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血の鎖

 黒い喪服に包まれた家人らしき人の流れに逆らうようにして、私と潮田さんが連れて来られたのは、年季の入った太い梁に支えられた、大きな座敷だった。

 一見して洋館のようにも見えたが、その奥に進むと古い日本家屋に繋がっていた。

 長い廊下を経て辿り着いた襖の前で、白柳家の弁護士が一声かけると、中から襖が開かれた。顔を上げれば、その広い座敷には同じく喪服姿の人々が、ずらりと並んで座している。中央には故人の祭壇。その前には年配の女性が凛と背筋を伸ばして、こちらを向いていた。


「どうぞ、お入りになって下さい」


 弁護士に続く形で畳に足を踏み入れ、祭壇前の女性に向かって座る。その斜め横には、背の高い男性が座ってこちらを凝視している。浮きかけた腰を、そっと落とすその様は、誤魔化しようのない動揺。

 会いたくなかった。この場で彼に会えずにいたらどんなに良かったか。

 必死に驚きを抑えているかのように見える要さん。きっと彼もまた、知らなかったのだ。ならば私もまた、口を閉ざすことを決めた。


「玲子さんのご息女の、長谷川伊織さんです。そちらは玲子さんの再婚相手の潮田さんをお連れしました」

「ご苦労様でした」


 弁護士の言葉に、女性が短く答える。きっと、この女性が資産家本郷克正の正妻であり、要さんのお母さん。とても細く、目元はきつく私を見つめている。髪は白いものなど微塵も見せず、きっちりと着物に合わせて結わえられている。亡くなった当主はまだ六十代。きっとこの人は、見たこともない祖母よりも若いのだろう。

 私を、私の母を憎く思ったかもしれない。だけど当主の妻として、醜い感情ひとつ現すことはなかった。


「私は本郷の妻です。あなたの祖父である克正が亡くなったことは聞きましたね、伊織さん」

「はい、先ほど弁護士の先生からお聞きしました」

「よろしい。あなたの母親である玲子さんは、白柳へ養子に出したとはいえ、克正が認知した子であることは変わりません。本日遺言書公開においても、その名が克正より同席を指定されています。本来ならばあなたではなく、玲子さんが来るべきですが出来ないのならば仕方ありません。代行してください」

「……はい、分かりました」


 それ以上は用がないとでも言いたげに、女性は目線を反らした。お手伝いさんのような方に促され、私たちは並ぶ人々の末席へと移動し、息をひそめる。あきらかに場違いな雰囲気の中、ただひたすらに感じる視線を追えば、そこには要さんの苦しそうな瞳。

 本郷克正が要さんと母の父ならば、二人は姉弟。ならば私は……叔父と姪。

 だけど心がその言葉を拒絶する。

 要さんを見ていられなくて視線を落としても、どんなに絶望しても、心が要さんにすがりつこうともがいているかのようだった。


「大丈夫かい、伊織ちゃん」


 震える私に、そっと手を添えてくれた潮田さん。そんな私たちを置き去りに、広間では先ほどの女性が本郷家の弁護士を紹介している。そしてそばに控えていた要さんへ視線を送る。


「皆さんに紹介します。克正の息子の本郷要です。今後、克正の事業一切はこの要が引き受けることになりますので、ご承知の程を」


 要さんが少し前に出て、皆に頭を下げる。その顔には既に曇りはなく、ただ当主としてあるべく毅然としたものに見えた。遠く、手の届かない存在。血という鎖でつながれたからこそ、遠くなる要さん。

 要さんは弁護士から遺言書を受け取り、それを読み上げる。

 何もかも私にはどうでも良いことだった。全ての言葉は私の前を通っていくだけで、ただ時間だけが過ぎていった。潮田さんも人のものに執着するような人ではない。長い長い話し合いの後に、二人揃って財産の放棄を約束して、解放された。





 白柳の弁護士とともに車を待つ間、私は潮田さんに尋ねられた。


「もしかして、あの要さんという方……伊織ちゃんの」

「……潮田さん、私……」


 潮田さんには要さんの事は何度か話していた。私の話を聞けない母の代わりを買って出るかのように、初めての男性とのお付き合いを応援してくれていた。だからこそ、潮田さんには何をどう告げていいのか分からなかった。未だ自分ですら混乱しているのに。

 ようやく車が来たことを告げられて向かい、乗り込もうとしたところで私は呼び止められた。


「伊織!」


 息を切らした要さんだった。


「要さん……」

「待ってくれ、伊織」


 要さんは私の肩を掴むと、先に乗り込んでいた潮田さんに言った。


「僕は、南陽興産で彼女の上司をしていた藤堂です。少しだけ彼女と話す時間をいただけませんか」

「……やはり君が、要さんだね。いいでしょう、私はかまわないから行っておいで伊織ちゃん」


 潮田さんの同意に、弁護士もまた頷く。それを見て要さんが私の手を引いて、お屋敷のエントランスを抜け、小さな応接室へと入った。


「信じられないんだ、伊織。僕たちが……叔父と姪だなんて」


 要さんは苦悶しながら、腕を柱を打ち付ける。


「伊織、君だってそうだろう? 僕は、今でもこうしていると君を……」

「……私も、です。だって、こんなこと突然言われても、はいそうですかって、諦めれるわけない。でも、本当に要さんとお母さんが姉弟なら、私たちは誰にも認められない関係」

「伊織」


 痛いほど抱きしめられた。

 今までは高鳴るだけだった胸に、軋むような痛みを感じる。母と祖父、そして祖母の血が、禁忌に悲鳴を上げているようだ。

 それでもこの腕を離したくない、そう思う私は既に狂っているのかもしれない。恋に狂い、このまま時が止まってしまえとさえ思った。


「伊織、僕は確かめたい」

「……え?」

「頼む、君のお母さんに会わせてくれないか。本当に姉さんなら、必ず会えば分かる」


 驚いて見上げる要さんの表情に、その決意を悟る。万に一つの可能性をかけるか、それとも別れかを。しかし会うだけで解決するのだろうか。母はもう曖昧な記憶に支配されているのに。


「前に言ったと思う、君は僕の初恋の人に似てるって」

「……まさか」

「そう。それは憧れに近かったけれど、幼い僕を慈しんでくれたのは彼女だけだった。だから彼女を見間違えるはずはない」


 要さんに押し切られる形で、私はその申し出を受ける。だってこのままでいたら、いつかお互い止められなくなる。私も、要さんも、互いを求める想いが強すぎて、諦める理由がなければすぐにでも、道を踏み外してしまいそうな衝動にかられていた。私はきっと、要さんに何もかも捨ててついて来いと言われれば、その通りにしていただろう。

 でも要さんにそんな事はさせられない。相反する心を理性で踏みとどまらせるのが、精いっぱいだった。



 翌日、アパートに迎えに来たのは要さん自身だった。

 彼の車で母の家に向かう。


「お母さんの容態は?」

「今朝の電話では大丈夫そうでした」

「そう、良かった」


 それだけで会話は消える。何か言えば、一気に崩れてしまう気がした。私の想いも、これまでの大切な時間も、そして……。それは要さんとて同じだったのかもしれない。もうすぐ母の住む家に着く手前で、車が停止した。


「伊織、聞いて欲しい。今を逃せば、一生口にすることが出来なくなるかもしれないから」

「要さん」


 頷く私に、要さんはシートベルトを外して身を寄せる。


「伊織、愛している。この気持ちがたとえ赦させなくとも、今もこれまでも心から君を欲していた。それだけは信じてくれ」


 要さんの声が、瞳が、不安で揺れていた。


「信じてる。私も要さんが好きです。そばにいたい」


 ただ一度だけ、でもしっかりと触れる口づけ。

 確かめるように触れた唇は、すぐに去っていった。そして互いの体温を振り切るようにして、要さんは車を出した。



「いらっしゃい、二人とも」


 変わらない穏やかな笑顔で迎えてくれた潮田さんに、要さんは深々と頭を下げる。二人揃って緊張しきっていたのだろう。


「どうか、そんなに改まらないで下さい、要さん。あなたは玲子にとっても、伊織ちゃんにとっても大切な人だから」

「潮田さん、お母さんは今?」

「ああ、ついさっき起きたところだよ。調子も良いようだから大丈夫。話せると思う」


 暖かい室内で規則正しく響く電子音に、要さんの顔が強ばる。要さんのお父さん──私の祖父にあたるのか──が倒れた時に告げた後、母の様子も心配してくれた要さんに、状態は告げてはあった。だが、聞くのと見るのとでは違うものだ。身内なら尚更。


 ベッドの上で、ゆったりと背もたれに身を任せた母が見えた。私を見つけて、母が綻ぶように微笑んだ。


「いおりちゃん」


 手招きをされて側に行けば、袖を引っ張られ耳打ちされる。チラチラと要さんを気にしている姿は、時おり訪れる幼い気分のときの母だった。


「あの人が、いおりちゃんの好きなひと?」

「……そう、お母さん、要さんだよ」

「かなめ、ちゃん?」


 母が彼の方を見る。少しだけ首を傾げ、でも何かを思い出しているのか、彼から目が離せないといった様子だ。

 要さんはといえば、ゆっくり母に近づく。


「……姉さん」


 ホロリと要さんから落ちた言葉が、母の心に弾けて融けた。


「かなめちゃん、かなめちゃんね。大きくなったのねぇ。寂しくなくなった?」

「……姉さん、こそ」

「まあ、泣き虫なところは変わらないのね」


 ニコニコと微笑む母とは反対に、長く大きな掌を顔に当て、肩を震わせる要さん。声も出さずに、男の人が泣く姿を私は初めて見た。指の間からは、雫が伝う。

 それだけで、答えは出たことを知る。

 要さんは母と、確かに幼き頃を共に過ごしたのだ、姉と弟として。


 私には、どうしようもない過去が、二人の未来をさらってゆく。


「あらまあ、いおりちゃんまで。いい子ね、泣かないの」

「…………っ、おかあさん、おかあさんっ」


 細くてもう高く上がらないその腕に、私は声を上げながら泣きつく。昔からしてくれたように、声をあげて泣く私の頭を、母が撫でてくれる。

 どうしてなの。

 運命というものがあるのなら、なぜ私たちを選んだのだろうか。歪む視界のむこうで、要さんが潮田さんに付き添われ、部屋を出ていく。


「かなめちゃんはね、とっても小さくて、可愛いかったのよ。いつもさみしいって泣いて……いおりちゃん、仲良くしてあげてね」


 母の現実は過去も現在も、全てが混在している。私の涙を拭きながら、母が歌うのは子守唄。

 今日だけは、再び母の膝で泣く子供でいさせて。いつか彼への愛を笑って振り返れるよう、泣いて、泣いて。

 今だけはこの温かい膝で、眠りたかった。



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