【1】
一章 女王と異能者の日常
――現在。
六月一日。カレンダー上で、六月へと切り替わった時刻のこと。私たちはビル街の裏通りを走り回っていた。何十階とある巨大なビルが立ち並ぶこの区域は、普段は会社で働いている人たちで溢れかえっているけれど、今の時刻は五月から六月へと切り替わる深夜。そのため、ここには人の気配がまったくない。車通りも少なくて、無音のため、この世界にいるのはまるで私たちだけのようだった。
静まり返っているせいか、それとも夜のせいか、どことなく冷たく感じて。でも、六月の風はどこか湿っているようにも感じた。
そんな季節の変わり目を感じる余裕もなく、私たちは走り回っている。
「詩、そっちだ!」
「わかったわ!」
遠くから志成の声が聞こえてきて、彼が何を言いたいのか、何をしてほしいのかすぐにわかる。私は裏通りから細い路地へと入り込んで、考えもなく目に入った曲がり角を左、右へと曲がり続けた。その背後を追いかけてくるのは、大きな真っ黒いライオンのようなもの。まるで影のようだけれど、まったくもって違う存在だと私は知っている。これは言うなれば『闇』のような存在。ライオンという型があれば、そこに闇を流し込んでぎゅ、と凝らせたような風姿だ。だから、目もなければ、威嚇しむき出している牙もない。あるとすれば黒に染まった牙のみ。唸り声も聞こえないし、地面を震わせる足音すらなかった。そして、その大きさは、建物の約三階分相当の巨大さ。この時点で、この世の生物だということは除外される。
闇色にすべてをぬりつぶされた『化け物』のライオンは、音を一つも立てずに軽やかに、けれど、私を追い詰めていく。
私はライオンの『化け物』がついてくるのを確認しながら、狭い路地から大通りへと飛び出した。狭い路地が暗かったため、大通りの外灯の明かりがとても眩しかった。私は外灯の光の中へと飛び込む。その背後をライオンが追いかけて、私と同じように外へと飛び出した。眩い外灯の光でも、『化け物』の体は吸収するらしく、その闇は薄まらない。むしろ、濃くなったように見えた。
「詩、伏せろ!」
その言葉に、私は滑り込むようにその場に伏せる。その頭上を、黒い影が奔って、ライオンを呑み込んだ。
私から見れば手品のように見える。ライオンの上に黒い布のような影が覆いかぶさって、ぎゅ、雑巾のように絞られて――影が薄まったときには、もうライオンの姿はなかったのだから。
「詩!」
志成が慌てて駆け寄ってきた。ふんわりとしたクセッ毛が、彼の慌てぶりを表現するかのように乱れている。いつもその顔に浮かんでいるはずの人懐っこくて、勝気な笑みが今は浮かんでいなかった。その代わりに眉尻を下げた、情けない顔つきになっている。まったく、どんな顔をしているのかしら?
「詩、大丈夫?」
心配そうにのぞき込んでくる志成に、私は微笑む。
「えぇ。大丈夫よ」
その言葉に安心したように胸をなでおろした志成に、私はそ、と手のひらを伸ばした。
「詩?」
それを不思議そうに受け入れようとする志成の頬を、私は思いきりつねった。
「い、痛っ!」
「志成ってば誰に向かってあんなふうに命令をしたのかしら?」
「いたたたた!」
ぎりりり、とつねり上げ続ければ、志成が悲鳴を上げる。当たり前でしょう、痛くしているんだもの。
「ご、ごへんへばっ!」
何を言っているかわからないけれど、きっと、謝っていると思う。私はそのよくわからない謝罪に満足して、ぱ、と手を放した。
「わかればいいのよ」
「ど、どうもありがとうございます」
志成はひりひりと頬が痛むのか、涙目で頬を抑えている。そんな志成に私は抱き着いた。
「それに志成だから、こんなふうに許せるのよ? 赤の他人じゃこうもいかないわ」
ぎゅ、と志成の体に腕を回してきつく抱きしめれば、志成もまた私の体に腕を回してくる。
「オレだって詩以外の人にこんなことやられたらブチ切れるところだったよ。詩だから無抵抗だったんだからな」
嬉しいことを言ってくれる志成は、さっきの情けない涙目から一転、破顔して私をぎゅーと抱きしめてくれる。
この温もりがとても心地いい。こんなにも安心する。この温もりがあるのならば、私たちは何だってできると強気に思ってしまう。違う。私たちは、無敵だ。
「志成、今から勝利の祝杯をあげるわよ」
「了解!」
そうして、今日もまた、私たちにとっての一日が終わろうとしている。
* * *
――現在。
ここは九桐町にある高校――九桐高校だ。
その九桐高校の二年B組が、私のクラス。私は席に座りながら本を読んでいた。
外は晴れ。あたたかな夏に変わろうとしている日差しを感じつつ、私は教室内の喧騒をシャットアウトしながら、活字を読むのに夢中になっていた。
このクラスには私の知り合いや友人と呼べる人間はいない。別に、私は友達とかそういうものは欲しくない。私には志成がいればいいんだし、志成だって私がいればいいの。私と彼以外、人間なんて存在しないのと同じだった。
「見て、あの暗さ」
それでもクラスメイトは暇があれば、何かと話題を見つけてしゃべりだす。話題が見つからなければ、その標的となるのはクラスで孤立している存在になるもの。孤立する理由はそれぞれあるけれど、退屈なクラスメイトたちはその理由なんてものは自分たちに関係はなく、ただ、暇つぶしの話題であればそれでいい。つまらなくて、どうでもいい人間ほどそういうものよね。
「何なんだろうね、あの暗さ。家でキノコでも栽培してるんじゃない?」
「カビがいっぱい生えてたりして!」
「学校に来ないで、家の掃除とかすればいいのに。だって、あいつ、この学校に来ても意味なさそうじゃん。ていうか、目障り? なんて」
「ちょっと、言い過ぎ!」
あはははは、とクラスメイトの女子たちが笑いあう。私はずれかけた眼鏡をかけなおして、再び活字の世界へと入ろうとするが、そいつらはその気がないらしい。煩わしいし、はっきり言って腹が立った。でも、そいつらに構う無駄な時間は私にはないの。だから、無視をした。
「見た? 眼鏡かけなおしたよ! あの眼鏡もダサいよね!」
「ていうか、全部ダサいみたいなー!」
あはは、きゃはは。そんな彼女たちの甲高い笑い声が頭に響き渡った。あぁ、うるさいわね。それに周囲にいるクラスメイトたちまでも、彼女に同調するように笑いだす。いいわね。おバカさんたちはとても呑気で。
私は完全に意識をそいつらから断絶する。
意識を目の前にある本へと持っていった。この時間がとても惜しい。この馬鹿なクラスメイトたちの会話で時間を費やしたのが、とてももったいなかった。
「聞いてんのかよ」
ぽこん、と頭に何かが投げつけられる。軽く投げられたから痛みはないけれど、机の上にはくしゃくしゃに丸められた紙が置かれていた。
私は心の中で吐き捨てる。
本当にどうしようもない奴らだ、と。
せっかくいい気分で本を読んでいたのに、邪魔をして。
「おい、何とか言えよ」
ふと、席の近くに誰かが立つ。見れば、男子生徒が一人立っていた。確か名前は――誰だっけ? もう三か月このクラスで過ごしているけれど、さっぱりと思い出せない。そもそも興味がないし。あぁ、でも、思い出せるのはとても騒がしくて、調子者の、一番目立ちたがりの面倒くさい男子だ。
「俺がかまってやってんだぞ? 『ありがとうございます』くらい言えないのかよ?」
男子生徒はにやにやと笑う。不細工で、何とも下品な笑い方だった。志成とは違う笑みに、辟易を通り越して、殺意さえ湧いてくる。
私はそんな荒れ狂う胸中を押し殺して、再び本へと集中しようとした。しようとして、再び止められる。パ、と本が取り上げられた。
「おい、誰に対してそんな態度とってくるんだよ?」
――あなたこそ、誰に対して臭い口をきいているわけ?
私の怒りは瞬時に頂点へと上り詰めて、私はば、と本を取り返した。そして、
「……っ」
男子生徒は目を見開いて、息を呑むのがわかった。それ以上は何も口を開くこともなく、一歩、後退る。そう、それでいいの。私は内心で怒りがいまだにくすぶっているのを感じながらも、開いた本へと視線を移した。
「何? どうしたの?」
男子生徒がのけぞるように身を退いたのを見たクラスメイトたちが不思議そうにしている。
「い、いや……」
男子生徒は言いよどむと、私から離れていく。その一連の光景を見守っていたクラスメイトたちが何事かと、ひそひそと話し合っていた。
それもそのはず。
だって、私は本気の『殺意』というものを彼に向けたのだから。『殺意』とか『敵意』とか『戦意』とか知らない、普遍的で平凡な人生を送っている彼らにとって、それがどういうものかわからないはずだ。それをどうやって人に向けるのかも。私も普通に生きてきたら、そんなもの手に入れることもなったかもしれないけれど。
「ね、ねぇ」
どことなく張りつめたような雰囲気が漂う異常な空気を変えようとしたのか、クラスメイトの女子が話題を変えようとする。つまらないこの人たちの標的が別のものに変わったおかげで、私はこの煩わしい空気から解放された。けれど、解放されたのも、束の間だった。
「二年D組の志成くんって知ってる?」
――志成?
私の意識は本から、この女子へと切り替わった。
「志成って、あの志成?」
「そ、そう! ほら、ずっとこの学校で寝過ごしているっていう……」
「あぁ、あの怠惰の志成!」
怠惰の志成? 何それ? 私が疑問に思っていると、あぁ、と納得した。
「あいつって授業中、ほとんど寝て過ごしてるんだってね」
「聞いた聞いた。体育の時間も立ったまま寝てるとか」
「何それ、ウケる!」
「でも成績はすごい良くて、そのせいで先生たちも怒れないっていう」
「マジで? でも、その志成くんがどうしたの?」
「かっこいいと思わない? あたし、ひそかに狙ってるんだー」
「はぁ?」
「だって、確かに毎日寝てるけど、ほら、昼寝している猫みたいな感じでかわいいじゃない? でも、本当は文武両道の優等生っていうギャップがいいじゃない!」
「そうかなぁ」
「だから、今度アタックしてみようかな……、……え?」
盛り上がっていた女子たちの会話が途切れた。それもそのはず。その輪の中に私が文字通り体ごと割って入ったから。
「え……」
「な、何……?」
女子たちのグループは私の突然の乱入に困惑と戸惑い、不安、まぁ、その他もろもろの感情で混沌としていた。でも、そんなことはどうだっていいの。用があるのは、この女だけだから。
「え、や、何よ!?」
私は志成のことを話題にして、志成を手に入れようとかほざいた女の手を掴んでそのまま引きずるようにして歩き出す。
「ちょ、放しなさいってば!」
女は私の手を振りほどこうとするけれど、あいにく、そんな弱い力じゃ私は振りほどけない。女のグループの仲間たちは、私に連れていかれようとする女子に手を伸ばすが、それ以上は進まなかった。
あなた、見捨てられたのね。
かわいそうに。
思ってもみないことを、思ったふりをして。しん、と静まり返った教室から、私たち二人は出ていった。
その後のこと?
それはお楽しみってやつね。
もちろん、彼女がその後どうなったかは想像にお任せしましょう。