ジェシカ5
騎士団の所有物である屋根付きの訓練場。
基本的に騎士の訓練は野外で行われる。しかしアリアには雨期があるため、騎士達が常に己を鍛え上げることが出来るようにと、何代か前の国王が建てたのがこの訓練場である。
かなり年期が入った建物で、訓練に興じ、勢いよく壁に叩き付けられた人間がそのまま外に貫通していってしまったという話は、実は珍しくもない。
「ほほぅ。なかなか設備が整っておるな」
壁の前に集まったジェシカ達は、中央で対峙しているヤンとナファイラに注目していた。
そんな中、ダンは値踏みでもするかのように訓練場を観察している。
ターチルの頭領とウィルフの王子の決闘。
この勝負を見るために、待機中の騎士団員達はこぞってこの場に詰め掛けていた。例外で、熱気のせいで気分が悪くなったレティシアを連れて、キャメロンは彼女の部屋へと行ったのだが。
ナファイラは真っ直ぐにヤンの方へ体を向け、両手で剣を構えている。
対するヤンは体を斜めにして、剣を右手で持っていた。
「のぅ、ヒツジ。奴らの決闘が終わったら、次は一戦交えてみぬか? 貴様とはいつか決着を付けねばならんと思っておったのだ」
傍らに立つヒツジに、にやりと癖のある笑みを向けるダン。こめかみの辺りから真っ直ぐに下に降りた刀傷をしきりにさすりっている。
「やだよ、俺は」
淡白な返答に、ダンは含むような笑みを浮かべた。
審判の役目を仰せつかっているのは、見慣れたものぐさ男、デューク。彼は相変わらずのやる気のない態度で初めの号令をかけた。
二人とも動かない。相手の動向を探るように、互いの動きを見守っている。やがて円を描くように、ゆっくりと足を運ぶ。
ナファイラが剣を構える姿は、いつぞやのウィルフの一件を思い出させる。自分を護ってくれると言ってくれたときの、あの真摯な瞳。あのころの想いが蘇ってしまったのか、胸がちくりと切なく痛んだ。
先に動いたのはヤンの方だった。勢いよく前に飛び出し、間合いを狭めて剣を突く。ナファイラは半歩ほど下がり、体を斜めに傾けることによってかわす。
ナファイラが剣を横薙ぎに払うと、ヤンは体を捻って、かろうじてその剣を受け止めた。
甲高い音が響く。
しばらくそのままの硬直状態が続く。やがて、ヤンは力に任せて剣を払うが、その直前にナファイラは力を流すように剣を捌いていたため、またもやヤンの剣は宙を斬っていく。ヤンは剣を水平に構えて突きを繰り出すが、ナファイラはそれも落ち着いてかわす。
その後も、ヤンは果敢にも何度も攻め続けるが、全ては空を撫でるだけ。ナファイラは時折隙をつくようにして剣を操って、ヤンの体勢を崩すものの、決定打にはならなかった。
剣のことはよく分からないが、なかなかの白熱した試合だとジェシカは感じていた。声を上げてナファイラを応援するのをぐっと堪え、代わりに拳を握りしめる。
「遊ばれておるな、ヤンめ」
にやりと、口元に嫌らしい笑みを浮かべて呟くのはダン。
きょとんとしながら、ジェシカは横目でダンのことを見上げる。壁に背を預けているヒツジは苦笑を浮かべながらダンの言葉に頷いた。本人は意識しているのか、腰に携える剣をしきりに撫でつつ。
「やっぱり現役で戦っている騎士は違うねぇ。反応が早い」
「次は儂が相手になって貰う予定だ。邪魔をするでないぞ、ヒツジ」
「だめーーーっ!!」
耳をつんざくような悲鳴混じりの声。ナファイラとダン達を交互に見ていたジェシカは、耳を塞いで声の出所を見つめる。そこにいたレンは怒ったように眉をつり上げて、ダン達を指さしていた。
「次はレンが相手になって貰うと決めているのだっ!」
「こら、勝手に決めるでない」
レンの言葉に過敏に反応したのはダン。睨み合う二人は、今にも親子喧嘩に発展しそうであった。
「ここで言い争っても仕方がないじゃないですか。決めるのはナファイラ王子ですよ」
呆れたようなシーガルの言葉を聞いて、睨み合っていた親子は揃って眉間に皺を寄せる。あまりにも似たもの同士の親子に、ジェシカはついつい吹き出してしまった。
ぎぃぃん、と、鈍い音が響く。
慌てて訓練場へと視線を転じると、ヤンの喉元に剣先を突きつけているナファイラが映った。
続いて、ヤンが持っていたはずの剣が、少し離れた地面に突き刺さる。
剣と二人とを交互に見比べて、デュークが試合の終わりを告げた。
「ぬおっ! 見逃したっ」
「父上のせいだぞっ」
「何を言うっ。貴様が悪いっ!」
罪の擦り付け合いをしている親子。シーガルが間に入って止めているようではあるが、ジェシカにはそんなことはどうでも良かった。
剣を鞘に収めてこちらへと体を向けるナファイラ。ジェシカと目が合うと、その表情に少しだけ笑みが浮かぶ。
へらんと、満面の笑みを浮かべたジェシカは、訓練場の中央へと駆けだした。
「ナファイラったら、やっぱりとてもお強いのですわね」
浮かれるジェシカの横では、ヤンが落胆したような顔で肩を落としていた。
「まったく歯が立たなかった……」
「いや。頭領殿もなかなかのものだ。ただ、私の方が、少々経験を積んでいただけであろう。ウィルフは未だに戦続きの国であるからな」
握手を交わす二人をうっとりとしながら見つめるジェシカ。戦いの後芽生える友情……そんな謎のキーワードを連想して、ついつい頬を緩めてしまう。
「ねぇねぇ、ナファイラ。この後は、私が色んな所を案内してあげますわ。行きましょう」
無表情のままで、こくりと頷くナファイラ。
ジェシカは満足して頷いて、次いでヤンへと視線を移す。
「ヤンも一緒にどうです?」
「いや。俺は、今回は遠慮をしておく」
苦い顔をして辞退をする彼を不思議そうに見上げる。が、まあ良いかとあっさりと頷いて、ナファイラの手を取って出入り口へと向かって歩き出した。
「ぬおっ、バカ姫めっ!! 抜け駆けは許さぬぞっ!」
背後にダンの怒鳴り声が投げかけられたが、ジェシカは逃げ出すように訓練場をあとにした。闘技場から外を通り、城の中まで戻る。
「ねぇねぇ、ウィルフの方は、今、どうなっていますの?」
「ああ。現在ではそれといった進展はないな。姉上は相変わらずやる気がないし、シェスタはバカであるし。だが……」
何かを思案するように視線を天井へと向け、彼は言葉を止める。
そんな彼の様子を横目で伺っていたジェシカは、今更ながら彼の手を取ったままだということに気付いて、ゆっくりとその手を放した。
寂しさと切なさと、そして愛おしさと、胸の中では様々な感情が交錯している。
「やっぱり、ウィルフにはナファイラが必要なのですわね」
ぽつりとついつい口から出てしまった言葉。ナファイラは神妙な面もちでジェシカのことを見たようだが、何も言葉は発さなかった。
はっと我に返ったジェシカはふるふると首を振って、笑みを作ってナファイラを仰ぐ。
「あのね、中庭にはたくさんのお花がありますのよ。おばさまはお花がお好きでしょう? 是非お土産話にしてくださいな」
ナファイラから返ってくるのは優しげな微笑み。
ジェシカは意味もなくひとつ頷いて、ナファイラを誘導するように歩き出した。
胸の中を占めようとした昔の想いなど、振り払うような元気な足取りで。
* * *
キャメロンは昼食の乗ったトレイを片手に、レティシアの部屋を訪れた。
レティシアの部屋の扉を叩くが、中から返事はない。
寝てしまったのかと、そっと扉を開いて中に入る。
彼女は枕を立て、そこに背中を預けていた。ぼんやりと、雨粒によって歪んだ窓の外を眺めている。
「シア」
呼びかけると、彼女はぴくりと肩を震わせて、視線を転じた。キャメロンに気付いたレティシアは微笑みを作り、傍らの椅子へとキャメロンを誘う。
「わざわざありがとうございます」
体調が悪い時にしては珍しく、大人しく食事をとる彼女。
食事が終わり、食器類をテーブルの上に置いて再び椅子に戻ったキャメロンは、穏やかに微笑んでいるレティシアを直視した。
「シア。無理はしなくてもいいんですよ」
「体のこと? でも、今日はナファイラ王子がいらっしゃる日で……」
「……無理をして笑う必要なんて、ないんですよ?」
見ていて面白いくらいに、彼女の顔が強ばる。
そう。彼女の微笑みは満点であった。王女として、全ての者に向ける優しげな表情。国の人達が愛して止まないその顔は、いつもと変わらない。
だが彼女は内心では笑っていない。浮かべているのは、作り物の笑み。キャメロンにはそれが分かるから、苦しくなる。その理由も思い当たっているし、そして、彼女に笑顔を戻すために必要な物も。
俯いてしまうレティシア。
キャメロンはため息をついた。そして、決心をする。自分にとって一番大切な物は何なのかを、再確認して。
「カミルとは、きちんと話をした方が良いと思いますよ」
「話なんて……。カミルの将来のことは、彼自身が……」
「シアは、カミルのことが、好きなんですよね?」
言葉を止めて、レティシアは顔を上げた。肯定も、否定もしない。
しばしの間見つめ合った。お互い、無言のままで。
「カミルがどう思っているか、僕も本人から直接は聞いていません。でも多分、彼はターチルに行きたがっています」
「それじゃあ尚更、私が話す事なんて……」
「シアは、それで良いんですか?」
その質問の意味が分からないと言わんばかりの表情で、レティシアは瞬きをする。
「あなたがカミルのことが好きなら、引き留める権利はあると思いますよ」
カミルがレティシアのことをどう思っているかなど、明白なのだから。と、そこまで考えて、今の言葉はどこかで聞いたような気がすると、ついつい苦笑を漏らす。
レティシアは悩むように俯いてしまう。
彼女が言葉を発するのをしばし待っていたが、いつまで待っても彼女からの反応はないように思えた。
「それから……」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女の頭を撫でる。いつものように怒る気力はないのか、不安そうな瞳を上げるレティシア。そんな彼女に、キャメロンは今までとは一転して、明るい口調で語りかけた。
「先日のボリュドリーさんとの一件もありますから。どんなにシアの調子が悪くても、カミルはお見舞いにはきてくれないと思いますよ?」
ぱくぱくと、意味もなく口を開閉させるレティシアの頬が、見る見るうちに朱に染まっていく。分かりやすいその反応に、キャメロンはついつい吹き出した。
「そ、そんなのっ。期待なんてしていませんわよっ!」
レティシアは怒鳴りながら、頭の上のキャメロンの手を跳ね除けた。
キャメロンはにっこりと微笑んで、微かに赤くなった個所をさする。
「訓練場が暑かったから、少し体調を崩しただけですものっ! カミルなんて、関係がありませんわっ」
確かに、それは事実なのだろうが――。
「そうなんですか? 僕はてっきり、カミルに心配をされたいから、その口実にしているものだとばかり……」
「何を馬鹿なことを言ってるのよっ!」
眉を吊り上げて怒鳴るレティシア。
微笑んでいるレティシアも可憐でいいのだが、怒っている方が彼女らしくて可愛らしいなぁなどと、不謹慎なことを思いながら、キャメロンは微笑んでいた。
「もう、出て行って!!!」
こんな状態の彼女に逆らってもいい事などないので、素直にそれに従った。が、途中で「あっ」と声を出して振り向く。
頬を膨らませているレティシアは不満そうな顔のままではあるが、こちらに関心を示したようだ。横目でこちらを伺っている。
キャメロンは再びレティシアの傍に近づいた。
不思議そうに見上げるレティシア。
その顎を指で持ち上げて、そして自身は屈んで、軽く唇を重ね合わせた。
「言い忘れていましたけれど……」
呆然と、瞬きをするのも忘れて固まっているレティシア。
「これからはいつでも、シアの傍にいてあげますから。何かあったら、頼ってくださいね」
極上の笑みとともに言葉を紡ぐが、レティシアは反応などしない。
微笑をたたえたままレティシアの様子を伺うこと数十秒。
きゅっと口を引き結んだ彼女は、眉を吊り上げてキャメロンのことを睨んだ。掌で口を覆い、顔を耳まで真っ赤にして。
「キャロっ!」
「それじゃあ。あっ、今日は外出なんてせずに、おとなしく寝ているんですよ?」
それだけを言い残して、キャメロンは優雅な足取りで部屋から出る。その背中にレティシアの怒鳴り声が投げかけられたが、何を言っているのかはあえて右耳から左耳へと抜けさせた。
廊下に出て、今しがた出てきたばかりの扉にもたれかかった。
なんとなく自分の唇に指を触れさせ、天井を仰ぐことしばし。
「……。シアを怒らせて喜んでいるなんて、まるでカミルみたいですよねぇ、僕」
やがて苦笑とともに言葉を漏らし、キャメロンは歩き出した。
* * *
訓練場の地面に座ったまま、シーガルは素振りをしているデュークやヤンを見つめていた。
就業時間も過ぎたため、訓練場にはほとんど人の姿は見えない。魔法兵団に戻ってやるべき事があったはずだが、何もする気になれずに、シーガルは呆けたままであった。
デュークは時折、沈んだ調子のシーガルを横目で伺う物の、何も言葉はかけてこない。心配しているのか、邪魔と思っているのか。いずれにしても、声をかけるのが面倒くさいのだろう。
はぁーと大げさにため息を付いて、シーガルはうなだれた。
「あれ、こんなところで何を腐っているんですか?」
脳天気な調子の言葉がかけられたが、シーガルは俯いたまま顔は上げなかった。声の主が誰であるか分かっていたので、わざわざ確かめるまでもない。
白いマントを羽織ったキャメロンは、シーガルを見つめて肩をすくめる。
「何をいじけているんですか。もしかして、デュークがアンジェリカさんに言い寄られていたときは焼き餅を焼いていた誰かさんが、自分に対しては無関心だということに落ち込んでいます?」
からかうようなその口調。それはなかなか的を射ている。いや、彼のことだから確信して言っているのだろうが。
大げさに息を吐いて背中を丸めると、キャメロンは相手にしていられないと判断をしたのか、シーガルに背を向けた。
「お前は?」
「僕は、ちょっと体を動かしにきただけです」
真っ直ぐにデュークの元へ歩いていくキャメロン。何言か言葉を交わした二人は訓練用の刃のない剣を手にして、実践形式の打ち合いを始めた。
真剣なその姿。それは昼間のナファイラ達を思い出させ、またしても息が零れてくる。
何度も、何度も繰り返される打ち合い。打ち合いと言うよりは、デュークは一方的にキャメロンに攻め込ませている様であった。だが、それらは全てデュークの剣に阻まれ、一度たりとも彼の体には届かない。むしろ、キャメロンの隙をついたデュークの動きの少ない的確な一撃で、キャメロンは何度も地面に倒れ込んでいる。白いマントもその衣服も、土で汚れていた。
「珍しいなぁ」
彼ら二人は同じ家に住んでいるのだから、このように手合わせをしている姿は何度か見たことがある。師であるヒツジに稽古を付けて貰っているときならばいざ知らず、この二人の対戦で、キャメロンから攻めていくというのは、実はシーガルは見たことはなかった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
デュークは平然としたままであるが、対するキャメロンは肩で息をしている。こめかみを伝う汗を拭うことも忘れて、地面を蹴って間合いを狭める。
「あいつ……。何かあったのかな?」
と、その時、遠くから自分を呼ぶ声が耳に届く。
脳天気そうで、どこか間延びした女性の声音。
いつもならばすぐに立ち上がって駆け寄る所であるが、今はとうていそんな気持ちにはなれずにいた。
「気持ちの整理は、出来ていたと思ってたんだけどなぁ」
口元を歪めて独白する。ジェシカがナファイラのことを忘れようとしても忘れられなかったように、シーガルもまたジェシカへの思慕を募らせていたようだ。それは、今更誤魔化すまでもない。
思えば、ここ数ヶ月はシーガルのジェシカであったのだ。
他の男達と会うジェシカは浮かれていたが、結局は誰に対しても本気にはならずに、いつもシーガルの元へ帰ってきた。その瞳に恋愛感情などはなくとも信頼感があっただけで、人よりも一段高いところにいたような気がして、少し自惚れていただけ。
「あー、もうっ。いるなら返事をしてくださらないと」
怒ったようなジェシカの声。
シーガルは、素直に謝罪をした。顔を上げたが腰は上げずに、彼女の事を見上げる。
腰に手を当てていたジェシカは頬を膨らませていたが、謝罪の言葉を聞くや否や、すぐににこりと表情を変えた。
「今日の夕食を一緒にどうかとレティが聞いていましたわ。来て下さいね」
その後、ぐるりと訓練場を見渡したジェシカは、同じ伝言をデュークとキャメロン、そしてヤンに言付ける。
にぱっと頼りなさ気に笑い、ジェシカはシーガルのことを見つめた。
「どうかしましたの?」
「ちょっと体調が優れないだけです。心配しないでください」
「大丈夫ですの?」
心配そうにこちらを見ているジェシカに、もう一度「大丈夫」と告げると、彼女はあっさりと折れた。
簡単な挨拶をして、くるりと踵を返すジェシカ。
とっさにシーガルは彼女の手を掴んだ。彼女は無防備な表情で、首を捻ってこちらを見下ろす。
「ジェシカ様。俺がお目付役を止めても……ジェシカ様は、何とも思ってくれませんか?」
彼女の瞳を直視して、声を絞り出す。こんな聞き方は卑怯なのかも知れないと、内心で冷静に考えつつ。
何故かジェシカはまじまじとシーガルの瞳を見つめ返していた。口をぽかんと開いたままで、息を吸うのも忘れたかのように、固まっている。
ぱちぱちぱちと、激しく瞬かれるその蒼色の瞳。
「ジェシカ様……?」
いい加減不思議に思って声をかけると、彼女は我に返ったかのように止めていた呼吸を再開させた。心底苦しそうである。
「そんなの、悲しいに決まっていますわよ」
あっさりとそう言った彼女は、何故か手をのばしてシーガルの頭を撫でる。
一回、二回、三回。
まるで、犬の相手をしているかのようでもあった。
くるりと踵を返して、何を急いでいるのか、ばたばたと足音を立てて慌ただしく走り去ってしまう主君を見つめ、シーガルは首を傾げた。
そして、先ほどジェシカに撫でられた箇所に触れて、苦い笑みを浮かべる。
「ジェシカ様に慰められてしまった」
ぽつりと呟き、いつまでも腐っていても仕方がないと思い直す。
彼女が自分を男として認識していないことは分かり切っていること。そして、自分がターチルに行ってしまっては悲しいと言ってくれたその言葉だけでも、十分だと胸に言い聞かせ。
「さてと。ジェシカ様の応援をしてあげなくちゃな」
そんなことを呟きながら。どこか吹っ切れたような表情で、シーガルは立ち上がった。
* * *
訓練場を出て、城への道をひた走る。
傘立てから傘を取ることも忘れて、ただただ、何かに追い立てられるようにジェシカは走っていた。昼間よりはいくらか小降りになってきた雨がジェシカの体を濡らす。
どきどきと鼓動が高鳴っている。
城へと辿り着いたジェシカは、気の抜けた風に、灰色の空からこぼれてくる雨粒を見つめた。
脳裏をよぎっていったのは、シーガルの顔。
捨てられた犬のように切なそうな瞳をして、泣きそうな顔をして、真っ直ぐに見つめる瞳。
胸が別の生き物のように勝手に跳ね上がった。
たまらなく可哀想になって、慰めてあげたくて、抱きしめてあげたくなってしまった。
「何かしら、今の」
そういえば、昔も似たような事があったなぁなどと思いつつ、ジェシカは大きく息を吐いた。そう、あれは確かシーガルの故郷だった。
今だに高鳴ったままの胸。
訝しげにそこをさすりつつ、ジェシカは眉間に皺を寄せた。
廊下を歩いていると、途中で会った侍女がここで待っていろと訴えて慌て奥へと駆け込んでいく。待っているのも退屈なので、ジェシカは自室に向かって歩いていた。
「もぅ、放して!!」
聞き慣れた怒鳴り声。
訝しげに辺りを見ると、長身の男が二人歩いていた。
何故か二人とも全身を雨で濡らしていた。ひとりは赤いマントを羽織った黒髪の男。そして、もう一人は顔に幾筋もの刀傷のある――気のせいでなければ、その傷は増えているような気がするのだが――がっしりとした体つきの男。つまりは、ヒツジとダンと、ヒツジに担がれているレティシアであった。
「どうしたんですの?」
振り向いたヒツジの頬には一筋の赤いあとがある。よくよく見れば、衣服やマントなども所々切れていた。
そんなジェシカの視線を気にした風もなく、彼は肩をすくめてレティシアのことをみやる。
「おてんば姫が、また、脱走を企てたんだよ。成長しないよな、レティシアは。外に出たいなら、俺に言えって言ってるのにさ」
「最短でも三日は待たされるじゃないですのっ」
「我が儘言うなよ。忙しいんだよ、俺は」
悔しそうに唇を尖らせるレティシア。
きょとんと首をかしげて、ジェシカはレティシアのことを見つめた。今朝方見せた硬い猫かぶりの表情は、いつのまにか消えているようであった。
それがとても嬉しくて、ジェシカはレティシアの頭を撫でてやる。
「カミルのところに行こうとしていたんですのね。分かりましたわ。私が、シーガルとデュークにお願いして差し上げます」
「……っそ、そ、そんなところに、行きたかったわけではありませんわよっ」
必死に言い訳を試みようとするレティシアではあるが、ヒツジとダンまでもがにやりと底意地の悪そうな笑みを浮かべるので、真っ赤になって押し黙る。
「もっと素直になればいいのに~~」
告げると、レティシアは怒りの表情から一転して複雑な表情になり、返してくる。
「お姉さまだって……。私のことなんて気にしないで、自分の気持ちに素直になればいいんですわよ」
つんとすましたレティシアの言葉に、どきどきどきと、過敏に反応して活動を促進される心臓。
確かにらしくないなぁ、とは思う。いつものように我侭に、自分の思うがままに振舞ってしまえばいいとは思うのだが、何故か躊躇う自分がいる。
こんなときは――
「よしっ」
気合を入れて拳を握り締めた。
「ご飯を食べに行きましょう。おなかがすきましたわっ!」
にぱっと頼りない笑みを浮かべると、呆れ気味にヒツジがこちらを見つめる。
「おまえなぁ、先に着替えないと、風邪引くだろ」
「風邪を引くのはレティだけですわぁ。私もひーちゃんも、頭領も絶対に大丈夫!」
「なんですって?!」
「ぬおっ。それはどういう意味ぞっ! 儂が馬鹿だとでも言うかっ」
レティシアとダンが抗議の声を上げが、それは取り合わない。
ジェシカはおほほと高笑いをしながら、ヒツジのマントを引っ張って歩き出した。




