【イベント話】ホワイトデーのディラック
バレンタインデーの話の続きです。
『ゼリヴ・フィクスラム殿
3月14日午後4時。
闘技場にて待つ。
ディラック・ゾルクーグ』
「これは挑戦状よっ。バカにしてっ!」
激昂した女が微かに傾き始めた陽に向かって吠えている。
太陽の強烈な光すら、弾いて輝く黄金の髪はまっすぐで、頭の高い位置でひとつに結わえて垂らしている。仕事上動く機会が多いためひとつに束ねていないと邪魔なのだと、昔、朗らかに笑って言っていた様な記憶がある。実際、プライベートでの彼女は艶やかで美しいその髪を自然に流している事が多い。
「まるっきり同じじゃないのっ、私が書いた物と! 一ヶ月前の屈辱のあの日の決闘状と!!」
「お前、あれは決闘状じゃないって言い張ってたじゃねぇかよ」
呆れたように呟いたその青年は闘技場の砂の上に座り込んで、水筒からお茶を注いで音を立てて飲んでいた。黒髪の男で、彫りが深く整った顔立ちをしている男の名は、ヒツジ・ガルディーガ。
アリア国の騎士団という軍事機関に所属しており、最高名誉称号である聖騎士の称号を賜っている男である。
しかし町の子供達が憧れて止まない名誉の証である緋色のマントは、惜しげもなく砂の上に敷かれてシート代わりになっていた。
そんなツッコミなど素知らぬふりをして、彼女はヒツジに背を向ける。
「良い度胸よ、この私にこんな物をよこすなんてっ!」
右手に持つ決闘状を陽にかざし、女にしては標準よりもやや背の高い彼女は背筋を伸ばしたまま、強い口調で叫んだ。
本日3月14日。一月ほど前勇気を出した乙女にとっては特別な日になるのかも知れないが、あいにくとゼリヴには縁のない一日であった。
そう、聖騎士である自分には色恋沙汰など関係がない。
こうしている間にも、南の蛮族がこの緑溢れる美しき国を狙って侵略せんとしているのだ。聖騎士たるもの、こんなところで悠長にお茶など飲んでいられない。
「あぁーあ。早くおわんねぇかな」
「気合が足りないわっ、ひーちゃん。そんなことじゃ、アリアの平和は守れないわよっ」
ひーちゃんとはヒツジの愛称である。決闘ならば審判が必要だと、無理矢理に引きずって来たのだ。彼の剣の腕は超一流。その目も確かなので、審判としてこれほど最適な男はいない。
しかしゼリヴの叱咤もヒツジには届いていない。彼やる気がなさそうに頭を振るだけ。
悩ましげに息を吐き、ゼリヴは眉間に指を当て、瞳を閉じた。
まあ、彼にやる気の欠ける所があるのはいつものこと。今はそれどころではないと思い直して前を見る。
強い強い眼差し。碧色の瞳はあまりにも透明で美しくて、その瞳に囚われた物を決して離さない。
その瞳が、今はただ、内に激しい闘志を称えたままに入場ゲートを映していた。
* * *
「ごめんな、レティシア。今日はちょっと約束があるんだ」
名残惜しそうな瞳で自分を仰ぎ見るのは人形の様に可愛らしく愛らしい娘であった。
肩まで伸びた淡い金色の細い髪。桃色の頬に、小さめの赤い唇。上目遣いにこちらを見上げる、宝石のように澄んだ蒼色の瞳は少し潤んでいて。彼を足止めさせるには十分な魔力を含んでいた。
「今日は、もっと一杯ご本を読んでくれると思ってたのに」
とは言っても、今日は朝から彼女のお守りをしていた彼である。本など単なる口実で、離れて欲しくなくてぐずっているだけ。そんな彼女のことを抱き上げて、優しく頭を撫でてやる。
焦げ茶色の髪は肩に掛からない程度できちんと整えている。真面目そうな面もちの青年。その容姿はむやみやたらと整っており、町ですれ違った娘さんが振り返る確率は七割を超えていると噂されている。
ディラック・ゾルクーグ。
ゾルクーグという貴族の長子である彼は、元々は騎士団所属であったが近年近衛兵団へと転属になった。羽織っているマントは蒼色で、彼の涼しげな目元とよく合っている。
「ごめんな、レティシア。あ、そうだ。これを」
彼女の前に、懐から出した青い包装紙の箱を差し出す。目を丸くする彼女に、ディラックはにっこりと極上の笑みを浮かべて続けた。
「この前のバレンタインのチョコのお返し。さすがに俺は手作りじゃないけれど、美味しいクッキーを選んできたんだよ」
花が咲いたような笑みを浮かべて、今までぐずっていたのが嘘のように機嫌がよくなるレティシア。
そんな彼女に別れの言葉を述べて、ディラックは部屋をあとにした。
決闘状を出したのは自分なのだから。理由は何にせよ遅れるわけにはいかない。
ディラックは廊下を小走りして、騎士団の闘技場へと向かって行った。
橙色の空には、灰色の雲が斑模様を描いていた。それを見上げるディラックは取り立てて何の感慨もないがままに、闘技場の門をくぐる。
約束の時間までにはまだ幾ばくかの猶予がある。これなら彼女も怒っていないだろうと勝手に考えて、競技場に立つゼリヴと、ふてくされたようにしゃがみ込んでいるヒツジとに手を振る。
と。
「遅いっ。何をしているのよ!」
叱咤されたその声に、ディラックは訝しげに首をかしげた。
しゃっ、と軽快な鋭い音を立ててその輝く刃を惜しみなく披露する女聖騎士。その攻撃の間合い前で立ち止まり、ディラックは傍らのヒツジに顔を近づけるように腰を折った。
「何時間待っていたんだい?」
「二時間はここでぼーっとしているぜ。余程暇なんだろうぜ、女聖騎士様はよ」
俺は忙しいんだと目で訴えて、ヒツジは口をへの字に曲げた。この若き聖騎士殿は、弱みでもあの女聖騎士殿に握られているのか、逆らうことが出来ないらしい。――ちなみに、ディラック自身も有無を言わさず彼を従えるネタは、両手で数えられない程度には用意できるが。
「だいたいっ、何だって今日のこの日にゼリヴを呼び出したりしたんだよ!」
「ああ。一ヶ月前のことなんだけどさ。ここで俺宛のバレンタインチョコを拾ったから。現場検証と本人の確認を取るために――」
腹立たしげに地面を叩いて身を乗り出し、ヒツジは唾を飛ばしてがなりたてる。
「頭の程度をゼリヴに合わせるなっ!」
風を切る音と共に二人の男の頭上から下に向けて一閃される白刃。
二人は即座に横に飛び、その身を刃にさらすことなく間合いを取る。
「男二人で内緒話なんて、嫌らしいっ」
「嫌らしいってさ、ひーちゃん。少しは行動を改めた方が良いんじゃないかい?」
彼女のねらいはディラックのみ。剣を振り切った彼女は身を翻すと、一瞬にしてディラックとの間合いを詰めて剣を薙ぐ。
赤色のマントがひらりと優雅にひらめく。ディラックは体を仰け反らせ、紙一重のところで剣をかわすと、踏み込んできたゼリヴの軸足を右足で払う。しかし、その一瞬手前に彼女は上に飛んでディラックの足をやり過ごしていた。
軽く目を見張り、ディラックはゼリヴの横を駆け抜けて彼女の背後へ回り込もうと試みる。
彼女の側面を通り抜ける瞬間に背中を押して体勢を崩させようと手を伸ばしかけるが、その動作を途中で止めると慣性を無視する様に強引に横へと飛んだ。一瞬前まで彼がいた空間を剣の残影が走る。
「今日は速いな」
それでもディラックは繰り出される斬撃の嵐を身軽にかわしていく。
今日の彼女はいつもと気迫が違う。
何度か剣をやり過ごして、いつもよりも踏み込みが一歩深いことに気付いた。
白刃が陽の光をうけてきらめき、紅と蒼が追いかけっこをするように翻る。
剣を抜く間も与えられないほどの連続攻撃。
やっとのことで間合いを開いて、彼女の様子を観察すればすでに彼女の息は乱れている。短期で勝負を決めるつもりなのか、と考えてみたが、そんな思考をする間もないことに気付いてあっという間に接近してきたゼリヴの動きに反応をするのに集中をした。
大振りに振り下ろされようとする剣。
横にかわそうと半身をずらしたところで気付く。ゼリヴの足の加重が不自然に切り替わったことに。彼女は何かを仕掛けてくる――。
ふと、彼女の姿が視界から消えた。ゼリヴが、ディラックの背後に回り込むように跳んだ。
振り返りざま、左側から振り下ろされるはずの剣の軌跡を逃れようとして息を飲む。――彼女の右手に剣がない。
頭で考えるより先に身体が動く。
鋼同士がぶつかり合う音が鈍く響き、彼女が左手に剣を持つのを目視してディラックは驚愕のあまり目を見開いた。
騎士らしからぬ突飛な行動は予想もつかずに不覚を取りそうになったが、騎士同士――厳密に言えばディラックは現在『騎士』としての称号は持っていないのだが――の決闘がそれで良いのかと首を捻りたくなる。
ディラックは抜きたての剣を持つ右手に力を込めた。
彼女の次の一手を予測しようとするが、今日のゼリヴにいつものマニュアルは通用しない。余計な思考は頭から消して、いつの間にか口の中に溜まっていた唾を飲み込んだ。
ふいに彼女の薄い唇の端がだらしなく緩む。
そして。
「やったわっ。ついにディラックに剣を抜かせたわよ!」
今までにない以上に素早い動きで後ろに逃れたゼリヴは、小躍りでもするかのようにくるりとターンをする。
せめぎ合う相手のいなくなった剣のやりどころに迷いながら、ディラックはその瞳に、満面の笑みを浮かべている女のことを映す。
「やった、やったぁ~」
この戦いの目標は自分に剣を抜かせることだったのだろうか?
――どうすればいいのか本気で分からなくなって視線を横へ向ける。
審判をしていたはずの男はこめかみの辺りに手を当てて、がっくりと肩を落としていた。
「ねぇ、ひーちゃん。仮にも騎士団で一番上に立つ聖騎士がこんなのでいいのかい?」
「俺に振るな! 俺だって呆れてるんだ! こんなのが同僚だなんて恥ずかしいくらいだっ!」
普段の素行を顧みれば彼こそ聖騎士としてどうかと思うが、あえて口を挟む意味もないだろう。
とんとん、と。のんきに剣の腹で肩を叩いたディラックは、微かに目を細めてはしゃぎきっているゼリヴの事を分析する。
無茶苦茶なことをしすぎたせいで息は上がっているし、一度緩んでしまった集中力を戻すことは難しいだろう。
おそらくは、ゼリヴにとってのこの決闘はディラックに剣を抜かせることが出来るかどうかのみであって、その観点で行くとディラックは彼女に負けたことになる。馬鹿馬鹿しいとは思うが、勝ち逃げをされるのは少々腹立たしい気もした。
「ディラック。俺が許す」
ゼリヴから再びヒツジに視線をやってみれば、彼は剣呑な眼差しをしてゼリヴのことを指さした。
指をさされた聖騎士は訝しげに眉を寄せてヒツジを見つめる。
「しばらく立ち直れないくらいに、徹底的にのしてやれ」
「えぇー?! なによ、それー。ちょっと、ひーちゃん。私が何をしたって言うのよ、ねぇ!」
「うるさいっ! お前はそれでも騎士としての誇りを持っているのか?! こんな勝負があってたまるか!」
「失礼ねっ。ひーちゃんこそ人のこと言えないでしょうっ?!」
気楽な様子で二人の聖騎士を見比べたディラックは、にっこりと笑ってゼリヴに対して剣先を向ける。
ぎくりと身を強ばらせてゼリヴも慌てて剣を構えるが、腰が引けている。
「ひーちゃんからのリクエストもあったことだし、決闘を再開しようか。前回の決闘で俺がふざけて剣を抜かなかったのが気に入らなかったんだな、君は。それは悪いことをした。お詫びに今からは本気で行くから、安心してくれ」
「ちょ、ちょっと、ディラック。今日はせっかくのホワイトデーなんですし、これから仲良く町にでも出掛けない? あなたが私にぞっこんだっていうのは分かってるんだから~。あ、あは」
「勝手に自分ルールに変更されたんじゃ俺だってつまらないし。第一、審判が終わりの合図を取っていないんだから、まだ勝負は付いていないよな?」
一歩分前に進むと、足早に二歩分後退していくゼリヴ。
「決闘なら後日改めて受けるわ。今日は――」
「問答無用」
満面の笑みを浮かべて。
直後、真顔に戻ったディラックは地面を蹴った。
* * *
西に傾いた日に照らされて赤みがかった闘技場。
退場ゲートの壁を掃除するかのように、ぴったりと壁に貼り付いて歩く女聖騎士は、真っ直ぐに進むことも出来ず、そればかりか自力で立っていることすらも困難な様子であった。
彼女の足下から後方に長く伸びた影を踏むようにして、ヒツジは彼女のあとを追いかけていた。
「なんなの、ディラックの奴! 私に何の恨みがあるって言うの?! 恨みがあるのは私の方よ! バレンタインの時には乙女の純真を弄んでおいて!」
「おまえの愛情は自分で落としたんだろうよ」
「うるさい、うるさぁぁい!!!! そんな昔のことは忘れたわ!」
しかし――。胸中でごちながら、ヒツジは目を細めて空を仰ぐ。
こてんぱにのされたゼリヴは体力的にも精神的にもずたぼろ、の予定だったが、精神的にはかなり強靱に出来ている彼女は落ち込む様子などひとかけらも見せずに、ディラックに対する文句を並べ立てている。口だけは元気なようだ。
「なんでここまで歯が立たないかなぁ」
ついつい口に出てしまったその呟きはゼリヴまでは届いていない様だった。ほっと安堵の息を漏らして、ヒツジはゼリヴの斜め後方を歩きながら思考に耽る。
ゼリヴ・フィクスラム。親の七光りがあるにしてもこの若さで聖騎士まで上り詰めた女である。
性格に多大な問題はあるが、意外と頭は良いし――ただし性格的にデスクワークはまるで向いていない――剣の腕だけを見れば騎士団で彼女より強い騎士など、十人程度しか存在しない。
それにもかかわらず、彼女はディラックには勝てない。
たとえば。
ヒツジとゼリヴが剣と剣で打ち合いをしたとき、五本もやれば確実に一本は取られるだろう。
逆にディラックが相手の時を考えると、五本やろうが十本やろうが一本すら取られる姿は想像が出来ない。二十本も打ち合えばその中の一本くらいは取られるかも知れないが、その程度だ。
少なくともディラックとゼリヴの実力差にそれほど開きがあるとは思えない。むしろ剣の技量だけで言えばゼリヴの方が上であるような気さえする。
ふと、人の気配を感じて視線を上げる。
しかし、そこには誰もいない。
「あれ?」
「どうしたの?」
ゼリヴが振り向いた瞬間、ばりっという軽い破壊音が辺りに響く。
ぎょっとして音の出所を見てみれば、青い包装紙の箱がゼリヴの靴に踏みつぶされてひしゃげていた。ゼリヴはその箱へと一瞥をくれて、しかしさして気にもとめずにヒツジへと視線を戻してきた。
その瞳がヒツジからの返答を待っていることに気付いて、ヒツジは曖昧な表情のままで首を振った。
「なんでもない」
「ああ、そう」と呟き、彼女はディラックへの文句を再開させてついでに歩みも再開させる。
ヒツジは訝しげな顔をして歪んだ箱を手に取った。その包装紙の間から顔を見せているメッセージカードには一行だけ文字が綴られている。『ゼリヴ・フィクスラム様へ』、と。
思わず苦笑いを浮かべて、ヒツジは空を見上げて呟いた。
「だから、頭の程度をゼリヴに合わせるなっていうの」
「俺はほら、ロマンチストだから」
姿は見えないはずなのにどこからか響く声。ヒツジはますます呆れたような顔をして手をひらひらと振った。
一体どんな浪漫を夢見ていたのかは知らないが、そんな物をゼリヴに期待するだけ無駄である。そんなことは長いつきあいのなかで分かり切っているだろうに。
「ひーちゃん、おっそーい! 今日もとことんつきあってもらうわよぉー!」
前を行くゼリヴに急かされて、はいはいと適当に頷いてヒツジは歩き出した。
右手に持つ箱を眺めて、形の崩れたクッキーを、一枚くらいはゼリヴの口の中に放り込んでやろうと決めながら、
「なーんで、俺が気を遣ってやらなきゃなんねぇのかねー。俺は被害者だっつうの」
そう呟いて、苦笑いを浮かべた。




