ナファイラ5
ジェシカとナファイラの縁談を破談にする――。
それは、難しい課題である。王族同士の縁談など、政略的な要素が絡んでいるのが常であるため、簡単に拒否の返事をするのは問題がある。
だがこの場合、少なくともアリアには政治的な意味合いはそれといってない。
ウィルフ側にしてみれば、隣国と戦続きなので、ジェシカと婚姻を結ぶことで友好関係を強固にし、アリアの援助を受けやすくなるという意味はある。
「いちいち複雑なんですわよね」
ひとりごちつつ、レティシアはため息を付いた。
妻を何人も娶ったりするから、相続問題でもめ事が起こる。まして、正妃に息子が生まれたのに、ナファイラに第一位の王位継承権があるから、また話は面倒になる。
王位継承権の順位も生まれた時に勝手に割り振られただけの数字で、あまり強制力はなく、格式を重んじるお国柄のウィルフではナターシャの出自ゆえ、ナファイラが王の座を得ることに対して反発する声は多いらしい。
だいたい、この見合いには不可解な点が多い。
第一王位継承権を持つ者同士の見合いだという事。
そんな大きな話を国を通してでなくボリュドリー個人が持ってきた事。――ロキフェルが知らなかったのは、どうせジェシカは断ると踏んで真面目に確認していなかったので彼の問題ではあるが。
疑い出せば、当人同士の意思で決めることも、決まるまではジェシカがこの国に滞在することも、何者かの思惑があるようにみえる。
「ナファイラ王子に嫌だと伝えれば、後は王子の方で何かしらの手を打ってくれそうな気はするんですけれどね」
レティシアは日々、ウィルフ城の中を歩き、まれに姿を消した状態で聞き耳をたてて噂を集めた。書庫を自由に見ても良いと許しを得たのでそこでウィルフについて調べ、書庫を訪れる人と話をしてもみた。
それらで集めた情報では確かにナファイラには少々冷たいところはあるらしいが、誠実で公正な人間だと聞く。城で働く人間の間では基本的には人気が高い。逆にシェスタや現国王には不満が多いようだ。
アリアに婿入りしてくれるという話ならば、レティシアにしてみればこの話がまとまってくれた方がありがたいのだが。
深く思考に没頭していたレティシアは頭痛を感じ、足を止めた。
頭を押さえながら周りを見渡す。赤い絨毯に、数々の調度品。……ウィルフの城の中はあらかた見て回っているレティシアも、知らない場所。
「ここは、どこ?」
そんな言葉を口に出しそうになり、レティシアは頭を振った。
ずきずきと痛む頭。今日は朝から調子が悪かった。昨晩は考え事をしていたせいで寝不足なのが原因なのかも知れない。
レティシアは現在位置の特定のために頭を悩ませた。
アリア城にも言えることではあるが、ウィルフ城には部屋数が多い。使用していないであろう部屋も多く存在しているようだ。その扉の形、壁の色。すべてが似たような要素を含んでいる。
「迷子になったなんて、お姉さまじゃあるまいし……」
「このようなところで、何をしておるのだ」
嫌なときに、一番会いたくない人間に会ったものだ。頭の片隅でそんなことを思いつつ、レティシアは顔を上げ、精一杯の作り笑みを浮かべてやった。
「まあ、シェスタ王子。ごきげんよう」
気力を振り絞って直立し、優雅に頭を下げる。
「余に会いに来たのか?」
シェスタは含みを持った顔でレティシアのことを見ていた。彼の言葉からするに、この辺は王族の私室の近くなのであろうか。
「まあ良い。そなたには話があったのだ」
唐突に切り出したシェスタを見つめる。
彼は得意げな表情をして、にやりと口の端を持ち上げるようにして笑んでいる。
「何でしょうか?」
辿々しく返してみると、彼はレティシアの瞳をじっと見据える。
「そなた、余の嫁になれ」
その言葉の意味を理解するまでにしばしの時間を要し、レティシアは硬直した。
「はぁ……? な、何を仰っていますの」
その反応はシェスタにとっては不服だったらしい。今までの尊大な態度から一変して、目に見えて不機嫌顔になっていく。
「余では不服と申すか?」
怒気を含んだその言葉に、レティシアは慌てて首を振った。
「不服とか、そんなお話ではありませんわ。今回私がここに赴いているのは、姉の縁談のためです。それなのに、どうして私たちが……」
「そなたの姉と兄上の婚約が決まった時、アリアとの友好のために兄上がこの国の王座に付く可能性が高くなるらしい。だから、余にもそなたが必要らしいのだ」
その発言には怒りを覚えるより、ただ呆れるばかりであった。相手を不快にされるのが目的でこのような言葉を吐くのならまだしも、この王子はそんな事を意図などしていないだろう。
「せっかくのお話ですけれど、私には、関係ありませんから」
踵を返し、その場から逃げるように立ち去ろうとする。このままバカ王子と話していては、罵りの一つや二つくらい、平気で吐き捨てそうであった。
だが、そんなレティシアの気苦労を無にするように、シェスタはレティシアの腕を掴む。
「承諾するのだ、そなたにとっても悪い話ではあるまい」
「姉とその伴侶になるかも知れない人を陥れる様な事は、私には出来ません。第一、ナファイラ王子が第一王位継承者ではありませんか」
すると、意外そうな顔をしてシェスタは尊大に言い放つ。
「何を言う。この国の正当なる後継者の血を引いておるのは、余なのだぞ」
訝しげに眉を潜める。
「余の母は、ウィルフの名門貴族の出身だ。没落貴族から上がったナターシャや、どこの馬の骨とも知れぬような平民女なんぞの子供達とは格が違う」
この人自身もそういう意識なのかと、呆れる。
名門貴族の血を引いているというだけで、何がどう偉いというのだろうか。シェスタだけではない。ボリュドリーや多くの貴族も同じような事を言う。レティシアには理解など出来なかった。貴族ではなくとも、素晴らしい人はたくさんいるということを、レティシアは知っている。その人たちを悪く言われているようで腹が立つ。
怒りを押さえ込もうとするあまり、シェスタに対する警戒心が失せてしまったのか。その隙をついて、シェスタはレティシアの空いている方の腕をも掴み、壁にレティシアの背を押し当てる。
至近距離で見つめ合う形になり、レティシアはひどく不機嫌な顔で、怒鳴るのだけは堪えて問うた。
「何のつもりですの?」
「このようにすれば、女は皆喜ぶぞ」
「……」
無言でいるレティシアの態度を勘違いしたのか、キスを迫ってくるシェスタ。ひっぱたいてやろうかと思ったが、あいにくと両腕はふさがっているため、それも叶わない。
その代わりに、レティシアは、思いきりシェスタの臑を蹴飛ばしてやった。
声にならない悲鳴を上げ、足を押さえるシェスタ。
蹲ったバカ王子の事を見下ろすレティシアは、にこにこと穏やかな笑みを浮かべてゆっくりと言い放った。
「私の母も、あなたの言うところの、どこの馬の骨とも知れぬ、平民ですの」
顔を上げたシェスタのその瞳は、驚いたように見開かれていた。
「平民の娘などでは、あなた様のような尊いお方には不釣り合いでしょう? ……せっかくのお話ですが、謹んでお断りをさせていただきます」
にっこりと笑みを浮かべながら一礼をし、レティシアはその場を後にした。
胸の奥に広がるのは悔しさと怒り。そして悲しみ。
しばらく歩くと心が幾分か落ち着いてくる。
ふと、自分がした行動を振り返ったレティシアは、よりいっそうの頭痛を覚えて頭を押さえる。
「意外とすんなり、お姉さまの縁談は破談になるかも知れませんわね……」
それ以上の問題になったらどうしようかと考えながら、レティシアは自室を探して歩き始めた。
* * *
ジェシカは寝込んでいた。
「そうか。おいしい紅茶が手に入ったので、一緒にどうかと思ったのだが、気分が優れぬのでは仕方がない」
さして残念といった風もなく、ナファイラが言う。
ナファイラの応対をしていたシーガルは、後ろめたさのため、奥の扉へと目を向けた。その扉の先はジェシカの寝室になっている。
「ジェシカ様っ。何を寝込んでいるのでございますかっ。王子がわざわざ会いに来て下さっていますのに、そんなことでは申し訳が立ちませんでございますっ」
扉を叩くボリュドリー。
ジェシカは寝室の鍵をかけて、誰も中に入れてくれない。それはレティシアやシーガルも例外ではない。
「私はおなかの調子が悪いんですのっ」
扉の向こう側からジェシカの怒鳴り声が聞こえてくる。
思わずこめかみの辺りに手を当て、シーガルはナファイラの方を見ないようにと努めていた。どう聞いても、今のジェシカの声は元気そうであった。
彼女は仮病を使っているのだ。ナファイラにはもう会わないという自己主張のつもりなのだろう。
「食い意地が張っているからでございますっ。あれほど、拾い食いはするなと申し上げましたのに、昨日何を食べたでございますかっ」
「何も食べていないですわよっ。そ、それに、なんだか頭も……」
「頭が悪いのは元からでございましょう! 馬鹿なことばかり仰っていないで、鍵を開けるでございますっ」
沈黙が訪れる。
「面と向かって言うのは、失礼だよなぁ……」
ついつい口から出てしまった言葉。
「ふむ。そなた達は面白いな」
その言葉の割には淡々とした物言い。シーガルは乾いた笑みを浮かべる他、何も出来なかった。
「ボリュドリー殿。ジェシカ王女は気分が優れぬと言っておるのだ。慣れない他国での生活に疲れも溜まっておるのだろう。私の事はかまわずに、ゆっくりと静養させてくれ」
ナファイラにそう言われては、ジェシカを無理に引きずり出すことも出来なくなったボリュドリー。彼女はナファイラの言に従って下がる。
ナファイラは頭を下げ、ジェシカの部屋をあとにした。
シーガルは彼が去っていくのを見送った。じっと彼の背中を見つめる。
自分ならジェシカのために何かが出来る。そんなことはただの思い上がりだと、いつぞやの一件で十分に思い知らされた。だが、シーガルにはじっとしていることは出来なかった。
「すいません。俺、ちょっと外出します」
部屋の中の人間に断り、シーガルは部屋を出た。角を曲がったところで、ナファイラに追いつく。
シーガルに気付いて、振り向くナファイラ。驚いた風も、訝しげな風もない無表情。男のシーガルが見ても本当に整った顔立ちをしているのだと、ついついじっと見つめてしまう。
「どうしたのだ、シーガル殿」
ほけっとナファイラの顔を見ていたシーガルは、慌てて直立の姿勢をとった。
「あのっ、少しお話があるんですけれど、お時間はありますか?」
ふむと唸り、ナファイラは指を横に向ける。
指を辿っていくと窓があり、その向こう側にはウィルフの城下町が存在していた。
「私は今から町に出ようと思うのだが、シーガル殿も来ぬか?」
断る理由もなかったため、シーガルはその申し出を受けた。
ウィルフの町は、アリアと比べると落ち着いた雰囲気に包まれていた。
アリアのメイン通りは、路肩に露店が建ち並び、わいわいがやがやと賑やかな喧噪に包まれている。店も基本的には入り口は開きっぱなしで、呼び込みの声が辺りに響いている。比べて、ウィルフのメイン通りには露店という物は並んでおらず、買い物客はそれぞれの店の中へ消えていく。店の呼び込みなどがないせいか、静かに感じられるのだ。
「ウィルフの町並みは、整然としていて、気品があるような感じがしますね」
ナファイラの横を歩きながら、シーガルが発言をする。それを聞いたナファイラは、ちらりとシーガルをみやり、その視線を遠くへと向けた。
「アリアはどのような町であるのだ?」
「アリアの城下町は賑やかですよ。賑やかというか、うるさいくらいです」
他愛のない話をしながら二人は早足で通りを南下していた。
「して。話というのは何であろうか」
話の切れ間に唐突に問われ、狼狽えながらシーガルは背筋を正した。ごくりと唾を飲み込み、長身のナファイラを見上げる。
「ジェシカ様の事です」
それは予想済みだったのか、ナファイラは視線でその続きを促す。
「昨日、ナファイラ王子は、ジェシカ様と縁談をしているのは、……その、ウィルフを出て、アリアに婿入りしたいためだと聞いたんですが」
不躾に問うのは失礼かとも思ったが、シーガルにはストレートに問う以外に、うまい方法は思いつかなかった。
ナファイラは足を止め、まっすぐにシーガルのことを見つめる。いつもの無表情とは違う、真剣みの帯びた瞳。
自分がこの人に意見をするのは、不相応だったかと後悔しつつも、ここまで来ては後には引けなくなっていた。
唾を飲み込む。緊張のあまり、口の中がカラカラに渇き、続きの言葉がうまく出てこない。
「王族同士の縁談ですから、何かしらの思惑があるのは、仕方がないと思います。……でも、ジェシカ様は、本当は政略結婚ではなくて、恋愛結婚に憧れているんです。だから、と言うわけじゃないんですけれど……」
自分でも何を言っているのか分からなくなってくるが、伝えたいことだけは伝えようと思った。ジェシカのためにも。そして、自分のためにも。
「……ジェシカ様を道具ではなく、一人の女性として、見てあげてください。王子には王子の理由があるのかも知れませんが、そんな気持ちだけで婚約、結婚となると、ジェシカ様が可哀想だと思って。……すみません。ただの護衛の分際で、こんな口をきいて」
「いや。構わぬ」
頭を下げようとしたシーガルを手で制し、ナファイラは微かに表情を緩めた。羨むような、優しげな顔。
「そなたは、ジェシカ王女が好きなのだな」
ぶっ、と思わず吹き出し、慌てて口元を押さえる。
「いや、俺は、別に……っ! ジェシカ様は大切な主君と言うだけであって、決して恋愛感情なんかがあるわけではなくて……っ!!」
「何も男女間での恋愛感情を言っているのではない。主君として、彼女を慕ってるのであろう?」
自分の勘違いに気づき、一瞬にして頬が赤く染まる。
「そのように思える主君に仕えることが出来るとは、おぬしも幸せ者だな」
何故か自嘲するように呟いた彼は、いつもの顔に戻ってこほんと軽く咳払いをした。
「……そなたの言いたいことは分かった。彼女を傷つけないように、私も真剣に考えよう」
ただ言葉を発しているだけなのに、何故か威圧感が感じられる。その辺は、ジェシカにはない王族らしさなのかと感じつつ、シーガルは頭を下げた。
何故だろうか。シーガルはこの人は嫌いではない。唐突にそんなことを感じ、心の中で疑問符を浮かべる。
「もしや、王女が寝込んでいるのは、私との縁談を取りやめにするためのふて寝であるか?」
鋭いなあと思いつつ躊躇いがちに頷くが、ナファイラは気を悪くした様子は見せなかった。
「……そうと知っては、いよいよ急がねばならぬな」
「そう言えば、どこに向かっているんですか?」
歩みを再開させたナファイラの後を追いながら問いかけると、彼は目線を少し離れた場所にある店へと向ける。
その店は、クリーム色の壁に赤い屋根。こぢんまりとした構えの店であった。木製の扉を開けて、中に入っていくナファイラ。
シーガルは慌ててその後を追い、ついつい硬直してしまう。ショーケースに並んでいるのは、数多くの洋菓子達。ケーキ、シュークリーム、プティング等々、ジェシカが好きな物ばかりである。
「ジェシカ王女の見舞いに、何か持って行かねばならぬと思ってな」
淡々としたその言葉に思わず絶句をして、シーガルは瞬きだけを繰り返した。
何故王子自ら、見舞いの品を求めて城下町へと赴いているのか。王族としての威厳や資質を持ち合わせている人だと思っていたが、こういうところは案外ジェシカと合うかも知れない。
シーガルの沈黙をどうとらえたのか、彼は無表情のまま言葉を紡いでいく。
「この茶菓子屋は、この城下町でも一番人気の店であるのだ。ジェシカ王女とのお茶会の時の菓子は、いつもここで買っていたのだぞ」
気を取り直してシーガルはショーケースを見つめた。ジェシカの機嫌を直すためにも、彼女の好物を見繕って、渡させた方がいいと思ったからだ。
ところが、シーガルが口出しするよりも先に、ナファイラは無造作に注文をしていく。
生クリームたっぷりのイチゴケーキ。生チョコレートケーキ、クリームがたくさん乗ったプティング――さくらんぼ付き。等々。何故かジェシカの好みを当てていく。
驚いて、会計を終えたナファイラに訪ねてみると、彼はいつもの無表情な顔を少しだけ緩めて答えてくれた。
「彼女は、真っ先に好物に手を出す性格であろう?」
シーガルはついつい、苦笑いを浮かべてしまった。
* * *
ふて寝を始めてからすでに半日以上が経過した。
ジェシカのおなかはぐるぐると大きな音を立て続けている。調子が悪いからと、朝食も昼食も食べなかったのが悪いのかも知れない。今や空腹のあまり目が回る程になってしまった。
「レティもシーガルも何をしているんですのよ。空間転移とか言う魔法で、食べ物くらい届けてくれたって良いじゃないっ」
言いがかりである。
ジェシカは布団の中でぶつぶつと不平を並べ立て、またもや響いたおなかの音に脱力をした。涙が出てきそうであった。
部屋の外から声が聞こえる。
少々低めのこの声は、ナファイラの物であった。
ジェシカは話なんて絶対に聞かないという心持ちで、布団の中に潜り込む。
とんとんと扉がノックされる。だが、ジェシカは寝ているふりを決め込んで、返事をしなかった。
「ジェシカ王女。話があるのだが……開けては貰えぬだろうか」
心の中で「絶対に嫌」と答える。
「本日は食事も取っていないと聞く。そんなことでは、治る病気も悪化してしまうぞ、一緒に茶菓子でも食さぬか?」
仮病ですもの、と胸の奥で怒鳴りつつ、べーっと舌を出す。
しばらくの間、沈黙が続く。
「まあ、良い。また出直してこよう」
意外とあっさりと引き下がられ、なんとなく不満に思いつつもジェシカは体を起こす。
しばらくの間、じっと扉を凝視していた。
「……もう、帰りましたの?」
気になって仕方がなくなって、ジェシカはそっと扉を開けて隣の部屋を覗いた。
そこにいるはずのボリュドリー達の姿は見えない。その代わりに紫色のマントを羽織った男が一人、白い箱を手に佇んでいた。
彼はジェシカに気付き、ゆっくりと瞬きをする。
「ジェシカ王女。お加減はどうであるか?」
優しくもない口調で問われても、嬉しくも何ともない。だが、ここで部屋に戻るのはさすがに気が引けたため、素直に受け答えをする。
「ええ。いまは調子はいいんですの。ところで、どうしてまだ、この部屋にいるんですの?」
「ああ。実は、王女の見舞いのために茶菓子を買ってきたのだが、王女と話があるからといってボリュドリー殿を追い出してしまったのでな。どうやって貴女へ渡して貰おうかと、考えておったのだ」
箱を差し出されて、断る理由もなかったためそれを受け取る。
ナファイラはまっすぐにジェシカのことを見つめていた。その真摯な眼差しを真っ向から見つめ返すと、どきりと鼓動が高鳴る。
「ジェシカ王女よ。貴女がこの縁談を破棄にしたいというのであれば、気兼ねせずに私へ申しつけてくれ。その時は、私が責任を持って、破談にしてみせよう」
その言葉には驚いて、口をぽかんと開いてしまう。
「貴女の気持ちを無視して、強引に婚約を成立させるつもりはない」
ジェシカは戸惑っていた。彼がそう言ってくれるのは、ジェシカにとっては願ったりである。今ここで、ナファイラと婚約をしたくないと言えば、彼はそれを受けてくれるだろう。
それは分かっているのに、声は出てこなかった。
「体は大切にされよ。本当に悪くなってからでは、取り返しが付かぬからな」
その言葉を最後に、ナファイラは一礼をした。彼が踵を返すと同時に、タイミング良くシーガルが廊下から現れる。彼は、お茶の用意を手にしている。
ナファイラはシーガルに対しても一礼をして、廊下へと出ていってしまった。
ぼんやりと、扉を見つめる。ナファイラが戻ってくるとは考え難いのに、彼が再びこの部屋に来てくれることを望んでいる自分に気付いて、首を振る。
「ジェシカ様。自分の思うがままにして良いんですよ」
そんなことを言われて、ゆっくりとシーガルへと視線を移した。焦げ茶色の瞳は優しくて、ジェシカのトゲトゲした心を和らげてくれるようでもあった。
「ナファイラ王子は、いいひとですよ」
そんなことを言われ、ジェシカは曖昧に頷いた。
することがなくなったため、ジェシカは箱のふたを開け、思わず頬を緩めた。ジェシカの好きな甘いお菓子が所狭しと並んでいる。
シーガルと箱とを交互に見つめ、ジェシカは唇を尖らせた。
「もう。物で釣ろうとしたって、無理なんですわよっ」
こんなに自分の好みを当てるのはシーガル以外にいない。ナファイラが買いに行ったといいつつ、実のところはシーガルが買いに行ったのであろう。そんなことを思いつつも、ジェシカはご馳走を前にして、すっかり機嫌をよくしていた。
「まあ、少しはいい人かも知れませんわね、ナファイラ王子」
「あ、あはは。そうですね」
何か思うところがあるのか、シーガルは乾いた笑みを浮かべていた。
ジェシカは椅子に腰を落ち着け、へらりと頬を緩めた。




