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フィアンセバトル  作者: きなこ
9章 デューク
56/89

デューク8

 パーティ会場の白いテーブルクロスに映える銀色の食器。その上に並べられているのは真っ赤な色をした苺達。

 ジェシカはごくりとつばを飲み込み、敵でも見るようにそれらを睨み付けた。苺達とそこにかかった透明なシロップがジェシカを「甘いぞ~。美味しいぞ~」と誘惑する。手を伸ばし、ふるふると首を振りながら手を引っ込め……そんなことを繰り返すこと幾たびか。


「何をしているんですの」

 ため息混じりにレティシアから声をかけられ、ジェシカは手を後ろに隠しながらくるりとターンをした。

「何でもありませんのよ。おほほ」


 今日もパーティに呼ばれたジェシカは、早速貴族の名前を覚えるための訓練をしようとしていた。


「この方はどちら様か、ご存じ?」

 早速のレティシアの質問。彼女に指されたのはヒツジ。バカにされているとしか思えない問題に、ジェシカは唇を尖らせて腰に手を当てた。

「ひーちゃんですわよっ」

「本名は?」

「ヒツジ」

 ヒツジのことを見上げると、名前を呼ばれるのが嫌いな彼は複雑そうな顔をしてそっぽを向いていた。


「家名は?」

 ジェシカは首を傾げた。そんな物を覚えているはずはない。ジェシカのその反応は予想通りだったのか、レティシアは額に軽く手を当てていた。次にレティシアが指したのは、キャメロン。


「キャメロンさん。キャメロンさんの家名なら知っていますわよ。フィクスラム」

「あら。よくご存知でしたわね」

 心底意外そうな顔をするレティシア。

 ジェシカは心外だとばかりに眉根を寄せてレティシアを睨み付けた。レティシアはまったく気付いてはくれずに大広間をぐるりと見渡している。


 ジェシカはレティシアの視線を追ってみた。見たことのある顔はある。だが、その名前は全くと言っていいほど覚えていない。そんな中で目に付いたのはアンジェリカ。彼女はじっとジェシカのことを見つめていた。

「お姉さま」

 呼ばれて慌ててくるりと回れ右をする。


「いいですか。ここにいる人達の名前を教えますから、覚えてくださいね」

「は?」

 無茶苦茶なことをさらりと言ってのけたレティシアは、端から順に貴族達の名前を羅列する。

「ちょ、ちょっと、待ってっ!!」


 目を回しながら悲鳴を上げるが、レティシアは少々高めの声でどんどんと名前を述べていく。そんな教え方があるかと心の中で文句を言うが、取り合ってくれそうにもないので、懸命に名前を覚えようとする。――意識が朦朧としてきた。

 迷うことなくすらすらとこの場にいるすべての人間の名前を言い終えたレティシア。ヒツジは感心したように眉を上げているし、キャメロンは微笑みながら手を叩いていた。


「さあ、お姉さま。復習です。覚えている方の名前だけでも、仰って」

「そんなの、覚えているはずがありませんわよっ!」


 自慢にもならないが、この広い会場の中でただひとり、アンジェリカの名前しか覚えていない。しかも、彼女の家名などすでに忘れている。

 レティシアは呆れたように肩をすくめ、ジェシカの横に立っているキャメロンを見上げた。

「今の聞いていたでしょう? 言ってみて」

 ぎょっとして、ジェシカはキャメロンへと視線をやる。キャメロンは会場を一望して、口元に笑みを浮かべていた。


 彼の口からは、聞き心地の良い声ですらすらと人の名前が出てくる。覚えなければという心地よりも、ただただ驚くばかりのジェシカであった。


「うぅ……。わたくし、人よりちょっとバカかなぁ、とは思っていましたけれど、実はものすごくバカだったのかしら……?」

「安心しろ。俺だって、ほとんど覚えていない。こいつらがおかしいんだ」

 ヒツジからのフォローを貰い、ジェシカは目を潤ませながら彼に泣きついた。よしよしと子供を宥めるように、ヒツジはジェシカの頭を撫でてくれる。


 再びレティシアに問われ、半ばやけくそになって覚えている人の名前だけを挙げるジェシカ。

 一人目は、金髪碧眼で背の高い貴公子風な青年。名前はカールス・マクダミアン。次はやはり背は高く、茶色髪の少々気障そうな目つきの青年、ロビンソン・リビングラストン。それから、黒髪で柔らかそうに微笑む青年、ライナス・ヴィクダー。等々。

 覚えていた名前十数人分を披露して、得意げにレティシアを振り向くと、向けられていたのは何故か呆れたような眼差し。ヒツジの視線も同様であった。


「お前は、いい男の名前しか覚えられないのか?」

 ヒツジの鋭いツッコミに、ジェシカは誤魔化すようにおほほと笑ってみせた。もう、笑うしかない。


 レティシアからの視線に耐えられなくなり、逃げるように横を向く。すると、またもやアンジェリカと目が合った。何となくその瞳を直視していると、彼女はふいっと視線をそらせてしまう。――今までのアンジェリカだったら、睨み返してきただろうに、元気がないようである。

 先日、シーガルとカミルはアンジェリカと会ったという。カミルはジェシカにデュークのことは諦めろと言ってきたのだ。同じ事をアンジェリカに言った可能性もある。


 ふいに、脳裏に蘇ってきたシーガルの言葉――

「分かっていますわよ。私だって、同じ事をされたら嫌ですわよ」

 誰にともなしに呟いて、床へと視線を落とす。人を騙すのは良くない。それくらいジェシカにだって分かっている。そして、現状ではジェシカもアンジェリカもデュークに相手にされていない、ただの片想いである。だから、少しでも優位に立ちたいというずるい気持ちも芽生えてきてしまい――。


 ジェシカは首を振った。

 意を決して彼女に話しかけようと歩き出そうとした時、

「レティ様っ!!」

 そんな大声に、ついつい声の方へと顔を向ける。そこにいたのはエルビス。何故か、などと考えるまでもなく、レティシアに贈るつもりなのだろう薔薇の花束を抱えている。


「本日は訳あって参上するのが遅れてしまいました」

「……お姉さま。この方の名前は?」


 もちろん、この顔は覚えている。先日レティシアを誘拐してくれた人だ。さらには、つい最近自己紹介までして貰った記憶があるのだが……。

 考え込んでいるジェシカの前で、エルビスはどうでも良いような歯の浮くようなセリフ――ただし、いまいち様になっていない――を吐きながら、レティシアに花束を渡す。それを受け取ったレティシアは、猫をかぶったような笑顔で礼を言いながらも、すぐにキャメロンへと花束を預けてしまっている。要するに邪魔だったのだろうが、それにしてもあんまりな態度だ。


「あの人の名前は何だったかしら。……サ……?。うん。確か最初はサで始まる名前だったような」


 高い天井にはやたらと豪華なシャンデリアなんぞが吊されている。それをぼんやりと仰ぎ、「あら、綺麗」などと思っていると、

「ジェシカ姫」

 控えめに自分の名を呼ぶ声が聞こえた。


 声の方へ視線をやると、そこにいたのはルイスだった。

 ジェシカは目を丸くしながら彼のことを見つめた。




「先日は、大変失礼をいたしました」

 バルコニーに出たジェシカとルイス。空を見るが今日はあいにくの曇り空で、月も星も見ることは叶わない。ジェシカは手すりに背をもたれかけるようにして、ルイスへと体を向けた。


「私、全然気にしていませんわ。むしろ、いい加減な気持ちでルイスさんに接してしまった自分を恥ずかしく思ったくらいですの」

 ジェシカはこれまでにあったことを正直に話した。ルイスとのつきあいを考えていながら、デュークのことが気になっていたこと。ルイスのことを疑っていたこと。ついでに、その後のアンジェリカのことなど。


「ジェシカ姫が気にする事なんて、何もありません」

 そう言って微笑んでもらえると、少しだけ救われたような気がしてくる。嬉しくなって満面の笑みを浮かべると、ルイスは穏やかな表情のままで微笑みを返してくれた。


「ところで、今は人の名前を覚える練習をしているそうですが、調子はいかがですか?」

「もう、全然だめですの。頑張って覚えようとはしているんですけれど、全然。他にもダンスの練習とかしなくてはなりませんのに……」

 しくしくと泣き真似をしていると、ルイスは苦笑いを浮かべながらパーティ会場をぐるりと見回す。


「人の名前を覚えるのは確かに難しいですよね。……顔の特徴から名前を覚えていくと良いと言いますが、限度がありますしね」

「そうなんですわよ……。わたくし、かっこいい男の人しか、覚えられないんです……」

 ルイスは考えるように顎に手を当てる。


「私に手伝えることはないとは思いますが、陰ながら応援させて戴きます。……ですが名前なんて覚えていなくても、ジェシカ姫が嬉しいと思う気持ちを持って微笑んでくれるだけで、みんなが満足してくれると思います。あくまで、私はそう思うという話ですけれどね。……それでは、失礼いたします」

 ぺこりと頭を下げて、立ち去るルイス。


 ジェシカはぼんやりとルイスの背中を見送りながら、眉間に皺を寄せた。

「うーん。確かに、わざわざ私のお誕生日をお祝いに来てくださるんですから、嬉しいには嬉しいんですけれど、どちらかというと面倒なんですのよね~」

 腕を組んで難しく考えているが、ふと思い直して首を振る。

 感謝の気持ちを忘れてはいけない……そんなことを思い出し、ほうと重いため息を吐き出した。




     *     *     *     




 ずきずきと痛む頭。

 シーガルはベッドに仰向けに寝転がりながら天井を仰いでいた。

 部屋の壁を埋め尽くしている本棚には、たくさんの魔道書が並べられている。本棚と机とベッドだけが置かれた殺風景な部屋。いつもならば休日には読書でもしているところではあるが、魔法の使いすぎで疲れていてそれどころではなかった。


 魔法兵団で発生したトラブルの方はすでに片づいていた。

 ほぼ無休状態で働かされたため、代休として三日ほど休日を貰ったのだが、疲れていて何もする気力が沸かないと言うのが現状である。開きっぱなしの窓から、涼しい風が吹き込んでくる。視線を揺れる前髪へと移したのは一瞬だけ。すぐに目を伏せたため視界も閉ざされる。


 どんどんと適当に扉が叩かれた。

 誰か尋ねる必要もなく、部屋を訪れた人物の特定はついた。扉の叩き方でだいたいは分かるのだ。この家の住人で、例えばキャメロンならばもっときちんと扉を叩くし、ヒツジに至っては絶対にノックはしない。


 目を開けると案の定、部屋に現れたのはデュークであった。

 彼は寝転がっているシーガルに一瞥をくれ、勝手に部屋に入ってくる。

 椅子に座って、何をするというわけでもなしに外を見ているデューク。シーガルはやれやれといった面もちで起きあがった。


「ジェシカ様のことは、キャメロンから聞いたよ。あいつ、わざわざ魔法兵団まで来てくれた。……ついでに、少しだけ仕事も手伝ってくれたけど」

 デュークは頷き、視線をシーガルへと向ける。

「……悪かったな」

「ジェシカ様とのことは、俺が口を挟む問題じゃなかったと思うよ。ごめん」

 苦い笑みを漏らしながらそう言ってやる。デュークは特に何も反応は示さなかった。


「お前、ジェシカ様と本気でつきあう気はないのか?」

「ない」

 即答され、ついつい口ごもってしまうが、デュークはいたって平然としている。

 本人がこういう気でいるならば、シーガルが何を言ったところで無意味という物。ましてや、ジェシカの本当の気持ちを彼に暴露するわけにも行かないのだし。

 もっとも、デュークのことであるから、感づいているかも知れないが。


「姫さんは、お前が全然顔を見せないから、結構しょげている。暇だったら、顔を出してやれ。あと、行くついでにこれを渡してくれ」


 机の上に紙袋を置いて、部屋から出ていこうとするデュークの背中に慌てて声をかける。もしかしたら、ジェシカのことを心配していると言うよりは、彼女に用事はあったが行くのが面倒だったため押しつけに来ただけなのだろうか。

「デューク。……もし、よかったら、だけど。……ジェシカ様に、協力をしてやってくれ」

 聞いているのか聞いていないのか、彼はすたすたと歩いていってしまう。

 しぱらくの間窓から空を仰いでいたシーガルは嘆息し、むくりと身体を起こした。




 シーガルは城へと向かって歩いていた。

「まあ、ジェシカ様にもきついことを言った様な気がする」


 少しだけ自己嫌悪に陥りながら、白い箱を見つめた。彼女が少しでも元気になれるようにと、ケーキを買ってきたのだ。今回の件では、確かにジェシカの行動は問題があったにせよ、シーガルも自分の感情を制御できずにたくさんの人間に迷惑をかけてしまった。ジェシカへの謝罪が終わったら、あとはカミルとアンジェリカにも謝りに行こう、そんなことを考えながら歩いている。


 城門を目前に控えたところで、シーガルは左右をうろうろと往復しているアンジェリカの姿を見つけた。

「何をしているんだろう」

 思わず口をついて出てきた言葉。

 その声が聞こえてしまったらしく、ぎくりと身を強ばらせ、ゆっくりとアンジェリカが振り返る。透明感のある紫色の瞳がシーガルのことを映していた。

 しばしの間、シーガルとアンジェリカは見つめ合っていた。




     *     *     *     




 パーティ会場で立派に立ち振る舞うためには、覚えなければならないことは山ほどある。相手の名前を覚えて挨拶をすることをはじめとして、言葉遣い、礼儀作法等々、基本的な事項まであるのだから。

 基本的にはやる気になれば何とかなるとは思う。一応小さい頃から躾られては来ているのだから。それよりも問題はダンスである。元々体を動かすことが得意ではないジェシカにとっては、あれこそ苦手の極みにつきる。


「ステップが、こんな感じで~」

 1、2の3で~と口にしながら足を一歩一歩踏み出してみる。なかなか良い感じだと自画自賛をしながら、今度は後ろに向かって一歩分足を戻し、逆の足を持ち上げた瞬間、ぐらりと身体が傾いた。


「あら?」

 きょとんと瞬きをする間もなく、ジェシカはその場に尻餅をついた。


 顔をしかめながら尻をさする。

 その後考えるように腕を組み、ぶつぶつと呟く。

「うーん。騎士団の仕事が終わったらキャメロンさんが練習につきあってくれると言っていましたし、それまで待った方がいいかしら」

 そうすれば転ぶこともなくなって痛い思いをしなくなるはずだ。ジェシカはうんうんと頷いて、意味もなく天井を仰いだ。


 そして、しばしぼんやりとする。

 何故か頭をよぎっていったのは元気がなさそうなアンジェリカの顔。騙しているという後ろめたさからか、何故か気になって仕方がない。

「……今度会ったら、正直に言おうかしら」

 この前とて、エルビスの邪魔がなければうち明けることが出来たのに……などと、他人のせいにしつつ、ジェシカはうーんと難しい顔をして唸った。


「今度会ったら……ということで、次はテーブルマナー。厨房にでも行ってみようかしら~」

 「パーティ会場で物を食べるな」とレティシアに言われているが、それを頭の隅っこに追いやって、にんまりと頬を緩めるジェシカ。立ち上がろうとすると、扉がノックされた。


 返事をすると扉が開いてシーガルが顔を出す。

「あ、シーガルですわ~」

 久しぶりに彼が訪れてくれたことが嬉しくて、ジェシカはぶんぶんと手を振って喜びを表現した。


 はじめ、シーガルは気まずそうな顔をしていた。しかし床の上に座り込んでいるジェシカに気付くと不思議そうに瞬きをする。

「何をしているんですか」

「ダンスの練習ですの~。今度のパーティで立派なレディとしての立ち振る舞いをして、アンジェリカを見返してやるんですからっ」

 にっこり笑いながらそう答えて、気付く。噂のアンジェリカがこちらを見ていることに。


「ごきげんよう、ジェシカ姫」

 彼女の声は、相変わらずジェシカを敬遠するような冷たい響きがあった。

「あー。アンジェリカっ。なんでシーガルと一緒にいるんですのよっ」

 唇を尖らせながら言ってみるが、彼女はそっぽを向くだけでまともには答えてはくれない。

 問うようにシーガルを見るが、その視線を受けたシーガルは困ったように眉を寄せて首を振る。


 アンジェリカは座ったままのジェシカを見下ろし、嘲るような含みを持った顔をする。

「立派なレディとしての振る舞いはジェシカ姫には無理ですね。挨拶も出来ないじゃないですか」

「ご機嫌よう、アンジェリカさんっ。一体何のご用ですかっ」

 ムキになって大声で言いながら立ち上がる。


 アンジェリカの視線はいつも通り刺すようであった。が、彼女はふいに視線を逸らし、拳をぎゅっと握りしめて俯く。

「私があなたになんか負けるはずがありません。……でも、出会うのが、遅かったの……です。ただ、それだけですもの。あなたに負けたわけではありません」

 彼女のいわんとする事がいまいち掴みきれずに不思議そうに首を傾げる。彼女の意図を察したらしいシーガルは、やや慌てた面もちでアンジェリカのことを振り返った。


 アンジェリカは唇を尖らせながら俯く。

 ふるりと肩が震えたかと思うと、彼女は勢いよく顔を上げた。紫色の瞳は、涙で潤んでいる。


「う……」

「デューク様のことは、諦めますわ。……お幸せに」


 アンジェリカはぺこりと一礼をして、踵を返した。

 「どうしよう」と、心の中で何度も呟きながら、助けを請うようにシーガルへと視線をやる。ライバルが消えたという喜びなどはない。むしろ、込み上がってくるのは罪悪感のみ。

 シーガルは苦い顔をしてジェシカとアンジェリカを見比べていた。ふと目が合うと、彼は物言いたげな顔をしてジェシカの瞳をまっすぐに見つめる。

 ジェシカはごくりとつばを飲み込んで、頷いた。


「待って」

 扉を出ようとしていたアンジェリカは足を止める。だが、振り向きはしない。


「……私とデュークがつきあっているというのは、嘘です。デュークを私に振り向かせるために、あなたをだしにしてつきあって貰う振りをしていましたの。ついでに、あなたが私の事をさんざんに言うから、少しは見返してやろとうと思ってもいましたけれど」

 ぴくりとアンジェリカの肩が揺れた。


「だから、私に遠慮をしてデュークを諦める事はありませんわ。……もっとも、私だって次のパーティでは立派なレディとして振る舞って、あなたのこともデュークのことも見返してやる予定ですけれど」

 そこまで一気に口にして、アンジェリカの反応を待つ。

 彼女の肩がふるふると震えている。しぱらくすると、彼女はくるりと振り返ってジェシカのことを見る。眉はつり上がっているが、内心は嬉しいのかその口元は緩んでいた。


「嘘つき」

 一言、彼女はそう呟いた。


 怒鳴りたいのを堪え、拳を握りしめた。

 そう、悪いのはジェシカの方なのだから怒ってはいけない……そう心に言い聞かせながら。


 調子づいたアンジェリカはジェシカのことを指さし、彼女らしく尊大な態度で胸を張る。

「あなたみたいな嘘つきなんかより、私の方が正直者で素敵な女性です。最後に笑うのは私です」

 彼女は足取り軽くターンをして、足取り軽く部屋から出ていってしまった。


 どっと疲れが押し寄せてきて、ジェシカはふらふらとした足取りで椅子へと向かった。

「ジェシカ様。よく言えましたね」

 子供を褒めるような口調に唇を尖らせ、ジェシカは背もたれに深く寄りかかった。

「そんなジェシカ様にご褒美です」

 機嫌良く白い箱を手渡してくれるシーガル。その箱にはケーキが入っていた。ジェシカは一転して幸せな気分になり、るんるんとした気分で箱から皿へとケーキを移す。


「でも、少しは気が楽になったんじゃないですか。アンジェリカさんのこと」

 それは否定はしないが、彼女の態度はやはり腹が立つのも事実。ジェシカは無言でケーキを頬張った。


「あ、そういえば、デュークからこれを預かってきました」

 シーガルが差し出したのは紙袋。ジェシカはきょとんとそれを見やり、首を傾げながら中身を取り出す。そこにあったのは分厚い書物ほどの厚さの紙の束である。

「あ、ルイスさんからですわ」

 1枚目に彼からの短い手紙が付いている。なんでも、これはルイスが貴族社会に入ったばかりの頃、彼自身が貴族の名前を覚えるために使ったメモらしい。中をぱらぱらと眺めてみると、どこかで見たことのある似顔絵が乗っている。また、一枚一枚にその外見の特徴が事細やかに書かれていた。目立っている特徴には赤でマーキングが付けられている。

 ついつい頬が緩んでくる。


「うふふふふ。これで、アンジェリカなんかには絶対に負けませんわよ」

 シーガルは訳の分からない様な表情でジェシカを見ていたが、それもいつものことと判断したのか、穏やかな微笑みを浮かべる。

「頑張って下さいね。俺も手伝いますから」

「あ。それじゃあ、ダンスの練習につきあってくださいな。今までダンスの特訓をしてましたの」

 せっかくのシーガルの好意に甘えてみようとしたが、彼は引きつった顔をして慌てて手を振る。


「まっ、待って下さい。俺、ダンスなんて踊れませんっ」

「もう。手伝ってくれるって言ったじゃないですの」

 口を膨らませてみると、シーガルは困ったような顔をしてうなだれた。

 そんな彼を見ていたら、ついつい楽しくなってしまい、ジェシカは大声を上げて笑った。


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