【シーガル過去編】シーガルお目付役レベル0
シーガルの過去のお話。ジェシカとの出会い編。
「新しい仕事だ」
魔法兵団総帥、イ・ミュラーに連れてこられたのはアリアの城の中。
シーガルは口をぽかんと開けて物珍しそうに周りを見ていた。魔法兵団の本部はこの城の敷地内にあるが、中に入るのは初めてだったのだ。
「間抜け面をさらすんじゃねえ」
前を向いたまま、後ろを歩くシーガルに注意を促すイ・ミュラー。
シーガルは慌てて口を閉じ、背筋を伸ばして彼の後を追った。
着いた先は二階の日当たりの良い部屋。
中にいたのは小太りの冴えない中年男と、シーガルとそう年は変わらないだろう少女。目元が似ている二人は親子なのだろう。
「おう、ロキフェル」
その名前を聞いて、シーガルは慌てて背筋を伸ばした。それはこの国の王、その人の名に違いがないのだから。顔は遠くからしか見たことがないため分からずとも、名前は当然知っている。
彼と目が合い、シーガルは頭を下げた。
ロキフェルは笑いながらそれを手で制しているが、それに従えるはずはない。
「約束の、連れてきたぜ」
「いつもお世話になります、総帥。ええっと、シーガル君だったかな? よろしく」
意味の分からない会話。
国王に敬語で話しかけられ、頭を下げられた。シーガルは青ざめながらロキフェルの後頭部を上目遣いに見つめた。
そしてふと気付く。彼の後ろで緊張した面もちでこちらを見ている少女。彼女はロキフェルの娘――つまりはお姫さまではないのだろうかと。この国には自分と年が変わらないくらいの姫君がいたはずだ。
名は確か――ジェシカ。
金髪碧眼の少女である。さらさらの髪は腰の辺りまで伸びている。ほっぺたは少しふっくらとしていて、柔らかそうである。一般的なお姫さまのイメージとは少し異なっている少女。毅然となんかしておらず、むしろおどおどとした様子でロキフェルの影に隠れていた。美人ではない。だが、どこか素朴なかわいらしさを感じさせる顔立ち。お姫さまというよりは町にいる平凡な少女と言う方がしっくりくる。
「おう、シーガル。てめえは今日からジェシカのお目付役になれ」
「はい?」
突拍子もない命令に、シーガルは即座に聞き返してしまう。
「だから、今日からてめえはジェシカのお目付役だ。ひーがやってるから、分かるだろ? お、め、つ、け、や、く」
ご丁寧に繰り返してくれるイ・ミュラー。三度目はきっと答えてくれない。それが分かっていたから、シーガルは言葉を発するかわりに瞬きをした。
何も聞かされずに突然国王の前に連れてこられた。そして、何を言われるかと思えば王女のお目付役など、冗談にもほどがある。
「冗談を言っているわけじゃねえぜ」
心を見透かされた様な言葉にドキリとする。
「そういうわけだから、よろしく頼むね、シーガル君」
国王直々に頭を下げられては断る事も出来ず、シーガルは深々と頭を下げ返した。
「ほら。ジェシカも挨拶をしなさい」
ロキフェルに促され、ジェシカはおずおずと頭を下げる。一度顔を上げたシーガルもまた、ひどくぎこちなく頭を下げた。
「シーガルです……。よ、よろしくお願いします」
「ジェシカと申しますの……よろしくお願いします」
お互いに頭を下げたまま顔を上げることは出来なかった。
「はっはー。なんだか見合いに立ち会ってるみてえだなぁ」
のんきなイ・ミュラーの声が部屋の中に響き渡った。
*
こんな事をしている場合ではない――
シーガルは頬杖を付きながら魔道書を見つめていた。本を読もうと思っているのに気ばかりが急いてしまい、集中できないでいる。
ジェシカ姫のお目付役になってからはや一週間。一度イ・ミュラーに背中を押されて彼女の元を訪れた。しかし一時間近くの間ほとんど会話らしい会話を交わさず、そのまま帰って来てしまった。
自国の王女の守り役。本来ならばそれは大変名誉な役目なのかも知れない。
だが、シーガルには名誉の取得などよりも大切な目的があった。そのためにはもっともっと力を付けなければならない。他のことなどしている余裕などない。
「そうだよ、俺はこんな事をしている場合じゃない……」
言葉にしてみると妙なまでの虚無感に襲われる。何のために自分は力を付けようとしているのか。そう自問するが答えは出てこない。なぜならば、自分の望みはもう果たせないから。――両親の仇は討てないのだ。
ひゅっと風を切る音がした。同時に後頭部に鈍い痛みを感じ、思わず机に突っ伏す。
「何ぼさっとしてるんでぇ。給料泥棒」
啖呵の利いたイ・ミュラーの声。
シーガルは後頭部を押さえながら恨みがまし気な視線を上に向けた。イ・ミュラーは鋭い瞳をして、シーガルのことを見下ろしている。手にしているのは魔道書。おそらくはそれでシーガルの後頭部を殴りつけたのだろう。
「給料泥棒って……。俺は今、お昼休みです」
「うるせえっ。ジェシカの所に行ってねえそうじゃねえか、おい」
不機嫌そうな低い声ですごまれ、シーガルは思わず上体をのけぞらせた。眼光だけで人を殺せるのではないかと言うほどの物騒な目つきをしている。
だが、ここで負けてはならないと自分に言い聞かせてイ・ミュラーのことを真っ直ぐに見つめ返した。
「イ・ミュラー様。ジェシカ様のお目付役の件ですが、辞退させてください」
イ・ミュラーの鋭い瞳が細められる。
シーガルはごくりと唾を飲み込み、緊張した面もちで彼の次の言葉を待った。怒鳴られるかなと構えていたが、彼は低い声でシーガルに問うてくる。
「おめえは、何がしてえ?」
瞳を直視され、思わずそこから視線を逸らそうとする。だが、それはうまくいかなかった。
イ・ミュラーの瞳は心の中全てを映し出していそうな輝きを持っている。
「再びターチルと戦を起こす事なんざありえねえ。やっとの事で手に入れた平和だ。それに、だ」
イ・ミュラーは皮肉気に口元を歪め、一端言葉を句切る。
「仮にターチルの奴らと殺し合いが出来たとして、どうすればてめえは満足できる?」
シーガルには答えることは出来なかった。
親を殺した奴らを捜し出して、仇を取れば満足できるのか、ターチルの人間を皆殺しにするまでこの憎しみは収まらないのか……そんなことは、分からない。
「ジェシカもな……大好きな従兄弟を奴らに殺されたんだぜ」
「ジェシカ様が?」
意外なその言葉を聞いて、シーガルは険しい表情のまま目を瞬かせた。
「それ以来ずっとふさぎ込んでやがる。ロキフェルも心配してなぁ。だからお目付役と称して、話し相手を付けてやろうって事になったんだよ。それで、年が近くて信頼できそうな奴、つまりはてめえに白羽の矢が当たったというわけだ」
寂しそうな眼差しで外を見ているジェシカの横顔を思い出す。その表情の理由は自分と同じ――大切な人を失った痛み。
「それにな、シーガル。これは命令だと言ったろ? てめえに拒否権はねえ」
すごまれて、シーガルは引きつりながらこくこくと頷く。それに満足したのか、イ・ミュラーは腕を組み、大きく頷いた。
「分かったらとっととジェシカの所に行ってこい!」
「それは分かりましたが、何を話して良いのか分からないんですけれど……」
「……まあ、あまり女と話すのに慣れていなさそうだよな、てめえは。まったく、寂しい青春を送ってるもんだ」
どうでも良いことに同情され、なんとなく恥ずかしくなりながら視線をそらせる。シーガルが読んでいた魔道書を手にしたイ・ミュラーはページを繰りながらぶっきらぼうに言う。
「ひーの所へ行って来い」
彼の言う「ひー」とは、騎士団の聖騎士であるヒツジのことだ。彼はこの国の姫君のお目付役をやっている。その姫君はジェシカの妹で、名はレティシア。先輩の意見を参考にしてみろという助言なのかも知れない。
シーガルは立ち上がり、頭を下げた。踵を返すと背後から声をかけられる。
「ちゃんとひーに女の口説き方を教わってこいよ」
「口説いてどうするんですかっ」
思わずツッコミを入れるとイ・ミュラーは楽しそうに口端を持ち上げ、ひらひらと手を振りながら魔道書を片手に歩いていってしまった。
シーガルはその後ろ姿を見つめ、ため息をつきながら歩き出した。
*
騎士団の本部は、王城を挟んで魔法兵団の逆側に位置している。
開きっぱなしの扉からは黄色や白、緑色などのマントを羽織った人間が慌ただしそうに出てきていた。
そんな中、ひときわ目立つ赤色のマントを見つけて、シーガルは声を上げた。
「ひーちゃん」
呼ぶと、赤いマントの主はこちらに寄ってくる。
シーガルはどこかへと移動していく騎士達を気にしながら、彼、ヒツジを見上げる。
「今、時間は大丈夫ですか?」
「ああ、あいつらとは別件」
肩を竦め、視線を騎士達にやるヒツジ。彼は妙に疲れたような顔をしている。
シーガルはここを訪れた目的をヒツジに告げる。無論、女の口説き方などをご教授いただきに来たわけではなく、ジェシカとの接し方を聞きに来たのだ。
「んなもん、深刻に考えることもないだろ」
あっさりと事なさ気に呟き、彼は鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。だが、その動作を途中で止め、彼は真っ直ぐにシーガルのことを見つめる。
――嫌な予感がして、シーガルは数歩後ずさる。しかしその肩をヒツジに掴まれ、身動きがとれなくなった。
「実は俺、少々急いでいてな」
その一言が胡散臭いことこの上なし。先程、時間は大丈夫だと言っていなかっただろうか。そんな思いを含んだ眼差しで見上げていると、顔を近づけてくる。
「実は、ここだけの話、国家の一大事なんだ」
「その割には、ずいぶんとのんびりとしていますね」
「レティシアがいるだろ? 俺がお目付役をやっている……」
シーガルのツッコミに返事をせずに――どうせ聞いていないのだろうが、彼は自分の話を続ける。
「今、ちょっと寝込んでいてな……もしかしたら死んでしまうかも知れないんだ」
レティシアという姫が病弱で寝込みがちと言うことはシーガルも知っていた。緊張のあまり鼓動を高鳴らせ、唾を飲み込む。
「俺はレティシアの所に行くから、お前には遣いを頼まれて欲しいんだ」
「遣い?」
「ああ。カミルの家に行って、ある物を貰ってきて欲しい」
カミルの家は病院である。父親のマックスが国で一番の名医と言われるほどの腕を持っており、王家との交流も深いというのは周知の事実。
「分かりました。マックス先生の所へ行けばいいんですね」
「違う。訪ねるのはカミルで良い」
どうして医者ではなくてその息子に用事があるのかと問う前に、ヒツジは続けた。
「レティシアが死ぬかも知れないから、例の物をふたつ、と言えば分かってくれるはずだ」
「ちょっと待って下さい。どうして、カミ……」
「いいか。この国の運命はお前の肩に掛かっているんだ。あとは任せるぞ」
どうしてレティシアの生死と国の運命が関わっているのかはこの際無視をしておくとして、それでなくともいまいち信憑性に欠ける話。だが、ヒツジの真剣な瞳を見つめているとついつい信じてしまいそうになる。
彼は敬礼をし、赤いマントをなびかせながら王城へと走っていった。
しばらくその後ろ姿を見つめていたシーガルだが、「国家の一大事」というヒツジの言葉を思い出し、慌ててカミルの家へと走り出した。
*
カミルの家は大通りから少しはずれた位置にある。国一の名医と言われる医者の割には小さめな病院。
その家を訪れると中には病人らしき人々が椅子に座っていた。
肩で息をしながら周りを見渡し、カミルの母の姿を見つける。
「あら、シーガル君。こんにちは」
「すいません、おばさんっ。カミルはいませんか?」
せっぱ詰まったシーガルの顔を見て、彼女はややつり気味の瞳を丸くさせ、その視線を天井へと向ける。
「自分の部屋にいるわよ。どうぞ」
案内をされてシーガルはカミルの部屋へと辿り着く。
カミルの部屋をノックもなしに開ける。訝しげな面もちでこちらを見た黒髪の少年は、意外な来訪者に目を丸くする。同じ表情を作ると、彼の母とそっくりだった。
シーガルは手短にヒツジからの伝言をカミルに伝えた。
カミルは相槌も打たないでその話を聞いていた。そして、聞き終えた後、一言。
「やだよ」
と素っ気なく呟く。
一瞬その言葉の意味が分からず、ほうけてしまったシーガルだが、我に返ってカミルの襟首を掴んだ。
「だって、お前、国家の一大事だぞっ」
「なにが一大事だよっ。あんな我が儘女、一度死なせておけばいいんだよ」
「なんて事を言うんだよっ。お前、お姫さまって言ったら、国の宝だぞっ」
「うるせえっ。あれはオレのだっ。絶対にレティシアなんかにはわたさねえ!」
お姫さまを呼び捨てにするな、と注意しようすると、背後の扉がノックをされる。そこにいたのはカミル母。手には白い箱を持っている。
「あ! てめえ、何してやがるんだっ」
「はい、シーガル君。これをレティシア様に届けてね」
カミルのことなど無視をして白い箱を差し出すカミル母。シーガルにはその中身は分からないが、カミルとその母親は少ない情報の中からすべてを察しているようだ。
カミルがその白い箱を奪取しようとするが、その前に母親に頭をひっぱたかれ、ぱんっと小気味の良い音が部屋に木霊する。
頭を押さえ、その場にしゃがみ込むカミルのことを視界の端に映しながら――悪いことをしているような気がして、直視は出来なかった――シーガルはその白い箱を受け取った。
「はい。国家の一大事なんでしょう? 早く届けてあげてね」
「あ、ありがとうございます」
ちらりと下を見ると、恨みがましそうなカミルの瞳。
シーガルはそれを見ないふりをして彼の家を後にした。
*
王城に戻り、レティシアの部屋を訪れた。扉をノックすると、中から出てきたのはヒツジ。
シーガルは肩で息をしながら白い箱をヒツジに差し出す。ヒツジはその中身を確認し、満足げに頷いた。
「良くやった、シーガル。よし、これは褒美だ」
彼が白い箱から取り出したのは白い容器。手渡されたそれを見つめると、その中に入っていたのは薄い黄色の物体。
つやつやでぶるんとした外見といい、この色といい、これは、プリンではないのだろうか。
シーガルのその視線に気付いたのか、ヒツジは含みを持った笑みを浮かべる。
「このラグナーさんの店のプリン、うまいんぞ。一日に十個限定販売で、なかなか手に入らないんだ」
「……」
言葉を忘れて、思わずうなだれる。
「どうした? 嬉しくないのか?」
「そう言う問題じゃなくて、何が国家の一大事ですっ! 俺はカミルのおやつを奪ってきたんですかっ?!」
「いやな、レティシアがラグナーさんの所のプリンを食べたいって言い出してさ。買いに行くのが面倒だなって考えていたら、カミルが手に入れて大事にとってあるってキャロが言っていたのを思い出して……」
「だからって、どうしてそれが国家の一大事に……」
別れ際のカミルのあの瞳。彼は絶対にシーガルのことを恨んでいるだろう。今度会ったときに何をされるか分かったものじゃない。
「だって、プリンを食べないと死んじゃうって言われちゃあなぁ。レティシア、プリンが大好きだし」
「プリンを食べられないだけで死ぬはずがないじゃないですかっ!」
「お前、それをレティシアに言える?」
指先を鼻先に突きつけられ、思わずのけぞる。
ヒツジはふふんと鼻で笑い、シーガルの鼻先を人差し指でつついた。
「まあ、カミルが哀れだと思うなら、そのひとつを返してやれよ。ああ、その前に、ちゃんとジェシカの所へ行ってやれよ。会話なんざ、その場で適当に考えろ」
突き放すようにそう言って、彼は部屋の中に戻っていってしまった。途方に暮れて肩を落としていたシーガルだが、いつまでもここでこんな事をしているわけにも行かなかったため、ジェシカの部屋へ向かう。
彼女の部屋の前に立ち、シーガルは息を飲み込んだ。そして、意を決して扉をノックする。
しばらくして、のそのそとおっかなびっくりな感じでジェシカが顔を出す。シーガルの姿を確認した彼女は、緊張で強ばった顔をして慌てて扉を開けた。
「あの、こんにちは」
「こんにちは」
おずおずと二人揃って頭を下げる。
ジェシカの視線がシーガルが手にしていたプリンへと移った。彼女が興味を持っていたようなので、シーガルは説明をしようとした。
「えっと、このプリンは……」
すると、『プリン』という単語を聞いたジェシカの表情がぱっと明るくなる。頬をほんのりと染めて、期待に溢れた眼差しをシーガルに上げる。
戸惑いながら、ジェシカのことを見つめた。彼女はもう、シーガルのことなど気にしていない様である。彼女の頭の中にあるのはプリン。ただそれだけ。
「えっと……その。ジェシカ様に差し上げます」
その場の雰囲気でついつい口にしてしまうと、彼女は心底嬉しそうな表情を作る。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる彼女にプリンを渡してやると、軽い足取りで部屋の中へ入っていく。
しばし迷って、それを追い掛けることにした。
窓際のテーブルの上にはプリンがちょこんと載せてあった。その前にはジェシカの姿はない。彼女は何かを探すように部屋の中をうろうろと歩いていた。
何となく、彼女が探しているものに気付いてしまった。
「あの、ジェシカ様。厨房からスプーンを借りてきましょうか?」
ジェシカのきらきらと輝く蒼色の瞳がシーガルを映した。期待に満ち満ち溢れたその瞳に促されるようにして、シーガルは厨房へと向かった。
ジェシカという姫は大好きな従兄弟を戦で失って、それ以降ふさぎがちだったと聞いている。今までシーガルが接していた時の印象も、どことなく悲しみを含んだような瞳をし、おとなしい少女だった。
しかし先程のあの反応は一体何なのだろうか。厨房から借りてきたスプーンを片手に考える。
ターチルの人間に大切な人を殺されたのだ。それに対する憎しみの気持ちもあるかも知れない。だから、似たような境遇であるシーガルがお目付役兼話し相手に抜擢されたはずだ。少なくともシーガルはそう思っていたのだが。
スプーンを片手にジェシカの部屋を訪れる。考え事をしていたシーガルはついついノックをするのを忘れてしまった。
ジェシカは椅子に座っていた。プリンを目前に控えて、視線をそこに止めたままぴくりとも動かない。好物に手を伸ばしたいのを必死に堪えるように、膝の上で拳を握っていた。
「ジェシカ様。スプーンをお持ちしました」
声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
悪いことをしたかな、と思いつつ、彼女にスプーンを手渡す。彼女はプリンに手を伸ばしかけ、躊躇うように上目遣いにシーガルのことを見上げた。
遠慮をしている――そう感じて、シーガルは首を振った。
「どうぞ、食べて下さい」
にぱっと機嫌良く微笑み、ジェシカはスプーンでプリンを掬った。待ちきれないとばかりにそれを口に近づけ、ぱくりとスプーンをくわえる。そして頬を紅潮させたまま、瞳を閉じ、恍惚とした表情を浮かべる。
たかがプリンだろ? そう突っ込まずにはいられない気分だった。
ジェシカはぱくぱくとプリンを口に運ぶ。そして、最後の一口を頬張ると、名残惜しそうな瞳を白い容器に向け、ほうっと息を吐いた。
「とってもおいしかったです。ありがとうございました」
深々と頭を下げられ、つられて頭を下げ返す。
にこにこと微笑んでいるその表情がなんだかとても可愛らしかった。その瞳がおかわりを要求している――様な気がして、シーガルは頭をかいた。
「えっと、今度来るときに、また何かを持ってきますね。ジェシカ様は何が好きですか?」
「甘いお菓子が好きですの」
遠慮をせずにうきうきとした口調で答えるジェシカ。さらに、機嫌を良くしたらしい彼女は聞いてもいないのに続ける。
「侍女長ったら、甘い物の食べ過ぎは美容にも健康にも良くないって言うんですのよ。だからケーキが出てきても、甘さ控えめでとっても悲しいんですの。そんな時はレティに頼んでこっそりと甘いケーキを作ってもらうんですのよ」
ころころと笑い、胸の前で手を合わせる。
今まで、この一週間で抱いていた彼女のイメージとのギャップに苦しみながら、シーガルは額に浮かんできた汗を拭った。
「どうしましたの?」
「い、いえ。何でもありません……」
引きつった顔で何とかそう返す。ジェシカは不思議そうに首を傾げたが、それもしばしの間。すぐににこりと頼りない笑みを浮かべて機嫌が良さそうに口元をゆるめる。
「あのですね。私、お目付役の人が来るって聞いて、とても緊張していましたの。恐い人だったらどうしようかって思っていたんです。でも、なんだかあなたってば、いい人そうで安心しましたわ」
彼女の無邪気な顔を見ていると、自然と肩の力が抜けてくる。今までの自分が嘘のように思えてくるほどだ。
それにしても、この人の「いい人」の基準はお菓子をくれる人なのかと思うと、何だか感慨深くなってくる。心のどこかで作り上げていた「理想のお姫さま」のイメージがどんどん崩れていくような気がした。――いや、これはそんなに悪いことではないと思うが。
ジェシカがじっとシーガルのことを見つめている。こちらからの言葉を待っていることに気付いて、曖昧に微笑む。
「あの……何か食べたい物があったら言って下さいね。可能ならば、調達するようにしてみますから」
こくこくと頷いて嬉しそうに微笑むジェシカ。彼女にそんな顔をされてしまうと、お目付役もそんなに悪い物ではないかなと思ってしまう。彼女が嬉しそうな顔をしていると、何故かその幸せな気持ちがこちらにも伝染してくるようだった。
「まあ、少しくらいはこのお姫さまに付き合うのも悪くはないかな」
どうせ拒否権などないのだし、と考え、シーガルは苦笑いを浮かべた。
そんな軽い決断をした日から彼の苦労の日々が始まることになろうとは、このときにはまだ気付いていなかった。




