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二枚の名刺

 どういうことだろう。そんな疑問が三人共に浮かんでいることに、いち早く気づいたのは藤堂課長だった。


「君は、早瀬商事の営業、柴崎君だろう。彼女は僕の部下の長谷川くんと知り合いなのかい? だがソレは別問題だと思う、離したまえ」


 課長は私の捕まれている腕をちらりと見た。そして視線で颯真を促すかのようにすれば、惜しみながらもきつく掴んでいた指が離れてゆく。すかさず私が課長の後ろに隠れるようにすれば、課長は驚く様子もなく、庇ってくれた。

 颯真は一瞬だけ苦い顔をした後、藤堂課長に頭を下げた。


「……伊織、いえ長谷川さんとは幼なじみで、ずいぶん前に会ったきりでしたので、つい懐かしくなりまして。藤堂課長がご心配されるのももっともです、申し訳ありませんでした」

「彼の言う通りなのかい、長谷川くん?」

「はい、母の事情で引っ越してそれきりでしたので」

「そうか。彼女は今春から我が社へ入社した僕の部下だ。今日は新歓の帰りで送っていくところなんだ。酒も入っていることだし、今日は帰らせてやってくれないか柴崎くん」


 そう言うと、課長は私の背に手を添えて颯真に背を向けさせた。


「まって……待ってくれ伊織。これだけでも受け取ってくれ」


 私の前に回り込んで、颯真が名刺を差し出す。そこには早瀬商事、営業部柴崎颯真と書かれ、社の電話と颯真の携帯電話の番号が書かれている。


「お袋も心配してたんだ。あれからどうやってお前たちが生活してるのか、困ってないだろうかって。だから、せめて安心させてやってくれないか?」

「……分かった」


 名刺を受取り、私は課長に促されるようにしてその場を後にしたが、颯真はいつまでも私たちを見送るように、そこに立ち尽くしているようだった。

 駅前にさしかかる通りへと曲がったところで、私は課長にお礼を言う。最初はびっくりしたけれど、課長のおかげで颯真に捕まらずに済んだのだ。だが、自分の語らずに済ませてきた事情を知られてしまったのではないかと、怖くて顔すら見れない。片親で、貧乏で、夜逃げして……普通の家庭なら味わうことのないだろう苦労をしてきたことに対する、コンプレックスから未だに逃れることが出来ずにいること。だけど、課長の元でなら、それもいつか笑って忘れられるような気すらしていた。そんな気持ちになったとたんに、これだ。


「本当に送っていくよ。家は二つ先の駅だったか……」

「え? あ、いえ! 課長は皆さんと二次会に行った方が。今からでもまだそんなに時間は経ってないので……」


 そうだった。課長は皆と二次会に向かったはずで、なぜここに居るのかとか気づかないなんて。だが、駅前のタクシー乗り場にスタスタと向かったと思えば、客待ちの車に声をかけてしまっていた。


「ほら、早くしなさい長谷川くん」

「え、はい」


 いつもの仕事のような口調で言われれば、反射で従うくらいには、慣れきっていた。

 車のシートにもたれると、後から課長も座席へと座る。手短に行先を告げれば、タクシーは私たちを乗せて滑らかに走り出した。ネオンが流れていく様をいたたまれない気持ちで眺めていると、課長は前を向いたまま話しかけてきたのだった。


「彼は、幼馴染なんだね」


 小さく「はい」とだけ答えた。


「言いたくないことは話さなくてもいい……と言いたいところだが、君の様子を見ているとそれだけで済ませられないな」

「すみません、ご心配をおかけして」

「そうじゃない、謝らせたかったわけではないんだ」


 課長と目が合った。それでようやく、本当に心配してくれているのが分かった。


「彼は、颯真は小さな頃から面倒をよく見てくれていた、一つ年上の幼馴染だったんです。私は昔からこんな風に自信がなくて、おどおどしてて、いっつも泣いてました。颯真は喧嘩ばかりで乱暴だったけれど、優しくて。私は母と二人きりだから、彼のお母さんがいつもついでにおやつを作ってくれたり、面倒を見てくれていたんです」


 課長は私の話を、何度も頷きながら聞いてくれた。


「でも、母がある日、私を連れて引っ越しをするって言いだして。私は不安でしたが、母はこれからは不自由しないからって……」


 どうしてもその先は言えなかった。

 母は結局、再婚したわけだけれど。私と母は別々の人生を送ることになった。再婚相手はとても良い人だったけれど、私は元の母の姓を残し、独り暮らしをしながら高校、そして大学も何とか卒業することができた。元々働きづめだった母の代わりになんだってしていたから、独り暮らしはなんてことなかった。


「そうか、長谷川は頑張ったんだな」


 課長の大きくて長い指が、私の頭をひとつ撫でていく。繊細なその動きが、彼の細やかな思いやりそのもののような気がして、とたんに愛おしい。きっと全てを語らなくても、私の複雑な事情が、課長には分かったのかもしれない。


「迷惑は、かけません。颯真のお母さんに無事なことを連絡して、安心させるようにします」

「……そうだな」


 それから車内は静かだった。ウインカーを出す音が響くだけ。でもその静けさが心地よく、再び真っ直ぐ前を向いた課長を横目に、この時間が永遠になればいいのにとさえ思う。

 音もなく始まった恋が加速してゆくのを感じ、私はそれに身を任せきってしまっていた。





「あの、ありがとうございました」

「いや、差し出がましいことをして悪かった」

「差し出がましいだなんて、とんでもないです!」


 タクシーを待たせたまま、安アパートの部屋の前まで来てくれた課長。お辞儀をしてそれで終わりだと思っていた。だけどじっと見下ろされて、ドキリとする。


「……君さえよければ、いつでも相談に乗るから……いや、違うな」

「課長?」

「君の相談相手が彼なのが、悔しいと、どうやら思っているようなんだ僕は」

「……え?」


 何を言われたのかすぐには分からなかった。けれど課長は手早く自分の名刺に何かを書き込むと、私の手に握らせた。


「大人げないのは分かっている。だが彼と同じスタートラインにくらいは並ばせてくれ」


 切ないその表情が、私に向けられていると思うだけで、顔に熱が集まる。近づくその顔に、動けずにいれば、耳元に吐息がかかる。


「おやすみ」


 声も出せずに背中を見送った。

 鼓動と悲鳴をこらえながら、玄関のカギを開けるまでに、三度は落としてしまったのは仕方がないと思う。








 信じられない週末を呆然と過ごし、月曜日を待たず早々に紗香とランチの約束を取り付けた。社外での昼食は仕事に慣れないうちはそうそう出来るものではなかったが、この日ばかりは社内というわけにはいかなかった。

 最初のランチがファーストフード店というのも残念極まりないが、紗香は私の話を聞きながら、ハンバーガーを吹き出しそうになっていた。良かった、ここにして。


「ちょ、それって、そういう意味だよね!」

「そういう意味……なのかな。でもそもそも颯真は近所の幼馴染だし、すごく久しぶりに会っただけで誤解なのに」


 時間が過ぎれば過ぎるほど、私の自信は萎んでいった。あれは課長の部下を思いやる言葉以外の何ものでもなかったのではと。実際、週が明けて出社してみれば、課長の態度は全く変わらない。当たり前だが、それだけで実際に起こった事すら夢だったのだと、思えてくる。


「でもさ、貰ったんでしょう? 課長のプライベートの番号」

「……うん、まだ連絡してないから本当にそうかは分からないんだけど」


 貰った名刺を財布から取り出す。

 社内でも良く見るその名刺の隅に、走り書きした十一桁の番号。昨日出社して真っ先に調べたのは、営業二課で使用している社員の携帯番号一覧表。そこに同じ番号はなかった。


「あの、課長がねぇ。そういえば、噂を聞いたんだけど知ってる?」

「噂?」

「そう、藤堂課長の実家が資産家で、重役たちはそれも含めて今のポストの抜擢したって。本人も将来的にはそういうのアテにして、役員ポストを要求したとかしないとか」


 二課内でのことしかまだ分からないけれど、課長の仕事は見て来たつもりだ。だからそんな噂が信じられずショックだった。


「まあ、噂はあくまでも噂ね。それだって若くて優秀な課長をひがんで誰かが……ってこともありうる訳だし」

「……うん、私は課長を信じる。そんな事する人じゃないと思う」

「そうだね……ところで伊織はどうするの」

「え?」

「え? じゃないよ、課長に相談するんじゃないの、その颯真って人のこと?」


 颯真のことを悩んでいるわけではない。彼はあくまでも昔の知り合いなんだし、そう思っていることは伝えたはずだ。だから、何をどうしたらいいのか、それが自分にも分からないのだ。誰かに恋したことがないわけではない。だけど自分からどうにかしたいなんて、思ったことはなかった。


「どうしたら良いのかな、紗香」


 そんな情けない私に、紗香はポテトを咥えながら、大きなため息をついたのだった。


「良いチャンスじゃないの、お礼も兼ねてとりあえず連絡しちゃいなよ。ダメ元ならなおさらね」

「紗香がうらやましい……」


 そんな風にすぐ行動に移すことを考えられる友人が、本当に心底うらやましかった。

 結局、二枚並べた名刺を眺めながら、課長の携帯へ連絡を入れる勇気が湧くことはなかった。だけど不義理をした颯真の母へは連絡をすべきだという結論に至り、これまた勇気を振り絞ったのはそれから一週間後。


『伊織ちゃん、伊織ちゃん元気? 心配してたのよ』


 颯真が帰宅しているだろう夜に連絡してみれば、彼の携帯を奪い取ったのだろう、懐かしい声が矢継ぎ早に話しかけてくる。そんな話し口調も昔のままで、私は懐かしさで涙が滲む。


「ごめんなさい、おばさん。心配かけて。でも今はちゃんとした会社に就職して、大変だけど頑張ってるの。まだまだ慣れないけど、自立できそうだから」

『そう、そうなの。伊織ちゃんは頑張り屋さんだもの、良かった。お仕事が慣れるまでは大変だろうけど、いつでもまた頼ってくれていいからね、無理しないでね。何ならうちにお嫁にいらっしゃい』

「あはは、おばさんのいつもの口癖。懐かしい」

『お母さんは元気にしてる?』

「……はい、今は別に暮らしてますけど、一ヶ月に一度は必ず会ってます」

『そう、良かった。よろしく伝えてね』


 おばさんはいつも大らかで優しい。颯真が少し不良仲間に入った時だって、悠然としてた。

 いつかまた会いに行くことを約束して、電話を切った。颯真はまだ代わって欲しそうだったけれど、おばさんも私と話して満足してくれたようで、電話口で颯真にまたかけ直せばいいじゃないと言い合っているのが聞こえる。賑やかな柴崎家がまだそこにある、それだけで私の心は晴れていく気がした。






 忙しく勉強ばかりの日々は大変だけれど、これが充実というものなのだろうかと思えるようになったその後。いつまでたっても紗香が提案してくれたような事が出来るはずもなく、教えられた番号を登録だけして眺めるばかり。

 あれから三度目の週末を迎えたその日、予定より遅めに帰宅した私のアパートの前で、人影が立っているのが見えた。ドキリとして、コンビニで買ったおにぎりの袋を握りしめる。こんなものでも凶器になるだろうかと身構えながら近づくと、その人影が知っている人物だということに気付く。


「……颯真、どうしてここが」

「すまない、押しかけて」


 スーツ姿の颯真が、私の家の前にいる。なぜここを知っているのだろうと疑問がもたげる。


「仕事の帰りなんだろう? 食事しながら、少し話をしてもいいか?」


 颯真の意図が分からない。立ち尽くす私に、颯真は真剣な表情だった。 

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