ナファイラ6
仮病作戦を止めたジェシカ。
ナファイラとはもう少し話してみようという気になっていた。何故見合いを破談にせずにそんな気になったのかは、ジェシカ自身もよく分からない。
本日のナファイラは騎士団の仕事で城を離れているらしい。
ウィルフは未だ戦が続いている国だ。アリアで言うところの聖騎士の位を持つナファイラは、休暇を取っていても火急の事態には招集されることもあるのだろう。
遊び相手のレティシアが寝込んでいるため暇を持て余していたジェシカの元へ、意外な人物からのお茶会への招待状が届いたのは正午過ぎのこと。
「ナファイラ様のお母様と親しくなるのも、妻としての勤めでございます」
何故か張り切っているボリュドリーに急かされて、ジェシカはシーガルと共にナファイラの母親、ナターシャの部屋を訪れた。
「お姫様は、元気ですね」
穏やかに微笑んで、ナターシャは箱の中からクッキーを取り出していた。
ジェシカは、きょとんと瞬きをしながら振り返る。今ジェシカはシーガルが買ってきたケーキを出しながら、鼻歌を歌っていただけなのだ。
「そうですか?」
「ええ。お姫様とご一緒させていただくと、こちらまで元気になって来るようですわ」
その言葉には嬉しくなって、ぱぁっと表情を明るくする。
「まあ。それじゃあ、もっとたくさんお話をしましょう。おばさまが元気になると、ナファイラ王子もきっと喜びますわ」
普段はベッドの上で生活をすることが多いというナターシャであるが、本日は体調も良いらしい。ナターシャは何度かジェシカの元にお菓子を届けてくれており、花壇で会うと花の話を聞かせてくれたりもしていた。ナファイラのこととは関係なしに、ジェシカは彼女のことが好きであった。
「これは、王子がお気に入りのお店で買ってきたものですね」
シュークリームを取り出したナターシャは、楽しそうに頬を緩める。
「あら。そうだったんですの?」
「ええ。私への見舞いという名目で買って来て下さるのですが、実はご自分が食べたいだけなのですよ」
ナファイラの意外な好みを聞いてしまったような気がして、ジェシカはついつい笑ってしまった。ジェシカとお茶を飲んでいる時には、ナファイラはケーキなどには必ず一つにしか手を付けなかった。無理をしてつきあってくれているのかと思っていたのだが、どうやら我慢していたらしい。
そんなジェシカのことを見ていたナターシャは、穏やかに微笑んで席に着く。
ジェシカも彼女の向かい側の椅子に座り、シーガルが出してくれたお茶へと口を付ける。
「先日、ジェシカ様が寝込んでいると聞いたナファイラ王子は、ジェシカ様へのお見舞いのためにそのお店に買い物に行ってくれたんです」
シーガルの言葉に、ジェシカはおほほと誤魔化すような笑みを浮かべた。あれが仮病であったのは、シーガルも知っているはずだ。蒸し返さないで欲しい。
「驚きましたよ。王子自ら、ジェシカ様の好きな物を注文していくんですから」
一瞬動きを止めてしまう。我に返ったジェシカは驚愕のあまり目を見開いて、シーガルを振り返った。
「嘘っ。あれ、シーガルが買ってきた物ではなかったんですの?!」
「確かに店には俺も居合わせましたけれど、注文をしたのは王子でしたよ」
どきどきどき……。鼓動が高鳴る。
ジェシカが病気だと思って、王子自らが見舞いの品の買い出しに出てくれた。そればかりではなく、彼はジェシカの好みまで当ててくれた。彼がジェシカの好みを知っていたということは、それはジェシカのことをちゃんと見ていてくれたということ。そんなことに気付くと、何故かむず痒いような心地になってくる。
へらへらと頬を緩めているジェシカのことを、ナターシャは微笑みを浮かべながら見守っていた。
その視線に気付き、ついつい恥ずかしくなってしまったジェシカは、真っ赤になりながらケーキを口一杯に頬張った。
「ナターシャ様は、食べ物は何でも大丈夫ですか? 何か別な物を用意しょうか」
「ありがとうございます。王子は少々うるさいのですが、量にさえ気を付けていれば大丈夫なのですよ」
ナターシャの病気を気遣ったシーガルの発言に、おっとりと受け答えをするナターシャ。そんな二人の会話を聞いていたジェシカは首を傾げた。
「あのぅ……どうしておばさまは、ナファイラ王子のことを、『王子』と呼ぶんですの?」
二人は親子であるのに。ジェシカにしてみれば、それは酷く不思議なことであった。
シーガルがぎょっとしたような表情をしてこちらを見る。しかし、ジェシカはそれには気付かずに、困ったような顔をしているナターシャを見つめていた。
「あの方は、この国の王子ですから」
その意図することがさっぱりつかめず、ジェシカはますます首を傾けた。だとしても、理解は出来ないのだ。
そんなジェシカを優しく見つめ、ナターシャは微笑む。まるで、自分の子供を見つめるような、慈愛に満ちた瞳。
「私は王族とは認定されておりません。……家臣の身分なんですよ」
アリアでは考えられない関係に、ジェシカは険しい顔をして立ち上がった。
「でも、ナファイラ王子は王子様だから、母親のおばさまだって、王族なのが当たり前じゃないんですの?」
ジェシカの母とてそうであった。彼女は城下町に住んでいた平凡な娘であった。だが、ロキフェルと結婚したことで王族として認められたと聞く。ナターシャの境遇が己の母と重なって見えたためか、ついついムキになって叫んでしまう。
そして理由は何であれ、ナターシャはナファイラとの間に壁を作っている。ナファイラがナターシャを大切に思ってるのは、見ていて痛いほどに分かるから、納得がいかない。
「……お姫様は優しいのですね」
ナターシャは立ち上がり、興奮のあまり泣きそうになってしまったジェシカの頬に触れた。その手はがさがさにひび割れをしていて、瑞々しさのかけらもない。骨が浮き出た、弱々しい指。
「王には正妃であるイライザ様がおりますから。……私は、こうしてナファイラ王子のお側で、王子の成長を見届けることが出来るだけで、幸せですわ」
そう言って儚げに微笑むナターシャの姿が痛々しかった。
そんな彼女を見ていると、血の昇っていた頭が、少しだけ冷静さを取り戻してくる。
「あの……変なことを聞いてしまって、ごめんなさい」
謝りながら、席に座り直す。彼女たちには彼女たちの理由がある。そうとは知らずに、痛い部分を口にさせてしまったことに対する罪悪感がこみ上げてきたのだ。少し考えれば分かることであったはずなのに。
「いやだわ。湿っぽい話になってしまいましたね。……さあ、せっかくのお茶会なんですから、楽しいお話をしましょう」
席に戻ったナターシャは、穏やかに微笑みながらナファイラの幼い頃の楽しい話などを聞かせてくれた。
ジェシカの胸の中には未だに苦い気持ちが残っていた。しかしナターシャの話は面白おかしくて、その時だけは楽しい一時を過ごすことが出来た。
*
その夜、ジェシカは一人でナファイラの部屋を訪れた。
扉を開けたナファイラは驚いたように眉を上げ、ジェシカのことを迎えてくれる。
「こんな遅い時間にどうしたのだ?しかも、シーガル殿も連れずに歩いたりして。変な噂が立っては、事であろう」
「変な噂って?」
きょとんとしながら尋ねてみると、ナファイラはしばし迷うように視線を上へとずらし、納得したように手をぽんと叩く。
「そうであったな。この場合立つ我らの噂なら、さしあたって問題はないのだな」
なにやら感心した風に呟いているナファイラの心理がつかめずに、ジェシカはますます首を傾けた。
「して、何か急用でもあったのか?」
そう尋ねられてしまうとうまく返事を返せない。
実のところ、ジェシカにも自分の行動の意味は分かっていない。ただ一日を振り返って、今日はナファイラに会えなかったと思っていたら、なんとなく顔が見たくなった。ただ、それだけなのだ。
そのための口実として、ナターシャとのお茶会の際に余ったケーキまで持参して。何がしたいのかすらも、よく分からない。
「えーと。今日は、ナファイラ王子のお母様のところに行って、お話をさせていただきましたの。一緒にケーキを食べましたわ」
「そうか。母上も喜んだだろう。ありがとう、礼を言わせて貰う」
頭を下げられ、ジェシカは狼狽えながらそれを手で制した。その拍子に、こっそりと後ろ手に隠していた籠がナファイラの前に曝される。
興味のある顔はしていないが、ナファイラは微かにその籠へと視線をやった。
「あ、あの。おばさまと食べていたケーキのお裾分けですの。よ、良かったら、どうかなぁ、と思って」
「そうであったか。わざわざ来ていただいたのに、このようなところで立ち話もないな。中へ入ってくれ。先日手に入れたお茶を淹れよう」
部屋の中へと戻っていくナファイラ。
ジェシカは一言挨拶をして部屋に入り、後ろ手で扉を閉める。時間が時間だからであろうか。何故かとても緊張をする。入ったその部屋は、小さな明かりしか灯されていない。彼はすでに奥の部屋で休もうとしていた所だったのかも知れない。
全身が熱くなり、籠を握っている掌がうっすらと汗ばんできた。
奥の部屋のナファイラに手招きをされて、ジェシカはそれに従った。定位置になりつつある椅子へと腰を下ろす。
「ナファイラ王子って、自分でお茶を淹れたりするのですわね」
感心しながらそう口にして、出されたお茶に息を吹きかけ、ゆっくりと飲む。香りの良い、ほろ甘い味が口の中に広がる紅茶。ナファイラがわざわざジェシカにと持ってきたほどの紅茶であるだけあって、本当に美味しい。
「いちいち侍女に頼むのも億劫なのでな。それに、自分で淹れた物でないと、安し……」
不自然なところで言葉を止め、彼は優雅な動作でティーカップに口を付ける。ジェシカはてっきり喉を潤した後で言葉は続くと思っていたので、じっとナファイラのことを見つめていた。だが、いつまでたっても彼は口を開こうとはしない。
妙な沈黙が、二人の間に訪れる。
さすがに居心地が悪くなったのか、ナファイラはその端正な顔を少しだけ歪めて、苦い笑みを浮かべた。
「貴女の前だと、どうも喋りすぎる傾向にあるようだ」
そこでようやく、ジェシカはまたしても余計なことをしているということに気付き、慌てた。
「えっと、あの、その。言いたくないことなら、言わなくても良いんですわよ。ああ。で、でも、私、バカですから、物を忘れることには、自信がありますの。もし良かったら、何でも気楽に話してくれると、嬉しいです」
えへんと胸を張って、決して威張れない事を自慢するジェシカ。
「貴女は馬鹿などではない。素晴らしい人だ。もっと自信を持って良いと思う」
「す、素晴らしいだなんて。……い、嫌ですわ、照れてしまいますわよ」
おろおろと狼狽えながら、ジェシカは誤魔化すように紅茶を飲み、慌てて口元を押さえる。まだ熱いその液体を無造作に流し込んだため、火傷をしてしまいそうだった。
涙目になって、それでも紅茶を吐き出すのだけは堪えて、気合いで飲み込む。
ナファイラは素早く冷水の入ったコップを用意して、ジェシカに渡してくれた。
慌てて水を口に含み、一息を付く。
「ありがとうございます」
礼を言いながら顔を上げると、ナファイラは心配そうな顔をしたまま頷いた。
変にどきまきとしながら、ジェシカはそんなナファイラから視線を外す。
「……。前に、母が毒を盛られたという話はしたかと思うが……」
唐突にそんな話を切り出されて、ジェシカは逸らしたばかりの視線を戻す。目が合うと、今度はナファイラの方が横を向いてしまったが。
「……この国では王位継承に関して、多少のもめ事があってな。私や母の存在を疎んじる物がおるのだ。ある程度の耐性があるとはいえ、私の存在を消すために、いつ毒が盛られるやも知れぬと思うと、人から出された物を食すのは、……少々怖い」
苦い笑みをこぼすナファイラ。
ジェシカは表情を険しくして、彼の横顔を見つめていた。いつもは無表情で自分を見せない彼の、おそらくは本心。
同じ王族なのに、どうしてこんなに違うのだろうか。ジェシカは周りに愛されて育った。誰かが食事に毒を盛るなどと考えたことはないし、近くでそんなことがあったなどという話も聞いたことはない。
ふいに、ジェシカは気づいた。ナファイラが普段無愛想なのは、それが原因ではないだろうか。周りに気を配って、毅然とした態度を取り、自分の弱さなどを見せないようにして。
そしてアリアに来たいと言っていたのも、すべては――
上目遣いに見上げると、ナファイラはいつもの堅い顔をして、まっすぐにこちらを見つめている。
「アリアに、来てください。おばさまも、一緒に」
自然に口から出てきたその言葉。
ナファイラは驚いたように目を見開き、ジェシカの瞳を凝視している。その灰色の色素の薄い瞳を真っ向から見返し、ジェシカは彼の手を取った。
「アリアはのんびりとした国ですわ。誰も毒なんて盛ったりしないし、身分がどうのなんて、……ボリュドリーおばあさまはうるさいかも知れませんけれど、他の人は誰も気にしませんから。おばさまとナファイラ王子も、ちゃんと親子として接することも出来ると思うんです」
ぎゅっと力一杯彼の手を握りしめる。
しばしの間、ふたりは見つめ合っていた。
やがてナファイラは微かに笑い、空いている手でジェシカの指をゆっくりと外す。
「ありがとう、ジェシカ王女」
早鐘を打つ、鼓動。「アリアに来てくれ」という言葉は、つまりは自分と結婚をしてくれと申し込んでいる事と同義。しかしジェシカはそんな言葉を言ってしまったことに、後悔などしていない。
今は、ナファイラがどう返事をしてくれるのかが、ただ怖かった。
「……このようなやり方は良くないな。私たちに同情をして、大切な決断を下す必要はない。ウィルフの内情や、私たちの事に関係なく、貴女には決断を下していただきたい」
「そ、そんなわけじゃありませんっ」
慌ててジェシカは叫ぶ。
同情という気持ちも多少はあったかも知れない。確かに最初に「アリアに来て」と言ったときには、それが大半を占めていた。
だが、今はそれだけではないのだ。ジェシカはナファイラに好意を持っている。彼についてもっと知りたいと思っているし、それよりなにより、彼には笑顔でいて欲しいと思っている自分がいるのだ。
「私は……」
あなたのことが好きかも知れないと、告白をしようと口を開くが、なかなか言い出せないでいる。すると、ナファイラは柱にかかっている時計と外とを見比べ、ジェシカの肩に手をのせる。
どきりと心臓が飛び跳ねる。
まっすぐに、ジェシカを映す瞳を見つめ返し、緊張しながら瞳を閉じようとしたその時――
「ずいぶんと遅くまで引き留めてしまったようだ。もう帰った方が良い」
そんなことを言われ、ついつい肩から力が抜けていく。
彼の表情はいつの間にか厳しい物へと変わっていた。
せっかくいい雰囲気だったのにと心の中で文句を言いつつも、ジェシカは仕方がないとため息を付く。
「ねぇ、ナファイラ王子」
ナファイラが返事をして、ジェシカのことを見る。
ナファイラは自分のことをどう思っているのか。それがたまらなく気になっていたのだが、それを問うのは少々礼儀違反な気がして、ジェシカは首を振った。
「えーと。私、ナファイラ王子のことを、もっと知りたいと思うんですの。……で。これから私のことはジェシカと呼んでくださいな。よく考えたら、お見合いをしているのに、敬称付きだなんて、何だか変ですものね」
「確かにそうかも知れぬな。では、王女も私のことは呼び捨てにしてくれ。よいな、ジェシカ」
きゅん、と鼓動が高鳴る。
なにやら思考能力が著しく低下してしまい、その場で硬直をしていたジェシカだが、ナファイラが返事を待っていることに気付き、こくこくと頷いた。
「ええ、分かりましたわ。……えーと、おやすみなさい、ナファイラ」
「ああ。お休み、ジェシカ」
ナファイラの部屋から出て、閉じたばかりの扉に寄りかかる。
「好きなのかしら。それとも、やっぱりただ同情をしているだけなのかしら」
動悸が速まりすぎて、苦しいような気分になりながら、ジェシカは心を落ち着けようと深呼吸をした。
しばしその場で考え込み、ジェシカは頷いた。
「ナファイラには、笑顔でいて欲しい」
普段の彼もカッコイイが、笑っている方が数倍良い。そして、出来ることならその傍には自分がいたい。難しい事なんて考えなくとも良いのだ。ナファイラはカッコよくて、優しい、自分好みの人。気になって仕方がなくて、もっと彼のことが知りたくて、傍にいたいのだ。だったらその感情に素直に従えばいい。
ジェシカは気合いを入れるように拳を握りしめ、浮かれたような足取りで自室へと戻っていった。
自室に戻ると、すでにボリュドリー達はいなくなっていたようだ。ナファイラの帰りを待っていたので、それほど遅い時間にジェシカは行動をしていたのだ。
レティシアの寝室の扉を無造作に開ける。すでに寝ていたらしい彼女は目を覚ましてしまったらしく、寝ぼけ眼のまま体を起こす。
それを良いことに、ジェシカは大声で宣言をした。
「レティ、私、ナファイラのことが好きですの」
「はぁ?」
寝起きで機嫌が悪いのか、怒気の含まれた声音。
それにもめげずに、ジェシカはにへらんと頬を緩めた。
「だから、私とナファイラの縁談がちゃんと成立するように、応援してくださいね」
レティシアは無表情だった。
浮かれきっていたジェシカだが、その表情に危険を感じじりじりと後ずさる。
「縁談を破棄しろと言ったり、応援をしろと言ったり、人を振り回すのはいい加減にしてっ!」
「と、いうわけで、よろしくお願いしますわよ~、レティ。じゃあ、おやすみなさい~」
慌ててレティシアの寝室から飛び出したジェシカは、怒られているにもかかわらずにやにやと頬を緩めながら足取り軽く寝室へと戻っていった。




