ナファイラ10
シーガルは泣きながらすがりついたジェシカのことをしっかりと受け止め、心配そうな顔をしてのぞき込んでくる。
ジェシカは目からこぼれてくる涙を拭おうともしないで、声を上げて泣いた。
神妙な面もちのシーガルは、ジェシカの頬に触れる。その掌から淡い光が発せられた。
きょとんとしながら、涙で潤んだ瞳でシーガルの指を見つめると、ジェシカの頬に触れた箇所に付いていたのは赤い液体。どこかで切ってしまったのだろうか。
「ナファイラ様。我が姫を危険にさらすとは、どういったことです」
毅然とした口調で、険しい瞳を向けて糾弾するシーガル。
ナファイラは表情のない顔のままで、頭を下げる。彼が言葉を発する前に、慌ててジェシカはナファイラとシーガルの間に入った。
「違うんです。ナファイラは私を助けようとしてくれましたの。だから、今度は私がナファイラを性悪正妃から助けてあげるんですわよっ!」
シーガルは戸惑った様に瞳を揺らしている。
ナファイラもまた、その表情に微かに驚きの色を含ませて、顔を上げた。
ジェシカはナファイラのことを背後にかばいながら、必至で弁解を続けた。
「だって、私、ナファイラと婚約をするって決めたんですものっ。未来の夫が命を狙われているならば、それを救わなければならないでしょ?」
まっすぐにジェシカのことを見つめる焦げ茶色の瞳。ジェシカは瞳をそらさずに、それを直視する。
緊張のあまり、喉がからからに乾いてきた。
いつか、シーガルはジェシカのことを好きだと言ってくれた。自分のことを、本気で好きだと言ってくれた初めての人。今ではどう思われているのかは分からない。だが、お目付役で、一番ジェシカのことを分かってくれている彼には、はっきりと自分の口から言いたかった。
「私、ナファイラのことが好きです。だから、ナファイラにお嫁さんに貰っていただきたいんです。そのためには、性悪正妃を懲らしめなければならないんです。……そうじゃないと、ナファイラは殺されてしまうかも知れませんし、アリアとウィルフだって戦争になるかもしれません。でも、私一人ではどうすることも出来ないから……お願い、シーガル。力を貸してください」
無表情にジェシカを見ていたシーガルの表情が緩んだ。嬉しそうな微笑みを浮かべて。
「分かりました。俺は、ジェシカ様に従います」
そう言って、彼は視線を横に移し、手を視線の方へと掲げる。彼の手がまばゆく輝いた。
「爆ぜろっ」
そう短く叫ぶと、彼の掌から発せられた魔力の塊が建物の壁をうち砕く。
「あーあ。キレていますね」
楽しそうな弾んだその声に横を向いてみれば、アリアにいるはずのキャメロンの姿がある。その後ろにはデュークも。
「とりあえずは、正妃様と話をしに行けばいいんですね」
「ええ。兵士達が出てくるとは思いますけれど、殺しちゃ、ダメですわよ」
ジェシカが念を押すと、シーガルは微笑みを浮かべて、それに応えてくれる。
「待て、ジェシカ」
盛り上がっていたジェシカを制止するナファイラの声。なんとなく、彼が言おうとしていることは分かっていたので、ジェシカは微笑みを浮かべた。
「私も、あの正妃様には言いたいことがたくさんありますの。ナファイラがダメだって言うなら、私たちだけでも行きますわ」
ナファイラは困ったような顔をして、シーガルへと視線を移す。シーガルは口元に苦い笑みを浮かべながら、目の前にいたジェシカをナファイラの前に押し出した。
「ジェシカ様は思い立ってしまったら周りが何を言ったところで聞いてくれませんので、観念して、ジェシカ様のことを守っていてください。一番重要な役目なんですから、しっかりとお願いします」
意を決したのか、ナファイラは頷き、ジェシカの手をしっかりと握ってくれた。
ジェシカはナファイラの服の裾を掴みながら、狼狽えた様子で周りを見ていた。
デュークが剣で向かってきた敵をなぎ払い、シーガルの魔法でまとめて敵を退ける。
前にデュークとシーガル。後ろにはキャメロン、そしてすぐ隣ではナファイラがジェシカのことを守ってくれている。一部そうでもない者もいるが、美形の騎士達に守られる図という物は、こんな時でなければうっとりとしそうな物である。
もちろん、極力人死にが出ないようにとの配慮もあるようだし、ジェシカを気遣って極力流血シーンは避けようと、眠りの魔法などを使って相手を無抵抗にしようと試みたりもしてくれている。
目指すは先ほどジェシカ達が飛び出した部屋――イライザの元である。ナターシャの身の確保を求めなければならないのだ。
「貴女は、王女の割には、体力があるようだな」
どうでも良いことに感心して声をかけてくれるナファイラ。少しでもジェシカの気を紛らせようとしているのかも知れない。
「日頃から、鍛えているんですのよ。王女だって、体力勝負ですもの」
微笑みながらガッツポーズを作ってやると、優しい笑みが返ってくる。
彼とならうまくいきそうだという確信に近い物が込み上がって来て、ジェシカはますます頑張ろうという気持ちになってくる。ナファイラとナターシャをアリアへと迎え、そしてウィルフとの関係も今まで通りに友好に。それが、今のジェシカの望みである。
ずらりと並んだ兵士達。
「キリがないな」
四階にたどり着いたデュークは、額に浮かんだ汗を拭いながらぼそりと呟く。この階にはイライザがいるのだ。守りに要する人員も多いようだ。
「何故、これだけの兵が集まって居るんですかね。王妃の野心に荷担したとしても、多すぎますねぇ」
うんざりとしたような口調でキャメロンが呟くと、ナファイラは苦い表情をこぼしながら答える。
「これらはすべてイライザの護衛だな。命を狙われていると訴えたイライザの言に従い、父がコーウェルをはじめとした近衛兵を付けたのだ。まあ、新米ばかりなのだがな」
「命を狙うだなんて真似をしているのは、あっちの方じゃないですのっ」
憤慨し、怒鳴るジェシカ。
「それに、いくら正妃とはいえ、こんな数の護衛なんて……」
「案外、父はこのような事態を想定していたのかも知れぬがな」
その顔には何も感情は表れていない。それが余計に哀しくて、ジェシカは彼の手をきつく握った。
そんなジェシカ達を横目で見たシーガルは、数歩進み出てデュークの横に並ぶ。
「私はアリアの魔法兵団第一位魔道士シーガル。その先にいるウィルフの正妃殿に話があってやってきた。ここを通して欲しい」
毅然とした口調で、相手を威圧するように語るシーガル。
そんな彼を見るのは初めてである。ジェシカは驚愕しながら、真剣な表情で幾人もの兵達と対峙しているシーガルを見つめた。いつもの彼からは考えられないほど、カッコイイ。
兵達は応えない。
無言のまま、シーガルの出方を伺うように剣を構えている。
シーガルはそっと目を伏せ、手を前に向かって掲げる。
「従わないのであれば、力ずくでも通らせて貰います。……天駆ける黄金の竜に告ぐ――」
静かな声音で辿られる、呪文のための文句。
兵達の間からどよめきが生じ、その場から逃げようとする者と、そして魔法の完成を阻止するためにこちらへと向かってくる者と、二種類の人間とに分かれる。――だが、すでに遅い。
「我は汝を呼び出す。その咆吼をもってすべてを――」
シーガルの掌が激しく閃く。ジェシカは眩しさのあまり目を覆う。
目を開いたシーガルは、呪文の最後の文句を鋭く、はっきりとした口調で叫ぶ。
「破壊せよっ」
刹那、光が弾け、シーガルの手の辺りから一直線に稲妻が走る。人一人くらいはすっぽりと覆ってしまいそうなほどの大きな光が、側面の壁や窓を包み込み、ばりばりと激しい音を立てて窓側の壁を薙ぎ払って空へと消えていく。
――木造の壁が灰色の煙を上げていた。
目を開いたジェシカが最初に見たのはそんな光景だった。窓側の壁の一角が消え失せている。シーガルが魔法で行ったのであろう。
「シーガル。人を殺しちゃ駄目だって……」
あんな強力そうな魔法だったのだ。目の前にいた人々がどうなったのか、想像に難くない。泣きそうになりながら叱りつけると、前を見つめたままの彼は首を振る。
「ジェシカ。シーガル殿は、誰も殺めてはおらぬぞ」
ナファイラに教えられ、ジェシカは前を向いた。何人か倒れている者はいるが、それらは近づいてきたがために風圧で飛ばされて、壁に叩き付けられた者達である。
「引いてください。今度は、あなた達に標準を合わせますし、加減もしません。……脅しではありません」
シーガルの言葉に、兵達は戸惑うように互いに視線を移す。
「私からも頼む。王家の下らぬ内輪もめで、国にとっての宝であるそなた達を傷つけたくはない。そなた達が兵に志願したのは、このようなところで命を失うためではないはずだ。……引いてくれ。頼む」
ナファイラの懇願に、兵達は剣を床に投げ捨て、道を譲る。
ジェシカはナファイラの陰に隠れながら先へと進んだ。兵達の戦意はすでに喪失しており、誰も妨害などしない。
デュークを先頭にジェシカ達が奥の部屋に入ると、そこにはイライザとコーウェル、そしてナターシャの姿があった。数人の兵は未だにコーウェル達に付き従っている。
ナターシャはコーウェルによって剣を突きつけられて、身動きがとれないでいるようであった。
とにかく彼女が無事であったことが、ジェシカは嬉しかった。
「正妃殿。ナターシャを解放して貰おう。……先ほど王女が言ったとおり、私はアリアへと婿入りをしようと思う。さすれば、王位は姉上かシェスタの物だろう」
騎士達の姿を見て、イライザは引きつったような笑みを浮かべた。
「事を起こしてしまった以上、そなた達を見逃す訳にはいかぬわ。そなたらが共にアリアを治めた後に、我が王国は弱みを握られることとなる。そのような、真似を……っ」
「私、物事はすぐに忘れる方ですわよ」
そのジェシカの言葉には、ぴたりとイライザの動きが止まった。
彼女だけではない。コーウェルや、他の兵士も同様である。ただ一人、ナターシャだけが優しい表情を漏らしただけ。
「ジェシカ王女もこのように言っておる。王女はウィルフとアリアの戦など望んではいない。今ならば、この件も不問になるやも知れぬ。……シェスタのためにも引くのだ、正妃殿」
「引けぬ。少なくとも、ナファイラ。そなただけは、帰すわけには行かぬ」
鬼のような形相で、激しくナファイラを見据えるその瞳。
イライザは視線をコーウェルへとやった。
その視線を受けた彼は、ナターシャの身柄を近くにいた兵士へと渡し、ゆっくりと前に歩み出てくる。
戸惑った様ないくつもの視線が、コーウェルに向けられる。イライザの守り役として付けられた近衛兵達も、戸惑っているのだ。このまま、イライザの言いなりになっていて良いのだろうか、と。だが、コーウェルの瞳には迷いなどない。
ジェシカはナファイラと、キャメロン、そしてデュークを順番に見た。
デュークは億劫気に一つ頷き、自らが前に出ようとする。
だが、その彼の行く手を、ナファイラの腕が遮った。
「私の国の問題だ。これ以上、他国の世話になるわけにはいくまい」
ジェシカは慌てて彼の腕を掴んだ。
だが、ナファイラは軽く微笑み、ジェシカの頭を撫でる。
「妙なことに巻き込んでしまって申し訳ない、ジェシカ。だが、貴女方の無事は、必ず約束をいたそう」
自分の両腕の中からすっぽりと抜けていく腕。それと彼の横顔を見比べ、ジェシカは必死になって彼に抱きついた。
「だめですっ。私が無事でも、あなたが無事でなかったら意味がないんですっ」
戸惑ったようにジェシカのことを見下ろすナファイラ。
ジェシカはナファイラを押しのけて前に出た。コーウェルの剣の間合いに踏み込んだ彼女は、両手を一杯に広げる。イライザとコーウェルから、ナファイラを庇うかのように。
コーウェルの氷のように冷たい眼差しが、ジェシカのことを無慈悲に映している。
「もう止めて」
だが、イライザは聞いた様子はない。鋭い瞳でジェシカを射抜き、片手を上げてコーウェルを促す。
コーウェルは動かない。ジェシカの瞳を直視したまま。
「こんな事をしたって、何の意味もありませんわ。私たちをみんな殺したって、正妃様の立場は悪くなるだけですもの。それにあなた、ナファイラのお目付役だったんでしょう? それなのに、ナファイラを殺すだなんて……そんなの、いけませんっ」
「ナファイラ王子の目付をしていたのは、我が主の指示だったがため。ただ、それだけです」
低い声で、淡々と告げる壮年の男は、どこか疲れているようにも見えた。
「そして、今の主の命は、イライザ様を護ること」
「コーウェルっ!」
急かされ、頷いた彼は腰に携えていた剣を鞘から抜き払う。
その時――
「お止めなさい」
凛とした高い声音が部屋に響く。
ジェシカは驚愕しながら、振り返った。
そこにいたのはレティシアとシェスタ、イ・ミュラー。そして――
「陛下……」
ナターシャの呟き。
そう。そこには、ウィルフ王、その人が存在していた。
コーウェルを含め、その場にいた兵士達は皆、床に膝をつく。
ウィルフ王はぐるりと一同を見渡し、瞳を伏せた。
「アリアの姫を攫ったのは、失態だったな」
ため息のあと、瞼を上げた王は冷ややかにイライザへと告げた。イライザはぴくりと肩を振るわせて、唇を噛みながら俯く。
「正妃様、そしてナファイラ王子。あなた達が争う事などありませんわ。王は、すでに次の世継ぎを決定されているのですから」
王の横でレティシアが声を上げる。
彼女の後ろでは、暗い顔をしたシェスタが俯いていた。
そして、ジェシカの横にいるナファイラも、沈鬱そうな顔をして王のことを見守っていた。
「次の、世継ぎは、サーシャ様、ですわ……」
一言一句を噛みしめように、はっきりと口にするレティシア。
「そんな馬鹿な! 何故王子がいるというのにっ。第一王位継承権を持つ王子ではなくっ?!」
悲鳴を上げたのはイライザ。貧血を起こしそうなくらいに顔を真っ青にし、唇を振るわせてレティシアのことを睨み付ける。
「本当だ。父上の口から、余も聞いた」
シェスタの言葉までをも偽りとは言わず、イライザはその場に崩れる。
ナファイラは、そんな彼女を哀れみの籠もった瞳で見つめていた。
「イライザよ、シェスタのためとはいえ、他国の姫君までに危害を加えるとは、やりすぎたようだな。ナファイラだけであれば、まだ目をつぶることも出来たが……」
その言葉を聞き、イライザは笑った。狂ったかのように、高らかに笑う。
「シェスタのためなどではないわ。私は、自分のために王位が欲しかったのだ。せっかく正妃という立場にありながら、シェスタ以外の子供に王位が渡れば、私は失脚させられてしまうではないかっ」
くっくと喉の奥からこみ上げてくる笑いを抑えようともせずに、憎悪のこもった瞳をナターシャとナファイラへ向けるイライザ。
王は一つ頷いて、コーウェルへと視線をやった。
頭を垂れたままの彼は、顔を上げようとはしない。
「私はイライザ様の護衛兼相談役でございます。彼の方の罪は、私の罪も同様」
「良き心がけだ。では、イライザとコーウェルを引っ捕らえよ」
ウィルフ王が片手を掲げると、頭を垂れていた近衛兵達が立ち上がり、機械的な動作で二人を捕らえ、外へと出ていく。
中に残されたのはアリアからの客人と、ウィルフ王、王子二人、ナターシャのみになる。
シェスタは自虐的な表情をして、睨むようにレティシアのことを見つめていた。そして、その手を振り上げ、レティシアの頬を叩く。
ジェシカはぎょっとしたが、当のレティシアは赤くなった頬を押さえることもせずに、無言でシェスタのことを見つめていた。哀れむかのような視線を込めて。
「母は母のために頑張っていただけではないか。余など関係がなかったではないか。それなのに、先ほどはよくも生意気な口を……」
「……シェスタ」
声を発したのはナファイラ。
彼はゆっくりと、シェスタへ近づいていく。
「兄上も残念であったな。王位は兄上の物にはならなかったようだぞ」
憎まれ口を叩くシェスタの頬を、ナファイラは容赦なく張る。勢いあまり、小柄なシェスタの体は後方に倒された。
ナファイラは無言であった。静かな瞳に、やり場のなくなった怒りをぶつけるために床を殴る弟を、ただ映して。
やがて、彼はそんな弟から父親へと視線を移した。何の感情も籠もっていない灰色の瞳。彼は、怒っているのかも知れない。
ジェシカはたまらなくなって、ウィルフ王に向かって言葉を放つ。
「あの、王様。私、捕らえられたことなんて気にしていませんの。だから……」
「よせ、ジェシカ」
制止の声を上げたのはイ・ミュラーだった。
「俺達が口を挟めるのは、おめえを助け出したここまでだ。これ以降は、他国の事情に首を突っ込むんじゃねえ」
ジェシカのことを振り返ったナファイラも頷く。
ジェシカは視線を床に落とし、拳を握りしめた。
誰もが無事に事を終えられたのは嬉しい。だが、心には靄がかかったかのように、憂鬱なままであった。