寄り添う心と縮まらない距離
夏期休暇三日目の早朝。迎えに来てくれた車の助手席に乗り込んだ。課長と二人での日帰り旅行というだけで、私の緊張は既にピークを達していた。ガチガチに固まって座る私を見ては、くすくすと笑う彼。
「その様子じゃ、さてはろくに寝てないだろう?」
「そ、そんな事ないです」
なぜ分かるのだろう。ハンドルを握る課長から、軽快に流れる景色へと視線を移す。運転は嫌いじゃないと言った課長から今日の旅行を切り出されたときは、嬉しくて飛び上がりそうだった。それからどこに行こうかと楽しそうに話す彼は、会社で見る冷静沈着な上司とは少し違っていて、とても人懐こい笑顔を見せてくれた。今もそうだ。私といる時にはよく笑う、そんな彼がとても好き。
高速をしばらく走り、何度目かの休憩の後に目的地に到着した。そこは高原の観光地で、彼の案内でハイキングコースや牧場などに訪れる予定だ。普段の洗練された彼からは想像つかない場所。だがここを提案したのは課長の方だった。都会ならいつでも行けるから、私の体験したことが無いような場所を、わざわざ選んでくれたのだ。そんな気遣いが嬉しくて、ついついはしゃいでしまっていた。
「気に入ってくれた?」
「もちろんです、私こういうの初めてで嬉しかったです」
広い緑の丘陵地に、白や黄色の小花が咲く。日差しは暑いが風は冷えていて心地良い。そんな景色を前に、子供のようにソフトクリームをほおばっていた。もちろん課長はコーヒーで、いつも通り。
「昔ね、一度だけ来たことがあったんだ」
「……それは」
デートでしょうかとは聞けない。だけどそんな私の考えなんてお見通しだったようで、微笑みながら課長は家族とだよ、と教えてくれた。
「そういえば、要さんのご家族のお話って聞いたことないです」
「そうだったか……聞きたい?」
「……いえ、そんな事は」
質問で返され、口ごもる。自分の人に言いにくい家庭環境を考えると、いつも人にも踏み込むことをためらってしまう。そんな癖を自覚している。それにもしかしたらまだおつき合いの時間も浅いのに聞くべきじゃないとか思われてたらどうしよう、とか。
「知りたいって言って欲しいんだけど、な?」
「え?」
「ははは、伊織、今のすごい顔」
彼の笑い顔に、ホッとする。
「父親とは疎遠。というか僕が反抗してるんだけどね。母は、あまり僕に関心はないかな……不足はないけれどそれだけ。冷めた家庭だったかもしれないね。だからかな、伊織が話すお母さんの話はとてもあったかい」
「そうだったんですか……」
「ただ……一人だけ僕に優しくしてくれる人がいてね。その人が僕の初恋だったかなぁ。もちろん五歳で砕け散ったけど」
笑いながら話す彼の口から出た、初恋という言葉にドキッとしてしまう。
「だから柴崎君のことはあまり強く言えないかもね。君とその人、雰囲気が似てるかもしれない。男ってけっこう女々しい生き物だからね」
「私と?」
「ああ、もちろん昔のことだから、今の君への気持ちとは全く違うよ? 憧れと愛は違う」
突然の甘い台詞に、私はソフトクリームを落としそうになる。恐らく、傍目にも私は真っ赤だろう。
「先日、所用で社に来た柴崎くんにも、ちゃんと僕から伝えたから、君を大切にすると。だから伊織は安心してそばに居て欲しい」
「か、要さん……」
「返事は?」
「……はい、傍にいたいです」
高原の日差しが翳る。真っ赤に染まった額に触れた唇熱いのは、彼もまた同じ思いであることの、証に感じられたのだった。
美しい景色と美味しい料理を堪能し、私たちは帰路につく。
緊張した朝が嘘のように、彼のそばにいることが自然に受け入れられ、とても不思議だった。だからだろうか、快適な車内でつい、うとうとしてしまっていた。
気持ち良い揺れが停止した拍子に目を開けると、どこかの駐車場の景色が見えた。
「目が覚めた?」
「ごめんなさい、私つい寝てたみたい」
「寝不足だったもんな」
笑う彼に、気を悪くしてはいないようです安心する。だがパーキングというより、どこかの地下駐車場のように見えるここはどこだろう。
「あんまり気持ち良さそうに寝てるから、起こすのが忍びなくてね。ここは距離的にも近かった、僕のマンションだよ。伊織のアパートは車を側に停められないからね」
「え、あ、じゃあ起きなかったらここで待つつもりだったの?」
「……いいや、抱えて運ぼうかと」
「抱えてって……無理、無理だよ。私重いもん!」
お姫様のように抱えられる自分を想像して、大慌てで両手をぶんぶん振って見せると、課長には声をあげて笑われた。しかしすぐに彼が真顔になって、ドキリとする。
「……なんてね。伊織をどうしたら引き留められるか、そんなことばかり考えてた……呆れる?」
そんなことない、そう言いたかったのに言葉に詰まり、精一杯頭を横に振って否定する。
呼吸が止まるんじゃないかと思うくらいドギマギして、緊張から震える。でも、とても素直に嬉しいと思えた。
運転席を降りて要さんが開けてくれた助手席を降り、差し出された手を繋ぐ。
要さんの暮らす部屋は、生活感に乏しかった。
統一された家具はベーシックな色合いで、モデルルームのよう。リビングから繋がるキッチンは、本人の言っていた通り、あまり使われた形跡がない。反対に、リビングの片隅にあるスペースには、ビジネス書と新聞、それからいくつかの雑誌が無造作に積まれている。
「散らかってて悪いね」
コーヒーくらいなら淹れれるんだよと、おどけながら用意してくれたそれを受け取ると、彼は置きっぱなしだった本を持って隣の書斎へ。開かれたそこには、壁一面の本棚。机の上が見えて、私は思わず笑ってしまう。
「社の課長のデスクと全く同じ配置です」
「え? ああ、癖で」
配属されて真っ先に教わった事が、課長のデスクの配置だったのを思い出す。課長は書類だろうがペン一つだろうが、必ず決めた場所に戻す。人にはそんな風に強制しないので、最初はそんな几帳面な部分があるなんて思わなかったと、先輩の佐伯が言う。課長の懐の深さは、そういう元になる部分がしっかりしてるから、些細な事では揺るがないのかもしれない。そんな風にも、呟いていた。
「伊織、頼むからここで課長は止めてくれないかな。これでも一応、必死なんだって言ったよね」
「……ええと」
要さんは後ろ手に書斎の扉を閉め、私を引き寄せて壁との間に囲い混む。視線を上げると吐息のかかる位置に、彼の顔。どこかで見たような構図だななんて思った頃には、唇がふさがれていた。
何度こうして重ねても、沸き上がるのは羞恥とそれをはるかに上回る喜び。
離れても距離はそのまま。見つめられ、そしてどちらからともなく抱き締め合う。すり寄せた頬からは、彼の鼓動。私と同じくらい早いその音に、愛しさが込み上げる。
だからなのか、もう怖くなかった。
要さんの背に手を回してしがみついて、今度は自分から唇を寄せ合わせた。
だけどその時、リビングの棚に置かれた彼の携帯が鳴る。呼び出し音とバイブが同時に、私たちを熱から呼び戻す。だけど要さんは私を離そうとしなかった。
「……要さん、電話」
「放っておく」
再びきつく抱き締められるが、電話は一向に鳴り止まない。一度切れても、すぐにかけ直されているようだった。
「要さん」
「…………しょうがないな。まってて伊織」
ひどく渋々といった様子だったが、ようやく電話に出る気になったようだ。
「もしもし……ああ、そうだが」
私はといえば、ここでふと我に返る。なんて大胆な行動に出たのだろう。そして恐らく電話がなければそのまま……。
熱くなる頬を手で煽り、わたわたしていると。要さんの声が低くなったのに気づく。
「本当なのか、それはいつ? ああ……今すぐは無理だ、明日向かうから」
何かあったのだろうか。悪いとは思ったけれど、つい聞き耳を立ててしまっている。電話を切った要さんと目が合う。
「……どうか、したんですか?」
「いや……」
彼にしては歯切れの悪い様子に、何かあったのだと悟る。
「あったんですね?」
「……ああ、心配かけてすまない。ただ、父が倒れて入院したと知らせが」
「要さんのお父さんが? 大変、すぐに病院へ」
「大丈夫、明日向かうから」
「だめです!」
「……伊織?」
「駄目ですよ、すぐに行かなきゃ。行って下さい要さん」
渋る要さんに、私なら気にしないと告げる。このままずっと二人でいたい。でも、そんなのはいつでも出来ることだから。
「要さん、私のお母さんは今、病気なんです。事故の後遺症で、もう長くはありません。でも生きているからこそ出来る事があるんです、だから要さんも行ってあげなきゃ駄目です」
「伊織」
彼が考え込んだのは少しの間だった。決意したように頷く。
「まったく、君には敵わないよ。行こう、家まではちゃんと送り届けさせてくれ」
「……はい」
少しだけ残念に思うけれど、彼に言ったことは本心だ。たとえ確執があろうとも、彼には後悔してほしくない。
さほど時間もかからずにアパートまで着くと、要さんは別れ際に私の手を取る。
「次は、君のお母さんを必ずお見舞いに行かせてもらうからね」
「要さん……はい、ありがとうございます。あの、お父様のご容態が良くなることを祈ってます」
「ありがとう、約束だよ」
私は走り去る車を見守る。今日は心だけでも、確かに寄り添う事ができた一日だった。きっと残りの休暇は彼と会うことは出来ないだろう。身内が入院する大変さは身に染みている。
さて、紗香には何て報告しようか。きっと色々と言われることだろうと、彼女の反応を考えてクスリと笑う。大丈夫、心が共にありさえすれば、この縮まらない距離もいつかは……きっと。
夏期休暇を終えて一週間ぶりの第二課は、どこか浮き足立っているように感じられた。どうしたのだろうと思いつつ、自分の机で仕事はじめの準備をしていると、既に出社していた佐伯が私を手招きしていた。
「伊織ちゃん、大変なことになったの」
「……大変?」
佐伯に引っ張られ、屈んだところで囁かれた。
「藤堂課長が出向になるらしいの。伊織ちゃん、何か聞いてる?」
「出向……? 本当ですか佐伯さん、どこに? なぜ?」
「……噂なんだけどね、早瀬商事と提携して新規事業の立ち上げがあるの知ってるよね。あれに資産家の本郷が出資して、新会社を作ることに急遽決まったの……どうやらそこに行くんじゃないかって」
呆然として、言葉がただ目の前を流れていく。
近づいたと思ったら、距離は広まるばかり。まってと叫びたいのに、それすら出来ないなんて。
「……大丈夫、伊織ちゃん?」
だから課内では、皆がそわそわしていたのかと悟る。営業二課は藤堂課長の元に、とても良い環境で業績もまずまずだったはず。動揺しないわけがない。もちろん私も、いきなり突き放されたような心細さに襲われる。
だがそこで、ざわついていた空気が、急にピタリと止まる。
原因は噂の主、藤堂課長がフロアに姿を現したからだった。課長はいつもと変わりなく、落ち着いた様子で自分のデスクの側へ。だがいつもと違うのは、そこに付き添う者がいることだ。入社式で一度だけ会ったその人は、わが社の取締役安岡専務だ。
それだけで、佐伯の告げた事が現実なのだと言っているようなものだ。
そしてシンとした空気の中、課長が告げた。