雪華の恋
母の膝でひとしきり泣いた。
こうして甘えるのはとても久しぶりだけど、母の記憶の中の私は、いつも泣き虫いおりちゃんだったようだ。そういえば、颯真と一緒のときはよく泣いたような気もする。母が一人で頑張って働き育ててくれていることを、子供ながらによく分かっていた私は、母の前では良い子でいるよう気を張っていたつもりだったのだが、全部お見通しだったのか。
「お母さん」
「なあに?」
「大好きな人を困らせたくないのに、色々な事を諦めるのが、辛いの」
「……辛いのなら諦めなきゃいいのよ」
「そうだね、そうできたらいいのにね」
再び母の膝に顔をうずめる。懐かしい香りと温かさ。
母だって諦めてきたことがたくさんあるのに、どうやったらその境地に辿り着けるのか。ただ側で生きてきただけの私に、母は遠かった。
疲れて再び瞼を閉じた母を置いて、私は要さんを探す。私だけでなく、彼もまた打ちのめされているはず。自分だけが辛いのではない、彼もまた姉の所在を知り、その消えかけている命を知ったのだ。私のことがなければ、懐かしい再会に今とは違った涙を流していたろうに。
ガラス張りのテラスのあるリビングに、二人はいた。
要さんはひどく思い詰めた表情をしている。近づくとその会話から、母の病状について聞いたようだ。
「伊織ちゃん、玲子は?」
「疲れさせてしまったようで、また休みました」
「そうか……最近は起きている時間が短くなったな」
潮田さんは要さんの向かいの席を譲るようにして、私を座らせた。
「少し、落ち着いて二人で話をした方がいい。お茶を入れるから」
潮田さんが席を外す。
要さんも私も、ひどい顔をしている。だけどもう取り乱すことはないだろうと、どちらからともなく静かに微笑む。
そうしてから要さんは話し出した。
「僕は、両親ともに距離を置いて育ったと、いつか言ったと思う。僕が物心つく前から、姉さんは祖母の離れで暮らしていて、祖母に会いに行けば必ず姉さんが遊んでくれた。当時は彼女が姉だとは知らなかったけれどね」
それは彼と母の物語だった。それは最初こそ二人だけの小さなものだった。けれど。
「父はずいぶん奔放な性格で、若い頃に手を出した使用人に姉さんを産ませた。ほんの遊び、と聞いている。だが姉さんを産んでその人はすぐに亡くなり、元々身寄りもない。本来ならそれなりの金を握らせて実家に戻らせ、適当なところで縁組をと……そう考えていたらしい。それがどんなに酷いことかは分かっている。だがそれが当時の本郷の考えだった。というのも、そのころには既に僕の母も婚約者として屋敷に出入りしていたらしい。当然、母もその顛末を知っていたんだ」
「……辛かったでしょうね、それでも拒めないなんて」
「ああ、だからとても冷え切った仲だと思われていた。子供もなかなか授からず、養子をもらう話すらあったそうだ。だが周囲の予想を裏切るように、待望の跡継ぎを産んだ母は、役目が終わったとばかりに本郷の家、父、そして僕から目を背けたのだと、祖母からは聞いている。元々同じ資産家の出だったから、本郷の資産の一部を任される形で好きにしていたようだ。実際に僕は幼い頃、母と顔を合わせた記憶があまりない」
母親という存在がいない家庭。私にとって母親が全てだっただけに、想像がつかない。要さんは寂しくはなかったのだろうか。
「両親が姉さんをどう思っていたのかは分からない。祖母が面倒を見ていたとはいえ、姉さんは寂しかったと思う」
「でも、要さんと一緒に遊んだって、覚えてました」
「ああ、そうだね。でもそれはほんの少しだよ。僕と姉さんは十三歳違いだ。僕が五歳の頃、高校を卒業した姉さんは家を出てしまった。戸籍上も養子に出され、僕はその消息も知らされなかった。とても姉さんの支えになれる力はなかったし、それがずっと悔しくてならなかった」
かなめちゃんが泣いていると言った母を思い出す。
母は要さんの孤独を感じ取り、弟として可愛がったのだろう。たとえ過ごした時間が短くとも、姉弟としての関係を築いていたのだ。
ならば、私にしてあげられる事をしよう、そう思った。母から断片的に聞いてきた、母の半生を要さんに伝えたい。それが姉に再会した弟にしてあげられる事。物言えぬ母の代わりに。
楽しかったこと、辛かったこと。母との幸せな時間は、私にとってもかけがえのないものだ。共に味わえる事のなかった彼に、話して聞かせた。頼りなげで、でも本当は誰よりも頑固でしっかり者な母を。いつでも惜しみなく私を愛してくれた母の事を。長く辛い時期もあったけれど今は幸せで、好きな人に見守られながらはにかむ母を。
「……姉さんは、本郷から解放されて幸せだったんだな」
要さんがテラスの外を見て視線を止める。
灰色に垂れる雲から、ゆっくりと白い雪が舞いはじめた。いつしか押し黙ったまま、二人並んで雪をながめる。寄り添うけれど肩を触れない距離。
ゆっくりと落ちる白い結晶が、ガラスに触れた一瞬だけ華を咲かせた。
十二月の雪は、積もることなく溶けて消える。目の前で咲いては消える儚い華が、まるで私たちの恋のようだと思った。
どちらからともなくそっと触れた指を絡め、握りしめる。
積もることのない愛にさよならを告げ、私たちの恋は終わった。
助手席に人を乗せることなく、走り去る車を見送る。次に会う時は、元上司とその部下。祖父が亡くなり、母が再婚した今となっては、親戚と名乗るのもはばかる程度の関係。縛るのはただこの身に流れる祖父の血の遺産。それを受け継ぐ私がそばにいては、本郷を継ぎ、たくさんの人たちのために働く彼のためにはならない。
「冷えるよ、もう家に入りなさい伊織ちゃん」
「もう少し、このままで」
潮田さんの声に振り向くことなく、私はただ舞い散る雪の中にいた。アスファルトに溶ける雪に混ざって、涙もいつか消えてなくなってしまえばいい。そうしたらいつか忘れられるかもしれないから。
「融けて無くなればいい……この想いごと、全部」
消えてなくなれ。
未だ燻る胸の熱をさらって、凍えて、忘れさせて。
年が明けて、新会社のためのセレモニーが大々的に行われてた。南陽興産からも重役だけでなく、関わりのあった営業第二課からも数人が出席した。私はもちろん居残り組で、新年早々仕事に追われている。新しい課長も順調に課になじみ、あっという間に世間は移ろい変わっていくのだ。
「お疲れ様、伊織ちゃん……誰かと待ち合わせ?」
「佐伯さん、もうセレモニーは終わったんですか? 私は紗香と待ち合わせです」
いつもより明るめのスーツに身を包んだ佐伯さんが社に戻ったところだった。私は友人の紗香と待ち合わせに向かうために、いつもとは逆方向に歩き始めたところだった。
「なんだ、デートかと思ったわよ。伊織ちゃんこの頃ちょっとこう……女らしくなったから彼氏でもできたかと思ってたんだけど?」
「そんな人いませんよ?」
「そう? 二課でも噂だったよ」
「ははは、人を暇つぶしにしてるんでしょう、まったく」
佐伯はそれでもその話題を引っ張ろうとしていたようだが、ちょうど良いタイミングで彼女の携帯が鳴り、そこで別れる。ここのところ今のような話題を出されることが多くなった。自分ではそう変化したつもりはないのだが、紗香が言うところの、失恋して女としての殻を一つ脱げた、らしい。
苦笑しながら入った店で、その紗香が手を振って待っていた。
「仕事、忙しそうだね」
「今月だけだよ、大丈夫」
食事を取りながら、仕事の愚痴や近況報告。彼女だけには、要さんとのことを正直に伝えてある。複雑な事情を話しても、驚きこそすれ、私の選択をただ頷いてくれた。彼を責めることも、私の悲しみを理解する言葉をかけるでもなく、ただ側にいて話を聞き、ありのままにそれを赦してくれる。それだけでどんなに救われたか分からない。
「それで総務の子に聞いたんだけど、伊織は知ってる? あんたの幼馴染の柴崎って人、早瀬商事から新会社に行ったらしいよ」
「颯真が?」
「聞いてないんだ。メールくらいはやり取りしてるんでしょう?」
颯真からは何度かメールが来たことがあった。気を使ってくれているのか、颯真の母の話題などとともに、困ったことがあれば相談にのると彼らしい口調で書いてあった。特別な関係にはなれなかったけれど、少しずつ元の幼馴染に戻れたらいいと、都合よく考えては言葉少なく返事を返すのみだった。
「その様子じゃ、大したやり取りじゃなさそうね」
「うん。要さんとおつき合いしている事は言ってあったけど、その後は何も知らせてない」
「まあ、言えないよね」
暗くなる雰囲気を払しょくするように、紗香はデザートに口をつける。今日は和食ダイニングだから、白玉ぜんざいと最初から決めてたらしく、満面の笑みだ。
「ところでお母さんの具合はどうなの、あんまり良くないって言ってたよね」
「……食事が取れなくなったから、ずいぶん弱ってる」
「そう……伊織、雪が溶けたら何になるか知ってる?」
「なに、突然。水でしょう」
「そこはほら、春とか言うでしょう普通! 私に言わせないでよ、そういう台詞は伊織の役目なのに」
「……紗香の期待は時々難しいよ」
相変わらずおおっぴろげに笑う紗香に、私もつられて笑う。
「お母さんと一緒に、春が迎えられるといいね」
「うん」
紗香なりの気遣いに胸が温かくなる。
だけどその一週間後、母は旅立っっていった。
葬儀はしんしんと降る雪の中で行われた。それまで病気を伏せていたので、母の古い友人たちは涙でその苦労を洗い流すかのごとく、惜しんでくれた。不義理を責めることなく見送ってくれた友人たちの中には、颯真の母もいてくれた。
少ない親族と友人に囲まれた簡素な葬儀はあっという間に終わり、肩を落とす潮田さん。覚悟していたとはいえ、これまで尽くしてきた相手を失う喪失感はどれほどのものかと、ただ彼のことが心配になる。これまで母にしてくれた事全てを返すことはできないが、自分に出来るかぎりの恩返しをしていくことを心に決める。
葬儀の片付けが済み潮田さんを休ませた頃、遺骨となった母の前に人影が残っていた。
「颯真、おばさんは?」
「先に帰らせた」
「そう……」
颯真が母に祈りをささげ、それから私に向き直る。
「本郷部長から、お前を助けてやってくれと頭を下げられたんだ」
「……要さんが?」
颯真は深いため息をついてから、続けた。
「俺はてっきり、部長とそのまま付き合ってるのかと思ってたんだ。だけどそれでも良いと思って本郷部長の元に移動を受け入れた。それなのに、いきなり部長から頭を下げられ、不甲斐ない自分を殴れって言われた」
「……なんで」
「俺も聞いた、なんで俺に殴られるような事になったんだって。それで、全部話してもらった」
「……そう、なんだ」
「んで、殴った」
正座する颯真の拳が、白くなるほど握りしめられている。優しい颯真は、きっとどちらの立場も理解して、そして苦しみながらそうしたのだろう。私は申し訳なくて、心配かけまいと笑って見せる。
「驚いたよね、まさか叔父と姪だなんて……でも大丈夫、もう忘れることにしたから」
「そんな風に笑うなよ」
「え?」
「強がんなよ、俺はこの件に関しては、お前の味方でいてやる事にしたから! それに、そんなにすぐに忘れられないなんて事は、分かってるつもりだからさ。弱音吐きたいときは、この颯真兄ちゃんが聞いてやる」
颯真があんまり胸をはって言うものだから、強がっているのはどっちなのかと、ついクスリと笑ってしまう。兄として徹してくれる颯真に、自然と笑い涙が一つこぼれた。
颯真が好きでいられたなら、どんなに良かったか。私が傷つけたのに、こうしてまた手を差し伸べてくれる颯真。
大切なものを二つも失ったけれど、まだ私の手には残されているものがいくつもあった。
それを抱きしめながら、私はいつか来る春を待つ。