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出会い

 白い結晶がアスファルトに落ちて融けるように、それは自然であらがいようのない事だったのかもしれない。

 初めてあの人を見た時から、きっと恋に落ちていたのだと思う。




 それは入社式の時。難関、と言うにはその選定基準が良く分からない就職活動を乗り切り、十数社目にして合格を勝ち取った商社に入社を果たした私は、まっさらのスーツに着せられて並んだ。簡単な式典とはいえ、目の前に並ぶのは面接でさえ顔を合わせることのなかった重役たち。どれくらい先になるか分からないが、いつかは訪れるであろう退社日までは、もう顔を合わせることなんてないのだろうなと、漠然と眺めていた。

 私の配属先は、総合職と言えば聞こえはいいけれど、単なる雑用事務を任されるのだろう。それでもいい、とりたてて得意なことがあるわけでもない私が、職にありつけるだけでも万々歳だと思う。しかも駄目だと思っていたほどの商社への就職だ。受付ほど華やかでもなく、経理担当ほど有能な事務処理能力を期待されず、伝票と格闘するだけの日々が待っている。そう、待っているはずだった。


「ちょっといいか、長谷川君」


 重鎮たちの有難いお話を聞き終え、あらかじめ聞かされていた配属部署へと移動しようとした時だった。お歴々の末席にいた男性──営業部第二営業課長の藤堂要とスタッフカードをちらりと見た──が、私を呼び止めたのだった。

 緊張から不用意に頬に熱が集まる。それを隠したくてつい、うつむきながら答えた。


「なんでしょうか、藤堂課長」

「実は君には総務ではなく、営業に来てもらう事になったんだ。急なことですまないが」

「……私がですか?」


 つい大きくなった声を慌てて落し、その理由を聞くと。


「実は入社予定だった者が一人、急病で採用を見合わせることとなったんだ。詳しくは言えないが、他に代わりはいなくて君に頼むことになった。」

「……でも、私に務まるでしょうか」

「突然のことで驚かせたと思う、すまない。本当に急なことでね。だが私は君なら十分やっていけると思っている」


 突然の辞令など社会人になれば当然のこととはいえ、不安には違いなかった。だけど目の前の上司となる男性がそう言ってくれたことに驚き、自分でもその時は不思議なくらい、なけなしの気概をかき集める気になった。単純といえば単純なのだが、彼が上司となってくれたのが唯一の救いにすら感じたのだ。

 優しく微笑む課長は、恐らく三十過ぎたくらいだろうか。その容姿はさすが営業、清潔感に溢れ、すらりとした体形になじむ仕立ての良いスーツ。少し日に焼けた肌は不快ではなく、きっと何かスポーツでも嗜むのではと思わせる程度で、よく通る声には深みがあって大人の色気すら感じる。

 現状認識で精一杯の私に、課長は真正面に向き合う。


「皆、最初は緊張するものだ、君だけじゃない。困ったことがあれば、僕がサポートする。だから頑張ってみてくれ」

「あ……ありがとうございます。頑張らせていただきます」


 面と向かってそんな風に言われるとは思わなかった。ただ辞令だからと事務的に済まそうとしない上司に、緊張とは違う意味で高鳴る鼓動。

 きっと課長にしてみれば突然移動になった新入社員に同情した程度の事。いや、面倒な事になったのは課長の方だ、私なんかを一から教育して使い物になるようにするのに、どれだけの労力を割かねばならないだろう。その責任から、精一杯の激励をくれただけ。

 なのに私ときたら、すっかり挙動不審になりお礼を述べるのが精一杯。そして藤堂課長の後ろを、迷子の犬のようにおどおどとしながら付いて行くしかない。そんな自分に凹まずにはおられなかった。





「第二課配属となりました長谷川伊織です、よろしくお願いします」


 他の営業配属の新入社員と共に、最後に頭を下げた私を迎え入れてくれたのは、先輩営業事務の佐伯十和子だった。入社八年目の、綺麗な人。にっこり笑う唇はとても形が良く、一瞬で憧れが胸をつく。


「災難だったわね、突然こんな忙しい職場に配属なんて。ここには生憎、少ない女性をちやほやしてくれるような出来た奴はいないから、共同戦線張ってがんばりましょうね、伊織ちゃん」

「はい、頑張りますのでよろしくお願いします」


 フロアを見渡せば、なるほど彼女の言う通りだった。自分と佐伯先輩、そして第一課に三人ほど女性が見られるくらい。後はむさ苦しいほどに男性ばかりだ。

 挨拶もそこそこに、佐伯のデスクの電話が鳴る。ごめんねと一言で電話に出る彼女は、既に仕事モード全開で格好良かった。だけどそれを後々、自分もこなすのかと思えば、胃が縮まる思いだ。



 営業部では簡単な挨拶をしたものの、新入社員研修のため、早々に移動となった。

 そこで約二週間の研修に入る。今どき新卒社員の研修に時間をかける企業も少ないだろうに、この南陽興産は昔ながらの社風が残っているようだった。基本的な業務内容を教える事だけでなく、社員同士の横の繋がりを作らせるのも目的としているのだと説明された。



「ほーんと、藤堂課長は格好いいよね、羨ましいな伊織が」

「眺めるだけなら、もう少し離れていた方がいいと思うよ、紗香(さやか)。さすがに上司だと叱責されることもあるだろうし……」

「ふふ、確かに。あの麗しい顔で怒られたら怖そう!」


 同期で研修を受けている松嶋紗香とは、研修が始まってすぐに意気投合した。引っ込み思案な私を、引っ張ってくれる頼もしい彼女は、物流部門への配属。研修が終わるとなかなか会えなくなるのが、今では少し寂しい。


「でもさ、よく様子見に来てくれるなんて、マメだよね藤堂課長」

「急に畑違いな部署に配属になったからだよ、きっと」

「……それだけかなあ」


 日に一度は、藤堂課長は研修室に顔を出してくれていた。営業と同フロアとはいえ、そこまでしてくれる上司は彼くらいなもので、同期の女子社員の間での人気はうなぎ登りだ。


「やだなあ、他に何があるって言うのよ」


 私はどちらかと言うまでもなく、地味子だ。藤堂課長の営業第二課は成績も良く、出来る社員が多いなんて噂を聞いて、戦々恐々としている。実際、向上心の強い同期には、羨ましがられている。なぜ自分ではなくて私なのかと言いたげに。もしかしたら藤堂課長だって、私と交代できる社員を探しにきてるのかもしれない。


「あーあ、なんで私なのかな。紗香みたいにハキハキとした人の方が絶対向いてると思うのに」

「あのさ、周りのことは気にしたら駄目だよ、伊織。それに私は無理だもん」

「なんで?」

「私はガサツだから。営業のサポートなんてさ、丁寧さと気配りがなくちゃ! 物流のおじさんたちにもまれるくらいで丁度いいの」


 あっけらかんと笑われて、その日の休憩は終わった。




「今、帰りかい長谷川くん」

「藤堂課長」


 研修も終わり、明日からは各部署に戻ることになったその日、声をかけられた。この時は先輩の佐伯に声をかけるために営業に寄った後で、もう退社するつもりだった。


「下まで一緒に行こう、僕もこれから外に出るところだったんだ」


 エレベーターのボタンを長い指が押し、すぐに開いた空の箱に二人で乗り込んだ。


「今から外回りされるのに、私ばかりお先にすみません」

「いや、今日はたまたまだよ、そう気にすることはない。明日からは大変だろう、帰れる時はさっさと帰って休むくらいの図々しさがないと、ね」


 時おりはにかむように笑うその表情は、背も高くともすれば威圧的になる課長の印象を、人懐こいものへと変えてくれる。だからこそ、彼に魅了される者が多いのだろう。私もまた、その一人だった。

 ランプが徐々に変わっていくのを眺めながら、私はこっそり願う。少しでもゆっくり降りますように、そしてこのまま誰も、この箱を開けないでと。


「長谷川くんは、独り暮らしだっけ?」

「あ、はい」

「じゃあ自炊とかしてるんだ?」

「はい、学生時代からですからそれなりに、ではありますが」

「えらいね、僕なんてもうこの年になっても人任せだよ。この前はカレー作ったはずなのに、かなりカレーからは遠いものが出来て……あ、いや。まあそんなわけで、たまにハウスキーパーを雇ってようやく人並みの生活を保ってるくらいだからな。呆れるだろう?」

「……いえ、そんなこと思いません。課長はお忙しいのですから、家事までしたら大変です」

「そう? 今はほら、家庭的な男の方がモテるっていうからな、これは内緒にしといて」


 おどけたように言う課長がおかしくて、つい笑ってしまった。だけど、藤堂課長は全く気にした様子もなく、照れたように頭をかいている。


 柔らかくなった空気を、勘違いするなとベルが告げたかのようだった。

 チンという音とともに、扉が開く。同時に折り返して乗る社員と入れ替わる。


「じゃあ、お疲れ様。明日から頼むよ」


 それだけを残し、大股で歩き去る課長を、私はいつまでも見送る。


 憧れが、恋に変わった瞬間だった。

 

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