レティシア2
香水と食べ物の香りの充満する室内。ほのかに漂うアルコール臭に、レティシアは思わず口元を押さえた。
今日も誰かの成人の誕生日があったらしく盛大なパーティが催されている。
王家と懇意にしたい貴族達からこのような場に誘われるのももう慣れてきた。あの健康優良児であるジェシカは体調が悪いなどと言って欠席していた。ヒツジも本日は欠席であり、おかげで逃げ場がなくなって、貴族の青年達に踊りの申し込み等を受ける羽目になっている。
「早く帰って寝たい……」
もともと調子が良くないのだ。このままでは倒れるかも知れない、と心の奥でぼやきつつもくだらない世間話につきあっている。
「レティ様ももうすぐ成人ですね」
目の前に立っている青年に声をかけられ、だれかけていたレティシアは慌てて微笑みを作った。
灰色の髪のその青年の名はエルビス。モーベルタインという貴族の御曹司である。エルビスという青年についてはほとんど知らないが、モーベルタインはアリアの中でも屈指の名家である。
そういえば、最近気付くとこの青年が近くにいる様な気がする。
「お誕生日には是非とも、何か贈り物をしたいのですが……」
「気を使わないで下さい」
「いいえ。そういうわけにも参りません。将来の妻になる方の記念すべき日なのですから」
いつそう決まったとつっこみたいのを堪え、まっすぐに見つめてくる瞳から目をそらした。
「そんなに恥ずかしがらないでください」
青年に手を捕まれる。彼はレティシアの手の甲に口づけをして、にっこりと微笑む。
「気分が悪いんだから、勘弁してよ……」
心の中でため息をつきながら、レティシアは手を見つめた。なんとなく手を洗いたい衝動に駆られるが、この場でそれをするわけにも行かない。
「レティシア様。一曲踊っていただけますか?」
聞き覚えのある声に振り返ってみれば、そこにいたのはキャメロン。周りの貴族達と似たような格好をしていることから、彼もパーティに呼ばれて出席したのだろう。
それにしても服装は周りと変わりないはずなのに、むやみに整った顔と合わさると浮いて見える。こんなことを言っては他の貴族たちに失礼だが、町の中に突然王子でも登場してしまったかのようなオーラの違いだ。貴族の子女達のほとんどが彼に注目をしてしまっている。
差し出された手。
レティシアはそれと顔とを交互にみつめた。
先日、あんな事を言ってしまったので、どう接して良いのか分からない。
そんなレティシアの躊躇を気にした風もなく、彼は手を取って部屋の中央へと導いていく。
顔を上げるとすごい目をしてキャメロンを睨んでいるエルビスに気付いたが、それとほぼ同時にキャメロンから声をかけられ、レティシアは視線を上げた。
「先日はすみませんでした。少し、言いすぎました」
レティシアは驚いてとっさに首を振った。悪いのはむしろ自分であるのだ。しかし、一体何をどう謝ればいいのか、うまい言葉が思いつかずに無言でいる。
「でも、一応これだけは分かってください。これでも、あなたのことを心配しているんですよ」
「……ええ。ありがとう」
その言葉が嬉しかったのか、にっこりと無邪気に微笑むキャメロン。何故かその表情は昔一緒に遊んでいた頃を思い出させ、つられてレティシアも微笑んだ。
キャメロンが普通に接してくれているのだから、レティシアが神経質になるのは失礼だ、と自分に都合のいいように解釈をしてみる。
「そういえば、こんな席で会うなんて初めてですわね」
「ひーちゃんにあなたの世話をしてくれと頼まれたんです。でなければ、このような場には来たくありませんよ」
日頃パーティに出ていないというのに、何故かリードのうまいキャメロン。レティシアに負担をかけないように導いてくれるので、レティシアも踊りやすい。
パーティ会場を優雅に踊る二人は注目の的になっていた。
「ひーちゃんは何をしてますの? この前会ったときにたくさん仕事を押しつけられましたけれど」
「十日くらい休暇を取って温泉旅行と言っていました」
「何ですって?!」
叫んでしまったことに気付き慌てて口を塞ぐと、楽しそうな顔をしたキャメロンが視線だけで周囲を見渡した。
「少し外に出ましょう。こう聞き耳を立てられていては、落ち着いて話も出来ませんから」
彼はいたずらっ子の顔をして、レティシアの手を引いた。レティシアはそれに引きずられるようにしてバルコニーに連れて行かれる。
外は普段ならば少し肌寒いと感じる気温だが、今は火照った体に心地が良かった。
「少し休んだ方が良いですよ。死にそうな顔をしていましたから」
「え? そ、そんなに顔に出てましたか?」
なるべく表に出さないようにとしていたので驚きながら頬に触れると、キャメロンは苦笑いを浮かべた。
「多分、ほとんどの人は気付いていないと思いますけれどね。早く帰って寝たいとか、そんなことを思ってたんでしょ?」
図星を指されて言葉に詰まっていると、キャメロンはレティシアの額に手を当てた。ひんやりとしていて気持ちが安らいでくる。
彼の手が額から離れるのが少しだけ名残惜しい様な気がした。
「少し熱があるかも知れませんね。今日は帰った方が良いんじゃないですか?」
「そういうわけにも行きませんわよ。わざわざお呼びしていただいたんですから」
背筋を伸ばしながら言うと、キャメロンは苦笑いを浮かべる。
キャメロンの、剣を持って戦うには細くて長い指が優しくレティシアの髪をすく。その感覚がくすぐったくて、でも少しだけ心地良かった。
「いろいろなことを気負っていると、疲れてしまいますよ、レティシア様」
その一言で、それまでの穏やかな気持ちが一変した。
子供扱いされているような気持ちになってきて、反発する気持ちがむくむくと大きくなってくる。
「キャメロンさんには関係ないでしょうっ」
つんっとしながら言い捨てて歩いていこうとすると、腕を捕まれた。
必死で振りほどこうとするが、男の力に叶うはずもない。横を見ると、貴族達が好奇心を含んだ瞳でこちらを見ているのに気付く。
レティシアは腕を下ろし、唇を尖らせながら俯いた。
「変な噂が立ちますわよ」
と言ったその時。キャメロンめがけて何かが飛んできた。
キャメロンはきょとんと目を丸くしながらそれを片手で受け止める。それは誰かの白いグローブ……
嫌な予感を覚えながら、レティシアはバルコニーの入り口へと視線をやった。
グローブを投げた体勢のままで立っているのはエルビス。彼は怒りのせいか、肩をわななかせていた。
「姫から手を放したまえっ。嫌がっているではないかっ」
「嫌がっていました?」
しれっとして尋ねてくるキャメロンを睨み付けながらレティシアは大きく頷いてやった。
それに勇気づけられたのか、エルビスはキャメロンのことを指さし、語調を強める。
「貴様に決闘を申し込むっ! 私が勝ったら、今後一切気安く姫に近づくなっ」
「じゃあ、僕が勝ったらあなたがその条件を飲みますか?」
「私が負けるはずなどないっ」
その自信はどこから来るのか。レティシアは頭を抱えた。
エルビスはひょろひょろで鍛えている様子などもなく、お世辞にも強そうには見えない。
対するキャメロンも一見線が細く剣など扱えそうにない、それこそ吟遊詩人や魔道士でもやっていそうな外見をしているが、れっきとした騎士団の人間である。本人は剣はあまり得意ではないとは言っているがそれは魔法と比べてのこと。
まあ、人は見かけには寄らないと言う観点で言えば、エルビスが剣の達人という可能性もあるのだが。
エルビスは召使いに命じて剣を二振り持ってこさせ、その片方をキャメロンに渡した。
馬鹿馬鹿しくて止める気も起こらず、レティシアは後ろに下がった。
剣を構えて対峙するキャメロンとエルビス。
好奇心の張り付いた嫌らしい笑みを浮かべながらバルコニーでの決闘を眺めている貴族達。
キャメロンはいつもに比べれば少しだけ真面目な顔をしているが、それでもやはり楽しそうである。基本的にはキャメロンも面白そうな事や悪戯が好きなのだ。
エルビスが床を蹴り、剣を振りかぶる。
……勝負は、一瞬にして決まった。
レティシアは疲れたようにため息をつき、呆然と床に座り込んでいるエルビスへと視線をやった。
「大事にならなければいいけれど……」
余裕の笑みを浮かべながらレティシアの方へ歩いてくるキャメロン。
かすかに漏れる得意げな表情に気付いて、それを迎えるレティシアの顔には自然と笑みが浮かんでいた。
*
最近どうも調子が悪い。
肉体的にも、精神的にも。どうでも良いことに腹を立てたり、何故か突然昔の事を思い出して悲しい気分になったりもする。
そんなことをイ・ミュラーに相談したところ、カミルかキャメロンに遊んでもらえと言われた。幼い頃ならともかく、この年にもなってそれはないだろうと思ったが、城にいても暇なのでカミルの家に遊びに行った。ちゃんとイ・ミュラーの了解は得ているので、無断ではない。
だがカミルはまたしても留守だという。
今日の行き先は孤児院らしいので、レティシアは気楽に考えて孤児院への道を歩きだした。
大通りから脇道にそれ、人通りがほとんどない道に出る。
少しだけ懐かしく思いながら、レティシアは周りをぐるりと見渡した。
レティシアが家出をしたときに この辺りで迷子になっていたのだ。行く宛もなく、どうして良いのか分からずに、心細くて泣いていた幼いレティシア。
「今にして思うと、家出なんて、バカげたことをしたんですのよね」
バカげていたとは思うが、後悔などしていない。
あの頃は子供なりに精神的に追い詰められていた。
自分の中に母の面影ばかり見てレティシアという人間を見てくれない父と従兄弟と、その従兄弟の後ばかり追い掛けて自分にはあまり関心のない姉と、どう接していいのか分からなかった。色々と迷惑をかけることになったが、あの家出のおかげでまともな人格に矯正されたとは思っている。
「この辺で初めてキャロに会ったんですわよね」
男女の区別が付かない美形の子供。何故か花束なんかを持っていて、空腹だったレティシアを食事に招待してくれた。
……そんな昔の出来事を思い出していると、足取りが軽くなってくる。一番楽しかったころを思い出して心が弾む。
孤児院には家出をしていたときにキャメロン達と何度か来たことがある。メアリーは元気だろうか。
風に乗って子供達の歌が聞こえた。それに混じって竪琴の音色も。
庭を覗くと子供達が集まっていた。そして、その中央にいるのはキャメロン。彼は微笑みを浮かべながら、竪琴を奏で、それを伴奏に子供達が歌を歌っている。
驚愕しながらそれを見つめるレティシア。
「……キャロ、竪琴、引けるようになったんだ」
先日それ絡みのことで彼が思い悩んでいることは聞いており、レティシアも心配をしていた。
キャメロンの真意なんてわからないが、疎遠な中でも時折騎士団の訓練場などで見かける彼は生き生きとしていて、誇りを持って騎士をしているように見えていた。だから何かのきっかけになれば良いかと思い、形見分けの時に貰ったゼリヴのマントを返したりもしたのだが、何も聞かされてはいなかった。
「そりゃ、私なんかに報告する義務なんてないでしょうけれど……」
そんなことを呟いたレティシアは、キャメロンの前に座っている姉の姿を見つけた。
彼女は子供達と一緒に歌を歌っているようだった。よほど楽しいらしく、満面の笑みを浮かべている。
その横にはカミルもいた。
ジェシカの隣に座っていたカミルが何かを言い、ジェシカは唇を尖らせながらカミルに食ってかかる。それを穏やかな微笑みを浮かべたキャメロンがやんわりと制している。
……どこかで見たような光景であった。
胸が痛み、胃のあたりがずしりと重くなる。
昔、あの場所にいたのはジェシカではなく……
「レティ様?」
どこか間の抜けたような感じの声が聞こえ、レティシアは小さく悲鳴を上げた。いつの間にか目の前にシーガルが立っていたのだ。
シーガルは驚かせたことに対し、申し訳なさそうな顔をしながらぺこりと頭をさげた。
「こんにちは、レティ様。カミルなら、中にいますよ?」
「いえ、いいんですの。それといった用事があったわけでもないのですから」
シーガルは何かに気付いたらしく、紙袋の中をのぞき込む。
彼は中からさらに小さな紙袋を取り出し、レティシアに差し出す。
「これ、良かったらどうぞ」
紙袋に入っているのはキャンディーらしい。
レティシアはにっこりと微笑みながら素直に礼を言った。
「あ、私と会ったことはお姉さまには内緒に。また訳もなく怒り出しそうですから」
シーガルは苦笑しながら頷き、別れの言葉を述べるとジェシカ達の元へ戻っていった。
レティシアは誰にも見つからないよう、慌ててその場から立ち去った。
シーガルからもらったキャンディーを頬張ると、甘い味が口の中に広がる。
だが、どういう訳か胸は苦い思いで一杯だった。
レティシアはディラックの墓を訪れた。
罪人として処罰された彼である。公に墓を作ることも出来なかったため、この墓に彼の墓標を刻むことは出来なかった。この下には彼だけでなく、レティシアのかつての友人も眠っている。国王を暗殺した一族という事で、まだ子供だった友人も罪に問われたのだ。
「わたしは、キャロやカミルのことを友達だと思っていたんだけど、あの人達ったら何も言ってくれないのよ。……キャロだけじゃなくて、カミルだって、ターチルの頭領にターチルで医者でもやらないかって誘われたのに……」
それに対してどう返事をしたのかもレティシアは知らない。
アリサの時と同じように、彼らを友達だと思っていたのはレティシアの方だけだったのだろうか。
目頭が熱くなるのを感じ、きつく目を閉じて歯を食いしばった。こんな事で泣いてたまるか。ディラック達に泣き顔なんて見せる訳にはいかない。
レティシアは頭を振り、ポケットの中からシーガルにもらった飴をひとつ取り出して、墓に供える。
「また、来るね……」
墓を後にして、大通りをまっすぐに歩く。この先にレティシアの家……アリア城が聳え立っている。
しばらく歩くと、突然誰かに腕を捕まれた。
「きゃっ」
思わず悲鳴を上げる。
驚愕しながら視線を上げると、そこにいたのは背の高い男。
適度に引き締まった体。焦げ茶色の髪を肩くらいまでに無造作に伸ばしている彼は、前髪が長いのと逆光のせいでぼんやりとしか見えなかったが、輪郭などから見るに整った顔立ちをしているように思えた。
「君は……?」
驚いているような声音。
意味の分からないその質問に、レティシアは眉根を寄せながら男の顔に注視した。
陰気でぼんやりとした雰囲気の青年。左目の下のほくろに気づき、何となくそこをみつめる。
「君は、もしかして……」
「あー!!!!」
その男のつぶやきをかき消すような声。
横を向くとジェシカ達の姿がある。
「そんなところで何をしているんですの、レティ!!」
道端で大声で名前を呼ばれたことで赤面しながら姉のことを睨んでいると、捕まれていた手が放された。
「失礼。人違いだったようだ……」
それだけを言って歩いていくその男。
レティシアはとっさに彼を引き留めようとしたが、それより先にジェシカに腕を捕まれる。
「何をしていたんですの?」
ぎろりと据わった目で睨まれ、レティシアは首を傾げた。
「あの方、お姉さまのお知り合いですの?」
「そうですわよっ」
「知り合いって、食堂で少し話をしただけじゃないですか……」
横からシーガルが口を挟むが、ジェシカは聞いていない。
「だいたい、なんであなたが町をふらついているんですのっ! 勝手にそんなことをしていいと思っているんですの?」
そんな文句も右から左へと通り抜けていく。
男が消え去った方角を見やるが、彼の姿はすでに人ゴミの中へ消えていた。
「お姉さま。あの方、なんて名前かご存じです?」
「教えてあげませんっ」
ふいっと顔を背けて歩いていくジェシカ。
「私、何か怒らせるような事をしたのかしら……」
レティシアは首を傾げながら、シーガル達と一緒にそんな彼女のあとについていった。




