キャメロン2
「……気持ちが悪い」
朝食時。レティシアのその言葉にロキフェルは手にしていたスプーンをぽとりと落とした。慌てて立ち上がった彼はレティシアに駆け寄る。
レティシアは青い顔をして、胃の辺りを押さえていた。
「レティ?! 大丈夫かっ。い、今すぐ部屋に戻って……そうだ、マックス先生を……」
一人で大騒ぎをして侍女達を呼んでいるロキフェルを、ジェシカは冷めた目で見つめていた。レティシアが心配なのは分かるが、騒ぎすぎである。
レティシア自身も後悔するように眉根を寄せていた。
「お父様。私は大丈夫ですから! 大げさにしないで下さいっ」
レティシアにぴしゃりと言われて、ロキフェルは落ち込んだように肩を落とす。彼女は椅子の背もたれに寄りかかって、口元を押さえた。かなり深刻な状態らしい。
「レティ。吐きそうなんですの?」
レティシアはゆっくりと頷いた。
侍女達が慌てて桶などの用意をしている。
ジェシカはひとつの可能性を思いついて、じとっとレティシアの事を見つめた。
「まさか、つわりじゃないですわよね?」
周囲の空気が一気に凍り付く。
一瞬の間の後、ロキフェルが泣きながらレティシアにすがりついた。
「レティ、相手は誰なんだっ!?」
「そんなわけっ……」
言葉の途中で席を立ち、レティシアは侍女から桶を受け取って部屋から出ていった。
「大丈夫かな、レティは」
青ざめながらロキフェルは部屋の中をを往復している。ジェシカは手をひらひらと振ってサンドイッチにかぶりついた。朝食時のごたごたで満足に朝食が食べられなかったため、朝食に出た物をパンに挟んで貰ったのだ。
「結局マックス先生も呼んじゃったんですし、大丈夫ですわよ」
ロキフェルは腕を組み、困ったように呟いた。
「はぁ。レティは調子が悪そうだから、頼めないなぁ」
「何をです?」
「今度南で、ターチル族との平和記念式典があるだろう。私はこちらの方が忙しいので、準備期間はレティを代わりにと思っていたんだが……」
ロキフェルは不安そうな瞳をジェシカに向けた。
「代わりにお前が行ってくれるか? お前は座っているだけで良いから」
「お出かけが出来るんですの? 良いですわよ」
軽く安請け合いをするジェシカを見て、ロキフェルは心底不安そうにため息をつく。
「えっと、キャメロンさんも一緒に行って貰いましょ。シーガルは当然で、……ついでにデュークも連れて行ってあげようかしら」
鼻歌を歌いながら旅の計画を立てているジェシカを見て、ロキフェルはますます不安そうな顔になって頭を抱えた。
*
「えっと。この場合はお招きに預かり光栄です、と言うべきなんですかね」
あははと笑いながらキャメロンが言う。
「そんな。気になさらないで下さい」
後から聞いた話なのだが、どのみちキャメロンはこの式典の護衛にかり出されていたらしい。ただ、ジェシカの希望で彼は自分の馬ではなく、馬車の中にいるのだが。
他に馬車に乗っているのはシーガルとイ・ミュラー。馬車の外には護衛のためにデュークがいる。ジェシカの周りは知った顔ばかりで、楽しい旅行になりそうである。
「てめえは騎士団員なんだから、こんなところで油を売ってる場合じゃねえだろ」
「まあ、馬車の中でジェシカ様を護衛しているという名目があるから良いじゃないですか」
「そんなことだから、いつまでたっても昇格出来ねえんだよ」
「……それを言われると痛いですねぇ」
そんなほのぼのとした会話を聞きながらジェシカは首を捻っていた。この二人は祖父と孫の関係に当たるらしいが、顔も雰囲気も全く似ていない。
ジェシカは何気なくシーガルへと視線を移した。彼は賑やかな祖父と孫とは対照的に沈んだ顔をしている。
「シーガル?」
声をかけてみたが彼からは返事がない。彼は物思いに耽るように外を眺めていた。首を傾げるジェシカ。彼のこんな表情など、今までに見たことがない。
「おい、シーガル。公私混同はするなよ」
イ・ミュラーから注意を受けて、シーガルは慌てて顔を上げた。
「は、はい。すみません」
「どうしたんですの?」
シーガルは首を振って、慌てて作ったような笑みを浮かべる。
「何でもありません。慣れない馬車旅に、少し疲れているだけですから」
いまいち腑に落ちなかったが追求はせずに、ジェシカはため息をついているシーガルを見つめていた。
*
式典の場はアリア国の南の国境にある砦である。そもそもこの式典は、アリア国の南に国を構えているターチル族との停戦が行われた日を記念しての物である。ターチルとアリアとは建国以来長年に渡って国境線を巡り戦っていた。そんな彼らと停戦が行われたのはつい数年ほど前。式典では戦で命を落とした者への鎮魂の儀式と、アリアとターチルの民達の親睦のための催物を行うことになっている。
式典当日までにはロキフェルが駆け付けるというので、それまではジェシカがアリア国の代表として上座に座って頷いているだけで良いらしい。全ての事は大臣達がやってくれるのだ。
「俺は苦手だって言ってるんだけどなぁ。ここに来るのは」
式典の準備をするために走り回っている臣下達をバルコニーから見下ろしながら、ジェシカは首を傾げた。
「どうしてですの?」
「考えてもみろよ。俺は人生のほとんどを蛮族達と戦いながら生きていたんだぜ? それを今更仲良くしましょうなんてなあ」
「……お爺様」
ターチル族を蛮族と言ったことに対し、キャメロンが注意をする。
だが、イ・ミュラーは全く気にした風はない。
「お前だって、身内を殺されたじゃねえか」
「……彼らは武人だったんですから、仕方がない事です」
イ・ミュラーは皮肉気な笑みを浮かべてキャメロンとジェシカのことを見比べた。
「おめえらは気持ちの切り替えが出来て羨ましいぜ。若いせいかねぇ。……ま、俺だって仕事と割り切ってはいるがな」
ジェシカは困ったようにキャメロンを見た。彼は申し訳なさそうに頭を下げる。
イ・ミュラーは茶をすすりながら、鋭い眼光をジェシカに向けた。
「おう、ジェシカ。シーガルの奴に暇を出して、たまには里帰りでもさせてやれ。その間、護衛はキャロとデュークに任せりゃいいだろ」
「私も一緒に行ってはダメですの? シーガルのご家族の方に会いたいですわ」
無邪気にジェシカが尋ねてみると、イ・ミュラーは苦い顔をした。
「なんでえ。おめえ、聞いてねえのかい?」
「何をです?」
「シーガルのご両親は、彼らとの争いの犠牲者なんです」
訝しげな顔をしているジェシカにキャメロンが説明をしてくれる。驚愕しながら、ジェシカはキャメロンを見つめた。彼は薄く笑ってジェシカのことを見つめ返してくれる。
「つまりは、たまには墓参りでもして来いってことだ」
ジェシカは素直に頷いた。
そういえば、自分はシーガルについて何も知らないと気付く。いつも穏やかに微笑んで我が儘を聞いてくれる彼は、あまり自分のことを話したがらないのだ。
「ま、誰にだって言いたくはねえ過去のひとつやふたつあるもんさ」
イ・ミュラーがそう言ったとき、控えめに扉がノックされる。バルコニーに出ていた三人はそろって振り返った。
扉が開く。
立っていたのは、日焼けした浅黒い肌の青年だった。黒髪で背が高く、野性的な雰囲気を醸し出すその青年は、礼儀正しく頭を下げる。
「ただいまこちらに到着した、ターチルの頭領の息子、ヤンと申します」
ヤンと名乗ったその青年は顔を上げ、真っ直ぐにジェシカのことを見た。少々無骨で地味めな顔立ちである。
彼は驚いたようにジェシカの上で瞳を止め、慌てて頭を下げ直す。
ジェシカの横のキャメロンはジェシカの一歩後ろに引き、片膝を付いて頭を下げる。イ・ミュラーも頭を下げていた。
「ジェシカ。挨拶しろ」
イ・ミュラーに小声で言われ、ジェシカは慌てて頭を下げた。
「あ、アリア国の第一王女のジェシカと申します。え~と、国王、ロキフェルの代わりにここに参りました」
顔を上げると、ヤンは緊張した様な顔で微笑んだ。
微笑んでもらえたことに安堵して、ジェシカは扉の方に歩いていった。そしてヤンに手を差し出す。
「よろしくお願いいたしますわ」
彼は驚いたような顔をしてジェシカと、差し出された手とを見比べた。
ジェシカは首を傾げながらヤンを見上げた。握手を求めるのは礼儀違反だったのだろうかと思いながら。
不安になってジェシカは思わず振り返った。
「もしかして握手を求めちゃダメでしたの?」
イ・ミュラーに尋ねると、彼は苦い顔をしながら首を振った。
ジェシカはほっとしながら、再びヤンのことを見つめる。彼は慌ててジェシカの手を取り、笑顔を作る。
「こちらこそ、よろしく、お願いします」
握手を交わしながら微笑みあっていると、のそのそとイ・ミュラーが歩いてきた。
「魔法兵団総帥のイ・ミュラーと申す。これからの両国を治める者同士、親睦でも深めるといいでしょう」
端的に用件だけを述べ、彼は癖のある笑みを浮かべて部屋から出ていってしまった。
やや慌てて、キャメロンもジェシカの後ろで頭を下げ、祖父の後を追おうとする。
ジェシカは慌てて彼の腕を掴んだ。
「お願いですから、一緒にいて下さい。何を話して良いか分からないですわ」
小声でそう伝えると、彼はちらりとヤンへ視線を移した。
「こちらは構わない。是非そうしてくれ」
まじめな顔で返され、キャメロンは重く息を吐きながらゆっくりと頷いた。そして、その場に膝をついて頭を下げる。
「アリア国軍騎士団所属のキャメロンと申します。……今、お茶の手配をしてきますので、席を外すことをお許し下さい」
そう言ってキャメロンは部屋から出ていった。
ジェシカはしゃんと背筋を伸ばして椅子に座っていた。相手はターチル族の頭領の息子と言っていた。つまりはアリアでいうところの王子であるのだ。
ヤンはジェシカの向かい側に座り、むっつりとした顔で俯いている。
キャメロンが部屋から出ていってしまってから、二人はこんな調子で俯きあっていた。
何か会話をしなくてはと思い、ジェシカは微笑みながら口を開く。
「えっと、今日は良いお天気ですわね」
「……ええ。本当ですね」
会話が止まった。それ以前に、最初から会話になっていない。
ジェシカは冷や汗を流しながら引きつった笑みを浮かべた。
しばらくすると、今度はヤンが視線を上げた。
「アリア国の女性と会うのは初めてだが、皆そのように白い肌で華奢な体をしているものなの、ですか?」
ジェシカは自分の手を見つめながら首を傾げた。
「さあ……貴族の娘なんかは、そうかも知れませんわねぇ」
「我が部族の娘は、みな日焼けした肌をしているから、珍しくて……」
「まあ、そうですの」
ヤンが頷く。
ジェシカはにこにこと微笑みながら、何と答えればいいのかと悩んでいた。
それからしばらくして、キャメロンが帰ってきた。
お盆の上のお茶やらクッキーをテーブルの上に並べていくキャメロン。騎士団の正装をした人間がやる仕事ではないだろうと思いつつ、ジェシカは乾いた笑みを浮かべた。
「よろしければ召し上がって下さい」
そう言って、彼はジェシカから二歩分後ろに立つ。
「一緒に食べましょうよ」
ジェシカが言うと、彼は困ったような笑みを浮かべた。
「しかし、私は職務中ですので」
「こちらも気にしない。是非、一緒に」
二人から強く望まれ、キャメロンは仕方がないといった面もちでジェシカの隣に座った。
沈黙が続く。
「差し出がましいかも知れませんが、ターチル民族には、握手を交わすという習慣はないのですか?」
口火を切ってくれたのはキャメロンだった。
ほっとしてキャメロンのことを見つめるジェシカ。ヤンも安堵したような感じの顔をしている。
「いや。あの時ためらったのはそのせいではないんだ。アリアの民には辛く当たられると思っていた。だから、ジェシカ姫が友好的に微笑んで手を差し出したことに驚いてしまった」
「あら、そうでしたの」
自分が間違った行動を取っていないことに気付いて、ジェシカは胸をなで下ろした。
「確かに過去にはいろいろあったかも知れませんが、仲良くなった今も憎みあっていたのでは、和平を結ぶために頑張って下さった方々に申し訳ありませんわ。私、人同士が争って死んでいくのなんて嫌ですもの」
「俺、いや、私もそう思う」
慌てて一人称を言い直すヤンを見て、ジェシカはころころと笑った。
「そんなお堅くならないで下さいな。実は私も堅苦しいのは苦手なんですの」
そう言ってみると、ヤンは嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「ありがとう、ジェシカ姫」
「呼び捨てで良いんですのよ。だって、立場的には私たち、同じですもの」
「ああ、わかった。俺のこともヤンと呼んでくれ」
気持ちが通じたことが嬉しくて、ジェシカはこくこくと頷いた。
そんな二人を見て、キャメロンは穏やかに微笑んでいた。