本当の名前
※最後の部分を修正しました。関係を分かりやすく追記。
藤堂課長が営業二課を集め、いつも通りのミーティング形式で話を始めた。既に噂を耳にしているのだろう、側に黙って立っている専務を気にしながらも、誰もが真剣な面持ちで課長の言葉を待つ。
「皆にまず、大事な報告がある。どうやらどこからか話が漏れたようだが、前々から業務提携の──」
課長の話は、佐伯が持ってきた噂そのままだった。課長は新会社へ出向という形を取って、新規事業を一から率いることになる。だが話はそこで終わらなかった。ゆくゆくは南陽興産ではなく、その新会社の役員に就任する予定だというのだ。つまりは、この営業二課からいなくなるだけでなく、南陽興産から去るということ。
あまりの突然の話に驚くのは、もちろん私だけではない。ざわつきを収めるよう話を継いだのは、それまで一言も喋らずにいた専務だった。
「藤堂課長が出向するまではまだ少し先になるが、こうして皆に告げたのには理由がある。藤堂君は本日より業務上の藤堂という名を改め、本来の『本郷要』として業務を続けてもらうことになった。色々と煩わしい面もあるかとは思うが、これは社の決定ということなので、皆よろしく頼む」
課長が再び前に出て、皆に頭を下げた。
「藤堂改め本郷要だ。よろしく頼む。こちらが本名になる、皆には突然驚かせることになって、本当にすまない。移動になるのは十二月からだが、新事業の準備も兼ねて周知のため、改めることになった」
皆がヒソヒソと交わす疑問は、やはりその名。
「課長、お聞きしてもよろしいですか?」
「どうぞ、佐伯くん」
「新会社へ大口融資を決めたと噂の本郷氏と、関係が?」
さすが佐伯だと関心しながら皆、課長の言葉を待つ。
「本郷克正は、僕の父だ」
一気にざわつく二課。では休暇中に倒れて入院したというのが、その本郷氏ということになる。まだ一人前にもならない私にですら、その重大性は理解できる。もし彼が父の跡を継ぐ立場ならば、公に本郷の名を名乗らない訳にはいかないだろう。
佐伯に続くように質問し始める社員に、状況を鑑みたのだろう専務がその場を強引に終了させ、皆を通常業務へと追い立てる。私もまた、呆然としつつも佐伯に引っ張られるようにして席に戻るしかなかった。
その日は長期休暇明けである。通常よりも忙しく、課長の事ばかりを考えている暇がないのが救いだった。ほんの少し考えてしまっただけで、不安と寂しさが心を占めてしまうから。それは他の社員も少なからず同じだったのかもしれない。珍しく佐伯が書類の作成にミスをして、それにかかりきりだった。その間に私は資料集めに向かおうと二課のフロアを出たところで、課長に声をかけられた。
「長谷川君、ちょっと来て」
「……はい」
短く告げて前を行く課長。その後をファイルを抱えて付いて行くと、資料室手前の会議室に入る課長。続けて入ると、課長に抱きしめられた。
「課長……」
「伊織、連絡できなくてすまない。こんな形で君に伝えたくはなかったんだ」
課長の事情を責める気はなかった。だからそっと首を振って身体を離す。彼もここが社内だという事は重々承知している。私を素直に放して向き合う。
「……お父様の、容体は?」
「長くはないだろう。偏屈の医者嫌いがたたって、もう手の施しようがないらしい。だが名前を明かして新規事業を引き受ける気になったのはそのせいじゃない、伊織、君のためだ」
「……要さん、それはどういう……?」
「今まで父に反発するように生きてきた。だが本当に自分の生きたいようにしたいのなら、それでは駄目だとよく分かった。僕は君の側にいるために、誰にも何も言わせないだけのものを得る。だから、少しの間だけ待っていてくれないか、伊織。詳しい経緯は必ず説明する。今までのように頻繁にはできないけれど、時間も作る。連絡もする。だから頼むこれまで通り僕の側にいてくれ」
要さんの瞳はまっすぐ私を見つめ、真剣そのものだった。
だから、私の返事は決まっている。
「はい、要さんを信じてます」
「ありがとう、伊織」
私たちは身を寄せ合うようにして、一瞬の抱擁を味わった。
社内、得意先に本郷課長の名が周知されるのは、本郷と結びついていたせいかとても早かった。それに伴って彼の仕事も多忙を極め、早々に課長代理がその責務を引き継ぐことになった。とはいえ課長の気配りは未だ健在らしく、姿は見えないものの部下の仕事の動向には目を光らせているようだ。ふいに戻ってきてはトラブルの処理をこなしてゆく課長の姿を見かけるものの、私には声をかけるタイミングすら見当たらなかった。
季節は夏を過ぎ、秋が深まっていた。営業第二課に課長の姿がなくとも、それが不自然に感じられなくなるのは寂しいものだ。だが、体調を心配するくらい多忙にもかかわらず、電話やメール、たまに食事まで時間を取ってくれる彼のためにも、私は私で頑張らねばならないと自らを叱咤する日々を送った。
気づけば明日にはカレンダーは最後のページになり、惜しまれつつも正式に課長は二課を去る日を迎えた。
「私なんかより、花束が似合う伊織ちゃんから渡してもらおうと思ったのに」
「佐伯さんが持った方が華やかでいいですよ。それに、長年課長の下にいたんですもの。お別れは寂しいですよね」
二課の有志で用意した花束を渡す役目をした彼女は、らしくなく感極まっていた様子だった。それは課の皆も同じ気持ちらしく、私はといえば、寂しいと部下に思われる彼を誇らしく思う。
「形は出向だけど、もう戻って来ないのが分かってるからね。ちょっと……いえかなり残念よね」
「……はい」
帰り支度をして社屋を出ると、暗くなった街にイルミネーションが灯っていた。吐く息は白く、コートの襟元を寄せる手があっという間に冷たくなる。いつでも雪が降ってくるのではいかというくらい、寒い日が続いている。そのせいかついつい急ぎ足で駅に向かう道すがら、鞄の中で携帯が震えているのに気づいた。
取り出してみれば、要さんからのメールが一件。
『父が亡くなったと連絡が入った。ごめん、しばらく連絡がしにくくなると思う。 要より』
携帯を開いたまま、しばらく立ち尽くす。
何て返事をしたらいいのだろうか。本当は誰よりそばにいて支えてあげたいのに、今はそれすらも出来ないなんて。
頬にかかった冷たい滴に空を見上げると、ほんの僅かに白く舞う花。
要さんの悲しみが、降ってきたのかと思った。
資産家の本郷氏が亡くなったという知らせは、すぐにニュースとなり、そして一瞬で流れ去っていく。メールをもらって一週間。告別式を終えた要さんが、あっという間に出社してきたらしいと社内では噂になった。仕事への責任感がそうさせていると私は思っていたが、一部の彼を知らない人は色々とゴシップのように囃し立てる者もいた。
そろそろ初七日も終わるので落ち着けるだろうと、わざわざメールをくれた要さんに、私はただご苦労様くらいしか返す言葉がなく、自己嫌悪に陥る。
「伊織ちゃん、電話よ」
「あ、はい」
仕事中にもかかわらず呆けていた。慌てて電話を取ると、聞こえてきたのは聞きなれた人物の声だった。
『伊織ちゃん、仕事中にすまないね私だよ、潮田だ』
「……潮田さん? どうしたんですか、お母さんになにか?」
『ああ、いや玲子は大丈夫。驚かせてすまないね、実は君に頼るしかなくて。実は、玲子の実家から連絡があったんだ……ええと白……』
「白柳ですか?」
『そう、その白柳さんという家の弁護士さんからね。伊織ちゃんはそちらの家の事を知っているかい?』
「いえ、名前くらいしか。お母さんは何も言わないし、何か複雑な事情がある家庭だったみたいで、連絡をよこすことなんて今までなかったはずですが、何と言ってきてるんですか?」
『うん、誰か不幸があったようでね。今でも玲子は親族として名前が残っているので、遺産放棄の確認が欲しいと言うんだよ。玲子はこんな状態だからと伝えたら、じゃあ君に頼みたいって』
「私が?」
『ああ、詳しくは直接話すから来てほしいって。どうする?』
突然の事に驚いたが、母も動ける状態ではない。絶縁状態とはいえ、母の親族なのであれば無視することはできない。潮田さんが付き添うと言ってくれたことも後押しとなり、白柳の家を訪れる事を了承したのだった。
それから直ぐの休日に、迎えはやって来た。
黒塗りのハイヤーから降り立った初老の男性は、白柳家の弁護士と名乗った。そして私と潮田さんを車に乗せ、自らは助手席へ収まる。
「玲子さんはお一人で?」
「いえ、いつもお世話になっている看護師さんにお願いしてあります」
「そうですか。伊織さんは、お母様からご生家のことはお聞きになっておりますか?」
「いえ全く。今はもうわざわざ母の心を乱したくないので、聞いてもいません」
表情はうかがえないが、老人は深く頷いた。
車はどうやら都内に向かっているようだ。行き先については母の実家とだけ聞いている。
「では、目的地に着くまでにはまだ時間がありますので、簡単ではありますがご説明しておきましょう」
のんびりとした口調から語られる話は、母の生い立ちから。言葉の端々を繋ぎ合わせ子供心に感じていた、母の生い立ち。幸せな幼少期ではなかったのだろうと想像はしていたが、ここまでだとは思わなかった。
「玲子さんは、資産家のご子息であった旦那様が、住み込みで働く使用人の娘に産ませた子供だったそうです。あなたの祖母は当時十六才、祖父にあたる子息はまだ二十一才。若気の至りとしても、とても誉められた行為ではありません」
それから母を産んだ祖母はすぐに亡くなったらしい。母を育てたのは祖父の母、弁護士の言うところの大奥様。祖父は元々決められていた婚約者とその後結婚し、娘である母のことは、正妻が男の子を産んだ後にようやく、我が子として認知したのだと言う。
沸き上がる憤りに、私の握りしめた手が震える。それは潮田さんもまた同じだったのだろう、私の手を大きく暖かい手で包んでくれた。
「……もちろん当時は、玲子さんが誰の子かなんて、周りは皆が知ってました。だからこそ、外に出されることなく育てられはしましたが、それが良かったのか悪かったのか……しかし玲子さんが十八才になり学校を卒業し、自立を望むようになりました。そこで、彼女の父親から頼まれた我が家の主が、玲子さんの後見人となることになったのです」
「……? どういう事ですか?」
車が、ちょうど大きな門をくぐる時だった。お屋敷と称するに相応しい門構え、そして厳重な扉とそこに立つ警備員。それを気にしながら、弁護士の老人を促す。
「伊織さんが玲子さんの実家と認識している白柳家の養子となったのは、彼女が十八の時。彼女が生を受けた時に授かった本当の名は、本郷玲子です」
本郷──。
その名に、一気に私の思考が濁る。
車がホテルを思わせるような玄関の前に停まり、言葉を失う私を否が応でも現実へ引き戻す。
運転手が車を降りてドアを開き、老人が告げる。
「ここは本郷家の本邸。亡くなられたのはあなたの御祖父、本郷克正氏です」
その名が私を打ちのめす。
要さんと、母が……同じ父親の子供?
今にも雪を運んできそうな灰色の空が、私の血と、心を、冷たく染めていくような気がした。凍える私は、しばらくそこから一歩も動くことは出来なかった。