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フィアンセバトル  作者: きなこ
11章 ジェシカ
79/89

ジェシカ10

 王族専用の墓地は、王城の裏側に位置している。

 昨日は慌しくて時間が取れなかったため、一日遅れでの母親の墓参りとなっていた。


 ジェシカは木陰から、墓に花を手向けているロキフェルとレティシアを見つめていた。

 朝食後すぐの時間である。

 朝日がまぶしく降り注ぐ中、黙祷を捧げて母親に何かを報告している二人。彼らの近くには護衛のための近衛兵の姿もあった。


 しかしながら、それらを眺めるジェシカの思考は、まったく別のところにあった。

 ――果たして自分は誰が好きなのだろうかと。

 気付くと、そればかりを考えている。

 昨日は普段使いもしない頭をフル活動してそんなことを考えていたため、少々寝不足気味である。


 そっと視線を落とし、物憂げに息を吐く。

 ジェシカのお目付け役兼護衛として付き従っているシーガルが、心配そうにこちらを向く。しかしジェシカは彼の存在すらも忘れていた。


 ――ナファイラのことは好きである。数ヶ月前から変わらずに、忘れられずにいた想い。しかし彼とのことは仕方がないのだとも思う。自分にも彼にも捨てられない物があるのだから。


 ならば、シーガルのことはどうなのだろうか、と。

 彼はお目付役である。初めて彼に会ったのは、大好きだったいとこが死んで、伏せこんでいた時期であった。気を遣ってお菓子を持ってきてくれたり、話し相手になってくれたりで、いつも彼には助けられてきた。かけがえのない、大切な人。隣にいるのが当たり前だった、人。


 皆はジェシカはシーガルのことが好きだという。

 しかしナファイラに抱いている気持ちと、シーガルのことを大切に思う気持ちは、別の種類の物であるとジェシカは思う。

 目を閉じて、シーガルの顔を思い出す。浮かんでくるのは、熱っぽい瞳でこちらを見つめる真摯な表情。

 どきどきどき。


「ああ。やっぱり、同じかも」

 困ってジェシカは呟いた。

 ごちんと傍らの木の幹に額を当てる。ひんやりとした感触が、火照った顔を冷やしてくれた。


「……ジェシカ様?」

「わかりませんわぁ……」

 分からない、分からないと、何度も頭の中で呟いて。


 恋愛対象としての好きと、友達や家族に対する好き。その区別など、ジェシカは容易に付くと思っていた。だがシーガルへの好きがどちらかと問われると、さっぱり分からない。

 前に彼に好きだと言われた時は、別のことで手一杯でのんきに考える暇などなかった。だから多分、気付かなかったのかもしれない。もしかしたら自分はずっと彼のことが『二番目』に好きだったのかもしれないと、思い至り。ごんごんと音を立てて木に頭を当てた。


「うーーーーーっ」

 ナファイラはともかくとして。シーガルにはちゃんと返事を出さなければならない。どんな結末になろうともそれが自分のためであり、彼のためにもなるのだと思う。そして、シーガルのことが好きだと真っ直ぐな視線を向けている、あの少女のためにも。


「でも、でも、もしも私がシーガルのことが好きだとして。それは何だかシーガルが私のことを好きだから好きになったみたいですし。ナファイラがだめだから、じゃあ次って感じにも見えるし。そういうのってどうなのかしら?」

 難しい顔をして唸っていると、横から呆れたような顔をしているシーガルが再び声をかけてくる。


「俺が何ですか?」

「きゃあっ」

 横を向くとすぐ傍にシーガルがいた。悲鳴を上げて、思わずジェシカはその場から飛び退いた。

 そんな反応をされたシーガルは少しだけ傷ついたような顔をしつつ、無理矢理口元に笑みを浮かべていた。


「な、なんでもありませんのっ。ごめんなさいっ」

「それはいいんですけれど……」

 しばし迷うように空を見上げたシーガルは、決意をするようにひとつ頷いて口を開く。


「あの。お墓参りのあと、少し、お時間を戴いていいですか?」

「う、うん。分かりましたわ。それじゃあ、私、行って来ますわね」


 何の話だろうかと考えると、妙に緊張をする。ぎこちない動きでジェシカはレティシア達の元へ近づいた。

 墓標の前のロキフェルは、何かを話しながらレティシアの頭を撫でていた。俯いて、軽く頷いているレティシア。ジェシカは首を傾げて、そんなふたりのことを見比べていた。

 近づいてきたジェシカに気付いたロキフェルは、穏やかに笑みを浮かべて歩き出す。


「私は先に失礼するよ。本当はもっとゆっくりしていきたいんだけどね」

 名残惜しそうに墓標を振り返って、そして彼は去っていった。ぞろぞろと、まるで金魚の糞のように近衛兵達も付き従っていく。


 俯いたままのレティシアを横目で見て。とりあえずは首から提げているロザリオを握って墓標に頭を下げた。近況報告と、そして自分は誰が好きなのか教えてくれと訴えてみたりもする。

 風が吹き、姉妹のスカートの裾がひらひらと舞う。色とりどりの花は、彼女たちの母が好きだった物だそうで、花々もまた風にそよぐ。


 しばらくして、伏せていた瞳を開くと、レティシアと目があった。ずっと俯きっぱなしだった彼女の瞼は腫れぼったくて、どこか沈んだ顔をしている。


 近衛兵達のいなくなった墓地には王女二人と、少し離れた木陰にシーガルがいるだけであった。深緑の木々の葉がざわざわとざわめき、少しだけ哀愁を漂わせていた。

 不安そうにこちらを見上げたレティシアは、たどたどしい口調で告げる。


「私ね、カミルのことが、好き、ですの」

「え? えーと、友達の好き?」

「ううん。違いますの……特別な、好き」

 それを聞いた瞬間、ジェシカはきらきらと瞳を輝かせて、ぎゅっとレティシアの手を握り締めてやった。


「ついに、目覚めたんですのね、レティ」

 彼女がついにそれを自覚したことが嬉しくて、にんまりと笑みを浮かべる。すると、レティシアは眉を吊り上げて怒り出し、乱暴に手を払いのけた。

「茶化さないでっ!」

 そっぽを向いてしまう彼女のことを、頬を緩めたままのジェシカは有無を言わさず抱きしめてやる。


 それを自覚した彼女と、彼女の赤く腫れた目元。その二つを考えると、悪い結論が頭の中に思い浮かぶ。何と言葉をかけて良いのか迷っていると、先にレティシアから口を開いてきた。


「……私、ターチルに行きたいと言いましたの。カミルに、ついていきたいって。でも、断られました」

「あらあら、まあまあ」

 あのレティシアの口からそんな言葉が出てくるとはまったく予想が出来なかった。素直に驚いてしまう。


「……ごめんなさい。勝手なことをしようとして」

「そんなの、謝ることではありませんわよ。レティの好きにしたら良いんですわ」

「でも、お姉さまだって、ウィルフに行きたいのを我慢して……るのに。だから……」


 レティシアの肩を押すと、彼女は瞳を潤ませて、ひとつつきでもすれば今にも泣き出しそうであった。

 自分のことよりもジェシカのことを考えていてくれたことが、嬉しくて。また少しだけ、悲しくもあった。


「だからね。お姉さまも、自由にしていいんですから、ね」

「……。私は確かにナファイラのことが好きですけれど、アリアにいたいんですもの。我慢をしているわけではありませんわっ」

 それは本心なのだ。無理をしているわけでも、我慢をしているわけでもなんでもない。


「それに、今はそんなこと、良いじゃないですの。ね?」

 優しい顔をして微笑みかけると、レティシアの瞳から涙がこぼれだす。そんな彼女の細い肩を力いっぱい抱きしめて、さらさらの淡い金色の髪を撫でてやった。


 ジェシカが辛いとき、何のかんので傍にいてくれた妹。

 だが、彼女が辛い時には今まで何もしてあげることは出来なかったし、彼女がジェシカにもたれかかってくることすらもなかった。

 だから、こうしている今、少しはお姉さんらしくなったのかな、などと考えながら彼女の髪に頬を摺り寄せた。

 そして、その彼女も自立して、ここから去っていくときが来るのかも知れないな、と、柄にもなく感傷に浸ってみる。



 アリアからは離れたくない。

 だが……。

 ……。

 ジェシカの中での結論は、まだ出ていない――




     *     




 墓参りも終わり、ジェシカ達は自室へと戻ってきた。

 レティシアとは廊下で別れ、ジェシカとシーガルはジェシカの部屋で見つめ合うようにして立っていた。


 何を話せばいいのだろうかと思考を巡らせ、思い出す。

「そうだ。シーガル、昨日はカミルの件、ありがとうございました」

「いいえ。結局俺は、何も出来ませんでしたから……」


 気まずい顔をしてぽりぽりと頬を掻くシーガル。ジェシカは首を振って、再び礼を言った。

 先ほどは泣いていたレティシアであるが、彼女は多分大丈夫だ。今は塞ぎ込んでいるかも知れないが、昔の――ディラックの時のようにはなったりしない。それだけは確信できていた。レティシアの部屋がある方角の壁を見やり、ジェシカはほっと息を付く。


 そんなジェシカの様子を、シーガルは優しい瞳で見つめていた。それに気付き、どきりとしながらジェシカは思わず数歩後ずさる。

 彼との距離はジェシカの歩幅にして五歩分。どきどきどきと、胸が痛いくらいに騒ぎ立てる。


 どうにも、彼と二人きりになると緊張してしまって困る。彼とはちゃんと話をしないといけないのに。それ以前に、こんな反応をするのは相手に失礼であるとは分かってはいるのだが、体は言うことを聞かない。

 苦い笑みを浮かべ、シーガルはその場に直立をする。

 彼も緊張をしているのか、ごくりと息を飲む音が聞こえた。

 こちらの鼓動も彼まで届いていそうで気恥ずかしくて、何か話さなくてはいけないと口を開く。


「あのねっ、……」

「あのっ、……」

 同時に口を開き、言葉を止める。


 数秒ほど見つめ合い、同時に俯いた。

 両頬に手を当てて、ジェシカはぶんぶんと頭を振った。

 ぽりぽりと、シーガルは頭を掻いている。


 しばらくして。

「あの。いいですか?」

 控えめに問われて、何度か首を縦に振る。頭がくらくらして来た。


 深呼吸をして、シーガルは真面目な表情でジェシカのことを見つめる。だがジェシカはすぐに視線を逸らしてしまった。


「あの。ナファイラ王子のことなんですけれど……」

 こくこくと頷く。


「王子は、もう帰ってしまうようですから……。ちゃんと、お話をしてきた方がいいのではないかと思って。ジェシカ様はどうするつもりなんですか?」

「どう、って……。ナファイラにはウィルフの国があるんですし、私にはこの国があるんですし。どうしようもないと思いますわ」

「でも、ジェシカ様はナファイラ王子のことが好きですから。……ちゃんと、その想いを伝えた方が良いと思うんです」


 こちらを向くシーガルの瞳は優しくて。それは今までずっと見慣れてきた物だった。

 少しだけ胸のざわめきが収まって、ジェシカも彼のことを直視することが出来るようになる。


「仕方がないというのは、俺も分かっています。でも、仕方がないなんて言葉で言い訳をして諦めても、また同じ事の繰り返しになるんじゃないかと思います。ウィルフから帰ってきたあとのジェシカ様は元気がありませんでしたから……。陛下やレティ様も心配していました。……こういう我が儘なら言っても良いんじゃないかと思うんです。それに……。はっきりと聞いたわけではありませんが、王子はもしかすると、アリアに婿入りすることが可能になったかも知れません」

「本当?」


 だとすれば、何の問題もない。どうしてナファイラは何も言ってくれなかったのだろうかと考える。

 ふと気付き。ジェシカは今更とは思いつつも、頭に浮かんだ疑問を素直に言葉にした。


「あの……。シーガルは、私のことが好きだと言って下さったでしょ? でも、他の人との応援なんてしてくれて、いいんですの?」

「う……。そ、それは、確かに。今更隠しても仕方がないので正直に言いますけれど、俺はジェシカ様のことが好きです」


 そのまま、沈黙をする。

 太陽に雲がかかったのか、カーテンから入ってくる日差しが遮られて、室内が微かに暗くなる。

 俯いている彼は拳を握り締めて、はっきりとした口調で言葉を紡いでいった。


「でも、ナファイラ王子と一緒になることでジェシカ様が幸せになれるなら、良いことだと、思います。俺、やっぱり、ジェシカ様には笑っていて欲しいですから」


 好きな人が笑っていることで幸せを感じるというのは、ジェシカにも分かる。分かるが、好きな人と別の人の仲を取り持つ事がどれだけ辛いかも、ジェシカには分かっているから申し訳なくなる。

 だが同時に、それだけ彼が自分のことを大切に思っていてくれていたということに気付く。


 顔を上げた彼の焦げ茶色の瞳が、真っ直ぐに自分を映していた。

 お目付役として接していた時の優しい瞳で。そしてどこか寂しげな瞳をして。見ているこっちまで、切なくさせるその表情。

 にっこりと、照れくさそうに微笑む彼。


「だから。お願いですから、変に気を遣わないで、今までみたいに接してください。ジェシカ様が幸せになれるために、俺が出来ることなら、何でもしますから。悩み事があったら正直に話してくれると嬉しいです。ジェシカ様の力になりたいんです」


 その言葉には感動してしまって、胸があたたかくなる。感極まって、ついつい双眸から涙がこぼれてきた。

 ぎょっとして、あたふたと手を動かすシーガル。彼は一歩踏み出して、思い出したように尋ねてくる。

「あの、近づいてもいいですか?」

 わざわざそんなことを聞いてくる彼がおかしくて、ジェシカは泣き笑いの表情を作った。そして、こくこくと頷く。


「感動してしまいましたの。そうですわよ。シーガルは、いつだって私の力になってきてくれましたわよね」

 ハンカチで頬の涙を拭われて、ジェシカは甘えるように彼に抱きついた。

 やや躊躇って、彼の腕がジェシカの背中に回される。

 抱きしめ返されると、胸が安堵で一杯になってくる。いつもと同じ、逞しくて頼りがいがあるとは言い難いのに、どこか安心感を与えてくれる彼の腕の中。


「あのね、あのね。私、ナファイラのことが、好きですの」

「ええ、知っています。だから、俺も応援……」

「でもねっ」

 語調を強めて、ジェシカは顔を上げた。間近でシーガルの顔を見つめ、強い口調ではっきりと告げた。


「でもね、私、シーガルのことも、好きなんですのっ」

「………………は?」

 素っ頓狂な声を出して、彼は目を見開く。


「みんなに私はシーガルのことが好きだと言われて、私はどうなのかさっぱりわからなくて混乱して。でも、でも。シーガルが、私のことを今でも好きだなんて知ったら、凄く胸がときめいて、安心できて。多分、好きなんだと思いますの。お目付役だからだからではなくて、特別な……ナファイラへの気持ちと同じ、好き」


 彼は何の反応も示さずに固まったまま、ジェシカの顔を凝視していた。

 その顔が面白くて、ジェシカは口元を緩めてしまう。

「ナファイラも好きだし、シーガルも好きだし。どうしましょう?」

 答えを求められて我に返り、シーガルは引きつった顔のままで身を仰け反られた。


「お、俺に聞かれても……」

「でもね、多分一番はナファイラなの。でも、私が失恋しても、元気でいられたのって、多分シーガルのおかげだと思いますわ。だから、とっても感謝しています」


 心底困った顔をしている彼は、「だったら……」と何か言葉を投げかけ、口を閉ざす。

 ふと視線を落とすシーガル。

 何かを考えていた彼の腕に、ぐっと力がこもる。

 少し息苦しく感じられるくらいに抱きしめられた。


「俺でも……傍にいるのが俺でも、ジェシカ様を幸せにすることは、出来るでしょうか?」

 今度はジェシカが戸惑う番だった。


 驚いて、抱きついていた腕から力を抜いて、離れようとしたが、それをシーガルは許さない。

 真剣な瞳で、じっとジェシカを見つめる熱っぽい瞳。何かを決意したかのような強い意志がこもった表情。

 容姿は、たとえばナファイラなどと比べると、全然劣っているはずの彼なのに。その顔はいつもと比べて凛々しくて、素敵に見えた。


 とくんとくんと心臓が騒ぎ出す。


「そんなことを聞くのなんて失礼ですよね。俺……。今までは、ジェシカ様に好きだと言ったのに、気にしないでくれと言ったり、どっちつかずな態度を取ったりで、ジェシカ様を困らせていました。でも、昨日、決めたんです。俺はジェシカ様が幸せになるための手伝いをするって。だけど、それでも俺はジェシカ様が好きだし、二番目でも、俺のことを好きだと言ってくれたことは、本当に嬉しいです。……だから、図々しいとは思いますけれど、最後にもう一度だけ、俺にもチャンスを下さい」


 ジェシカから手を放し、肩を押して少しだけ距離を開ける。

 大きく息を吸い、その空気を肺に貯め込んで。シーガルはゆっくりと息を吐きながら、ジェシカを見つめた。

 ジェシカは何も考えることが出来ずに、そんなシーガルをただ見つめていた。


「俺はジェシカ様が好きです。ジェシカ様を思う気持ちは本気です。俺が、絶対に、ジェシカ様を幸せにしてみせます。だから、俺の恋人になってください」


 何かを言おうとしたが声が出ず、口をぱくぱくと開閉させた。

 どう返事をすればいいのか。それを考えようとしたが、何故か止まっていた涙が再び溢れて来た。

 胸がとても幸せな気持ちで一杯になって。勝手に頬が緩んで、満面の笑みが浮かぶ。


 シーガルの指がジェシカの頬を撫で、涙を拭ってくれる。

 頭がぼんやりとしてくる。今まで色々なことを考えていたはずなのだが、それらは全て消え失せて。心地の良いくらいに胸が温かくなり、そして安心感を覚え、ジェシカは真っ直ぐに前を見つめた。

 じっとこちらを見つめているシーガルと目が合い。

 そっと、目を伏せる。

 近づいてくる彼の顔を、どきどきと鼓動を高鳴らせながら、ただ待っていた。


 微かに唇が触れたところで、ぐいっと肩がつかまれて体が引き剥がされる。


 驚いて目を開けると、シーガルは真っ青な顔をしていた。彼自身、何が起こっているのか図りかねるといった表情で。視線を忙しなくあちこちへと向けて。

 その視線がジェシカと交差すると、勢いよく頭を下げた。


「す、すみませんっ。お、俺っ。……ま、まだ、ジェシカ様は何も言っていないのにっ」


 指先でそっと唇をなぞる。むずっとくすぐったさが込みあがってきて、思わず背筋をぞくりと震わせる。

 「今、触れた?」と、自問する。微かに触れた感触はあった。


 ぼんやりとシーガルの唇を眺めて、一気に頭の中が真っ白になる。そのまま意識が遠のいていくような錯覚を覚えて。心臓が早く脈打ちすぎて、このまま破裂してしまいそうになった。


「本当に、すいませんっ。ジェシカ様がファーストキスにとても憧れているのは知っていたのに、こんなところで、俺なんかが相手で……ああ、どうしようっ」


 錯乱気味にまくし立てるシーガル。

 ぱちくりと瞬きをして、ジェシカは我に返った。

 そう。ファーストキス。その言葉を耳にして、勝手に頬が揺るんでいく。へらっとだらしない笑みを浮かべたジェシカは、熱を持つ頬を両手で挟む。


「どうしましょう。困りましたわ……」

 へらへらとしながら呟くと、それを聞いたシーガルは、今にも土下座をしそうな勢いで頭を下げる。

「許してくだ……」


「一番になってしまったかも」


 言葉を止め、動きを止め、固まるシーガル。

 見下ろすその後頭部に、何故かちょっとだけ愛おしさが感じられてしまう。


 しばし呆然としていたのだろう。身じろぎ一つしなかったシーガルが、体勢はそのままで恐る恐る口を開いた。


「今、なんと……?」

「ですからね。シーガルが一番好きになっちゃったかも、って」

「そ、そんなっでたらめなっ! あなたはキスをした人が一番になってしまうんですかっ?!」

 勢いよく顔を上げて詰め寄ってくる彼に対し、へらへらと頬を緩めっぱなしのジェシカはきっぱりと告げる。


「別に、キスをしたからじゃありませんわよ。……多分」

「……明日の朝目覚めたら、すっかり消えてなくなっている気持ちじゃないでしょうね?」


 呆れたように呟き、がっくりとうなだれる。

 そんなことは絶対にないと思いたいが、どうなのだろうかと、首を傾げて考えていると、苦笑いの表情のままのシーガルが顔を上げた。


「本当に、嫌じゃなかったんですか?」

 不安そうなその顔がとても可愛くて。ジェシカはにんまりとしたまま顔を近づけて、ちゅっと、軽く口付けをした。先ほどよりも質感をもって感じられたその感触に、胸がときめく。

 ゆっくりと離れると、次の瞬間、シーガルはジェシカのことをきつく抱きしめて、離れたばかりの唇を重ねてくる。


 しばらくの間そのままで。あまりにも強く抱きしめられていたため、ジェシカはそこから逃れることなどできなかった。

 長い口つげが終わり、ジェシカは思い切り息を吸い込んだ。胸のときめき以外の要素でも息苦しい。その動作の途中で、またキス。胸がドキドキして、でも心地よくて。

 気付くと、唇は離れていて、きつく抱きしめられていた。


「もう、なんでもいいです」

 顔はまだ間近にある。

 熱っぽい瞳がジェシカの瞳と合うと、微かに細められて、見慣れた優しいものに変わる。


「キスのせいでもなんでもいいですから、俺のこと、好きになってください。俺の、恋人になって下さい。愛しています、ジェシカ様……」


 嬉しくて嬉しくて。こくこくと頷き、ジェシカはにっこりと笑った。

 こんこん。

 扉が叩かれる。驚いて、瞬時に離れた二人は赤面して、互いに顔を見合わせて照れ笑いを浮かべた。


 ジェシカは足取り軽く扉の前までステップを踏み、勢いよく扉を開ける。

 そこにあったのはナファイラの姿。

 いつもの生真面目な顔で、かすかに視線を落としてジェシカのことを見つめて頭を下げる。


「おはよう、ジェシカ。朝食後に一度訪ねたのだが留守で……」

 そこで彼は部屋の中のシーガルの存在に気づいたようだ。表情を変えずに、シーガルに対して会釈をした彼はふむと唸ってジェシカへと視線を戻す。


「申し訳ない。邪魔をしてしまったようであるな」

「へ? 別に、お邪魔じゃありませんわよ」

 慌てて返すが、ナファイラは苦笑を漏らしつつも頭を下げる。

 踵を返して去っていくその後姿を見て、ジェシカは慌てて駆け出そうとした。と、動きを止めて部屋の中のシーガルを振り返る。


「ごめんなさい、シーガル。ちょっとここで待っていてくださいっ。私、ナファイラにお話がありますの」

「……はい」

 微笑を浮かべて送り出してくれる彼に頷き返し、ジェシカは駆け出した。

 ナファイラに追いついて、彼の腕を取る。


「あのね、ナファイラ。私、シーガルのことが、ね」

 こちらを振り向いた彼の顔には相変わらず表情がなかった。ジェシカは真剣な顔をして、じっと長身の王子のことを見上げた。そしてはっきりとした口調で告げる。

「シーガルのことが、好きになってしまいましたの」

と。



     *




 眩しいお日様。

 城の屋上で、燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、ジェシカは晴れ晴れしい顔でくるりとターンをした。彼女のスカートの裾がひらりと舞う。

 良い天気だった。

 新しいジェシカの出発を祝うかのような、そんなぽかぽかとした陽気。

 真っ青に晴れ渡った空には、雲ひとつ浮かんでいない。


「そうか。それは、残念であるな」

 淡々とした口調で語ったナファイラは、手すりに身を預けて西の方角を眺めていた。そちらにはワイリンガの山脈がうっすらと浮かび上がっている。

 あの山を越えれば、ナファイラの祖国がある。


「是非にとも、連れて帰ろうと思っておったが」

「本当に、その気がありました?」


 唇に人差し指を当てて、小首を傾げて長身の王子のことを見つめる。

 風に靡く美しい銀色の髪。目にかかっている前髪が、彼の切れ長の瞳を露出させたり隠したりを繰り返している。その灰色の瞳は無機質だが、少しだけ悲しそうに細められていた。


「私は、ジェシカのことを愛しておるぞ」

 さらりとそう言ってのけて、微笑みを浮かべる。

 うんと大きく頷いて、ジェシカもまた笑みを浮かべた。その気持ちに偽りはないのだろうということは、ジェシカにはよく分かっていた。


「本音を言えば、貴女が本当に伏せこんでいたならば、強引にでも連れて帰ろうかとも思った。だが、確かに元気はなかったのかも知れぬが、私がおらずとも大丈夫だと感じられたからな。……おそらくは、シーガル殿が傍にいてくれたおかげであろう」

 彼の名前が出たことに、ぽっと頬を赤らめた。

 そんな様子を微笑ましげに見つめたナファイラは、風に舞う前髪を鬱陶しげにかきあげる。


「それに。今だから言えるが、シーガル殿が貴女のことを想っているのは気付いておった。一度、私は彼にジェシカを頼むと言ったからな。横から奪っていく事に気が引けたのがひとつ」


 青々と茂った丘の木々を見下ろしながら、ジェシカは手すりに肘をつく。

 少しだけ、そんなものは気にしなくても、なんて思いが込みあがってきたが、それは頭の隅っこに追いやった。


「もうひとつは、今回アリアに来るにあたって、ある人物からこんなことを言われたのだ。私はウィルフには必要がないから、そのままアリアに居残っても良い、と」


 それには驚いて、大きく口を開きながら勢いよく横を向いてナファイラを振り仰ぐ。

 そんなジェシカのことを横目で伺っていた彼は、微苦笑を浮かべた表情で、まるでジェシカのことを宥めるかのように、頭をぽんぽんと二度叩いた。


「実際の話、ウィルフの王になるのは誰でも良いのだ。わが国では王など、ただの飾りでしかないのでな。だから、飾りの王になる私などウィルフには必要がない。それこそシェスタやサーシャ姉上でも務まるからな。だがむしろ、そう言われたことで、余計に私はウィルフに残りたいと思った」

「ちなみに、それを言ったのって……」

「姉上だ」


 無気力そうな、ナファイラの姉の姿を思い浮かべて首をひねる。彼女とはあまり親しくはないが、人のおせっかいを焼くのは、少々意外であった。

 その思考は筒抜けだったのか、彼は苦笑を漏らしている。


「昔の私はな、ジェシカ。母を守ることさえ出来れば、それでよかった。騎士団の仕事はしてきたが、国政にまつわることなど触れもしなかった。

 だが、この数ヶ月はコーウェルと、イライザを救い出すために動いていた。そのために働いて来た中で様々な物が見えて、視野も広まった。今は、あの老いて朽ち果てようとしている祖国を、救うために働きたい。そう、思っておる。

 だが、あの時に貴女を待たせる約束をしていたら、おそらく私はあの者たちを救い出し、貴女の元へ帰る事だけを考えていただろう。

 ……この度、貴女と再会して話をしていたら、あのころの想いが蘇ってきてしまってな。実は少々、後悔しておったのだ。あの時、我が儘を言ってしまえば良かったと。そして今からでも間に合うとして、私は貴女と国と、どちらを取れば良いのかと悩んでいた」


「もう。悩んでいたのでしたら、とりあえずは相談してくだされば良かったのにっ。だめですわよ、一人で考え込むのって」

「言おうとしたぞ。一応な」


 思い当たらずにジェシカは首を傾けた。しばし考え込み、そしてふと気付く。ジェシカを待たせておかなかったことを、後悔しているとは、いつぞや彼の口から聞いた。そう、それは――

 あっと声を上げると、ナファイラはひとつ頷いて続ける。


「そう。言おうとしたその時に、彼が現れたのだ」

 あらあらと声に出して驚いて、ジェシカは思わず吹き出した。

「もぅ、シーガルったら。私とナファイラの応援をするって言っていましたのに」

「しかもついに彼はジェシカに思いを告げたのだから。私が出る幕はないと思った、というわけである。本日のことも……。常に後手に回ってしまったな」


 そう締めくくった彼も、ジェシカにつられるようにして笑みをこぼす。いつもの無愛想に、少しだけの感情がこもっただけの顔ではなく、声を上げて笑っていた。

 二人の笑い声は風に乗り、遠くまで運ばれていく。


 ひとしきり笑い終えたジェシカは、身を預けていた手すりから起き上がり、改めて整った顔立ちをした王子のことを見つめる。


「私ね、本当にナファイラのこと好きでしたわよ。今でも、シーガルの次に、好き」

「それは光栄であるな。ありがとう」

「ううん。私こそ、ありがとうっ」

 手を差し出すと、その手を握ってくれる。握手を交わし、二人はまた微笑みあった。


「さようなら、ジェシカ」

 胸が痛くなる。だが、それも少しだけ。

 ジェシカもまた、彼に対して別れを告げて、くるりと踵を返した。


 その背中には何も声はかかってこなかった。城内に戻る扉をくぐるときに、一度だけ振り返ると、ナファイラは遠いウィルフの空を眺めている様であった。

 ひらひらと紫色のマントがはためき、真っ青な空を見上げている彼。

 しばしの間、瞬きもしないでその様を見ていたジェシカは、勢い良くくるりと回り、走って扉をくぐった。


 螺旋状の階段をたん、たたんと、音を立てて足取り軽く下りていく。

 開きっぱなしの扉から風が吹き込んできた。

 ジェシカのスカートの裾が翻り、片手でそれを押さえた彼女の視界の片隅で、黒い何かがひらひらと揺らめいていた。それは黒い布のようなもの。階段を下りたところの壁側で、それは舞っている。


 その正体に気付いたジェシカはにたりと意地の悪そうな笑みを浮かべて、足音を立てないようにして急いで階段を下りる。

 角を曲がると、壁にもたれかかるようにして立っていたのはシーガル。俯き加減で物思いに耽るようにしていた彼は、突然顔を覗き込まれてのけぞった。

 ごきんっ。

 派手な音を立てて壁に後頭部をぶつけたシーガルは、頭を抱えてその場に蹲る。


「び、びっくりさせないで下さいっ」

「こんなところで、何をしていたんですの?」

 うっと、言葉に詰まって視線を忙しなくあちこちに向ける彼に、ジェシカは意地の悪い笑みを向けてやった。


「心配してたんですの?」

 それは図星だったらしく、頬を赤らめたシーガルは観念したようにがっくりとうなだれた。

 その様子が可愛らしくて、ジェシカは手を伸ばしてシーガルの頭をなでてやった。情けなさそうな顔をしながらも、彼はされるがままになっていた。


「ええ。そうですよっ。ジェシカ様が、また心変わりしたら嫌だなぁと思って……」

「もぅ。ちゃんと、私のことを信用してくださらないとっ。私が一番好きなのはシーガルなんですからっ」

 手を取って微笑を浮かべると、気まずそうに苦笑いをもらすシーガル。


「ねぇ、ねぇ。もう一度お墓参りにつきあって下さいな。お母様にも報告をしないとっ」

 ほんのりと頬を染めた二人は手を繋いでゆっくりと歩み始めた。

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