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女王と異能者の愛の狂想曲  作者: ましろ
二章 平和を壊し敵は
11/26

【6】

 

「―――――……」


 痛い。

 体のあちこちが痛い。

 意識がふわふわと漂っていて、定まらなかった。上下左右の感覚がないこの世界は、まるで夢の中のようで。でも、夢の中でありながらも、口の中に広がっているのはほのかな鉄の味だった。


「……ぅ、あ……」


 痛い。

 痛い。

 痛い。

 痛いじゃない。

 何なのよ、もう。

 私はその痛みに恐怖や不安ではなくて、逆に苛立った。この不自由な感覚がひどくもどかしいし、なぜこんなにも体が痛むのかわからないから、イライラする。


「……――もう、何なのよ!」


 私は跳ね起きて、大声で叫んでいた。ちゃんとそれは言葉になっていて。でも、いきなり動いたせいで体に激痛が駆け巡り、私の呼吸が止まる。息をしようとしてもできなかった。苦しい、痛い。いったい何が起きたというの。

 少しずつ詰まっていた息を吐きだして、さらに細く長く息を吸って、さらに吐く。何度も何度も深呼吸をして、ようやく痛みと苦しみが遠ざかって、私はぼんやりとする頭と視界で何とか周囲を見渡した。


「ここ……」


 先ほどまで私は五階の廊下にいたはず。

 でも、ここは三階、のようだった。壁に『3F』と書かれているし、見覚えだってある。あれ、どうして、ここに、私がいる? 私は五階にいたはずなのに、なぜ? そう考えて私はふと天井を見た。天井には大きな穴が開いている。


「あら、私、落ちたのね……」


 ようやく今の状況が理解できた。

 情けないことに、陸仁をはめる罠に私が事故とはいえはまってしまった。というのを、今さら思い出す。

 そう思い出して、志成は? と周囲を見渡すが、志成はいない。確か五階にはまだ猫の形をした『化け物』がいたはず――と首をひねって、私はまずい事態に気付いた。

 私がここへと転がり落ちる前に、私はスポットライトに体を打ち付けて割ってしまった。そのため、五階には明かりがないはず。いくら壁が崩れているところがあろうと、それは本当に一筋の光ともいえる微かな明かりのみだ。

 志成は『影』を使う。

 それもくっきりはっきりした『影』であればあるほど、強いものになると言っていた。だから、今回は対陸仁用にスポットライトを用意していたのだけれど私が割ってしまった。これでは陸仁と戦うどころか、『化け物』を相手にまともに戦えるはずがない。


「志成……!」


 早く、助けに行かないと。

 私は立ち上がろうとする。けれど、全身に激痛が走り、まともに立ち上がれなかった。私がいくら立ち上がろうとしても立ち上がらない体。そのことがひどく苛立たせる。

 お前は無力だ。

 そう言われているような気がして。

 でも、実際、私は無力に近い。

『化け物』相手に戦えるようになったものつい最近の話で、志成に私らしくもなく何とか頼みこんで戦う術を体に叩き込んだ。でも、それはしょせん、付け焼刃程度のもので、単調な戦い方をする『化け物』が相手だったら、いくらでも通用した。

 思い出すのはあの日――ウサギを象った『化け物』が、正真正銘の『化け物』へと成り代わったとき。私はあの小さなナイフがつぎはぎの『化け物』に通用するのか、と疑ってしまった。正直なところ、私は絶対にこの『化け物』には敵わない、と、理解していた。でも負けるわけにはいかない私は、恐怖と不安があっても、その場に踏みとどまった。すべてが終わったその時は志成にはこっぴどく説教されたけれど。

 私は痛感した。

 私は無力だ、と。

 私は志成のような『異能者』じゃなく、普通の人間なんだと。

 志成は陸仁と同じ種類の人間であって、私は違う、と。

 そんな私は志成の隣にはいられない。隣にいられたとしても、私が足を引っ張ってしまう。つまりはただのお荷物。最強でも何でもない、ただの足手まとい。

 そう突き付けられた現実に、私は歯をかみしめて耐えてきた。否定してきたし、拒絶してきた。そのたびに反骨精神を発揮して、何が何でもその無力を打ち倒そうとした。

 でも、

 私は今、何をしている?

 体が痛くて立ち上がれない。

 戦おうとしても戦う力がない。

 ――何もできないじゃない。

 くじけそうになる心を叱咤する気力も、少しずつ削がれていっている。本当に、このままでは私は何もできなくなる。その危惧も自覚できるほどに、私は追い詰められていた。

 ふと、気配を感じた。

 音も何もないのに、確かに、何かがそこにいる気配。私は顔を上げて、闇の中へと目を凝らす。ふと、闇の中で何かがうごめいた。ゆらり、とそのひれをなびかせる、『それ』。


「魚……?」


 闇の中かから現れたのは、魚――金魚の形を模した『化け物』だった。長いひれを優雅になびかせて、闇に沈む空気の中をゆらゆらと泳いでいる。私は思わず手のひらを握って、あ、とようやく気付く。

 私の手の中にはナイフがなかった。

 周りを見渡しても、ナイフはどこにもない。きっと落ちたときに、どこかへと落としたのだろう。

 ゆらりゆらり。私の様子をうかがうように、金魚は泳いでいた。でも、その距離は徐々に近づいてくる。

 私は立ち上がろうとする。でも、体が動かなかった。激痛に、体全体が悲鳴を上げる。痛い、痛い、痛い、痛い。

 ――だから、何?

 私は立ち上がる。無理やり、体のあちこちからきしむ音が聞こえたけれど、私は無視をした。それよりも敵が前にいるというのに、膝をついている場合じゃないということくらい私だってわかっているもの。

 でも、立ち上がっても、残念なことに、私には武器がなかった。

 私の状態に気づいたのか、好機と見取ったらしい魚はゆらりゆらりと泳いでくる。その優雅な動きは、一切のブレはなく、確実に私へと近づいてきていた。

 ナイフがなくては、私は戦えない。何か他に武器になるようなものがあれば、少しでも『化け物』に傷を負わせれば、消えるというのに。ただ、今回に限っては私の中にある〝消える〟という常識が半信半疑だった。さっきの猫のような『化け物』も消えなかったし。でも、武器があれば応戦できる。私だってかろうじて戦える。それなのに、その肝心な武器になるようなものは一切なかった。

 八方ふさがりな現実に、逃げたしたくない私は、でも、一歩後退した。一歩、下がる。ゆらり、と金魚が動いた。私がまた下がれば、金魚も泳いで。どん、と背中に当たった壁の感触に、私は追い込まれてしまっていることを今さら知った。

 このまま死ぬのかしら?

 それとも栄養とされるのかしら?

 まぁ、結局は殺されるのかもしれない。だって金魚のあの小さな口からよだれのような粘液がぽたり、とこぼれていたから。よほど、空腹だったのだろう。

 でも、残念ね。

 私はこの『化け物』の養分になるほど、私は安くはない。

 それなら、素手でだって戦おうじゃないの。そう私が身構えた時だった。

 ひゅ。

 という軽やかな風の音が奔ったかと思った瞬間。化け物の体が真っ二つに切れた。開きのように二つの身が離れて、地面へと落ちる前に金魚の体が消えていく。この切れ味に見覚えがあった。


「よう、大丈夫か?」


 そうだ。

 憎き敵である、陸仁の『風』だ。


「お前ら呼び出しておいて迎えの一つもないんだ。どこにいるかまったくわからないだろうが。――って、何だよ、お前、その傷!?」


 陸仁が私に駆け寄ってくる。子供みたいな手のひらが私の体をいたわるように支えた。

 そのしっかりした温もりに私は安堵――すると思っていたのかしら?

 ぱん、と私は陸仁の手を弾いた。

 目を見開く陸仁に、私は睨み付ける。


「触らないでちょうだい」


 敵意を眼差しに乗せて睨み付ければ、陸仁が私へと伸ばしかけていた手が止まった。

 きり、とした緊張感が、周囲を包み込む。でも、その緊張すら私の苛立ちをさらに逆撫でした。


「何で」

「あ?」

「何で、あなたなんかに助けられなきゃいけないの!?」


 私を助けるのは志成の役目。それなのに、どうして志成を連れて行こうとする、私と志成を引き離そうとするこいつに助けられなければいけないのかがさっぱりわからない。

 そして、助けられなきゃ自分が危なかったという事実に、私はただただ怒り狂った。


「さっさとどこかへ行きなさい! ここは私と彼の城よ! 邪魔をすることは許さないし、志成を連れて行こうとするなんてもってのほか! このまま大人しく帰らなきゃ、私があなたを殺すわ!!」


 私の怒号に空気が震えて、反響して、それが嘘だったかのように静かになる。陸仁はじ、と私の言葉に耳を傾けていたが、あきれたように溜め息を吐いた。


「いろいろと好きなことを言って……。ここへと呼び出したのはお前らだろうが」


 陸仁はきょろ、と周囲を見渡して、


「ここがお前と志成の城なのか? 随分とぼろっちいな」


 その視線が私へと行き着いて、


「それに俺を殺すだって? もしかして、ここへと連れてきたのは、俺を殺そうとしてか?」


 やれやれと言わんばかりに、肩をすくめた。そして、


「笑わせるな」


 静かに。本当に静かに、怒られた。


「お前たちはまだ子供だぞ? まだ世間の何も知らないくせに、自分たちだけが正しいと思うな。自分たちだけが良ければいいなんて思うな。

 それに前にも話した通りに、志成の力は危険なんだよ。それこそ、いつ暴発してもおかしくないくらいに。わかるか? 暴発するっていうことは周囲をむやみやたらに攻撃するっていうことだ。お前だって例外じゃない。例外どころか一番の被害者になる可能性が高いんだ。

 だから、その教育のためにも志成を連れて行かなくちゃいけない。

 お前だって、志成が苦しむのは嫌だろ?」


 陸仁はつらつらと言葉を重ねた。

 そうね。

『影』が暴発するということは、とても危険なことなのだろう。暴れる、ということだし、私だってケガをするかもしれない。それに志成だって苦しむはずだ。今まで『影』で苦労してきたんだもの。

 でも。


「だから、何?」


 そんなこと、関係ないわ。


「『異能』の暴発が何だというの? そんなもの、私たちの前では何の障害にもなりはしない。私と志成がいれば、どんな障害だろうと、逆境だろうと、壁が立ち塞がろうと――私たちの前では何にもならないわ」


 陸仁は目を見開いた。信じられない、と言わんばかりの表情で。それでも、ようやく思考が回りだしたのか、


「お前――本当にそう思っているのか?」

「えぇ」


 当然よと答えれば、陸仁の怒りは本当に煽られたようだった。怒りの形相に私は、笑って見せた。こいつもこんな表情をすることがあるのね、と。


「お前ら、愛だけですべてがどうにかなると思うなよ?」


 すぱん、と私の背後にあった壁が抉れた。横目で確認すれば、何か鋭いもので抉ったような痕がある。なるほど、私は陸仁の『風』に脅されたようだった。

 いいわね。

 そういうの。

 あなたから手を出してきたんだもの。あなたがそのつもりなら、私だってそれなりのお礼をするつもりよ?

 私は笑った。

 頭の隅で『無力』に怯える自分から目を外して。



 目の前に立つ少女は、本当に普通の少女なのだろうか?

 冬野詩。

 学校にいるときは地味で暗い、大人しい生徒として存在している。

 でも、俺の前でのこの少女は、本当の意味での『女王』だった。高圧的で威圧的、傲岸不遜で謙虚を知らない。自分の命令は絶対であり、それに反抗しようものなら粛清する。そして、誰よりも誇り高く、敵を前にしても決してくじけようとしない。

 これが今時の女子高生なのだろうか?

 それだったら、マジ怖い。こういう意志が固い人間ほど、手強いものはないから。

 今、目の前にいる詩はまさにその部類の人間で。さらに、体は擦り傷、切り傷だらけで血まみれにも関わらず堂々と立っている。体が痛いだろうに、その激痛を押し殺しているその精神力の高さ。

 圧巻、だった。

 久しぶりに『異能』を持っていない人間。しかも、少女を相手に、どうしようか、と本気で悩んでいる俺がいた。少しばかり脅してみても、彼女は微動だにしない。それどころか愉快そうに口元を歪めやがった。


「愛だけでどうにかなると思うな、ですって? そう思っているあなたこそ、ふざけないでちょうだい」


 口元が歪みながらも、詩はそう言い放つ。


「私たちは最強よ。窮地を簡単に乗り越えることができるもの」


 詩がふらり、と動き出す。ぽたり、と血がしたたり落ちた。その血に、俺の背筋がぞわり、と粟立つ。このままでは詩が危険な状態になる。その前に何とかして治療をしなければ。


「詩。とりあえず、休戦だ。お前の治療をしないと」

「うるさい」


 ぴしゃり、と詩は俺の言葉をはねのけた。


「あなたと話す暇はないし、そもそも、あなたが私に話しかける権利もない。口を慎みなさい」


 まさに女王陛下だな。

 俺は胸中で溜め息をつく。それならいっそのこと気絶させてしまったほうが早い。こんなふうに緊張しなくて済むし、女王陛下のお言葉もとりあえずはいったん途切れるだろうから。

 詩に気付かれないように俺は『風』を巻き上げた。

 詩の目が細まる。もしかしたら、風の微かな流動に気付いたのかもしれなかった。普通の人間には感じ取れないのだけれど、目の前にいる少女を普通の人間という括りにいれない方がいいのかもしれない。


「なぁ、一つ、訊いていいか?」


 それは前々から訊きたいと思っていたことだった。まともに喋るのはもしかしたら、これが最後になるかもしれない。そう思ったら、どうしても訊きたいとおもってしまった。


「何かしら? 最後の質問くらいは許してあげる」


 女王陛下の寛容なお言葉に、俺は躊躇いもなく口を開いた。


「何でお前らは他人の前で仮面を被るんだ? 何でそこまでして二人でいたがる?」


 詩は根暗な少女。

 志成は倦怠なそうな少年。

 なぜかそれぞれその仮面を被っているという不思議と、その二人が恋人同士という不可思議。

 詩は笑ったままだ。笑ったまま。


「だって、私は志成以外、誰もいらないもの」


 なるほどね。

 と、納得した。

 つまり素の自分でいてもいいのはお互いだけで、それ以外はどうでもいいから、どうでもいいような態度を取っていた。

 それはそれでどうしてお互いしか求めないのかという疑問につながるのだけれど、でも、俺が思っていた以上に、二人の絆が強固であったことを思い知った瞬間でもあった。

 これは志成を連れていくことが、想像以上に難しいかもしれない。

 どうしようか、と俺は改めて考える結果となった。

 その瞬間だった。

 天井が一気に壊れたのは。



 突然、『影』が暴れだした。

 最初に猫の『化け物』を倒して、トカゲ、蛇と続いて倒した時だった。『影』が最後の敵である馬を倒そうと覆いつくそうとしたとき、『影』が馬の手前でぴたり、と静止して。え、とオレが『影』を引っ張った瞬間、『影』が爆発した。

 馬を倒し、それどころか天井を吹っ飛ばして、壁を崩し、さらには床までもぶち抜いた。爆発したかのような轟音が響き渡り、気づけばオレは真っ逆さまに落ちていて。

 オレが目を覚ました時は、傷だらけの陸仁と、さらには奥で倒れている詩の姿を見つけた。


「うた……?」


 何で詩が倒れているんだろう?

 それに血が流れてる。

 どうして、起き上がらない?

 どうして、オレを見ない?

 どうして、眠っている?

 どうして、名前を呼んでくれない?


「詩……、詩……?」


 オレは詩へと手を伸ばす。オレの手も傷だらけで血で汚れていた。でも、いい。本当ならこんな手で詩には触りたくないけれど、詩がとても気がかりだった。だから、手を伸ばしていたのに。


「志成、落ち着け」


 目の前に、陸仁さんが立ち塞がった。

 何で、邪魔をするんだろう?


「志成!」


 陸仁さんが声を荒げる。何でそんなにも焦っているのかわからない。あぁ、でも、陸仁さん。


「邪魔」


 オレの一言で『影』が陸仁さんに襲いかかる。まるで『影』の津波だった。オレも見たことがないくらいの『影』の質量だ。

 それが陸仁さんを呑み込んでいく。


「志成、目を覚ませ! 現実を見ろ!」


 陸仁さんが何を言っているのか、まったくわからない。

 現実? 何を言っているんだろう? オレは現実が見えているというのに。そこで詩が倒れている。だから駆け寄ろうとしているんじゃないか。

 そうだ。

 守らないと。

 詩を守らないといけない。

 何から?

 ここには『化け物』はいない。

 じゃあ、詩は何で傷だらけなんだ?

 罠にはまって落ちたから? それにしては体がボロボロすぎる。オレは陸仁さんを見る。――そうだ。陸仁さんだ。陸仁さんがそこにいる。それじゃあ、詩がボロボロなのも、陸仁さんのせい?

 そう思った瞬間だった。

 陸仁さんを呑み込んだ『影』の津波が風船のように膨らんだ。急速に膨らんだそれは、風船が破裂するかのように、ぱんと『影』が爆発した。

 周囲を壊す『影』の破裂弾。すべてを打ち砕いて、何もかもを壊していく。そして、


「――ぁ」


 その破裂した『影』の破片が、凶器が――詩に向かっていた。詩は気絶しているから、破片が来ていることには気づかない。


「詩っ!!」


『影』の破片がぐんにゃりと形を変える。それは蛇、だった。大きな口を開いて、確実に詩を仕留めようとしていた。

 オレは『影』を止めようとする。けれど、『影』はオレの言うことを聞こうとしなかった。

『影』の牙が詩を襲おうとした瞬間、爆風が巻き起こった。この廃墟なんて吹っ飛んでしまうかと思うくらいのまるで台風並みの、もしくはそれ以上の爆風。その爆風はオレの『影』を吹き飛ばして、さらに詩を襲おうとしていた蛇も消し飛ばした。

 爆風が過ぎ去って、取り残されたのは気絶している詩と、へたり込んでいるオレと、怒ったように剣呑な眼光でオレを睨み付ける陸仁さん。


「だから、言っただろ? お前は危険なんだよ」


 怒ったように、あきれたように言われた言葉を痛感しながらオレは倒れている詩へと近づいた。目がかすむ。違う。視界がどんどん暗い霧に塗りつぶされていく。どうなっているんだろう? その暗い霧に視界を全部塗りつぶされる前にオレは詩に近づいて、あ、と思った時にはオレの視界は真っ暗になった。まったくもって何も見えない。でも、聴覚は生きている。そして、触覚も。

 オレは詩がいたあたりへと手を伸ばした。そして、手のひらには柔らかな体の感触。きっと、このラインは肩だ。上へと滑らせて頬の感触を確かめて、髪の毛に指を絡ませて、そのまま詩の上体を抱き上げた。ぎゅ、と腕の中に抱きしめれば、温かさが広がった。そして、微かな吐息も。

 生きている。

 それだけで、オレは心から安堵した。

 できれば詩の顔を見たいのだけれど、でも、見えない。でもいい。この腕の中に詩がいるのなら、それでいい。

 オレは泣いた。

 何がオレが詩を守るだろう?

 オレが一番、危険だったんじゃないか。


「詩が生きてて、良かった……」


 きっと、俺の人生の中で、一番安堵した瞬間だった。同時にオレたちの敗北が見事に決まった瞬間でもあった。




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