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思いがけない再会

 配属先である営業第二課での仕事は、まさに鬼のような忙しさだった。

 最初は先輩である佐伯さんについて回り、コピーから会議室や機材の貸し出し申請、それから電話の取次ぎをさせてもらえるようになるまで、更に二週間を要した。営業とはいっても、第二課の仕事は多岐にわたる。同じ課にいながら各々が違う仕事をしているため、進行している業務の把握だけで相当の記憶力を試された。指導を仰ぐ佐伯さんに何度も叱られながらも、懸命にメモを取り、ついていくしかない。そう覚悟を決めるしかなかった。

 男性営業社員には、声を荒げて叱られる事こそないが、ため息を目の前でつかれることの辛さを学んだ。藤堂課長からは、しっかりね、とだけ声をかけられる。だがその後に佐伯さんを呼び止めているのを見ると、直接叱られる以上の申し訳なさに苛まれた。

 そんな嵐のような日々を送り始めてから一ヶ月と半分が経つ頃。この日も残業を一時間以上こなし、疲れ切った身体に鞭打ちながら帰り支度を整えると、ふいに声をかけられた。


「長谷川くん、ちょうど良かった」

「……課長、お疲れ様です」


 会議から戻った藤堂課長だった。後ろには資料を持った佐伯も続いていた。


「帰るところだったのね、ちょうど良かった。伊織ちゃんに話があったのよ」

「佐伯さんもお疲れ様です……ええと、私にですか?」


 二人を見比べていると、少しだけ胸が切なくなる。すらりと長身の課長と華やかな佐伯十和子は、こうして寄り添って立つと、美男美女のカップルに見える。いや、それは見た目だけではない。長年藤堂の下で働いている佐伯は、彼の要求をほんの些細なサインのみで読み取る。そしてあまり表情には出さない課長の機嫌の良し悪しまで、すぐに見抜いてしまうのだ。自分には到底追い付けない差が、そこにはあった。


「君の歓迎会がまだだったろう、そろそろいい頃合いじゃないかと、佐伯くんと話していたんだよ」

「今週末って伊織ちゃん空いてるかしら、もし都合が良ければ課に回覧するから」

「……はい、私は大丈夫ですけど」

「本当? じゃあ今日はまだ皆いるから、早いほうがいいわね。お疲れ様!」


 満面の笑みで佐伯がフロア内へ入っていくのを、唖然として見送る。すると、まだそこに残っていた藤堂がくっくと笑った。


「彼女、うわばみだからね。飲む口実ができて上機嫌なんだよ。君はお酒は?」

「私は、強くはないです」

「見た目通りか。二課は強者揃いだから、気を付けないとね。お疲れさん」


 仕事に戻る課長を見送り、私はエレベーターホールへと向かった。歓迎会、そういうのがあるのは聞いていた。紗香の部署は配属されて早々にやったと聞いている。仕事はまだまだだが何とかやっている。大変だがここで踏ん張りたいとは思ってはいるが、そういった酒の席への免疫がない。気のきいた会話もできない自分には、少しだけ気が滅入る行事だ。

 とはいえ自分も含めての歓迎会なのだから、そうは言ってはいられないのだろう。ため息をつきながら社ビルを出ると、六月も近づく蒸した空気が肺いっぱいに帰ってきた。


 課長の忠告は、その通りだった。



 新入社員及び部署移動社員の歓迎会、などという名前が意味を成したのは、開始の乾杯からほんの三十分くらいなものだった。

 日ごろ厳しい仕事をしている営業マンたちのストレスたるや、いかほどのものだったのかと、三分の一くらいしか減っていないビールのグラスを傾けながら途方にくれる。営業一課に比べればそれほどギスギスしていないのが、二課の良いところなんて思っていたのだが、そうでもないのだろうか。そんな風に考えを改めたくなるくらいには皆、大いに酔っぱらってハメを外している。賑やかな会話とビールの注文がこだまする中、私は大人しく与えられた席に収まったままだった。

 日ごろからまだ仕事のやり取りくらいしかしてない私に、話題などあるわけでもなく、そして頼りの佐伯はといえば……。比較的年齢が高めの歴戦社員に混じってビールを酌み交わしている。

 もじもじと座る私の隣には、静かに日本酒を飲む藤堂課長。時おり若い社員が寄ってきては雑談をしていくが、藤堂課長はそこを動かずにいる。それが何だか嬉しくて、でもドキドキして仕方がなかった。

 課長のついでだったが、私にも声をかけてくれる社員がけっこういて、少しだけど話ができた。大変な仕事だけど頑張れと励まされているように感じた。


「ねえ、長谷川さんはちゃんと飲んでる?」

「もっとこっちで話そうよ」


 そしてまた出来上がった若い同僚が、声をかけてきた。打ち解けようとしてくれているのは悪い気はしないのだが、ずいぶん酔った様子に何て答えていいのか迷っていると、遠くから助け舟が来る。


「ちょっと、そこー! 怯えさせないの」

「ひでえ、別に取って食おうとしたわけじゃないですよ、佐伯さん」

「どーだか! 貴重な私の女子後輩なんだから、ふざけて絡んだら今度から総務課の女の子との合コンのセッティングしてやらな……ふがっ」

「しいぃっ、佐伯さん、課長の前で何てことを」


 若手社員にとっても、佐伯さんは面倒見のいい姉的存在のようだった。ずかずかと歩み寄りながら口を滑らせる佐伯さんの口を塞ぐと、課長に愛想笑いで誤魔化そうとしている。だが、にこやかな笑顔で成り行きを見守っていた課長は、釘を刺すことは忘れなかった。


「社内合コンはいただけないな。するなとは言わないが」


 いや、その、分かってますと言い訳をする若い部下たち。佐伯さんもまた、にへらと笑いながら頭を下げて戻っていった。


「……君も誘われているのか、長谷川くん」

「え? あ、いいえ!」


 突然話をふられて、ビールの入ったグラスを倒しそうになる。咄嗟に傾いたグラスを支えたのは、藤堂課長の手だった。


「あ、ありがとうございます。その、びっくりしてしまって」

「君まで合コンが……とか言いださなくて良かったよ」

「そういうのは苦手ですから……」

「やれ誰かが誰と抜け駆けしただのと、仕事のチームワークを乱す原因の大半は、恋愛ごとだからね」

「ああ、だから」


 納得してそう言うと、課長は皆が騒ぐ様子に目を細める。


「上手くやってくれれば、恋愛大いに結構。文句は言わないんだが」


 静かに笑う課長に見とれつつ、その日の歓迎会はお開きになった。大半は二次会へともつれ込むようだったが、私は遠慮することにした。皆が気遣ってくれて、思っていたよりも話が出来たような気もするし、楽しい時間を過ごせたと思う。でもあまりお酒が飲めないのにこれ以上は無理だった。実際、少しだけれど足元がふわふわする。


「じゃあ、私たち行くけど大丈夫?」

「はい、まだ電車はありますから御心配にはおよびません。皆さん楽しんでらして下さい」


 後ろ髪引かれるように何度も聞いてくる佐伯さんを笑顔で見送ると、私は一人駅に向かって歩き出す。

 ちらりと最後に背の高い課長と目があったような気もするけれど、春先の冷たい風を頬で受けながら、私は少しだけ空を見上げる。ネオンが近い街の空は、星なんて一つもない。だけど私の心は、不思議と羽が生えたかのように軽くて、とても気分が良かった。

 引っ込み思案で自信のない私が、こうして新しい生活を手に入れられた。今日、それを遅ればせながら実感できたのだ。まだまだこれからが大変だけれど、逞しい同僚に追い付いていきたい。今晩はそう前向きに思えたのだ。


 ネオンを反射した雲の向こうには、淡い月影が微かに見える。ビルの灯にも負けることなく追ってくる姿を見ながら、足取りはしっかりと駅へと向かっていた。はずだった。

 呼ばれたような気がして、振り向くまでは。




「おい待てよ、まさか伊織、なのか?」


 ネオンを背に、そう息を切らして佇むのは一人の男性。一瞬の雲間から差す月光が彼の輪郭を浮かび上がらせた時、私はそれまでの浮かれた気持ちを一気に引きずり下ろされた。

 近づくその男性から逃れようと、あとずさる。


「伊織、お前今までどうしてたんだよ、連絡もしないで!」

「……颯真(そうま)こそ、なんでここに」


 確かめるまでもなく踵を返そうとした。


「逃げるなよ!」


 腕を掴まれ、身構えた拍子に歩道の縁石に足を取られる。

 あっと声にする前に引き寄せられ、固くて大きな腕に抱きとめられていた。


「心配してたんだ、お前の住んでたアパートいつの間にか引き払ってたし。噂でお前が入ったって大学で聞いても家族でなきゃ教えられないって門前払いだし……ってか、だいたい家族なら聞く必要なんてないだろうがよ!」


 颯真は、一つ年上の幼馴染だった。

 私が、私たち母娘が暮らしていたボロアパートの向かいに住んでいて、働いていた母の代わりに颯真のお母さんがよく面倒を見てくれていた。だけどそれも私が高校に入学した頃までの事で。


「ありがとう、ごめんね。でも大丈夫だから離して」


 密着していた身体はすんなりと離れてはくれたが、左腕は変わらずきつく握っていて放してはくれなかった。きっと手を離せば逃げられるとでも思っているのだろう。彼はいつだって強引で、少し不器用で、優しい人だから。

 颯真は少しだけ変わっていた。高い背はそのままだったけれど、若さゆえに尖がっていた容姿は落ち着きを見せ、どこから見ても立派な社会人だ。髪も黒く、スーツがよく似合う。表情は私と会ったせいもあるのだろうが、昔のように少し拗ねたように眉を寄せて、口をへの字に引き結んでいる。

 まあ、それもそのはずだ。私たち母娘は、誰にも告げずに夜逃げ同然に、姿をくらませたのだから。


「お前、今どこに住んでるんだ? おばさんは一緒か?」

「お母さんとは……別々に暮らしてる。再婚、したんだお母さん。だから私は大学に行かせてもらって、それから独り暮らしをしてるの」

「はあ? 再婚? 冗談だろう、あの人が!」


 颯真の驚きはもっともだが、いかんせん声が大きすぎる。通り過ぎる人もまばらだが、私たちをちらちらと見ていく。


「ちょっと……声が大きいよ」

「ほっとけよ、そんなの。どうせカップルの痴話喧嘩だと思われるだけだろ」

「そんなの……」


 私の抗議にかぶせるように、突然後ろからよく通る声がした。


「それは聞き捨てならないな。長谷川くんを離したまえ」


 振り返ると、すぐそばにいたのは藤堂課長だった。なぜ、ここに。皆と二次会へと向かったはずではなかったろうか。


「どうしてここに、藤堂課長が?」


 二人の声が重なる。私と、颯真。

 そして颯真と私を交互に見比べて、今度は課長が驚いたように言った。


「それは私も聞きたい、なぜ君が長谷川くんとここにいるんだ、柴崎颯真」

「……え?」


 颯真の名を口にした藤堂課長。そして課長を知る颯真。

 私は訳も分からず、剣呑な雰囲気に変わりつつある二人の間で、ただうろたえるしかなかった。


 

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