レティシア8
レティシアが倒れてから二日が経過した。彼女はまだ目覚めない。
騎士団の仕事をいつまでも放っておけないという理由でヒツジは一足先に帰ることになった。その出立の準備を手伝わされているのはカミルであった。
「お前はもっとレティシアに優しくしてやれ」
納屋から馬を連れだし、手綱を渡すとそんなことを言われる。
「なんだよ、そりゃ」
「レティシアは何かあるとたいてい仮病を使ってお前の家に行ってるだろ。お前に話を聞いてもらいたいからだって分かってやれよ」
ヒツジは馬にまたがり、馬上からカミルのことを見下ろしていた。すべてお見通しといった瞳。レティシアじゃないが「子供扱いするな」と言ってやりたい気分である。
「いろいろと思うところはあるだろうけど、好きなもんは好きで良いと思うぜ」
反論しようと口開くが、それより先にヒツジは手をひらひらと振って馬を走らせてしまった。
腹は立っていたが、言い返す相手がいないため仕方なくモーベルタインの別荘に戻る。
この家の持ち主であるエルビスは早々にアリアへ帰っていた。いつまでも行方不明にしておくわけにもいかないからだ。
「誰が誰のことを好きなんだよ」
みんな口を開けば同じようなことばかりを言う。
壁に走っている亀裂から入ってくる風が髪を揺らす。
「あなたがシアのことを好き、って事じゃないんですか」
突然横から声をかけられて悲鳴を飲み込んだ。すぐ横に扉があり、キャメロンはそこから出てきたようである。工具の入った箱を抱え、にこにこと微笑んでいた。
「……お前と一緒にするなよ」
キャメロンは癖のある笑みを浮かべただけで何も言い返しては来なかった。カミルが歩き出すと彼も付いてくる。行き先はゼリヴがいる部屋だ。
「ところで、ゼリヴ姉の事は許してやったのか?」
「まさか。謝罪もしないような薄情な姉を許すつもりはありません」
部屋の中にはゼリヴとヴィケルがいた。
ゼリヴの瞳が申し訳なさそうにキャメロンに向いているのに気付き、軽く息を吐く。
「ゼリヴ姉。とっととキャロに謝っちまえよ」
ゼリヴは不思議そうに首をかしげてカミルを見ていたが、こくりと頷き、キャメロンの前へと進み出た。
「……ごめんなさい」
「何に対して謝っているんですか?」
「私が死んだなんてあなたに嘘を付いたこと。たくさん心配かけてごめんなさい。ちゃんと反省してるけど、娘を守るためにはこうするしかなかったの」
「はい、良くできました」
怒られていたゼリヴはきょとんと目を丸くし、口元に苦い笑みを浮かべる。
「もう、キャロったら意地悪なんだから」
キャメロンは何も言わずに笑みだけを浮かべていた。
ふいにゼリヴと目が合う。彼女はゆるめていた頬を引き締め、真剣な顔をしてカミルに問う。
「ねえ、カミル君。私はディラックのために何かしてあげられたのかしら?」
突然のその言葉に戸惑いながら瞬きをする。何故彼女はそんなことを言いだしたのかと思いを巡らせ、気付く。あの時ジェラールに言った言葉をゼリヴは気にしているのだ。ディラックを助けるために何も出来なかったのはゼリヴも同じなのだから。
感情任せに吐いてしまった言葉を悔やむ。
「ごめん、ゼリヴ姉。……ビッケも。俺、ずいぶんと酷い事を言った」
「あ、やだ。カミル君を責めるつもりなんてないのよ」
慌てて手を振るゼリヴ。
「ただ、ちょっと思うところがあってね。聞いてみたかっただけなの」
「俺はそんなことに答えられるほど偉くねえけど……。マリアベルを見てると、ゼリヴ姉は頑張ったって思うよ。あいつ、素直でまっすぐだし、ちゃんと躾もされている様な感じだし。ディラックも、喜んでるんじゃないかな」
「ありがとう」
しどろもどろと言葉を紡いでいくと、ゼリヴは満面の笑みを浮かべてくれた。
「……ビッケの兄ちゃんにも謝ってくる」
「ええ。そうしてあげて」
ゼリヴは笑いながらカミルの頭を撫でた。子供扱いするようなその行動に唇を尖らせ、その手を払いのけるとキャメロン達に笑われる。
腹を立てて部屋から出ると、ジェラールの元へ案内をするとヴィケルも付いてきた。
しばらく歩くと、ヴィケルは口を開いた。
「カミル。僕はどうかな?」
からかうように尋ねてくるヴィケルを横目で見て、カミルは肩をすくめた。
「あの困った兄ちゃんの面倒を見てたんだから、十分だろ」
「うん。僕もそう思う」
視線を合わせ、二人は笑い出した。
ジェラールがいる部屋を訪れる。彼はベッドの上に座っていた。
「あの、先日は、すいませんでした。少し、言い過ぎました。よく考えたら、あの状態で何かする事なんて難しいんだろうし、えっと……」
ぎろりと鋭い瞳で見据えられ、なんとなく唾を飲み込む。
彼がカミルを見たのはほんの一瞬で、すぐに視線を逸してしまった。
「お前の言ったことは間違ってはいない……」
どういう意味だと首を傾げる。だが、ジェラールはその疑問に答えてはくれないだろう。
「用がないなら出ていけ」
早々に追い出され、カミルは部屋の前で息を吐いた。
横を見ると、ヴィケルは口元に笑みを浮かべて閉ざされた扉を見ている。
「どうした?」
「ん? あの人も、一応反省しているみたいだから。まだ、見捨てるのは早いかなと思って」
反省しているのか? と訝しげな視線を扉に向けると、ヴィケルは軽く笑ったようだ。
「ねえ、カミル。今でもシアのことが好き?」
「お前ら、俺を怒らせたいのかっ」
怒鳴りつけると、ヴィケルは不思議そうに瞬きをした。
気まずくなって咳払いをする。ヴィケルはレティシアのいる部屋へと視線をやり、ゆっくりと手を前に伸ばした。
「僕には、彼女は遠い存在だよ。せめて、彼女が普通の町娘だったら、……ね」
レティシアが王族である以上、ヴィケルがどんなに望んでも側にいることは叶わない。アリアの中でヴィケルは死んだ人間なのだ。いくら名前や素性を偽ろうと、隠し通せるはずがない。
「でも……」
なんとなく彼の横顔を見つめていると、ヴィケルはこちらを向いた。焦げ茶色の澄んだ瞳に直視される。その視線は、まるで挑発している様でもあった。
「シアが望むなら、僕は彼女を連れて行くよ」
瞬きを繰り返していると、ヴィケルは歩き出した。その後ろ姿をぼんやりと見つめる。
彼がレティシアを連れて行く。胸の奥に言いようのない不安が立ちこめてくる。
カミルは上着の裾を握りしめた。
「勝手にすればいいじゃねえか。お前でも、キャロでも、好きな方が連れてけよ」
カミルはヴィケルとは逆の方向に歩き出した。
*
あれはいつのことだったか。
ターチルと和平が結ばれる前だったが、戦も王都暮らしの子供にはあまり影響しない話だったので、カミルはいつも通り、自室で勉強をしていた。
ただ、いつもと異なっていたことは何気なく窓から外を眺めたこと。
そして、そこに一人の少女の姿を見止めて、外へ出た。
『シア?』
振り向いた彼女は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
構って欲しいがためにいじめた経験もあるので、彼女を泣かせるのは珍しいことではないが、その時目前で涙を流している理由に心当たりがなく、狼狽えていた。
そんなカミルの心中など知るはずもない彼女は、今度は微笑んだ。
意味が分からなかった。
だけどその顔は本当に嬉しそうで、それまでに見たどんな表情よりも可愛らしくて、胸をどぎまぎさせたのは覚えている。
そこはキャメロンの家の庭で……かつてはみんなで遊んでいた、場所。
……なんとなく、そんなことを思い出した。
夜。
カミルは風でゆらゆらと揺れる蝋燭の炎を横目で見た。
レティシアの側を離れないと言っていたジェシカはベッドに突っ伏して寝ている。
自分が彼女の側にいるのは医学を学んでいるから。父親が優秀な医者でロキフェルのお気に入りだから。たまたま自宅の裏に物好きな貴族が住んでいるから。そうでなければ、彼女とこんな距離で接することもなかったろう。
そんなことを考えている事に気付き、馬鹿馬鹿しいと頭を振る。
本に視線を戻し、文字を読み進めていくが全く頭に入らない。忌々しいことにヴィケルの言葉に焦っている自分がいる。
「カミル?」
名前を呼ばれ、視線をベッドへと向ける。目を覚ましたらしいレティシアが起きあがろうとしていた。
意識が戻ったことにとりあえず安堵し、彼女が起きあがるのを助けてやる。
「自分が何をしたか、覚えてんのか?」
コップに水を注いで渡してやると、レティシアは躊躇いがちに頷いた。
ゆっくり、ゆっくりと水を飲んでいくその様を見守る。
「……俺にも何か言いたいことがあるんじゃねえのかよ。一応、聞いてやるよ」
蝋燭の光だけでは彼女がどんな顔をしているのかははっきりとは見えない。だが、彼女は驚いたような顔をしている様だった。
「あなたは、キャロもそうだけど、何も言ってくれない……。キャロはいつの間にか竪琴を弾くようになっていたし、あなたは、ターチルの頭領殿になんて返事をしたのかとか、教えてくれないじゃない。私はあなた達のことを心配してるのに、なんだか一方通行みたいで……」
「だって、お前、あの式典から一ヶ月以上たってんじゃねえかよ。何で俺がここにいるか、考えてみろよ」
「そういうのじゃなくて、話してくれるかくれないかってことで……」
ぶつぶつと口の中で文句を言っているレティシア。
カミルが大げさにため息をつくと、彼女は俯いてしまう。
「断ったよ。今の俺は経験も浅いから、まだまだ独り立ちはできねえもん。頭領はまた勧誘してやるって言ってたけど、どこまでが本気かわからねえだろ」
「カミルは、ターチルに行きたいんですの?」
「……やけにつっこむなあ。お前、俺にターチルに行って欲しくねえの?」
からかうような口調で言ってやる。
レティシアは唇をとがらせてこくんと頷いた。
カミルは頭をかきながら天井を仰いだ。いつも憎まれ口ばかり叩いているくせに、突然素直な反応を返されると調子が崩れる。
カミルの手にレティシアの手が添えられる。顔を上げると泣き出しそうな顔があって、ぼんやりとそれを見つめる。まっすぐに視線を返してくる彼女に手を伸ばしかけ、カミルは我に返った。慌ててレティシアが触れていた手を引っ込める。
「お前が行くなっつうなら、いかねえよ。その代わり、今回みたいな騒ぎは二度と起こすんじゃねえぞ。この前はあんな事言って悪かったと思ってるけど、何かあったら話くらいは聞いて……」
妙な具合にレティシアのことを意識している自分に気付き、逸る鼓動を沈めようと横を向いた。
……ジェシカと目が合う。
彼女はベッドに突っ伏した格好のまま、顔だけをこちらに向けていた。カミルは言葉を止め、口をぱくぱくと意味もなく開閉させた。
「あ、あの、お邪魔してしまってごめんなさい。わ、私のことは気になさらずに……」
ジェシカはおほほとごまかすような笑みを浮かべ、立ち上がる。
「お姉さま……」
「レティ。心配していましたのよ。あ、それは後ででいいですから、ごゆっくり~」
何を考えているのか、部屋から出ていこうとするジェシカを、レティシアは引き留めた。彼女に請われ、ジェシカはレティシアの側に来る。
「お姉さま。私、お姉さまの事が大好きですの。今まで、何度も嫌いだなんて言ってしまってごめんなさい。許して……」
こんなに素直に謝るレティシアなど見たことがない。訝しげな視線をジェシカに向けると、彼女も戸惑ったような顔をして、カミルのことを見ていた。
レティシアはジェシカに抱きついて泣き出した。
「レティ? ど、どうしたんですの。どこか、痛いところでもありますの?」
レティシアはふるふると首を振り、すがりつくようにジェシカの体を強く掴んでいる。
「俺こそ邪魔みてえだから出てくよ」
そう言ってカミルは廊下に出た。扉を閉める前に中をもう一度覗いてみると、レティシアとジェシカの会話が聞こえてきた。
「私、お姉さまの側にいてもいい?」
「何を言ってるんですの。当たり前ですわよ」
嬉しそうに微笑むレティシアの顔を見届け、カミルはそっと扉を閉じた。
* * *
名前の刻んでいない墓標の前に並んで黙祷を捧げている集団。
レティシア達は王都へ戻って来た。そして、ジェラール達も伴ってディラックの墓参りへやってきたのだ。
目を開くと、沈みかかっている太陽が目に入ってきた。じわりと目頭が熱くなる。
「ディラック。私は、もう、大丈夫だから。ちゃんと、みんなが側にいてくれるって分かっているから……。心配しないで」
心の中で彼に話しかける。
誰もが無言のまま、じっと彼の墓にそれぞれの想いを伝えているようだった。
「おかあちゃま~」
甲高い声が聞こえる。
カミルとマリアベルが手を繋いで歩いてきた。
マリアベルは微笑みながらぶんぶんと大きく手を振っている。
彼女はぐるりと墓標の前に立っている面々を見回し、ジェラールの服の裾を掴んだ。
「あたちのおとうちゃまですか?」
ジェラールは戸惑ったように瞳を揺らした。だが、マリアベルは彼の機微になど気付かずに不安そうな瞳でじっとジェラールを見上げている。
一見したところではゼリヴに似た面立ちをしているが、意志の強そうな焦げ茶色の瞳は、ディラックに似ているような気もした。
マリアベルは次にヴィケルのことを見上げ、同じように問う。だが、ヴィケルはゆっくりと首を振った。
彼女はふてくされたように唇を尖らせた。そして、その大きな瞳をゼリヴへと向ける。
「マリア。あなたのお父様はね、もういないのよ」
「うそです。おかあちゃまはおとうちゃまに会いに行くって、ひーちゃんと話していたです。どうしてあたちにだけうそをつくですか?」
ゼリヴは困ったような顔をして、墓標へと視線をやった。その視線を追ったマリアベルは怪訝そうに眉をひそめる。だが、それが何であるか分かっていないらしく、気にもかけずにヒツジを見る。
「マリアベル。お前の父親は……ディラックは、死んだんだ」
「あたちはおとうちゃまに会いたいだけなんですっ。おとうちゃまに会わせてくださいっ」
ついに泣き出したマリアベル。彼女は手を繋いでいたカミルにすがりつく。カミルは無言でマリアベルを抱き上げ、彼女の頭を撫でてやっていた。
レティシアはどうすることも出来ずにわんわん泣いている小さな娘を見つめていた。
ゼリヴとヒツジは困ったように顔を見合わせている。
キャメロンもヴィケルも無言だった。
「おとうちゃまに会わせてっ!」
「どんなに泣いたって、兄さんは……お前の父親は、お前に会うことは出来ない」
声を発したのはジェラール。彼は寂しそうな瞳でマリアベルを見つめていた。
マリアベルは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ジェラールのことを睨み付ける。
「どうしてそんないじわるをいうですかっ?!」
ジェラールはカミルに向かって手を出した。カミルは無言でマリアベルを彼に渡す。マリアベルは抵抗するようにジェラールの頭を何度か叩いた。
「兄さんはお前が生まれる前に死んだ……。お前に会いたくても、会うことは叶わない」
「どうして?」
マリアベルのことを抱きしめていたジェラールはレティシアの事を見た。
ぎくりとしながら彼の瞳を見つめ返すが、不思議と彼の瞳に憎しみはこもっていなかった。
「マリアベル。……多分、お前が生まれて誰よりも喜んでいたのは兄さんだったと思う。あの人はどんなときでもお前のことを見守ってくれている。……どうか、兄さんの分まで、幸せになってくれ」
マリアベルは意味が分からないといった顔をしていた。
彼はマリアベルのことを下ろした。そしてこちらに背を向け、歩いていってしまう。
レティシアは慌てて彼のあとを追った。
「……何の用だ?」
墓地の入り口でようやく追いつくと、前を向いたまま怒ったように尋ねてくる彼。
「あの、これ」
レティシアは袋に包まれた物をジェラールに差し出した。その中にはディラックが生前愛用していた青いマントが入っている。
ジェラールは袋に一瞥をくれただけで、結局ディラックのマントは受け取らず、歩いていってしまった。
呼び止めようと思ったが、その背中はすべての物を拒むような雰囲気を醸し出していた。
ぼんやりとジェラールの背中を見つめていると、誰かが近づいてくる気配を感じた。
振り向くと、そこにいたのはヴィケル。彼は目を細めてジェラールのことを見ていた。
「兄さんに、なにか言われなかった?」
レティシアは首を振った。彼は何も言わなかった。恨み言も、何も……
ヴィケルは少しだけほっとしたような顔をして、レティシアへと視線を向けた。再会したばかりの頃よりも、どこか余裕が伺える表情。
「ごめんね、シア。君にはいろいろと辛い思いをさせてしまったみたいで、申し訳なく思っている」
「ううん。そんなことはありませんわ。私、ずっと自分の事を責めていたんです。ディラックを助けられなかった。自分がディラックを殺したんだって。それをはっきりと口に出されたら、かえってすっきりしましたの」
ヴィケルは安心したのか、長い息を吐いている。
「ねえ、シア」
顔を上げると、真っ直ぐにレティシアを見つめる瞳。
「君は今、誰のことが一番好き? もし、僕を選んでくれるなら、今度こそは本当に……」
レティシアは首を振った。
ヴィケルのことは今でも好きだ。だが、彼のために全てを捨てられるかと問われると、答えは決まってくる。そして、それはヴィケルも多分同じはずだ。
「ごめんなさい。私、あなたとは行けません。……せめて、お姉さまが結婚するまでは、私が面倒を見てあげなくては安心できませんもの」
「そうか。残念だけど、それなら、仕方がないか」
微笑みを浮かべるヴィケル。
言葉とは裏腹に晴れ晴れとした表情であった。
「僕は、今でもシアが好きだよ」
ヴィケルが少し前屈みになった。
どうしたのだろうかと瞳を真っ直ぐに向けると、ヴィケルの顔が近づいてきた。
そして。
「ごめん……」
頭を下げるヴィケルの髪をぼんやりと眺める。
自分の唇に手を当てると、急に恥ずかしくなって全身が火を吹いたように熱を持ち始める。
今、唇同士が……
ヴィケルもほんのりと頬を染めながら体を起こす。彼はジェラールが消えた方へと視線をやり、微かに目を細めた。
「……それじゃあ、シア。僕は兄さんと話があるから、先に戻るね」
「あ、あの。これ、ディラックのマントなんですけれど、ジェラールさんに渡そうと思って……」
ヴィケルは紙袋を見つめ、ゆっくりと首を振った。
「それは、マリアベルちゃんにあげて。その方がきっと、ディラック兄さんも喜ぶと思うから」
レティシアは頷いた。
微笑みを浮かべてヴィケルはレティシアに手を振る。
だんだんと遠ざかっていく背中。妙な胸騒ぎを感じ、レティシアは彼のことを呼び止めた。
しかし何を言って良いのか思い当たらず、適当な言葉を紡ぐ。
「あの……。明日、キャロの家で、パーティを開くんですって。キャロが腕を振るうって、張り切ってましたわよ」
ヴィケルは振り向き、優しい顔で微笑む。
「分かってるよ」
その言葉に何となく安心して、レティシアはヴィケルに向かって手を振り返した。
彼はゆっくりと歩いていく。
レティシアは見えなくなるまで、その後ろ姿を見送った。何故か彼がそのまま消えてしまいそうな気がする。
「大丈夫ですわよ。だって、ビッケ。明日のパーティに来るって……」
彼はそう言っていなかったことに気付いた。
不安に駆られて彼のあとを追おうとする。
「レティシア。帰るぞ~」
ヒツジに呼ばれ、レティシアは振り返った。墓参りをしていた皆が墓地から出てくるところだった。
レティシアはこの不安を胸にしまい込むことにした。いくら彼らでも別れの挨拶くらいは言ってくれる。そう思っていたから。
* * *
闇の中を歩く影が二つ。
その内のひとつが立ち止まり、背後に見える城を振り返った。
「お前は残ればいいだろう」
ジェラールに言われたが、ヴィケルは口元に笑みを浮かべ城に背を向けた。
「いいんだよ、これで」
歩き出すと、ジェラールもそのあとを付いてきた。
「ここに戻ってきて良かったね。俺も、兄さんも」
ジェラールは無言だった。
幼い頃からずっと好きだった寂しがり屋の少女。
家族を処刑され、家を追われたヴィケルの心を支えていたのは思い出に残る彼女の笑顔だった。いつか彼女と再会して、彼女が自分を選んでくれるならば共に生きていきたいと願っていた。残念なことにその願いは果たされることはなかったが、後悔などない。むしろ、ようやく新しい一歩を踏み出せそうな気持ちだ。
ヴィケルが黙って去っていった事を知ったら泣いてしまうだろうか。
そう自問して、それはないと答えを出す。
昔と今の彼女は違う。それに自分がいなくても彼女のことを守ってくれる人はちゃんといる。頼りない方にはちゃんとかまをかけておいたし、もう片方はちゃんと分かってくれているはずだ。
「また、この地を踏むことがあるかな」
返事は帰ってこない。ヴィケルは肩をすくめて、それを最後に口を閉ざした。
一度足を止めて振り返る。先ほどよりも少しだけ遠くなった城。
ヴィケルは踵を返した。歩き出した彼は、もう二度と振り返りはしなかった。




