表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

母の愛

 私たちの恋は、ゆっくりゆっくり、でも確実に育まれていった。

 会社では普通の上司と部下。しかしそれ以上に意識して距離を取るよう心がけた。私は課長の足を引っ張りたくないし、何より早く仕事を覚えて彼に認められたかった。そして彼の側で助けになれるよう、一人前になりたかった。

 彼もまた、二人の関係はまだ焦ることはないと言ってくれ、たまに会うデートの時でさえ仕事の質問にも答えてくれた。ただし苦笑いつきではあったけれど。

 そうこうしているうちに、やがて夏が来て、夏期休暇を目前にした終業後。紗香との約束に向かう。全ての課が同じ休みではないため、紗香とはかなりズレた休暇となったせいで、遊びに行くことも出来ず、最後の日くらいは一緒に夕食を食べることになったのだ。


 会社の近くのレストランで、待ち合わせ。一足先に終わった私は、席について彼女を待つ。最初の食事はファーストフードだったが、何度かお給料をもらえた後は、それがファミレスになり、居酒屋になってみたり、そして今日は奮発してパスタの美味しいと噂のレストラン。ずいぶん進化したものだ。

 そんなことを考えながら、くすりと窓の外を眺めると、紗香を見つけた。


「待った?」

「ううん、思ったより早かったね」


 手早く注文を終えた紗香に、矢継ぎ早に質問責めにされた。課長とのこと、そして颯真のことも。

 お付き合いを始めた時、彼女にだけは課長とのことを話していた。まだこうして共に過ごした時間こそ少ないけれど、紗香とはずっと友人でいたいと思っている。だから、それ以外の選択はなかった。


「幼馴染みには、ちゃんと言えたの? この前、見かけたんだよねその柴崎さん」

「……うん、たまに来ることもあるみたい。用があるのは営業二課じゃないけど……一応、伝えたよ。好きな人ができてその人とお付き合いすることになったから、これからはその人に相談にのってもらうって」

「……反応は?」

「良かったなって」


 注文したワインを傾けながら、紗香はスッキリしない顔をしていた。話題を変えようと思ったのだが、紗香には勝てそうになかった。


「紗香は実家に帰るんだよね、夏休み」

「伊織は旅行だっけ?」


 にんまりと返され、白旗を上げる。


「旅行っていっても、日帰りだよ」

「充分じゃない。今までなかなか会えなかったんでしょう。それに、全然違った環境で会うと、大胆になるかも」

「っ、紗香!」


 真っ赤になって黙らせるが、出来上がりつつある紗香はお構い無しだ。彼女の言いたいことは分かってる。初めてお互いの気持ちを伝えあったあの晩、重ねた唇。それからも何度か繰り返してきた。だけどそこから一歩も進めないのは、私のせいだから。


「まあ、焦る必要はないけれど。相手が相手だからね」

「分かってる」

「でもまさか、伊織が我が南陽興産七不思議の一つを攻略してくれようとはねぇ、いまだに信じられないよ」


 紗香がおどけた風に笑う。


「七不思議だなんて、小学生みたい」

「しょうがないじゃん、物流の年期の入ったオジサマ達にかかったら、モテる藤堂課長がいつまでも独身なのも、会長のカツラ外しも、第三倉庫のうめき声も、みんなまとめて酒の肴なんだから」

「……ははは」


 みんなの憧れだけど、気安くは踏み込めない。確かにそんな雰囲気はあるかもしれない。だけどいくらなんでも七不思議はないだろう。本人は知っているのだろうか。でもきっと彼のことだから、知っていても困った顔をして、仕方ないなぁ、なんて言うのだろう。そんな姿を想像し、思わず笑ってしまう。


 だが実際のところ、要さんは三十二歳。私とはちょうど十歳違い。結婚して子供がいたっておかしくはない歳だ。たぷん、女性とのお付き合いだって慣れているに違いない。

 私はというと、まだ恐怖の方が勝る。誰よりも要さんが好き。その気持ちは日々大きくなるばかりで、自分でももて余すくらいなのに。紗香の言うように全てを彼に委ねて、そのせいで嫌われたらと思うと、勇気が出せなかった。


 紗香とは休み明けの予定を確認し合い、レストランで別れた。お土産の交換が目的なのだが、きっと紗香は土産話の方をせがむだろう。

 くすりと笑いながら蒸した夏の空気の中、仕事からの開放感に酔いながら、帰路についた。






 休暇の初日。私はいつもとは反対の電車に乗り、山あいの涼しい町へとやって来た。ここへ来るのは毎月最初の休日と決めている。駅から少し歩いたそこは、広い庭にたわしの花が咲く平屋の一軒家。

 招かれた先の白いベッドに近づき、そっと屈む。


「お母さん、調子はどう? 今日はとても良いお天気よ」


 電子音が規則正しく鳴るベッドに、私は寄り添って話しかける。白を基調とした部屋には、すぐそばの山から涼しい風が入り、レースのカーテンが日差しを揺らす。

 中央には大きなベッドが一つ。その周りには懐かしい古びたチェストが置かれ、小さな写真立てが並んでいる。そのどれもが古いアパートの前で二人並んで笑っている。小学校、中学、そして高校と。入学のたびに綺麗に着飾ってくれる母が、私は何より自慢で嬉しかったのを覚えている。


「今日は調子が良さそうだね、きっともう少ししたら起きるだろう」


 声に振り向けば、不自由な足を引きずって盆にお茶を持って立つ男性。慌ててその手から盆を受け取り、テーブルに置く。


「潮田さんも、無理しないで下さいね」

「私は大丈夫だよ、伊織ちゃん」


 お互いベッドから離れて座る。

 彼は母の再婚相手の潮田。母よりもずっと年上の、穏やかで優しい人だ。事故で怪我を負った足が不自由だが、こうして過ごしやすい田舎で母の面倒を全て引き受けてくれている。

 母は、もう長くはないだろうと言われている。


「仕事はもう休みに入ったのかい?」

「はい、一週間ほどですが。今日はお母さんに報告があってお邪魔しました。いつものように月始めでない時期にすみません」

「謝る必要なんてない。前から言っているけれど、私はいつでも君の父親になる用意はあるんだよ?」

「……ありがとうございます、でもこんなにお母さんに良くしてもらってるのに、これ以上は甘えられません。それに、仕事も順調なんです、ようやく自立してお母さんを安心させてあげられた所ですし」


 潮田さんはいつも優しく微笑みながら、私のことを娘のように思ってくれる人だった。父の記憶すらほとんどない私にとって、むずかゆいほどに嬉しい言葉をくれる。

 だが、母の治療費だけでも相当なものになるはずである。それを請け負ってくれている彼には、これ以上負担になりたくない。互いに再婚同士の二人には、そうでなくとも色々とあるのだから。


「玲子の身体をあんな風にさせてしまったのは私のせいだ。君のためにも何かしたいんだ」

「潮田さん、それは違います。確かに身体は不自由になりましたが、私の中で一番幸せそうなお母さんは、潮田さんと一緒にいるお母さんです。それに誰にも避けられなかった事です、決して負い目なんか感じないで下さい」

「……ありがとう、伊織ちゃん」


 母は潮田さんと再婚してすぐ、彼の運転する車で事故にあった。その時に彼は足に後遺症の残る怪我を負い、母は頭を損傷した。記憶は混乱し、以来母は夢と現実を行き来するようにして生きている。

 母自身も、幼い頃から苦労してきた人だったらしい。私は母の両親の話を聞いたことがない。何か事情があるのだろうが、母にとって良い思い出ではないのなら、知らなくてもいい。幼い頃にはそう察したほどだ。

 事故当初、どうして母ばかりがこんな目にと私は泣いて過ごした。だけど、私の事でさえも思い出せない母が、潮田さんの事だけはよく覚えていたのだ。彼との短いけれど幸せで、ドキドキして、そして愛おしい想い。そんな感情が母をかろうじて現実にとどめていると知り、どうして潮田さんを責められるだろうか。



「いおりちゃん?」


 振り返れば、母が起きたようだった。私を見て、名前を呼んでくれる。確かに今日は調子が良さそうだ。微笑みながらこちらを向く母に、私もまた微笑んでみせる。

 手を貸して座らせると、その身体の細さに胸が痛む。だけどそれを決して悟らせぬよう、乱れた母の白髪交じりの髪を束ねてあげる。それを少し恥ずかしそうに受け、ちらりと潮田さんに視線を投げる母を、可愛らしいと心から思う。


「今日はね、とても素敵な夢を見たの」

「どんな夢?」

「昔の夢。小さな男の子と遊んであげたの……あの子の名は何て言ったかしら?」

「もしかして、颯真のこと?」

「違うわよ、そうじゃなくて私の……可愛い小さな、おとうと?」

「お母さんに兄弟なんていたの?」

「いないわよ。……でもそうだったかしら……あら、どうしよう、忘れちゃったわ」


 少し困った顔をした母に、潮田さんが温かいお茶を入れて話題を変える。


「またきっと思い出せるよ。玲子、今日は伊織ちゃんから良い話があるそうだよ、楽しみだね」

「なあに、そうなの? もったいぶらないで早く聞かせて。私だけ知らないのは嫌よ?」

「大丈夫だよ、私もこれから一緒に聞かせてもらうところなんだ」


 母のためにゆっくりと話す潮田さんに、母は目を輝かせながら聞き耳をたてる。ほんの些細な意思の疎通にも、たくさんの努力を必要とするのに、母は彼へ微笑みを絶やさない。

 そんな母の真っ直ぐな愛が、眩しくてとても誇りだった。


 母に、近況を伝えた。仕事が順調なこと、そして久しぶりに颯真に会ったこと。颯真の母と少しだけ話したこと。それから──。


「あのね、お付き合いしてる人がいるの」

「……あら、まあ。良かったわね伊織ちゃん、どんな人?」

「会社の人。少し歳は離れてるけれど、とても優しくて良い人。そのうち、お母さんにも挨拶したいって言ってくれてるの」

「あら、困ったわ」


 母は照れたようにして、寝間着の首もとを正し、潮田を見る。今すぐにでも会うつもりなのだろうかと、気の早い母にクスリと笑う。


「楽しみだね、玲子」

「そうね、楽しみ。何てお名前なの?」

「要さん。藤堂要さんっていうの」


「……かなめ?」

「そう。……どうかした?」

「かなめちゃん、さみしいって」


 考え込む母の様子がおかしい。

 笑顔が消え、遠くを見たり、手元に視線を落としたりし始めた。潮田さんが直ぐに変化に気づき、母のそばに寄り添う。


「玲子、お土産に玲子の好きな焼き菓子をもらったんだ。三人で食べよう」


 ぶつぶつと言い出した母が、その言葉に反応する。肩を抱かれ、安心したのか小さく頷くのを見て、私は胸を撫で下ろす。何がきっかけになるかは分からないが、時おり不安定な精神状態になり、対応に困ることがある。今はそこまで至らずに済んだが、これ以上は話を続けない方が良いという潮田さんの判断に、私は素直に従うことにした。


 後から思えばこの時が、母からの最初で最後の娘への警告だったのかも知れない。後戻りできる最後のチャンスを逃した私は、後に抗いきれない想いと現実との間で、心を引き裂かれることになる。


 もし運命というものがあるのだとしたら。その残酷な顔を恋という美しい仮面で幾重にも覆い、既にこの時には、私という獲物を嘲笑っていたに違いない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ