ジェシカ7
頭が、ぼーっとする。
夢の中にいるかのようにふわふわとした意識。
レティシアの誕生日。彼女は朝から準備や面会で忙しいようで、ジェシカですら全く話す時間がなかった。昼食後のこの時間になって休憩をしていると聞き及び、ジェシカはレティシアのいる部屋に向かっていた。
シーガルに二度目の告白をされたのは一昨日の夜。それ以後、どうにも彼のことが気になって仕方がなくなっていた。
道中偶然出会ったデュークにその事を話すと、開口一番、彼はこんなことを言いだした。
「姫さんはシーガルのことが好きなんですよ」
「勝手に決めつけないでくださいっ。だいたい、何の根拠があって、そんなことを……っ!」
「適当に言っただけです」
むきになるジェシカとは対称的に、淡々と語るデューク。思わず絶句をして、ジェシカはぴたりと足を止めた。
「面倒ですから、シーガルに決めてしまえばいいじゃないですか。その方が、俺も楽で良いですし」
相変わらずのやる気に欠けるその言葉に、口元を引きつらせる。
「でもでもっ、私、別にシーガルのことが特別に好きというわけではありませんし……。んーと、特別は特別なんですけれど、なんて言うか、お目付役だからですし」
「姫さんのことですから、突然気変りをしたという事にしてしまえばいいでしょう」
「人をなんだと思ってますの!」
「天敵と言い張っていた俺のことを、突然好きになったらしい前例を考えれば、何もおかしいことはありませんよ」
その言葉には思わず納得してしまい、ああと声に出して頷いた。
それを見止め、デュークもまた頷く。
ぺこりと頭を下げて階段を下りていくデュークを見送り、ジェシカは廊下を歩き出した。
シーガルのことが好きか嫌いか。それは好きであるが、恋愛感情ではない……。そんなことを考えながら、レティシアのいる部屋に入ろうとする。が、扉を開けるのを忘れて、思い切り扉に激突をした。
「っぶ……。いったぁーい」
涙目になりながら扉を開けて中に入る。
ジェシカが扉にぶつかった音は中にいたレティシアにも聞こえていたらしい。鼻の頭が赤いジェシカを見て、おおよそのことを察したのだろう。レティシアはおどけたように、人差し指で眼鏡をづり上げるような仕草をした。
「そんなことでは、間抜け面が際だつざますよ」
「あーん。やめてぇぇ」
それはあまりにも予想できる言葉だったため、泣きそうになりながらジェシカは扉を閉めた。噂をすれば、今すぐにでも『あれ』が出現しそうである。
空色のドレス姿のレティシア。本日をもってめでたく成人するわけなのだが、笑い止んでふと視線を落とした彼女は、どこか物憂げに見えた。
「レティ?」
何かあったのかと尋ねようとして口を開いた時、ばたんと勢いよく扉が開いた。
「レティ、レティっ。レンもドレスを借りたぞっ」
中に入ってきたレンは、くるりとその場でくるりとまわってドレスを見せびらかす。可愛らしい橙色のドレスは彼女にとてもよく似合っていた。
「あら、レンちゃん。とっても似合いますわ~」
「ぬはははは。兄上も褒めてくれたぞ。『馬子にも衣装だ』と」
「あらあら。良かったですわねぇ」
何かを言いたそうな顔をしているレティシアだが、彼女はただ苦笑いを浮かべているだけであり、口は挟まなかった。
「それよりもジェシカ殿っ、シーガル殿に好きだと言われて、ちゃんと返事をしたのか?」
単刀直入なその言葉に、どきりとする。
――実を言うとジェシカはまたしても何も言えなかった。ジェシカもシーガルも、見つめあうだけでどうすることも出来ないでいた。そこをナファイラに促されて、それぞれ自室へと戻ったのだ。昨日は昨日で、本日の支度やら説明を受けたりやらで、シーガルともナファイラとも話す機会など得られなかったのだし。
ジェシカの事をじろりと見つめて、レンは意地の悪い笑みを浮かべる。
「どちらにしても、レンにはあまり時間がないので早くしてくれると助かるぞ。シーガル殿が振られたら、レンは再びアタックぞ」
からからと陽気に笑って、彼女は踵を返した。次はダンに見せに行くと言い残し、パタパタと足音を立てて走り去ってしまう。
彼女が去ってしばらくしてから、ちらりとレティシアは意味ありげな瞳をジェシカへと向けた。
「シーガルさんに、好きだと言われましたの?」
背筋を伸ばしてぎくりとする。やましいことがあるわけでもないのだが、なんとなく、気まずい。
「お姉さま。実はシーガルさんのことも、好きでしょう?」
「な、なんで?」
「だってお姉さま。私とシーガルさんが魔法の話などで盛り上がっていると、不機嫌になるじゃありませんの」
「そ、そんなことはありまんわよっ、絶対っ。た、ただ、シーガルはお目付役でいつも傍にいてくれたから、レティとばかり遊んでいると退屈をしていただけでっ。だからであって、勝手に、そういうことを決めないで欲しいですわっ」
デュークもレティシアも、何故ジェシカがシーガルのことを好きだなどというのだろうか。そんな風に言われてしまうと、余計に意識をしてしまうではないか。
「お姉さまの求める『好き』がどういうものかは分かりませんけれど、そういう特別な『好き』もあると思いますわよ。傍にいてくれるだけで気持ちが安らいで、幸せになれるような存在の、人も」
難しい顔をして腕組みをする。彼女が言うように、彼が傍にいてくれると安らげはするのだが、胸がときめくことなどないし、と考える。
そんなジェシカを楽しそうに眺めていたレティシアは、すまし顔のままで小首を傾げて見せた。
「私、お兄さまとお呼びするのは、ナファイラ王子でもシーガルさんでも、どちらでも構いませんわよ?」
「あーっ、からかっていますわね。もぅっ」
頬を染めて怒鳴ると、レティシアはこらえきれずに吹き出した。
とんとんと扉が叩かれる。
「お姉さまは、後悔しないでね。手遅れにならないうちに、ちゃんと気付いて」
レティシアは立ち上がり、返事をして扉に向かった。
扉を開くとそこにはキャメロンがいた。騎士団の正装をしている彼はレティシアの護衛役らしい。
「ひーちゃんのお使いです。そろそろ時間ですよ。それから、誕生日おめでとうございます、シア。プレゼントはここに持ってくると邪魔になると思ったので、後ほど届けますね」
「ええ、ありがとうございます。……それじゃあ、お姉さま。先に行っていますわね」
レティシアは中にいるジェシカにそう言い残して、歩いていった。一礼してそれを追いかけていくキャメロン。ジェシカはそんな二人に手をひらひらと振ってやる。
さてと呟き、ジェシカは誰もいなくなった部屋をぐるりと見渡した。
なんとなく、先ほどレティシアが座っていた場所で視線が止まる。今日のレティシアは妙に明るかった。いつものような猫かぶりではなかったが、やはり気になる。彼女に何かがあるとすれば、おそらくはカミルに関することであろう。
「うん、そうですわ。シーガルに頼んで、こっそりとつれてきてもらいましょう」
ふいに、レティシアの言葉を思い出した。『お姉さまは、後悔しないでね』という。多分それは、シーガルとナファイラと。二人のことを指しているのだろう。ナファイラとはこの期を逃せば二度と会えなくなってしまうかも知れないし、そしてシーガルは――。
たしかに、本当にシーガルがレンと恋仲になってタタールに行くとして。お目付役を辞めることになってしまったら、それは悲しいし、多分泣いてしまう。恋愛感情はないにしても、シーガルはジェシカにとって兄の様な人だから。
ふと、思い出す。
赤いマントを翻して、早足にすたすたと歩いていく、お兄さま――正確にはいとこであったが。背が高くて、手が大きくて。頭を撫でて貰うのが、好きだった。
シーガルは彼とは全然違う。身長はジェシカよりは高いが他の男性と並ぶと同じくらいであるし、手だってそんなに大きくはない。しかし頭を撫でてくれたり、泣いているときに抱きしめてくれるあの温かい腕は、彼と同じで心に安らぎをくれる。
「ん?」
ぱちくりと瞬きをして、ジェシカは思わずごちんと壁に頭をぶつけた。
「お兄さまと同じって……。お兄さまは、私の初恋の人ですわ」
ごんごんごん、と続けて三回ほど、軽く頭を叩き付けてみる。ますます分からなくなってきた。
「あぁーんっ。もぅ、デュークとレティが変なことを言うからぁー」
「ジェシカ様?」
間の抜けたようなその声は、まさに今考えていた人の声。
顔を上げると、目の前にシーガルの姿があった。かぁぁぁっと顔が熱くなって、慌ててその場から立ち退く。
「えー、と。ドアをノックしたんですけれど、返事がなくて……」
しどろもどろと言葉を紡いで、彼は乾いた笑みを浮かべる。心なしか、頬が引きつっているようにも見えた。
「イ・ミュラー様が呼んでいました。中央広場に行くから、外で待っている、と」
「うん。分かりましたわ」
促されて歩き始めた。いつもと同じように彼の隣を歩くが、どうにも動きがぎこちなくなってしまう。右手と右足、左手と左足を同時に前に出して、ふらふらとしながら歩みを進めた。
「あ、あのね。レティの様子が妙だから、時間が出来たら、カミルをこっそりとつれきて欲しいんですの」
「あ、はい。そういうことでしたら。……ボリュドリーさんに見つからなければいいんですよね」
「うん。できるだけ、誰にも見つからないように」
辺りを憚るようにして顔を近づけて小声で告げる。そんなことはいつもと同じはずなのに、こちらを向いた彼の瞳が自分を直視していることに気付くと、何故かとても恥ずかしくなってくる。
了解の言葉を述べて、微笑んでくれるシーガル。
慌ててシーガルとの距離を開けて、ジェシカは引きつった顔での笑みを送って、頷く。
そしてまた数歩歩む。
「……転ばないでくださいよ」
危なっかしい足取りで歩いているのを見かねて声をかけてくれたようだが、その直後、ジェシカは派手に躓いて前につんのめった。
横から伸びてきたシーガルの腕がジェシカを支えた。
心臓の動きが活発になりすぎて、今にも壊れてしまいそうになる。全身から汗が吹き出してきた。目眩に襲われ、全身が暑くなってくる。
なぜだろうか。目の前にいるのは、あのシーガルなのだ。数年前からずっと傍にいてくれた人。今までに何度だって抱きついたこともあるはずなのに。
「って、言っている傍から……」
呆れたような顔をして、苦笑いを浮かべる彼。
そんな表情とて、日常的に目にしてきたはずなのに。何故か、鼓動は高鳴るばかり。
思い出されたのは、一昨日の静かなシーガルの表情。熱っぽく、まっすぐにこちらを向いている眼差し。それが目の前の彼と重なり、慌てて手を振り解いて、数歩分の距離を開けた。
気まずい雰囲気の中で、二人は見つめ合ったまま固まってしまった。動けなくなる。
「ああ、ジェシカ。レティの着替えは終わったのかい?」
それは救いの神なのか。唐突に横からそんな言葉が飛んできた。
両手一杯にぬいぐるみやら花束やら衣類やらを抱えたロキフェルが、よろめきながら歩いてくる。
「レティに喜んでもらおうと思ってプレゼントを選んでいたんだけど、なかなか決まらなくてねぇ。どれが良いと思う?」
思わず半眼になって、ジェシカは悩むように眉根を寄せているロキフェルを睨み付けた。
「お父様っ。ここに持ってきても、邪魔になるだけですわ。それに、レティはもう中央広場の方へ向かいましたわよっ」
強い口調で告げると、露骨にショックを受けたような顔をして、数歩あとずさるロキフェル。
「しかも、私たちももう出発ですわよっ。お父様ったら、そんなに荷物を抱えて、どうするおつもりですの」
「うぅ、ジェシカよ。お前は最近、レティに似てきたなぁ。お父さんは優しい言葉が欲しいんだよ」
泣きまねをしながらそう訴える父に、ジェシカは唇を尖らせて不満を示す。
「陛下。私で良ければ、レティ様のお部屋に届けておきましょうか?」
「おお、そうしてくれるとありがたい」
にぱっと頼りない笑みを浮かべて、ロキフェルはシーガルに荷物を預けた。
一礼をして、シーガルはこの場から去っていった。なんとなく、横目でその後姿をうかがう。
彼の姿が見えなくなってから、ジェシカとロキフェルは並んで歩き出した。
「そうだ、ジェシカ。ナファイラ君とは仲良くやっているかい? 彼はかっこいいから、私が見てもどきどきしてしまうんだよね」
彼の口からナファイラの名前が出てきて、唐突に思い出す。
「お父さまったら、私に内緒でナファイラに手紙を出したんですって?」
「ははは。もうばれてしまったのかね」
照れくさそうに笑う彼は、口元のひげを撫でながら視線をあさっての方へ向けた。
「まあ、どうするかは君たちに任せるよ。もちろん、私はシーガル君でも大歓迎だけどね。いや、他国に嫁がない分、シーガル君の方が嬉しいかなぁ?」
何故か出てきたシーガルの名前に、鼓動が跳ね上がる。
「な、なんで、シーガルがっ?!」
狼狽えて。もうすでに噂は広まっているのかと、むきになって問うと、ロキフェルはからからと陽気に笑った。
「ジェシカはシーガル君が大好きだろう? いつも一緒にいるじゃないか」
「そ、それはお目付け役だからであって」
「でも、大好きだろう? レティなんかは、カミル君もキャメロン君も大好きだよね。私はねぇ、こういうことには鋭いんだよ」
にわかに信じがたい事実である。そう思っているは本人だけのような気もするが。
そんな娘の思考になどまったく気付かず、微笑みながらロキフェルは続けた。
「最悪、二人ともどこかに嫁いでしまっても仕方がないと思っているんだよ、私は。だって女の子だからねぇ」
「仕方がないって。そうしたらこの国の後継ぎはどうするんですのよっ。無責任っ!」
「はは。お前の口からそんな言葉が出てくるとはねぇ。まあ、それはジェシカ達の子供を貰ってくるなんて方法もあるじゃないか。それまでは私が頑張ればいいんだし」
悪戯っぽく微笑んで見せて、彼は胸をはる。
「それにね、私が再婚をするという選択肢もある。そして男の子でも授かれば、万事解決だよね」
「それが一番無理ですわよ」
すかさずそう返してやると、がっくりと肩を落として彼は苦笑いを浮かべた。何でも、レティシアにもこの話をして、まったく同じ返答をもらったらしい。
ジェシカもレティシアもよく分かっているのだ。ロキフェルが、どれだけ亡き妻のことを想っているのか。
「今日でようやくレティも大人と認められる年になったから、ちょっと感慨深いんだよね。マリンとの約束も果たしたし……」
「だいじょーぶっ!」
胸を張って告げると、彼はぱちくりと瞬きをする。
「レティはともかく、私はまだまだ迷惑をかける予定なので、物思いに耽っている暇なんてありませんわよっ」
ますます情けない笑みを浮かべる父のことを見つめ、ジェシカはにっこりと微笑んだ。
「だって私、やる気はありますけれど、王様のお仕事って何も出来ませんもの。一杯教えていただかないと」
「だからそれはね、ジェシカ。日ごろから、レティに押し付けないで、君が私の手伝いをしてくれればいいんだけど……。まあ、仕方がないか」
甘えるようにその腕に抱きつくと、ロキフェルはジェシカによく似た笑みを浮かべる。
「じゃあ、まだまだ、私もがんばらないとだめだね」
そんな会話をしながら、二人は外に向かって歩き出した。
* * *
「やりづらい……」
ぼそりと呟き、シーガルはため息をついた。
ジェシカがシーガルのことを意識するがあまり、話をする事すらままならない。
本当はあの夜、自分の気持ちなど気にしないでくれと言おうとした。ジェシカは戸惑っていたから。彼女を困らせているのが忍びなくて口を開きかけたとき、絶妙なタイミングでナファイラが部屋に戻ろうと発言した。意図的だったのか、偶然だったのかは分からない。
つい三日くらい前にはジェシカとナファイラを結ばせるために頑張ろうと決意をしたばかりである。それなのに、一昨日にはジェシカに自分の思いを告げてしまった。告げるつもりなどなかった。だが、それでは自分を好きだと言ってくれた少女に申し訳がなくて。頑張らなければならないと思ったわけだが、早速後悔をしている。
「俺って、だめだなぁ……」
重い息と共に、胸中でひとりごちる。
レティシアの部屋の近くで、彼女の部屋の掃除を担当している侍女に荷物を預け、シーガルは廊下を歩いた。向かう先は中央広場。他の魔法兵団員がそうであるように、シーガルもまた、広場の警護にかり出されているのだ。
外に出ようと廊下を早足に歩いていると、
「少しは慌てぬかっ」
聞き覚えのある怒鳴り声が耳に入ってきた。
思わず眉を上げて、急いでいたにもかかわらず立ち止まる。
廊下の角。シーガルの位置からは見えないその場所に、声の主であるレンがいるらしい。一応挨拶をしようとそちらへ向かう。
「何のためにレンがシーガル殿を奮い立たせたと思っておるっ。全てはそなたをけしかけるためぞっ」
ついついその場で固まってしまった。あの時のレンの言葉はシーガルを純粋に応援していたからではなく、裏で何らかの思惑が働いていたらしい。話の内容から考えて、彼女が怒鳴っているのはおそらくはナファイラであろう。
「そなたが焦って、早急にジェシカ殿を落としてくれねば、意味がないのだぞっ」
彼女らしいなと苦笑を漏らし、シーガルは彼女たちの前に姿を見せる。
「聞きましたよ、レン様」
ぎょっとして、悪戯がばれた子供のように身を縮ませてナファイラの後ろに隠れるレン。
橙色のドレスを身にまとい、綺麗に化粧が施されているその顔は、普段よりも大人っぽい。しかし気まずそうに舌を出す様は相変わらずであった。
ナファイラに対して頭を下げると、彼も頭を下げ返してくる。
すると、レンは唐突にナファイラの影から飛び出してきた。腰に手を当てて、尊大な態度でシーガルを指差す。
「しかし! シーガル殿がもどかしいのも事実だっ。レンを振ったのだから、とりあえずはチャレンジしてみよ! レンの作戦は、シーガル殿の幸せを願い、ついでにジェシカ殿のために、やる気のない王子にカツを入れるためでもあって、つまりは一石二鳥なのだっ」
「開き直りましたね」
意味ありげに口元を緩めるレンは、話を逸らすためにかナファイラに詰め寄る。
「と、いうわけで。王子もアタックするのだっ。わざわざアリアまで来たのは、ジェシカ殿との婚約をもう一度考えるためであろうっ?」
ナファイラの反応を伺うために、長身の彼を見上げる。彼はレンに頷くと、無表情のままでシーガルへと視線を向けた。
「驚かぬのだな」
「レティ様の誕生日のためだけに、ご多忙な王子がわざわざここまでおいでになるとは、思えませんでしたから」
率直にそう告げると、彼は感心したように眉を上げて、頷いた。
「まぁ、それはそうなのだがな。色々と問題があるので、迷っておるのだ」
「何を言うかっ。好き合っているなら一緒にいられる道を選べばよかろうっ。試練があろうとも、愛と気合があれば乗り越えられる! そなたたちがまとまらなければ、レン達もまとまれぬではないかっ。困っておるのだぞっ」
ジェシカとナファイラが結ばれると、自動的にレンとシーガルは結ばれるらしい。何かを言う気も起こらずに、曖昧な笑みを浮かべた。
「ナファイラ王子は……。アリアに婿入りをすることは可能になったのですか?」
その問いには、ナファイラは悩むように天井に視線を向けた。腕を組み、微かに眉を寄せて。
「まぁ、不可能ではないのだがな。……」
自分で聞いたくせに、その返事に胸が痛くなる。ナファイラがアリアに婿入りをすることが出来るとすれば、何の問題はない。
不躾なまでにじっと、シーガルもレンもナファイラを見上げている。
ふむと唸り、彼は顎に手を当てた。
「私は一度、彼女よりも別な物を選んだ人間だからな……。また同じ事がないとも言い切れぬ」
淡々と、呟くようにして紡がれる言葉。
正直のところ、そんな彼の態度は腹立たしいことこの上ない。ジェシカがどれだけこの王子のことを思っているのか、シーガルには分かっているから、なおさらに。
太い眉を上げて、ナファイラのことを睨み付けるレン。彼女が何を感じたのかは分からないが、相当ご立腹のようであった。
ナファイラは気にした風もなく、紫色のマントを翻して踵を返す。
「だが。……もしもそなたがこのままであるのならば、私は多少強引にでもジェシカを連れて行こうと思う。私は、彼女を愛しておるからな」
レンの制止の声も聞かずに、ナファイラは早足で歩いていってしまった。
角を曲がるときに一度だけ振り向いた。
その顔はいつもと同じで厳しくて。シーガルを見つめる瞳には、何の感情も籠もっていなかった。
何故だろうか。
気持ちが焦った訳ではない。多少強引にでも、ジェシカがナファイラと添い遂げられるとすれば、それはそれで彼女は幸せなのだと思う。
だが――
本当に彼はジェシカを幸せに出来る人間なのだろうか。そんな疑問が胸の内でくすぶっていた。
廊下では慌ただしく侍女や騎士達が歩き回っていた。遠くから、レンの怒鳴り声が聞こえてくる。
「そなたがけしかけてどうするっ!」
そんな声は遠すぎて不鮮明で、いまいち理解するには至らなかった。いや、もうどうでも良くなっていたのかも知れない。
その慌ただしさに反してシーガルは、その場に突っ立ったまま、ナファイラの消えた廊下を見つめていた。




