ジェシカ9
カミルの家に寄ると、彼の母からカミルはキャメロンと一緒に外に出たと聞かされた。
礼を言って、シーガルは裏門からフィクスラム邸の庭に入った。居間には灯りがついていない。ならばと、二階にあるキャメロンの部屋を見上げる。カーテンの隙間から漏れている光が、そこに人がいることをあらわしていた。
玄関をくぐり、階段を上る。
がたがたっと、何かが崩れるような音が響いてきた。家全体を揺らす振動に、とっさに階段の手すりに掴まってシーガルは二階を見上げる。
何があったのかは、容易に予想がついた。キャメロンの仕業に違いない。
「キャメロン?!」
慌てて駆け出し、キャメロンの部屋の扉を開く。
あまりこの部屋には入ったことはないが、物が整理整頓されていて小奇麗な部屋だったのは覚えている。だが、今の彼の部屋は、その記憶からはかけ離れた姿を晒していた。
壁側に立っていたはずの本棚が倒れ、書物やファイルが床に散乱している。机上も荒れているようだ。シーガルが扉を開けたときに生じた風で、紙がふわりと宙に舞う。
キャメロンは机の前に立っていた。いつもは愛嬌に溢れているその碧色の瞳はひどく冷ややかに、予期せぬ来訪者であるシーガルを映していた。彼の襟元は乱れ、マントは彼の足元に留め具といっしょに転がっている。頬を殴られたと思しきあとまでもある。
「幼馴染同士のちょっとした喧嘩ですよ。気にしないでください」
カミルを探して辺りを見渡すと、壁側に積みあがっていた本の山がどさっと音を立てて崩れる。本に埋もれるようにしてカミルは床に座り込んでいた。その頬は赤くはれ上がっており、腕には擦り傷や痣が見受けられた。
慌ててカミルに駆け寄って本を退けてやる。だが彼はシーガルの腕を払いのけて、剣呑な眼差しをキャメロンに向けていた。
「まあ、この際。シアの支えが誰であるかなんて、関係ないですかね?」
無機質な足音を立てて、ゆっくりとキャメロンが歩み寄ってくる。
「ちょ、ちょっと、落ち着けよっ」
立ち上がったカミルと、キャメロンとの間に身を割り込ませる。
こちらを見つめたキャメロンは無表情で。氷のようなその眼差しに、背筋が震え上がった。
しかしキャメロンはシーガルにはお構いなしで、言葉を続けた。
「でも、今の彼女に一番近い位置にいるのは、間違いなくあなたです。あの時からずっと変わらずに、彼女をシアと呼んでいたのは、あなただけでしたからね」
自嘲するように口元をゆがめ、視線を床に落とす。
その表情を見たカミルが息を飲む音が聞こえた。幾分か冷静さを取り戻したのか、カミルも俯いて低い声で告げる。
「それでも俺は、行きたいんだよ」
「分かっていますよ。誰もそれを止めようだなんて思っていません。ただ、黙って行こうとしているのが気に入らないんですよ」
「親父に、シアには会いに行くなって……」
「普段は親の言うことなんて聞いていないくせに、何を言っているんですか」
呆れたような口調で告げた彼は、苦い笑みを浮かべてくるりと踵を返す。
いつもの雰囲気に戻った彼に安堵して、シーガルは警戒を解いた。だが、未だにカミルは堅い表情のままで、体を堅くしている。
「周りなんて気にせずに、あなたが会いたいと思ったときに、会いに行けば良いんですよ。僕でもシーガルでも、その手伝いはして上げます。それに……」
屈んで机の横に落ちていた本を手に取り、ぽんぽんと埃を払うような仕草をした彼は、にっこりと微笑んで片手を前に出した。
「シアが会いたいと言うのなら、あなたの意志なんて関係なしに、会わなければならないんです」
それは無茶苦茶だっ、と叫ぼうとして異変に気付く。来るっとカミルが鋭く叫び、シーガルの背中に隠れた。キャメロンがこちらに向けている掌に、魔力が集中する。
「シーガル、あの酔っ払いから俺を守れっ!」
カミルの絶叫。
「そんな無茶なっ」
無我夢中で目の前に魔力で構成された壁を作る。だが、防御壁の完成より先に、キャメロンの魔法は完成していた。ただ何を考えているのか、彼はまだそれを放たない。
「まぁ、とにかく。シアが泣くのは嫌なんですよね」
シーガルの防御のための壁が完成したのを見止めて、キャメロンは爽やかな笑みを浮かべた。彼のこんな笑顔を見るのは初めてかも知れないと、場違いな感想を抱いていると。目の前の風景が一瞬ぼやけて波打ち、その直後キャメロンの掌から衝撃波が放たれる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
キャメロンの起こしたそれはシーガルの防御壁によってその威力を殺される。風圧に飛ばされた本が顔面に激突し、意識を持って行かれそうになるが、何とか堪えた。
そこですかさずキャメロンの魔法の第二陣。
シーガルが何かを考える間すらも与えずに、突風が吹き荒れる。散乱していた本、紙、棚。重い軽いをいとわず、一斉に浮かび、襲いかかってくる家具達。
ふっと体から重力が消えたと感じられた直後、シーガルとカミルの体は持ち上がり、風に飛ばされて背後の壁に激突をした。幸いと言うべきか、カミルがクッションになってくれたおかげで、シーガルには擦り傷以上の怪我はないようだ。
「ひーちゃんが言っていたんですけれどね」
風が止む。
糸が切れたかのように、宙に浮いていた物が一斉に床に落ち、シーガル達に降ってくる。
「最近、シアはよく笑うようになったと。悪夢にうなされて一人で泣いていることも、少なくなってきたと」
語りながら彼はゆっくりと歩み寄ってくる。
カミルのうめき声が聞こえ、シーガルは慌てて身を起こして、下敷きになっていたカミルの無事を認めた。頬からは血が流れ、衣服も所々破けているが、命に別状があるほどの怪我は負っていない。
「あなたが何も言わずにいなくなってしまったら、また、逆戻りですよね」
「俺がシアの支えになっているわけなんてねぇよっ。お前やひーちゃんがいれば大丈夫だろうっ?!」
「またそれを言いますか。もう一度殴りますよ?」
目の前で立ち止まり、彼は冷ややかな眼差しでシーガル達を見下ろす。
あまり詳しい事情は知らないが、カミルの態度が煮え切らないと言うのもまた事実。暴力からカミルを守ることはしなければならないが、話し合いには口を挟むことは出来ない。
「ディラックが自分の前から去っていくことに対して何も出来なかったと、彼女はずっと自分を責め続けていたんですよ? 僕は嫌ですよ。あんなシアを、もう一度目にするのは。……あなたは死にに行くわけではない。でも、大切な人が彼女の元から離れていくのは、あの時と同じですから、きっと重ねてしまいますよ? こんなことは僕に言われるまでもなくて、あなたの方が、ちゃんと分かっているはずですよね」
「俺だって、あんなシアは二度と見たくねえよ……」
カミルは俯き、ぎゅっと手を握りしめている。
何も口を挟むことは出来ずに、シーガルは黙って二人を見比べていた。
「あの時、僕は彼女に手を差し伸べることを躊躇ってしまいました。彼女に姉を重ねて、自分では救えないかもしれないと臆病風に吹かれて。でも、あなたは彼女に手を差し出しましたよね? 一度、手を引いてしまったんですから、ちゃんと最後まで責任を持ってください。その手を放すか繋ぎ続けるかは、あなた次第でしょうけれど」
キャメロンは屈み、カミルの肩に手を置いた。
カミルは複雑な表情のままで顔を上げる。
にっこりと微笑んだキャメロンは、おもむろに手にしていた本を振り上げて、カミルの頭をぶん殴った。悲鳴を上げ、涙目になりながらカミルはキャメロンの胸ぐらを掴もうとするが、それよりもキャメロンの行動は早かった。
「僕からの誕生日プレゼントです。と、伝えておいてくださいね」
カミルの手の上に魔道書を乗せたその瞬間、この場からカミルの姿がかき消される。
呆然と、シーガルはその様を見つめていた。多分、こんな魔法の使い方は今のシーガルには出来ない。そう思うと、少しだけ自分の魔法兵団員としての自負が傷つく。
ぱんぱんと手を叩きながら立ち上がったキャメロンは、少しだけうんざりとした顔をして部屋を見渡していた。「ずいぶんと散らかってしまったなぁ」などと、のんきに呟いている彼に、「自業自得だ」と心の中でツッコミを入れる。腹立たしいのは分からないでもないが、やりすぎである。
「おまえ、あんなのがカミルに当たっていたら、大怪我をしてたぞ」
「大丈夫ですよ。シーガルがいたから、思いっきりやったんです。彼の態度は腹が立つでしょう? ついでに言うと、あなたの態度も苛立たしいので、巻き添えを食らわしてみました」
微笑みながらさらりと言ってのけたその言葉に、頭が痛くなってくる。
「でも、良いのか?」
それだけでシーガルの言いたいことは彼に伝わったのだろう。机を起こしてそこに寄りかかった彼は、苦い笑みを浮かべて肩をすくめた。
「もう、五年は言ってるんですよ? お姫様なんて大嫌いだって……」
窓を開けると、涼しい風が室内に吹き込んでくる。風がキャメロンの柔らかい金髪を撫でていた。気持ちよさそうに目を細めた彼は口元に笑みを浮かべて、丘の上に浮かび上がる灯火を見つめる。
「まあ、カミルにとって、これは良い機会なのかも知れませんね。あんな態度ばかり取られると、こっちまで腹が立ってくるんですよね」
何のかんの言っても、キャメロンはカミルのことも心配しているのだろう。家が隣だったこともあり、二人は兄弟のように育ってきたと聞く。
唐突にキャメロンは振り向いた。
優しげな顔をして、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「あなたも……」
唐突に自分に話を振られて、瞬きをする。彼は穏やかな表情をそのままで、告げる。
「あなたも、自分の心を偽らないで下さい。……僕は、応援していますから」
そんな言葉に、不思議と胸が温かくなってきた。
「ああ。ありがとう」
それを言われて、自分がどうしたいのか決まったわけではない。だが、ひとつだけ、確信したことは、あった。
頷いて、シーガルはキャメロンに笑みを返した。
* * *
扉を薄く開いて廊下の様子を見た。
こちらに背を向けて、灰色のワンピースを身に纏った老婆が仁王立ちをしている。
つかつかと、誰かが歩いてくる足音に気付き、カミルは音が立たないようにそっと扉を閉めた。
「ボリュドリー様。このような時間まで見張りをされなくとも、あとは我らがレティシア様の身を守りますゆえ……」
「いいえっ。私の目の黒いうちは、何人たりともこのお部屋には入れるわけには参りません。今日は特に嫌な予感がするでございますからね」
鍵をかけながら、「ついに怪しい魔力でも身に付けやがったか」と毒気付く。
窓から差し込んでくる月明かりだけが、部屋の中を照らしていた。
この部屋の主であるレティシアはすでにお休みのようであった。よほど疲れていたのか。寝間着姿で、ベッドの上で倒れるようにして寝ている。
キャメロンの魔法によって強制的にこの部屋に転移されたカミルは、キャメロンからの贈り物であるという魔道書を片手に、レティシアの傍らに座り込んだ。
すやすやと健やかな寝息を立てる彼女に布団を掛けてやり、無邪気な寝顔をぼんやりと眺める。
彼女の横にはカミルがシーガルに渡した紙袋があった。そして、彼女の手の中には白い便せんが。カミルが彼女宛に送った手紙だ。
――最初は、ターチルになど行く気はなかった。
将来、アリアの王都から出たいとは思っていたが、それが今だなんて考えていなかった。まして、長年の敵国であったターチルに行くなどとは……。
「しつこいんだよな、あのおっさん」
膝の上で頬杖を付いてひとりごちる。
平和式典以降、頻繁に手紙が来るようになった。そして、この度は直接ダンがやってきた。彼はターチルの医療事情について熱心に語り、アリアの医者へ協力を要請したいと言っていた。
マックスの勧めで、ダンはアリアの他の多くの医者達とも話をしていたにもかかわらず、それでも彼は、カミルに言ったのだ。
「やはり貴様が良いぞ。貴様に我が国を見せたい」
と。
何がそんなに見込まれたのか分からない。
彼がカミルを勧誘するのなど一時の気まぐれで、すぐに飽きて放ったらかしにされるかも知れない。遊び相手が欲しいだけかもしれない。
それでもカミルは一度、彼の国を見てみたくなってきた。多分カミルはダンのことが気に入っているのだと思う。全ては、それが理由なのかも知れない。
なんとはなしにレティシアの髪を指で梳く。さらさらと指の間から零れていく淡い金色の髪。それはまだほんの少し湿っていた。
「ちゃんと、髪を乾かしてから寝ろよ。だから風邪引くんだよ」
ため息混じりに文句を言うが、当然彼女に届いているはずもない。
ふとキャメロンの言葉が頭をよぎっていく。
『いいかげんに、シアが特別だということを認めなさい』
それに否定をしてから、取っ組み合いの喧嘩が始まったのだった。騎士としての訓練を受けているキャメロンに勝てるとは思わなかったが、とりあえずは一発殴ったので良しとしよう。
と、その時のことを冷静に思い出し、カミルは口元に苦い笑みを浮かべながら髪をかいた。
「ありゃあ、殴らせてもらったっつうのが、正解かも知れないけどな」
自分とレティシアはただの友達である。最近はジェシカの社会勉強のせいもあって頻繁に顔をつきあわせていたが、それ以前は月に一度、会えるかどうかの仲だった。
確かに、結構気が合うし、彼女と話をしたり、彼女をからかったりするのは楽しい。友達として好きであると、それは認める。しかし、恋愛感情なんて持っているはずがない。彼女とはただの友達でいようと、幼い頃にそう決めたのだ。自由に会うことも、話すことも、触れることも出来ない女なんて、絶対に好きにならない、と。
だから――
ずきりと頬が痛んで、なんとなくそこを撫でる。
「ちくしょう、思いっきりやりやがって。人のことを心配する前に、自分の事を心配しやがれっ」
外へと視線を向けた。町の灯りが微かに目視できる。帰る方法を探さないといけないな、と呟いて立ち上がろうとした、まさにその時。
「行かないで……」
手をきつく握られて、どきりと鼓動が高鳴る。
起きてしまったのだろうかと、どきまきしながら彼女の顔を見つめると、もう一度。
「行かないで……、ディラック」
その名前を聞いて、思わず脱力をした。
彼女の頬を涙が伝っていく。
「まぁ、そうだよな」
一瞬期待した答えと異なるその名前に、口元に苦笑いが浮かぶ。
「ディラックの夢を見るのも、もう終わりにしろよ」
頬の涙を指で拭ってやったあとで鼻をつまんでやると、うーんうーんとレティシアは唸る。
「いつまでもそんなんだと、俺も安心して行けねぇじゃんかよ。いつまでも世話やかせんなよ、ばぁか」
鼻から手を外し、彼女の手をきつく握りしめてやった。しばらくすると唸り声がぴたりとやんで、後に残されたのは健やかな寝息。
再びキャメロンの言葉を思い出す。
「……俺が、また、その夢を見させてるのかな……?」
そう呟いて、カミルは苦笑いをため息をついた。
彼女の手は小さくて温かくて。どこか頼りなさ気なその手を放すことが出来ずに、カミルはベッドに腰をかけたまま、レティシアの手を握りしめていた。
* * *
――手を伸ばしても、届かない。
『行かないでっ!』
どんなに叫んでも、彼には届かない。
自分が泣いたら、どんなことがあっても駆けつけてくれたのに。どれだけ泣いても、あの人の背中は遠ざかっていくだけ。
引き留めたくて。
立ち止まらそうとして。
必死で手を伸ばしても、距離は離れていく。
自分が子供なのがいけないのだと思った。大人だったら。もっと賢くて、何でも出来る人間だったら、助けることが出来たのにと、自分を責めた。あの手を、ずっと掴んでいられれば――と。
そして。
彼を止めることが出来ないのなら、せめて。
せめて、一緒に行きたいと、そう、願った。
手を伸ばす。
必死で、彼の、背中に向かって。引き留められないなら、一緒につれていって欲しい、と。
ふいに手を引かれた。
誰かが怒っている。「行くな」と言って。「バカなことを考えるな」と言って。
――だんだんと世界が白くなっていく。
そんな中で自分は、誰かに手を引かれて歩いていた。優しい言葉も、何もかけてはくれないけれど。ただ、手を繋いでくれているのが嬉しかった。
隣にいるのが、とても心地よくて――
ゆっくりと目を開く。
泣いてたのか、視界が涙で激しくぼやけていた。
レティシアはぼんやりと天井を仰いでいた。
パーティのあと、カミルからの贈り物に入っていた手紙を読んでいるうちに、ベッドの上で寝ていたらしい。
彼からの贈り物はプリン。
――あれは今よりもずっと子供の頃。
レティシアとカミルがお気に入りの、ラグナーという男がやっている料理屋で販売しているプリン。
一日限定十個販売のそれをすべて買い占めて、成人の誕生日に贈ってくれると約束させたのだ。その代わり、もしもそれが出来たら、ご褒美にレティシアはカミルの言うことを何でも聞いてやるという交換条件つきで。
その交換条件の内容は、手紙の最後に綴ってあった。
レティシア宛の手紙を取ろうとして、右手が何かを掴んでいることに気付く。
ゆっくりと視線を横に移すと、そこには仏頂面のカミルが座っていた。何があったのか、衣服は所々切り裂かれ、むき出しになった肌には幾本もの擦り傷が走っていた。
驚いたが、彼と会えたことが嬉しくもあった。
ゆっくりと、身を起こす。
「ひとつ。説教」
身を固くしながら頷くと、カミルはつり気味の瞳をより一層つり上げて、レティシアのことを睨んだ。
「おまえ、いつまでディラックの夢を見てるんだよ。いい加減に自覚しろよっ。今のお前には、もっと傍で支えてくれている人がいるって」
唇を噛んで、俯く。そんなことを言われても、分からない。
ずっと傍にいてくれると思っていたカミルは、自分から離れていこうとするのに。
「キャロなんかの態度はあからさまだし。ひーちゃんは雑用を頼むなんて口実を付けて、忙しいのに頻繁にお前と顔を合わせてるだろ。ジェシカは……俺が言わなくても、分かるよな」
「うん……」
暗い表情で、相づちだけは返す。
何を言ったらいいのか、レティシアには分からなかった。言いたいことはたくさんあったはずだ。だが、うまく言葉が出てこない。
ただただ、彼の手を握りしめる。
沈鬱な雰囲気に耐えきれなくなったのか、カミルはいつもよりも大きな声を出して、話し出した。
「お前、布団にも入らずに寝ると、風邪引くぞ」
「うん……」
「本当、一年中風邪引いてるよな。健康管理が出来るようになるなり、体力を付けるなりしろよ」
「うん……」
「……。これ、キャロからの誕生日プレゼント、らしい」
「うん……」
沈黙。
カミルは面倒くさそうに頭を掻いて、横目でレティシアのことを見る。
「……手。放せよ」
「いや」
がっくりと、大げさに肩を落としてカミルはため息をついた。
そんな彼の様子をじっと見つめて、レティシアは彼の手をきつく握り締めた。
「だって……。放したら、カミル、行っちゃうもん」
カミルは驚いたように目を見開く。しかし何も言葉には出さずに、息を飲んで、レティシアのことを見つめていた。
静寂が、辺りを支配する。
「まず、聞け」
手を握り返され、少しだけ胸が温かくなる。
彼は多分、自分の手を無理矢理には振り払ったりはしないという安心感で、胸が満たされる。
「俺には姉貴がいるだろ? 今、家にいる兄貴の嫁じゃなくて。実の姉の方」
「ええ。会ったことはないですけれど、話には聞いたことがありますわ」
「アリアの外れの方には、医者もいないような村がいくつもあってさ。あいつはその辺を転々として、病人を診てる。ほとんど金も取らないでだ。正直、姉貴のそういう生き方はかっこいいと思ってる」
相槌を打ちつつ、カミルにもたれかかる。すると控えめに、彼は片方の腕でレティシアの肩を抱き寄せてくれた。薄い寝間着を挟んで感じられる彼の温もりが、ひどく心地よかった。
「で、いつからか。俺も姉貴みたいになりたいって、思ってた。でもさ。旅なんて不安だし、独り立ちする自信もなかったしで、いまいち踏ん切りがつかなかった」
その言葉のあとで、呟くように「この町にはお前もいたし」と発する。
驚いて顔を上げるが、カミルはレティシアの頭を押さえつけて、目を合わそうとはしてくれない。
「実は、少し考えたこともあるんだ。お前と陛下のコネを使って王宮仕えになるってのも、いいかなって。でもさ。俺がやりたいのは、そういうのじゃないから……」
緊張しているのか、カミルの鼓動が妙に早く感じられる。
自分の手を握る手が、しっとりと汗ばんでいた。
「それで、あのおっさんに会って。あとは手紙に書いたとおり。読んだんだろ?」
頷く。
「で、一度、あのおっさんの国を見てみたいって思った。家を出て、他のところでやっていくための、良い機会になるとも、思った」
きらきらと輝いている瞳を見て、レティシアは口元だけに笑みを形作る。
彼には自分のやりたいことがある。それはレティシアが邪魔できることではないし、彼を大切に思っているならば、むしろ応援しなければならないのだとは、頭では分かる。
だが、この手を放したら、もう二度と自分の元には帰ってきてくれないような気がして。何も言えず。ただ黙って、手をきつく握りしめる。
「お前とは色んな約束したけど……中には、ビッケが勝手にした約束なんかもあったけどさ。お前は全然覚えてないよな。プリンとか、忘れてただろ?」
隠しても仕方がないため、レティシアは素直に肯定をした。
「プリン、ありがとう。交換の約束も、分かりました……。でも、変なところで律儀ですわよね、カミルって」
ご褒美に彼が望んだもの。それは、半年前の約束の取り消しだった。無論、レティシアはそんな物は忘れていた。――半年前、レティシアの誘拐騒動の折り、彼は確かにこう言っていた。『レティシアが行くなと言うなら、ターチルには、行かない』と。
カミルは不満そうに唇を尖らせて、決まりが悪そうにそっぽを向いた。
「うっせぇなっ。てめえと違って記憶力が良いんだよっ」
自分との約束をきちんと守っていてくれたことが、嬉しい。むくれているカミルの横顔を見て、思わず吹き出した。
「それに、お前にとってはどうでも良い事だろうけど、昔の俺にとっては、そうじゃなかったんだよ」
そんな言葉が、何故かとても胸に染みてくる。
――手を放したら、行ってしまう。
分かってはいたが、自分には彼を縛り付ける権利など何もない。そう思って、そっと手を引いた。
しかし手が離れた瞬間、瞳から涙がぽろぽろとこぼれ出してきた。
困ったような顔をして、カミルがレティシアの顔をのぞき込んだ。
「ごめんな」
頭の中はぐちゃぐちゃで、何を言ったらいいのか分からない。
だが、今言わなくてはならないことはたくさんあるはずだ。喉に引っかかっている言葉を、懸命に口に出そうとする。
「わたし、応援、してます、から」
「ああ……」
「気を付けて、ください、ね。ターチルには、アリアの人間を、良く思っていない人も、いるでしょうし」
「ああ……」
「はやく、りっぱな、おいしゃさんに、なれると、い、いい、ですわ、ね」
「ああ……ありがと、な」
礼を言われ、優しそうなカミルの瞳に気付いた瞬間、堪えていた物があふれ出した。
ひっくひっくと嗚咽を漏らし、片方の手でシーツを握りしめ、もう片方の腕で目元を拭う。
「わたし、ねっ。ほんとうは。いって、ほしく、ない。寂しいときに、ね。そのときだけでいいから、お話をしてくれれば、よかったの」
「そ、そんなの。キャロだって、ひーちゃんだって……」
カミルは戸惑ったように瞳を揺らして、レティシアの肩を掴む。だが、レティシアは何度も何度も首を振った。
「かみるじゃなくちゃ、やだ……」
レティシアの肩を掴む手が、ぴくりと震えた。
「いつも会えなくたって。わたしのことを、特別な、ひとりにしてくれなくてもいいの。ただ、傍に、いさせてほしかった」
彼が自分のこと友人と言ってくれて。寂しいときに、ふと会いに行って、そこに彼がいてくれるだけで良かった。それだけが望みだったのだ。
カミルは恐る恐るといった風に、控えめに手を伸ばして、レティシアの頬を伝う涙を指で拭う。
顔を上げる。すると、自分を直視する漆黒色の瞳にぶつかった。いつになく真面目な顔をして。熱っぽい、少しだけ潤んだ瞳。
まるで知らない人のような、今までに見たことがないその表情に、レティシアの鼓動は高鳴った。
そんな自分の心に戸惑い、驚き。流れていた涙が、ふと、止まる。
レティシアの頬を撫でていたカミルの手が止まる。そして彼は頬に触れたまま、ゆっくりと目を伏せて、顔を近づけてきた。
ぼんやりとした意識の中でそれをみとめて、レティシアもまた、瞳を閉じた。
――そして。
むぎゅっと頬を引っ張られ、驚いてレティシアは目を開いた。
カミルは俯いていた。片手でレティシアの頬を抓って。もう片方の手で自らの口を押さえて。
しばしあと、大きく息を吐き出した彼は顔を上げて、真っ向からレティシアの瞳をのぞき込む。
「ばぁか。何、目ぇ瞑ってるんだよ」
真っ赤になって、レティシアは慌てて身をのけぞらせた。
自分の行動にも驚いたが、それよりもカミルの態度に戸惑っていた。彼は見慣れた、人をからかう時によく見せる悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「ああ、ちくしょう。むかつくなぁ」
ぐにぐにとレティシアの頬を引っ張るカミル。
「腹が立つのはこっちよっ。なによっ! 人が真面目な話をしているときにっ!」
レティシアは膝の上にあった分厚い魔道書を手に取り、思い切り振り下ろした。それはカミルの頭に直撃する。悲鳴をあげながら、彼は頭を抱えるようにして布団に寝転がった。
「てめぇ、角で殴るなっ、角でっ!」
「うるさいっ。あなたが悪いっ」
「俺が何をしたっていうんだよっ。てめえが勝手に目をつぶっただけじゃねえか」
言葉につまり、唇をぎゅっと真一文字に結ぶ。それはそうなのだが、その前にカミルがじっとこちらを見るから、てっきり――などとは、口が裂けても言えない。
ふつふつと、胸に怒りが込みあがってくる。
レティシアが再び魔道書を振り上げると、防御のためか、カミルは枕を盾にする。勢いよく振り下ろした魔道書は、枕に当たって押し返された。
「あなたなんて、大っ嫌い! ターチルにでも、どこにでも、行っちゃえ!」
ぜぇぜえと肩で息をして叫ぶ。すると、枕の端からこちらを見上げたカミルが、何がおかしいのか声を上げて笑い出した。
胸を占めているのは怒りだったはずだ。しかし屈託なく笑い続けている彼の顔を見つめていたら、怒っているのが馬鹿らしく思えてきた。
「ついに出たな、大嫌い」
身を起こし、カミルはまたしてもレティシアの頬を引っ張った。笑いのあまり目尻に涙をためた、悪戯っぽい瞳が細められる。
そして、
「でも俺は、シアのことが好きだぜ」
悪びれなくそう言って、にっこりと微笑むカミル。
彼がこんな顔をするのは非常に珍しい。レティシアはその顔に見とれた。
しばらくして我に返ると、胸が息苦しくなってきて、意識が朦朧としてくる。
「ああ、ちくしょう。むかつくなぁ。お前のことは、絶対、そういう対象として見るもんかって思ってたのにさ」
そんなことを呟きながら、レティシアの頬から手を離して、カミルは体を起こした。
「そういう、対象って……?」
「友達以上。つうか、特別なひとり、っつうか。あぁーあ。この際認めるよ。俺はお前が好きだ。本当はずっと傍にいたいし、手を繋ぎたいし、抱きしめたいし、キスもしたいし、それに……どわっ」
ほとんど衝動的に、レティシアはカミルに抱きついて、再び彼をベッドに沈める。
「おいっ! 抱きつくなっ」
頬を染めながら怒る彼に対して、レティシアは微笑みを向けた。それを見て、カミルの顔がますます赤くなる。
嬉しくて嬉しくて、目からは涙がこぼれてくる。泣きながら満面の笑みを浮かべて、至近距離でカミルの瞳をのぞき込んだ。
「いいよ。私もカミルが、好き……だから」
その言葉を聞いた瞬間、口元を引きつらせて、笑っているのか怒っているのかよく分からないような表情になるカミル。ごくりと生唾を飲み込む音が、レティシアの耳まで届いてきた。
手が伸びてきて、涙のあとを消すようにレティシアの頬を撫でる。
静かに時が流れていく。
レティシアはされるがままで、じっとカミルの瞳を直視していた。瞳を逸らさずに、まっすぐに。
「でも、だめだよ。俺、ずっとお前の傍にいてやれない」
ゆっくりと引かれていくカミルの手を、自分の指を絡めるようにして握りしめる。罪悪感と、労りとが交錯するようにこちらを見ているカミル。
「あのね、カミル」
「ん?」
言葉に迷い、一度口を閉ざす。
ジェシカのこともある。自分の立場というものも、一応は理解している。だから、それが無理なことは分かっている。
自分だけそれをしようとするのはずるいと思うのだが、言わずにはいられなかった。
意を決して、口を開く。
「私も、一緒に行きたいの」
「はぁ?」
意表をつかれたらしく、つり気味の瞳を丸くして、カミルはレティシアのことを見つめる。
その反応に満足をして、悪戯っぽい笑みを浮かべたレティシアは、カミルの頬を引っ張って、もう一度告げた。
「私も、連れて行って」
「だめだよ」
「どうして?」
「だってお前、体力ないし、すぐに熱出すし。俺だってお前の面倒を見られるかわからないし。……無理だって」
「やだ、行く……。わたしは、カミルの隣にいたい……」
縋りつくような顔をして、じっとカミルのことを見下ろす。その熱っぽい瞳を真っ向から見返したカミルが、息を飲んだ。
やがて、カミルはレティシアの頭を無理矢理に抱え込むようにして、きつく抱きしめた。
「ごめんな」
そう、呟いて。




