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序章 始まりの日
――これは、昔の話。
私は当時、十四歳だった。たった十四年間この世に生きてきたのだけれど、私は今、命を絶とうとしている。
カッターナイフを片手に、私は一人静かに座っていた。唯一の光は窓から差し込む月明かりのみ。しん、と静まり返ったこの室内。違う。室内だった、場所だ。
ここは九桐町の街中から程遠い山の中。山中にひっそりと隠れるようにして建てられているホテル。ホテルだった場所、というべきなのかしら。
このホテルはすでに朽ち果てている。窓ガラスが割られて、室内は荒れ放題。埃や雑草、瓦礫、このホテルで使っていたのかもしれない小物や調度品が放置されていた。九桐町で心霊スポットとなっているここは、勇猛な心を持った人たちが肝試しに来る場所としても有名だった。
でも、私にはそんなこと、どうだってよかった。
ここに何がいようと私のやることには変わりはないし。もしかしたら、目に視えない彼らの仲間入りになるかもしれないし。
死んだ後のことなんて、それこそ、どうだっていいのだけれど。
朽ち果てたホテルの一室、私は窓の外の月を見上げながら、カッターを静かに持ち直して、首元へと持っていく。
どうして、私がこんなことをしようとしているのか。
どうして、私がこんなところで死のうとしているのか。
簡単に言ってしまえば、この世に絶望した私が、絶対に誰にも邪魔をされない場所で死にたかった。ただ、それだけ。十四にもなって死ぬほどの絶望を味わったのか、なんて、私の過去を聞いた人は鼻で笑うかもしれない。それじゃあ、私はこう問うわ。じゃあ、絶望って何なの? その基準は何? 境界線は? 指針は? 私ならこう答えるわ。
人生を歩いていこうという意欲を、完全に打ちのめされたから。
だって、生きていく望みを絶たれたんだもの。それを絶望と言わなくて、何というの? そして、人によってこういうでしょうね。
きっと良いことがあるよ。
ねぇ? ふざけないでくれる? 良いことがあるって何? その良いことは、私の絶望を救ってくれるの? それとも、現実から目をそらさせるための良いことなの? そもそも、私たちは良いことがある、って、信じなきゃいけないほど過酷な人生を歩まなきゃいけないの?
――まぁ、こんなところで憤りを感じても仕方のないことなのだけれどね。
私は小さく息を吐く。さて、そろそろ、この世とお別れしよう。
カッターナイフの先端を、私は自分の首元に向けた。カッターの刃が月明かりを受けて、ぎらり、と輝く。まるで、私の血を早く飲みたいかのように。いいわ。私の血くらい、いくらでもあげるわ。
私はそのカッターを持った腕を思いきり引いて、勢いよく首元へと押し込めようとした。
その時だった。
ぱきん。
私の首を貫くはずだったカッターは不自然な音を立てて、
「え?」
私がカッターを見ると、その半ばで切り落とされていた。遠くで半分に切られたカッターの半身が落ちた、乾いた音が響く。
何が、起こったの?
私の前にあるカッターは半分ほどまで切られていた。折られていた、とかじゃなくて、鋭利な切れ味の抜群な何かに切り落とされていた。もちろん、今、死のうとしている私が、カッターが切り落とされるような仕掛けとかはするはずはない。もちろん、カッターも自然に切り落とされる代物じゃない。
じゃあ、何が起こったというの?
私はぐるり、と室内を見渡す。
この室内には相変わらず闇が漂っていた。月明かりが差し込んでいる私の座っている場所は明るいけど、影が作っている部分は特に暗い。それこそ、何が潜んでいてもおかしくないくらいに。
瓦礫、見捨てられた家具、小物、無遠慮に生える雑草。それは私がここに来てから同じ風景が広がっていた。
でも、何だか違和感を覚えた。
本当に、そこに何かがいるような気配を感じた。
「……だれ?」
私の呼びかけに、答える声はなく。ただ、不気味に私の声の余韻が反響しただけだった。
「だれか、いるの?」
それでも、誰も出てこない。気のせいだった、のかしら?
それなら、このカッターはいったい、どんな現象で切れたの?
――わからない。
私は溜め息をついて、手元にあるカッターを見る。切り落とされてしまったカッターは、使えそうにもない。さて、どうしたものかしら? だって、カッターは一本だけしか持ってきていない。命を絶つ術はもうどこにもない――と思ったけれど、何しろ、ここはもう廃れてしまったホテル。瓦礫だってたくさん落ちている。それなら、自分の手首や首が切れるくらいの刃の代わりになるものはたくさんあるはず。私は立ち上がって探し始めた。足元が暗いからおぼつかない足取りになる。まさか転んで頭打って死にました、なんていう格好悪い死に方はしたくない。……でも、死ねるのだから、それはそれでいいかもしれないけど、無様よね。
私が瓦礫へと目を凝らして探していると、不意に気配が濃くなった。
やっぱり、誰か――何かいるんじゃない。
振り返った。でも、そこには誰もいない。気配は確かにそこにいるのだと、告げているのにも関わらず、そこには誰もいなかった。
「……誰なの?」
もう一度、闇に向かって呼びかける。でも、相変わらず返事はなかった。何もしないのであれば別にそのままそこにいてくれてもいい。ただ、私が死ぬのを邪魔してほしくなかった。
「ねぇ」
さらに言葉をつづける。
「私は、死にたいの。お願いだから、その邪魔はしないでくれる?」
返事は私の予想通りになかった。しん、とした闇の虚空だけが、私が返事待ちしている時間を包み込んでいる。けれど、
「どうして、死にたいんだ?」
思わず、息を呑んだ。
返事があった。
しかも、男の子――私と同い年くらいの、まだ声変わりしていないちょっと高めの男の子の声だ。
「……ねぇ、どうして死にたいんだ?」
男の子は戸惑うように、私にそう質問し続ける。なぜ、この人が戸惑う必要があるんだろう?
「死にたいから、死にたい。じゃ、ダメ?」
「そんなに早く死んでも、つまらないだけだよ」
「つまらない?」
生きていればいいことはたくさんある、とはよく聞くけれど、死んだらつまらない、とは初めて聞いたかもしれない。
「つまらない? 死んでしまったら、つまらないとか、退屈だとか感じないじゃない」
「うん、まぁ、君自身はね」
「私自身?」
「そう。でも、周りはどうなの?」
「もしかして、周囲の人が悲しむよ、とか、そういうありふれた説得でもするの?」
「そんなつもりはないよ」
そんなつもりじゃないなら、どういうことなのかしら?
「つまらないよ。――オレが」
「……は?」
何を言っているのかさっぱりだった。どうして、この声の持ち主は私が死ぬとつまらないの? そもそも、私はこの人(?)とは、初めて知り合うというのに。
「私とあなたは、関係ないじゃない」
「うん、まぁ、君にとっては」
「え?」
「だって、君、オレの秘密を見ただろ?」
「秘密?」
秘密? 秘密って、何のこと? そう、内心で首を傾げていれば、突然、ひゅ、という鋭く風が奔る音が聞こえた。その数秒後にからん、と何かが落ちる音が響き渡る。振り返れば、瓦礫の中に埋もれていたパイプのようなものが、鋭利な刃物で切断されたかのように真っ二つに切られていた。もちろん私は何が起こったのかわからないから、何かが起こった結末を見つめているだけ。
あぁ――、そういえば。
「あなた、私を助けたでしょ?」
「え」
「カッターナイフ、切ったでしょ?」
「……」
なぜかそれっきり黙り込む、よくわからない闇の住人。でも、戸惑いの色がさらに濃くなった。
「何で、助けたの? 私は死にたかったのに!」
「……怒られるとは思ってなかった」
「怒るに決まっているでしょ!」
誰だってやりたいことの邪魔をされたら怒るでしょう。それと一緒よ。
「……、……」
声がなぜかまた戸惑っている。何で、そんなに戸惑う必要があるの? 私もまた何を言えばいいかわからずに、どこに声の主がいるのかわからない状況でただ突っ立っていた。変な沈黙が漂い、でも、不思議と息苦しさは感じられない不思議な心地良さがあった。
「ねぇ」
声が再び、私に声をかけてきた。
「怖くないの?」
「怖い?」
「そう。これ――……」
これ? さっきから遠回しに言い過ぎじゃない? 少しイラッとしたのを抑えていると、私の視界に映る風景に変化が起きた。
闇がうごめいている。
違う。
影だ。
月明かりで作られた影がゆらゆらと不自然に揺らめいている。ゆらゆらとまるで意志を持った生き物のように。つまり、声の持ち主は、このことを言っているのかもしれなかった。
でも、
「それが、何?」
私は今まさに死のうとしていたのに邪魔された苛立ちと、死ぬのだからどうなっても構わないという心境だった。だから、目の前で何が起きようとも、それこそ、このホテルの亡霊が現れようとも今さら動じやしない。――あ、そっか、この声の持ち主はもしかしたらホテルの亡霊か何かかもしれない。だから、影を操ったりできるのね。
「早く、成仏した方がいいわよ」
「待って、何の話!?」
「だって、あなた、このホテルの亡霊でしょう?」
「違うから!」
違うの?
「じゃあ、あなたはいったい、何だというの?」
「――本当に君は、怖がらないんだね」
「怖い? だから、何のことを言っているの?」
「……」
声はそれっきり黙ってしまった。
もういいわ。
私はとりあえず、さっさと死にたい。こんなことに構っている暇はないの。でも、死ぬ前に、亡霊と話をした体験はできて良かったかもしれない。だって、亡霊と話す機会なんて、そうはないでしょう?
私が闇に背を向けて、再び瓦礫を探し始めた時だった。
不意に背後から足音が聞こえた。じゃり、と埃やら塵を踏みしめる音に振り返り――目を見開いた。
そこには男の子がいた。ふんわりとしたクセッ毛が柔らかそうで、どこかだるそうな雰囲気を出している男の子。その整った顔立ちには、少し緊張の色が浮かんでいた。
いつから、そこにいたんだろう?
まぁ、亡霊だから、壁でもすり抜けてきたのかもしれない。
「死ぬのはやめて」
「何で?」
「だって、つまらないって言ったでしょ? オレが」
「だから、あなたには関係ないじゃない」
「関係あるよ。――オレのこの力を見て、怯えない人なんて初めて見た」
「力? 何のことを言っているの?」
男の子はじゃり、と再び歩き出す。気だるそうに、でも、しっかりと床を踏みしめていた。そうして私の前までやってきて、手を差し出す。
「初めまして、オレは夏目志成」
気だるそうな笑顔から一変、その男の子――志成はにっこりと人懐っこそうな笑みを浮かべた。その笑みを見たせいかわからない。私は死ぬことを一瞬忘れてしまい、気づけばその手を握ってしまっていた。その手は、とても温かかった。
「冬野、詩」
そして、そう自己紹介をしていた。
「よろしく、詩」
「……よろしく」
何をよろしくされるのかわからない。ただ、この時、本当に思ったことを口にしてしまっていた。
「あなた、本当に亡霊じゃないのね」
「亡霊じゃないよ!?」
志成は、そう叫んだ。
しばらくして、私たちは変な出会い方をしながらも、恋人になった。誰よりも強く、誰よりも愛しあっている――そんな誰もが羨むだろう恋人に。
――けれど。
* * *
「愛で、すべてどうにかなると思うな」
そう忠告したのは、『異能者』という敵だった。
私はその忠告に、怒りで頭が真っ赤になった。
違う。
私たちの愛は無敵だと。
誰よりも深い愛で繋がっているのだと。
そう反論して、罵倒してやりたいのに、それでも私は何も言えなかった。
だって、私たちは――……。