一度だけ瞬いてしまった。その瞬間だった。
「……?」
目の前に『化け物』の口があった。ぱか、と開かれた『化け物』の口腔はブラックホールみたいに、ひたすら真っ暗で。それがいったい何なのか、まったくわからなかった。
それが『化け物』の開いた口だと理解した瞬間にはもう遅い。私は『化け物』にかみ殺されそうになり――けれど、その『化け物』の首がすぱん、と切り落とされた。
「詩!!」
聞きたかった声が、私の耳に届く。その声だけで、不安と恐怖で混乱していた心が一気に落ち着きを取り戻した。
「志成」
志成はビニール袋を片手に、走ってきた。そして、私の腕を掴むと、私を『化け物』から隠すように背中へと隠してくれた。
「詩、大丈夫?」
「えぇ、大丈夫よ。おかげさまで」
「……ごめん、怖い思いをさせたね」
「本当にね。でも、あなたが来てくれて、その怖い思いもなくなったわ」
正直に伝えれば、志成は苦笑する。普段、その苦笑を見ると馬鹿にされたようでむかついていたのだけれど、今回だけは許すわ。
「それで、詩。あれ、何……?」
志成もまた今回現れた『化け物』のことが気になったらしい。
志成によって頭部を切り落とされた『化け物』の体は倒れることなく、そのまま直立の姿勢を保っていた。地面に転がっている頭部もまた口を開けたまま。水を打ったような空気が、さらに不気味さを際立たせている。ホラー映画のように、今にも動き出しそうな緊張感で張りつめていた。
「あれ、ライオン、虎? でも、背中に翼があるし――それに、あの頭はウサギ?」
「そう。いきなり、変身したの」
「変身、なの?」
「えぇ、こう、ばりばりと変わっていったの」
「――よく、わからないなぁ」
私もいまだに信じられないし、突然のことだったから説明の仕方が変になる。そのことを、志成はわかっていないのかしら?
私たちは直立不動の『化け物』を見守っている。いつもは攻撃されるだけですぐに消えてしまうのに、今回は消えない。それもまた、異常な事態だった。
「志成、どうするの?」
「うーん、どうしよう?」
切り落とされた体は微動だにしないから、死んでいるのかもしれない。でも、死んでいるのなら、体が倒れたりするものなのだけれど……。
「詩はここにいて」
志成が険しい声色を残して、そ、と足を『化け物』に向けた。足音を立てないように、そう、と忍び足で。
けれど、
ばさっ!!
突然、蝙蝠の羽が大きく羽ばたいた。
「志成!」
微動だにしなかった『化け物』が頭部もないのに動き出した。その太い前足を、志成へと向ける。転がっていた頭部もまた、ばたばたと動き出した。ただ、体がないため、口を開け閉めする衝撃で、地上へと打ち上げられた魚が跳ねるような動きを見せている。
「詩は下がって!」
志成が構える。その瞬間に、『化け物』が志成に向かって躍り出た。太い前足が志成へと殴りかかる。その前足が志成を叩きのめそうとした瞬間に、志成の前に大きな黒い壁が立ち塞がった。