ジェシカ8
アリアの城下町の中央広場。文字通り町の中心部に広がるその広場には、多くの国民が詰め掛けていた。
国主催のレティシアの成人祝いに伴い、愛する姫が中央広場で挨拶をするとあって、集まった人々は興奮をしているようだった。
むろん、騎士団やら魔法兵団。さらには近衛兵まで総出で広場の警護についている。シーガルは広場の入り口付近に待機していた。
隙間がないのではないかというくらいに人が押し寄せているのに反し、中央広場には静寂の時が訪れている。
聞こえてくるのは、少女のよく通る穏やかな声だけであった。
中央広場の一角に位置する建物。そのバルコニーにジェシカ達はいた。
先ほどからレティシアが本日の祝福の場に対する礼の言葉を述べており、愛する姫の言葉を聞き逃さないようにと、皆は静かにその話を聞いている。
レティシアの背後に立っているジェシカは、遠目からでは詳しくは分からないが、おそらく退屈しきっているのだろう。先ほどから、きょろきょろと辺りを見渡していた。
ここでの仕事が終わってから、カミルの家に行って、城に戻って、と、頭の中で本日の予定を立てていると、目の前を見慣れた人間が通過していく。外へと出る方向に。
「カミル?」
きょとんと瞬きをして、意外な来訪者の姿をみつめる。その声に気付いたカミルもまた目を瞬かせて振り返る。
「あれ? シーガルじゃん。偶然だな」
「こっちはちょうど良かった。お前に用事があったんだよ」
煩かったらしく近くにいた男に睨まれたシーガルは軽く頭を下げて、顎で広場の外を指す。同僚に小声で許しを得て、シーガル達は広場から外に出た。
広場から外に出ても、一目でも王族を見ようとしている国民たちの姿がある。
「まさか、ここでお前に会うとは思ってなかったよ」
「何で?」
「いや、その……レティ様は、お姫様だし」
木々の上から姿を覗かせている建物を見上げる。
空色のドレスは眩しくて。穏やかなその微笑みも、その声も、その振る舞いも、普段ジェシカと接しているときに見せる物とは全然違って見えていた。そう、まさしく遠い世界のお姫様のようなのである。お姫様嫌いの――正確にはお姫様として振舞っているときのレティシアが嫌いと思しきカミルが、わざわざそれを見に来るのは意外だった。
シーガルにつられるようにして、カミルもまた目を細めて建物へと視線をやった。
この位置からはレティシア達の姿など見えない。それでも、彼は目を逸らそうとはしなかった。彼が見ている先には何があるのか。それはシーガルには分からない。だが、そんな横顔を眺めていると胸が痛んできて、思わず視線を外した。
「ま。しばらく会えなくなるかもしれねぇし。見納めって奴だな」
肩をすくめて背を向ける。そのまま歩いていこうとするカミルの腕を掴むと、彼は乱暴にその腕を振り払った。
「ジェシカ様に頼まれたんだ。お前をあの人と会わせてあげたいって」
「親父に、もう二度とレティシアに会いに行くなと言われた。親父は同じ事を、レティシアにも言ったらしいぜ」
レティシアの様子がおかしいというのも、それが原因なのかもしれない。
「俺が周りにはばれないようにしてやるからっ、だから……」
「人のことを心配してる場合かよ。レンから聞いたぜ」
ぎくりとして、次に発しようとしていた言葉を失ってしまった。
「まぁ、やれるだけやってみたらいいんじゃねえの? 相手は強敵だし、俺が言えた義理でもねえけどさ」
そんなシーガルににやりと意地の悪そうな笑みを送ったカミルは、手をひらひらと振って歩き出す。がんばれよ、と一言残して。
だが少し歩いた彼は何かを思い直したように振り返って、戻って来た。そしてシーガルに紙袋を渡す。
「今日中にレティシアに会ったら、渡しといてくれよ。会えなかったら、みんなで食って良いや」
その言葉から、袋の中身は食べ物ということになるのだろうが。中身が何かを聞こうとしたが、それより先にカミルは走り去ってしまった。すぐに彼の姿は人混みに紛れてしまう。
追いかけたが、再び見つけ出すことは出来なかった。仕方なく立ち止まって、腕の中の紙袋を見下ろす。ずっしりと、質量が腕にかかる。
「誕生日プレゼントって、ことなのかな」
人ごみにさらわれそうになるのを必死でこらえながら、ぽつりとシーガルはつぶやいた。
だが、その直後聞こえてきた大歓声に、その声はかき消されていた。
* * *
日が沈んでから始まった誕生パーティ。
ヒツジにエスコートをされたレティシアの登場から始まって、彼女の挨拶、アリアで有名な合奏団の演奏など、会は順調に進行しているようである。
レティシアは挨拶回りで忙しいようだ。
多忙な彼女の姉であるジェシカは、時折貴族たちに挨拶をされたりはするものの、それ以外はいつもと何一つとして変わらない。傍らにキャメロンを従えて――彼は、日ごろの役割をヒツジに取られたらしく、こういうときだけずるいと文句を言っていた――、ご馳走を食べることに夢中であった。
「ジェシカ様、あっちに新しいデザートが来ましたよ。苺のケーキですね」
「まぁ、それじゃあ、参りましょうか」
くぴくぴっと音を立ててワインを飲み干したジェシカは、同じくグラスを空にしたキャメロンと並んで端の方へと歩いていく。
デザートを盛ってくれるキャメロンを壁の前で待ちながら、ジェシカはぐるりと会場を一望した。
レティシアは相変わらず挨拶回り。ナファイラはアリアの娘達の踊りの相手をしたり、はたまた貴族達の話を聞いたりと、こちらもまた大人気のようである。レンは少し前にキャメロンに教わっていたステップを、アリアの貴族との踊りで披露していた。
「ジェシカ、こんなところで油を売っていても良いのか?」
ワインを片手に歩いてくるヤンの姿を見て、ジェシカはにぱっと頼りない笑みを浮かべた。そしてキャメロンも加わって、三人で他愛のない話を始める。
「ところでジェシカ。……その。お前は、ウィルフに、嫁ぐのか?」
話の合間、唐突にそんなことを問われて、ジェシカはぱちくりと瞬きをした。
ヤンはなんとも気まずそうな顔をして、ぽりぽりと頬をかく。
「あー。レンが、騒いでいたんだ」
「ああ、もぅ、レンちゃんったら」
あははと曖昧な笑みを浮かべて、ジェシカは気を利かせて席を外そうとするキャメロンの腕をひっつかむ。
会話を出したヤン自身も気まずそうな顔をして、視線を忙しなくあちこちへと向けていた。
「その……ジェシカは、彼のことが、好きなのか?」
どきりとして、思わずジェシカはキャメロンの背中に隠れた。
「あのー、そのー。うん。まぁ、そういうことになるんだと思うのですけれど」
ねぇと意味もなく、微笑ましげに二人の会話を聞いていたキャメロンに尋ねる。彼は微笑んだまま、「そうですね」と頷いた。
がっくりと肩を落とし、ヤンは苦い顔をする。
「それじゃあ、シーガルは?」
再びどきりとして、ジェシカは固まった。
これも多分レンからの情報なのであろうが。そんなことを突然聞かれても、困る。
「好きでは、ないのか?」
「す、好きと言ったら好きですけれど……。その、なんというか、お目付役だし」
その割には、あれからという物の、彼の名前を聞く度に胸がドキドキしてしまって困っている。これではまるで、図星を指されて狼狽えているようではないか。
周りの人間からは「好きだろう」と肯定をされて。もしかしたらそうなのかも知れないと迷っている自分がいる。いつも口にしている「お目付け役だから好き」とは違う感情が、何だか少しずつ芽生えてきているような――。
「好きなのか……」
何を一人で納得しているのか、沈んだ口調でヤンが呟く。
「そ、そうなのかしら?」
キャメロンに問うてみると、彼は意地悪そうな笑みを浮かべて首を傾げてみせる。
「意外と、本人は気付いていないだけで、そうだったりするか知れませんね。と、すると、フタマタですね」
「そ、そんなこと……」
ないとは言いきれないが、あるわけはない、とは思いたい。おろおろと狼狽えて、ジェシカはキャメロンの背中にぺったりとくっついた。彼と目を合わせていると、ジェシカでさえ気付いていない胸の内が読みとられそうで、怖い。
「じゃ、じゃあ」
思い詰めた顔をしたヤンが顔を上げる。何度か深呼吸をして、発せられようとした言葉を不意に止めた彼は、目の前のキャメロンを指す。
「キャメロンは?」
「大好きですわよ。おいしいお菓子をくれますし、遊んでくれますし。優しいし」
「ねっ」と微笑みを送ると、彼は「光栄です」と返して頭を下げる。
だが、ヤンにはそんな返答などどうでもよかったらしい。一歩前に詰め寄ってきて、頬を染めて。決死の覚悟とでも言わんばかりに、鼻息荒く声を振り絞って問うてきた。
「じゃ、じゃ、じゃ、じゃ、じゃあ、俺は?」
「ヤンのことも、好きですわよ。だって、お友達じゃないですの」
けろりとして、キャメロンの後ろから顔を出して告げると、「そうだよな」と乾いた笑みを浮かべて、ヤンはがっくりとうなだれた。
「残酷ですよねぇ」などと言って微笑んでいるキャメロンとヤンとを見比べて、ジェシカは首を傾げる。
「もぅ、お姉さまは。また、こんなところで遊んで」
疲労を表に出すのを堪えているレティシアと、ぐったりとしているヒツジ、そして相変わらずの無表情なナファイラが近寄ってきた。
「だって、暇なんですもの」
ねぇーとキャメロンに同意を求めると、彼はあっさりと頷いた。そしてにっこりと微笑みながらヒツジのことを見つめる物だから、ヒツジは冷や汗を流しながら襟元を正していたりする。
そんな一同を見渡して、大げさにため息をついたレティシア。
「もうすぐパーティも終わりなんですから、問題は起こさないでくださいね」
「ジェシカ殿ーーーっ!!」
レティシアが注意をしている傍から彼女の元に届いた大音量。がっくりと肩を落とし、今度は疲労を隠そうともせずにレティシアは振り向いた。
橙色のドレスを身に纏っているレンは、傍らにシーガルを連れてずかずかと大股で歩いてくる。
シーガルは手に何か白い紙袋を持っていた。金色の刺繍の入った白い服に黒いマントは、彼の所属している魔法兵団の正装である。しかしこの会場では、騎士はともかく魔道士は少々浮いていた。
「シーガル殿が外をうろうろとしていたから、捕獲してまいったぞ。このまま貰っても良いか?」
悪びれなくにんまりと笑って、シーガルの腕を引く彼女。
「だめっ。もぅ、レンちゃんったら、シーガルが困っていますわよ」
ジェシカは唇を尖らせて、シーガルの逆の腕を取ってレンから引き剥がす。その瞬間、レンの瞳が妖しく光ったような気がしたが、気にしないことにした。
「ところで、シーガル。ひとりなんですの?」
小声で尋ねると、彼は渋面になってちらりとレティシアのことを見た。
「すみません。本当はもっと早くにお知らせしたかったんですけれど、急な用事が入ったのと、なかなか、入れて貰えなくて……」
レティシアはナファイラと話しているようで、シーガルの様子には気付いていない。
今言おうか、言うまいか、そんな顔をしてレティシアとジェシカを交互に見つめていたシーガルは、手にしていた紙袋を強く握って歩き出した。
「レティ様」
呼ばれて、レティシアは首を傾げる。
差し出された紙袋を手に取り、彼女はその中身を確認した。その瞬間、彼女の眉が微かに動くが、それ以上の反応は示さなかった。静かな瞳を紙袋の中に向けたまま、身じろぎ一つしなくなる。必死で何かを堪えているかのような、無表情。
レティシアの横に立っていたナファイラにはその中身が分かったのであろう。彼は相変わらずの顔をしているが、少しだけ驚いていたようだ。眉が動いていたから、ジェシカには分かる。
誰もが黙って、レティシアの次の行動を見守っていた。
その時。
「レティ様!!」
遠くから届いてきた、聞き覚えのある声に振り向いてみれば、そこには黒いタキシードに灰色髪の地味な面立ちの男が立っている。
「あぁ、もう。今は取り込み中ですのよ、えーと……」
声をかけようとして、迷う。何度か自己紹介をして貰ったはずだが、またしても名前を忘れてしまったのだ。
灰色髪の男――名はエルビスというが、彼は両手に一杯のバラの花束を抱えていた。
周りの空気を読むこともなく、レティシアに歩み寄った彼は、彼女の目の前で立ち止まる。そして、その花束を差し出した。
「本日は参上するのが遅れてしまいましたが。この花束を、是非、将来の妻となるあなたへのお祝いに。そして永遠の愛を誓うためにもうひとつ、この――」
彼が懐から何かを取り出そうとしたそのとき、ぼんやりとしたままでレティシアは歩き出した。突然のレティシアの行動に戸惑うエルビスの横を抜けて、彼女はキャメロンの前に立つ。
「ごめんなさい、キャロ。雑用で申し訳ないのですけれど、これを、私の部屋まで運んでおいてください。今、私が席を外すわけには行きませんから」
堅い顔をしてそう告げた彼女は、キャメロンに紙袋を託したあとで貴族達の輪の中へ戻っていった。やれやれといった面もちで、ヒツジだけがそのあとを追う。
「俺、もう一度カミルの所に行ってきます」
「う、うん。よろしくお願いしますわよっ」
大きく頷いて、シーガルは走り去ってしまった。
「それじゃあ、僕も少し席を外しますね」
シーガルの後を追うようにしてキャメロンもまた会場をあとにする。
残された面々はそんな彼らの後ろ姿を黙って見つめていた。約一名、がっくりと肩を落としている男がいるが、誰も気にしてはいない。いや、ただ一人、ヤンだけは同情するようにエルビスの肩を叩いていたが、どちらにしてもジェシカには興味はなかった。
「ねぇ、ナファイラ。あの袋の中身って、見えました?」
問うと、ナファイラは少しだけ眉を寄せて、長い指で顎を撫でる。
「おそらくプリンであったな」
「プリンとな?」
意外な言葉が飛び出してきたため、ジェシカとレンは顔を見合わせる。
ナファイラは真面目腐った顔で大きく頷いた。
「そのような物にも、思い出はあるのだな」
そんなものなのかなぁと、人の中に埋もれてしまったレティシアを探すように、ジェシカは広い会場を一望した。
ちらりと見えた彼女は、穏やかな微笑みを浮かべていた。その顔が無理をしている物だとジェシカには分かっているから、心配で。どうにも出来ない自分に少しだけ腹が立った。
* * *
パーティ会場である城から聞こえてくるのは調律の取れた楽器の音色。丘を下ったところで足を止めたシーガルは、なんとなく振り返って暗闇にぽっかりと浮かんでいる、篝火を見つめた。
アリア城。
こうして見上げると、やはり別世界にあるとしか思えない煌びやかで浮世離れした世界。パーティ会場に実際に入るのは初めてだったが、あそこは何もかもが違っていた。貴族達の着る華やかで、宝石の散りばめられたドレス。テーブルに無造作に並んでいる高級料理。そこで話されている内容も、優雅に踊りを踊っている様も、何も、かもが。
「シーガル」
丘をのんびりと下ってきたのはキャメロン。白いマントを翻して優雅に歩く様子は堂に入っていた。あの城から出てくる人間として、何一つとして遜色などない。
「カミルの所に行くんですよね? ご一緒します」
「ああ。それは、いいけど」
口ごもり、少々苦い顔をして城を仰ぐ。
その様子を横目で見て、キャメロンはそっと肩をすくめた。
「まさかあなたまで、自分とジェシカ様とでは身分が違う、だなんて言い出すつもりじゃないですよね?」
ぎくりとして、思わずキャメロンの碧色の瞳を見つめる。透明な輝きを持っている彼の碧色の瞳は、こちらの心を探るようにシーガルを映していた。
はぁ、と大げさにため息を付いて、シーガルの先を歩いていくキャメロン。慌ててシーガルは彼の背を追いかけた。
「困るんですよねぇ、そういうの。カミルが味方を得て図に乗るじゃないですか。あのひと、結構口が達者なんで、言いくるめるのに苦労するんですよ?」
「そんな言い方ってないだろ? 俺は、少しならカミルの気持ちはわかるよ。何でも持ってるお前には、分からないかも知れないけど……、やっぱり、ジェシカ様たちは、遠いよ」
生まれながらに人の価値などが決まるとは思っていない。シーガルなどは、生まれは貧しかったが、たまたま持っていた能力と努力のおかげで、魔法兵団で第一位という最高の位を手にすることが出来たのだから。
だが、目の前にいるキャメロンなどは、元々の身分が高く、そして彼自身は様々な面において秀でた能力を有している。ジェシカ達の横に立っていても、誰も何も言ったりはしない。
ナファイラも多分、同じだ。シーガルとほとんど年は変わらないのに、堂々としていて、王族という身分に甘えることなく己を鍛えている。身分も本人の能力も高い人間。
おもむろに、キャメロンが立ち止まった。
くるりと振り向いた彼は笑みを浮かべていた。中性的な面立ちのせいか、月明かりの魔術か、思わずシーガルが見ほれてしまうほどに美しい微笑み。
手が伸びてくると認識した時にはすでに、彼はシーガルの胸ぐらを掴んでいた。襟元が締め付けられて、息苦しくなる。そして、予想外の彼の行為に戸惑って、思考が固まる。
「手に入らないのではなくて、あなたは最初から諦めているだけですよね?」
口調は穏やかなままで、その表情にも微笑を称えたままで。右腕だけが力をこめてシーガルの襟元を締め付けている。あの細い腕のどこにこんな力があるのか。シーガルでは腕を振り解くことも出来きない。
「あなたが一番欲しい物は、手を伸ばせば届くところにあるはずですよ。むしろ、誰よりも一番近いところにいると思います」
とんっと体を押されて、なす術もなく尻餅をついた。
月明かりが逆光となって、彼の表情はよく見えない。先ほどまでと同様に微笑んでいるのか、表情が失せているのか。それすらも判別できない中、彼が腰に携えている剣の装飾が月明かりを反射させて不気味に輝いていた。
「でも、ジェシカ様はナファイラ王子のことを思っているんだ。俺なんかがしゃしゃり出ても、迷惑になるだろうし。彼女を幸せには出来ないよ」
言い訳のように、キャメロンから顔を背けて呟く。キャメロンが動いたのだろうか、土を踏みしめる音が耳に届いてきた。
「迷惑と思うのならば、きっぱりと諦めることです」
足音がどんどんと遠ざかっていく。
「……うじうじと悩んでいるだけで、何かが変わるわけはありませんよ」
その言葉を最後に、キャメロンの足音が途絶えた。
顔を上げるが、目の前には誰もいない。魔法を使って彼はカミルの家に向かったのだろう。
風の吹く角度によって、聞こえたりかき消されたりを繰り返す楽団の演奏。前髪を揺らす程度のその風が、酷くうっとおしく感じられた。
一人残されて、シーガルはただうなだれていた。
ぼんやりと空を仰ぐ。頭の中では、おそらくキャメロンに言わせればくだらない思考が、浮かんでは消えていく。
「あーーっ。一体俺は何がしたいんだよっ」
髪をかきむしり、大きく息を吐く。
ふと、気付く。
キャメロンが何でも持っているなど、シーガルのひがみが見せている幻想だ。彼が一番欲っしている物は――レティシアの心は他の人に向いている。それでも彼は歩き続けているし、彼女のために何か出来ることを探している。悪い結果を恐れるだけで、適当な言い訳をして逃げようとしている自分とは、違う。
「何にしても、キャメロンには言っちゃだめだよなぁ」
立ち上がり、あまりの情けなさにため息をつく。胸の中が自分への嫌悪感でいっぱいになってきた。
キャメロンのあとを追おうと、空間転移の魔法の構成を練り始めた。
だが、集中していた魔力を解放して歩き出した。
「少し、頭を冷やしてから行くかな」




