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加速する恋

 颯真は再会してすぐに、一度だけ偶然私を駅でみかけたのだと言った。声をかけようかと思ったが拒絶されることを恐れ、ためらっている内につい自宅まで後をつけてしまった事、そして今日の他にはそのような事は繰り返していないことを説明してくれた。


「突然おしかけて悪いと思う。でも心配だったんだ。お前、昔から本当に苦しい時ほど言葉少なくなるから」


 昔から変わらない颯真。私のことを私より分かっている。でも。


「……颯真、もういいんだよ?」

「何がだよ?」

「幼馴染だからって、もう構わなくてもいいんだよ。颯真には何の責任もないんだから。それに颯真の生活があるでしょう? 私だってもう成人した社会人なんだし……」

「ちょっと待てよ、伊織」


 颯真に両腕を掴まれ、反射的に身体が弾かれたように拒絶し振りほどいてしまった。


「だめ、ダメだよ颯真。もう昔とは違う大人なんだよ?」

「ごめん、あの時は俺どうかしてた……だけど俺はお前を」

「いや!」


 離れた手を再び差し出され、それを拒絶するようにして叫んだ。

 颯真は苦しそうにその手を下ろし、何かを言いたげにしている。けれどそれを言わせてはいけないと、私は言葉を連ねる。それがどんなに酷いことだと分かっていても、携帯の入った鞄を思わず抱きしめながら、止めることはできなかった。


「颯真は勝手だよ。あの時の負い目があるから心配したいだけでしょう? あれから七年経ったのを分かってる? 私はもう子供じゃないし、颯真だけを頼って隠れてたらダメだってもう知ってる。それに好きな人がいるの」

「……藤堂課長か? 付き合ってるのか?」

「……違う、私が勝手に憧れてるだけ。単純かもしれないけれど、私にはそんな気持ちが生まれただけで毎日が幸せなの。恩知らずって嫌ってくれてもいいよ」

「俺は……伊織!」


 私は振り切るようにして颯真の横を抜け、鍵を開けて部屋へ逃げ込む。

 颯真はしばらく扉の向こうで行き来してはいたが、声を荒げる風でもなく、でも簡単には諦められないといったようだった。十分ほど息をひそめて様子をうかがっていたら、颯真の去る足音が聞こえた。


 緊張から解放され、床にへたり込んだ。

 小さい頃から、颯真に逆らったことなど一度としてなかった。彼は面倒見がいいし、決して無理強いなどしてはこない優しい人だったから。……たった一度をのぞいては。

 着替えることもせず真っ暗な部屋の中で、ただ手に携帯を握りしめて身を丸くする。颯真に腕を掴まれた時、お守りのように登録した課長の名を思い浮かべていた。なんて都合の良い人間なんだろうと、弱い自分に呆れる。

 自嘲しながら折り畳み式のそれを開くと、申し合わせたように画面が切り替わる。着信音すらまだ設定してなかったそれは、機械的なベル音を繰り返していた。

 表示には藤堂課長の文字。

 震える指でボタンを押した。


『長谷川くん?』

「はい……」

『……どうかしたのか? 声がかすれてる気がするけれど』

「大丈夫です、ちょっとびっくりしてしまって」


 嬉しいのに涙がこぼれた。課長におかしいって思われたくないのに、さっきまでの虚勢が嘘のように、心細さが滴となってこぼれ落ちた。


『今はもう家にいるんだな、そこで待っていなさい』

「課長?」


 聞き返す間もなく、通話が切れていた。

 ツーツーという音が響く。膝を抱えて顔を伏せれば、温かい水滴が膝まで伝う。涙とともに仕舞っておいた過去も溢れ出してしまいそうになる。こんな状態になる前に電話が切れて良かった、そんな風に思っては、また涙がこぼれる。


 とても久しぶりに泣いて少し落ち着いた頃、玄関をそっと叩く音がした。


「長谷川くん、そこに居るか? 藤堂だ」

「え……課長?」


 まさか、と携帯を握りしめたまま慌てて玄関へと行く。ノブに手をかけたところで、声にそれを止められた。


「ちゃんと誰か確認してから鍵を開けなさい、長谷川くん」

「え、でも課長の……声」

「いいから」


 言われた通り覗き穴から外を見れば、社で会ったままのスーツ姿の課長が立っていた。もうかなり遅い時間にもかかわらず、どこも乱れた様子のないその着こなしにほっととする。そしてゆっくり鍵を開けて、扉を開いた。


「どうぞ、狭いですが……」


 いつまでも立たせていてはと思い、中へと招き入れようとすれば、課長は扉の中には入ってきたものの、動こうとはしなかった。


「……課長?」

「昨日の夕方、うちの社に柴崎くんが来たときに、君のことを聞いていったそうだ」

「颯真が?」

「ああ、今朝の君の様子は変わらなかったから、何もなかった事は察したが……今日だったか」


 一度電話をしたきり、彼と会ったのは今日が二度目だった。何度か電話があったようだったが、仕事が遅かったりして出られなかった。いや、分かっていて出なかった時もある。それで業を煮やしてここまで来たのだろうか。

 私が考え込むのを見て、課長は察したようだった。


「何か、あったんだろう? そうでなければこんな跡は……」


 課長の細い指が伸びて、私の頬を滑った。

 そしてそのまま引き寄せられた。


「待っていれば頼ってくれると思っていたのは間違いだったな」

「え?」


 柔らかなスーツに顔をうずめ、ほんのりと香るフレグランスが鼻をかすめる。そしてようやく抱きしめられていることを思い切り自覚した。


「あ、あの藤堂課長……」

「おいで」


 課長は私を腕から解放し、そのまま外へと連れ出す。玄関先に置いたままだった鞄をつかみ、私に持たせると、普段以上に蕩けるほどの笑顔で言った。


「鍵をしっかりかけておいで、いいね」


 たぶん、既に私の顔は真っ赤だと思う。言われたとおりに戸締りをして、連れていかれたのはアパートの脇に止められた車だった。


「乗って」


 助手席に座ると、音もなく滑らかに走り出す。ドキドキしながらちらりと課長の横顔を見れば、視線が合う。


「少し、ドライブにつきあって」


 車は高速道路に入ってスピードを上げた。ハンドルを握る課長は初めて見た。ワイシャツの袖から見える時計は、十時を指している。ネオンが遠ざかり、次第に星が薄く目に留まるようになると、小さなパーキングで車が停車した。


「何があったのか、話してはくれないか。僕は信用ならない?」


 シートの背もたれに身をまかせた藤堂課長がそう切り出した。私はただ首を振ってみせたが、それだけで済むわけもない。それに。


「藤堂課長を信頼してます。でも、どうして私のことをそんなに心配して下さるんですか。きっと課長には厄介事でしかないはずです」

「……自分でも、分からない。だが、頭で考える前に行動に移してしまうんだ、君のことでは」


 その言葉通り、課長の表情には困惑が浮かんでいて、良い意味で捉えようとする心を必死で自制する。だが肘掛けに添えた手を握られ、私はそれどころではなくなった。


「彼が、君を追いかけていると思っただけで、どうしても我慢できなかった。君と柴崎くんが二人きりでいると考えただけで……いい年をしてみっともないと思っている」

「私と颯真は……」

「分かっている。君は彼を幼馴染として……そして彼を避けている。こうして僕が握る手を、君が拒まないことに、どれだけ優越感を感じているか、君は想像もしていないだろう?」


 思わず握られた手に力が入る。

 そうだった。颯真に触れられることがあんなにも怖かったのに、今は嬉しいと心が悲鳴を上げているかのようだ。鼓動が早まり、頬に血が上り、そして胸の奥が締め付けられる。


「たぶん、初めて会ったあの日から、君に惹かれていたんだ。伊織」

「っ……わ、私もです、課長が……」

「伊織、僕の名は?」


 近づく課長に、引き寄せられた。


「要、さん」


 名前を呼んだのと同時に、唇をふさがれていた。柔らかくて温かいそれが、そっと触れて離れて。そして今度はしっかりと触れた。

 涙がこぼれたのは、ただでさえ緩くなっていた涙腺がびっくりして崩壊したせいだと思う。驚いた課長が、なだめながら背を撫でてくれた。





「落ち着いたかい?」

「はい、ありがとうございます」


 海沿いの小さなカフェに入り、温かい珈琲を注文した。食事をと勧められたが、こんな日にとても食べられる自信はさすがにない。

 ジャズが流れる店内はとても落ち着いていて、少ない客も各々がのんびりと過ごしているようだった。

 私は課長に、ようやく今日あった事を話す。いつものように頷きながら聞いてくれることに安心して、今まで告げていなかったことを口にする。


「最後に会ったとき、颯真に強引に抱きしめられて、キスをされました。私はそれまで全然そんな風に思ってなくて、でも颯真はそうじゃなかった。私はまだ高校に入学したばかりで、たぶん家庭のこともあって幼かったんだと思います。初恋だってしたことなくて……だから怖くて怖くて」


 当時の颯真は高校二年生。今から思えば健全だったのかもしれない。強引ではあったが、当時の私たちの兄妹のような密接な関係からすれば、当然の成り行きと言われてもおかしくはない。あくまでも今になって思えば。だが、当時の私には彼が裏切られたかのような衝撃だった。


「当時、母はとても困窮していて。一人で働いて私を学校に行かせてくれていたんですが、ちょうど同じ時期に無理がたたって身体を壊したんです。それで働けなくなり、悪い人に騙されて借金をして……」


 母は颯真とのことでショックを受けている私に相談することなく、夜逃げを決めた。当てがあるわけではなかったけれど、覚悟を決めた私たち母娘に運は味方してくれた。その後数か月の間に何度か転々と移動した後、母にある人と引き会わされた。それが母の再婚相手だった。母と相手の事情もあり、ほとぼりが冷めた頃にようやく二人は籍を入れた。


「伊織の本当の父親は?」

「幼い頃に亡くなったそうです。私はあまり覚えてはいなくて……でも母はずっと父を忘れられなかったようで、その時までは再婚する気になるなんて思ってもみなかった」

「今、お母さんはその人と?」

「はい、人生で一番穏やかで幸せに、暮らしてます」


 そうか。短く答えた課長は、私の方を覗き込む。小さなテーブルは彼の大きな体には不釣り合いで、すぐに飛び越してしまいそうだ。


「目がまだ赤いな」

「そう、ですか?」


 おしぼりで隠そうとした手を、取られた。


「隠さないで、いま僕は幸せを噛みしめているところなんだ」

「か、課長」

「名前」

「え、あ……要さん」

「ん?」

「こんなすごく面倒くさい私で、いいんですか?」

「それは僕の台詞だよ。入ったばかりの部下に手を出した。しばらくは誰にも言えない仲になるんだ、面倒臭い相手と言うならそれは僕の方だよ、こんなおじさんでごめん」

「かちょ……要さんはおじさんじゃありません」


 くすりと笑う彼が、本当に嬉しそうに見えて私は再び頬を染める。


「いつか、お母さんに挨拶に行こう」


 要さんがはにかみながらそう言ってくれた。


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