コーネル4
飲み明かしたあの日から二日が経過した。
生まれて初めて体験した二日酔いは最悪だった。
酒を飲んでいる途中からの記憶は全くなかった。はっきりとした記憶があるのはキャメロンの家の客間で目覚めたときからである。酒場からそこまで運んできてくれたのはシーガルだったらしいが。
外泊の件に関してはレティシアが上手いこと取りはからってくれたらしく、ロキフェルにはばれていない。
おかげで社会勉強は続けることが出来るのだが、シーガルとレティシアにはずいぶんと怒られ、三日の外出禁止の処置となっている。
ジェシカは自室のベッドに寝転がりながらため息をついた。
「はぁ。コーネルさんの歌が聞きたいですわぁ」
もう二日も彼には会っていない。気まずい雰囲気のまま別れたので、ジェシカが彼を嫌っているなどと思われたくないが。
悶々とした気持ちのまま、ジェシカはごろごろと転がった。
「コーネルさんはいつかは旅立ってしまいますのに」
そう、彼はいつまでもこの町に滞在するわけではない。
切なくて目から涙が溢れてくる。ぽろぽろとこぼれてくる涙を拭いもせずに、ジェシカは霞む天井を見つめていた。
最初は確かにちょっとミーハーな気持ちだったかも知れない。顔が好みで、優しくて、おまけにご飯までおごってもらった。貴族社会にも嫌気をさしていたから、旅人という自由な身分の彼に憧れた。だけど、いつの間にかそれだけではなくなっていた。彼の歌声に心を癒され、彼の微笑みに胸をときめかせ……まあ、一言で言ってしまえば彼のことが本当に好きになっていたのだ。
「でも、またふられてしまいましたわ……」
ため息混じりに呟いて、ジェシカは枕に顔を押し当てた。
ジェシカは彼に好きだと打ち明けた。好きだから、一緒に旅に出たいと言ったのに。
そこまで考え、ジェシカは勢いよく身体を起こした。
「でも、別にコーネルさんにふられたことにはなりませんわっ」
彼はジェシカが嫌いと言ったわけではない。旅に付いてくる覚悟があるかと問われただけである。
だが、彼と結ばれるには旅についていかなければならない。自分のことも何もしたことがないのに、旅など出来るはずもない。
普段使わない頭で真剣に考える。そして、結局は彼のことが好きであるという結論に達する。
それを何度か繰り返し、ジェシカは真剣そのものの表情で勢いよく立ち上がった。
「私は愛に生きるんですのっ」
何やらよく分からない決意表明をし、彼女は部屋から出ていった。
* * *
レティシアはロキフェルがいるであろう執務室へ向かって早足で歩いていた。侍女から聞いた話なのだが、ジェシカが吟遊詩人を追って旅に出ると騒ぎ出したらしい。
頭を抱えたくなるのを必死で堪えながらノックもなしに執務室の扉を開ける。中にいたロキフェルは驚愕しながら視線をこちらにやり、どこか安堵したように息を吐いた。
「お父さま。まだ、何もなさっていませんわね?」
きつい口調で問いただすと、彼は頼りなさ気に首を縦に振る。
レティシアはロキフェルが書き物をしていたらしい紙をひったくり、それに目を通した。案の定、それはコーネルをこの国から追い出そうとする命令書である。
「ご自分がどれだけ馬鹿なことをなさろうとしているか、お分かりですの?」
「だって、彼がいる限りジェシカが……」
「そう言う問題ではありません!」
机を叩きながら怒鳴りつけてやると、ロキフェルは身を縮めた。まるで母親か女房にでも怒られている様である。
レティシアはため息をつきながら、その命令書を見つめ、「燃えろ」と呟いた。命令書は瞬く間に燃え尽きて、灰へと変わる。
「彼は吟遊詩人です。どうせ、長くはこの城下町にも滞在しませんわ」
「だって、ジェシカが……」
レティシアはぎろりとロキフェルを睨んだ。
この父もバカだが、姉も相当なバカである。そんなにコーネルを追っていきたいなら勝手に行けばいいのだ。周りの了解を取ろうとすれば反対されるに決まっている。それとも、反対されることで周りが自分を必要としている事を認識しようとでもしているのだろうか。だとしたら救いようもないくらいの阿呆だ。
「こんなところで国王としての権力を使うなんて卑怯ですわっ」
肝心に時には役に立たないくせに……。胸の中で嫌悪感を持って呟き、レティシアは心を落ち着けるように息を吸った。
「国外追放なんてしなくても、早々にこの城下町から出て貰えばすむ話です。……私がお願いしてきますわ」
「いや、しかし……」
レティシアはロキフェルの右手の側にあるティーカップへと視線をやった。
破壊のための魔法を構成してすうっと息を吸う。
「ひーちゃんをお借りしますわよっ」
その言葉と同時にティーカップが真っ二つに割れ、中から液体が流れ出す。
ひいっと短い悲鳴を上げ、頬の辺りを引きつらせながら、ロキフェルは頷いた。
それを見てレティシアはきびすを返した。
「ああ、胃が痛いっ」
忌々しげに吐き捨てながら、レティシアは騎士団本部へと歩き出した。
ヒツジとデュークを伴ってやってきたこの場所には、コーネルとその演奏の聴衆者がいる。
切なくなるような竪琴の音の響き。
レティシアはあまり竪琴での演奏を聴くのは好きではなかった。幼い頃、自分を救ってくれた優しい人のことを思いだしてしまうから。その人の名はキャロル・フィクスラム。キャメロンの母親だ。若い頃は吟遊詩人として各地を放浪していたそうだ。その旅の話はどれもが新鮮でレティシアはいつか自分も旅に出たいと彼女に言った。すると、彼女は苦い笑みを浮かべながらそっとレティシアの頭を撫でてくれた。彼女には様々な要因でレティシアが旅に出る事ができないと分かっていたのだろう。
『女の子の一人旅は危ないから、僕が一緒に行ってあげるよ』
はにかんだ顔で自分に手を差し伸べてくれた、今はもういない少年の顔を思い出し、レティシアはなんとなく空を仰いだ。
ゆったりとした調子の曲が流れていく。
「同じ吟遊詩人だからかな? キャロルさんと感じが似てるな」
ヒツジに声をかけられて、レティシアは我に返った。
返事は返さなかったが、ヒツジはさして気にとめた風もなく腕を組んで煉瓦造りの壁に身を預けていた。
演奏が終わり、客が散り散りになっていく。
レティシアはデュークと一緒に彼の前へ進み出た。
コーネルはゆっくりと顔を上げ、穏やかな感じの微笑みを浮かべる。
「こんにちは。今日はいつもと顔ぶれが違うようですね」
挨拶をされてデュークはぺこりと頭だけを下げた。
コーネルはレティシアの事を見て、少しだけ困ったような顔になる。
「そんなに悲しい歌を歌ったつもりはないのですが……。ジェシカさんの妹さんですか?」
「ええ……。レティシアと申しますの」
そんなに自分は悲しそうな顔をしていたのかと内心狼狽えながらレティシアは微笑みを作った。
コーネルは灰色の瞳を真っ直ぐにレティシアに向けていた。何かを考えるように。
「そう、ですか」
少しだけ悲しそうに視線を落とし、彼はそう言う。そして敬う様に深々と頭を下げる。
ジェシカとレティシアという名の姉妹。彼はそこから、彼女たちが王族であると予想したのだろう。珍しい名前ではないが、姉妹そろってと考えると偶然である確率など極めて低いのだし。
「変なことをお尋ねしますが、いつまでこの城下町で演奏を続ける予定ですの?」
「明日には、出発しようかと考えています」
微笑みながらそう答え、コーネルは竪琴をレティシアに差し出した。
戸惑いながらそれを見つめるレティシア。
「弾いてみますか?」
レティシアは苦笑いを浮かべながら竪琴を受け取り、デュークに席を外して欲しいと頼んだ。彼は頷いてそれに従う。
コーネルの隣に座らせて貰い、レティシアは竪琴の弦をはじいた。
「……申し訳ありません。姉のせいで追い出すような事になってしまって」
「何のことでしょう? 元から明日出発する予定でしたので、ジェシカさんは関係ありませんよ」
本当に聡明で優しい人だと思いながら、レティシアは横目で彼を見つめた。このような人になら姉を任せても安心なのだろうが、旅人では仕方がない。
「無粋な質問で申し訳ないのですけれど、姉をどう思っております?」
「とても優しくて素直な人だと思います。私は彼女のそんなところが好きです」
見覚えのある緑色のマフラーに手を当てながら空を仰ぐコーネル。
「もしも、姉が全てを捨てても、あなたと共に行きたいと言ったら?」
「私にはそれを拒否する権利はありませんが……旅先で汚れ物を目にするには、純粋すぎるでしょうね」
言い方を変えれば世間知らずだから危なっかしいと言うことだろうか。
「でも、彼女は本当に私を愛していると言うわけではないと思います。だから……一緒に連れて行くべきではないのでしょう」
それはなんとなくレティシアも感じていたことだ。あの姉は今の立場から逃げ出すことと、恋への憧れをコーネルに重ねているだけのような気がしてならない。むろん、その真偽はジェシカにしか分からない。
物思いに耽りながらレティシアは指を動かした。ぽろんぽろんと途切れ途切れだった音が、いつからか一つの曲を奏で始めていた。
横から視線を感じて顔を上げると、驚いた様な表情でコーネルがこちらを見ている。レティシアは指の動きを止めて、不思議そうにコーネルを見つめ返した。
「どうかいたしました?」
「いえ。上手に奏でると思って……」
レティシアは無意識の内に竪琴を奏でていたことに気付き、少しだけ照れたような面もちで苦笑いを浮かべた。
「昔、少しだけ習った事があるので。お邪魔してしまって申し訳ありませんでした」
「いいえ。お話が出来て光栄でした。レティシア姫」
レティシアは竪琴を持ち主に返した。そして深々と頭を下げているコーネルに頭を下げ返し、彼に背を向けた。
不規律に揺れる馬車。
レティシアはぼんやりと外を見ていた。
「不思議な感じの吟遊詩人だったなぁ」
何やら感心したようにヒツジが呟いている。
「初対面でおまえにあんな顔をさせるなんてな。ジェシカが聞いたら嫉妬で怒り狂うだろうぜ」
「何ですの、それ」
訝しげに眉を寄せながら問いただそうとしてみるが、ヒツジはにやにやと笑うだけで口を割りそうにない。
「それにしても、ジェシカは本当に話題に事欠かないなぁ」
「まったくです。いつからあんなに男好きになったのかしら」
腕を組みながら難しい顔をしていると、ヒツジがほくそ笑むようにしてこちらを見ているのに気付く。
「おまえだって人のこと言えないだろうよ」
「……どういう意味ですの?」
「おまえ、キャロのことが好きだったろ?」
唐突にそんなことを言われ、首を傾げた。だが、ヒツジは全く気にした風もなく、したり顔で続ける。
「でも、ビッケの事も好きだったし、カミルのことも好きだったし、ついでにいっちまえばディラックの事も……」
「無責任に知り合いの名前を連ね上げていくのは止めてくださいっ」
強い口調で返すと、彼はにやりと口元に笑みを作る。図星をさされて怒っているとでも思われているのだろうか。
「ディラックとかキャロなんて誰もが認める美形だし、小さい頃は地味だったけどあのディラックの弟のビッケだってそれなりに格好良くなったろうし、カミルだって顔は結構良い部類に入る。ほれ。ジェシカと一緒で面食いで、惚れっぽい。ついでに、優しくされるとすぐに気持ちが傾いていく」
レティシアは呆れて何も言うことが出来なかった。どうせ、ヒツジは都合良く沈黙を肯定と見なしているのだろうが。
「そういえばさ、みんなで賭けしてたんだよなぁ~。おまえが誰と結婚するかって」
「どうしてそう言う無責任な事ばかり……」
文句を言ったところで彼は全く取り合わない。彼には昔からそんなところがあったので、今さら何を言っても仕方はないのだろうが。
「家出中に仲が良かった三人の誰かと結婚すると思って賭けてたんだけどなぁ~。賭けした相手のほとんどが死んじまったからな……。俺、自信があったのに」
「……参考までに聞きますけれど、ひーちゃんは誰に賭けていたんですの?」
「俺? ビッケ」
自分に都合のいい言葉だけは耳に届いているらしい。頭痛を必死で堪えながら、レティシアはため息をついた。
レティシアが家出中に遊んでくれた同年代の友達の中で、特に仲が良かったのが先ほどヒツジの挙げたディラック以外の三人、キャメロン、カミル、ビッケ、である。レティシアがキャメロンの家に預けられていたので、必然的に彼自身と、彼と仲の良い友人と親しくなったのだ。
まあ何にしても、ビッケはすでにこの世にはいないので、賭けはヒツジの負けである。
「子供を賭けの対象にするなんて、酷い大人達ですのね」
「おまえらだって人のこと言えないだろうよ。ゼリヴと誰がくっつくか賭けてたくせに」
「あんなの満場一致でディラックになって、賭けになりませんでしたわよ」
「あれ? でも、カミルが一人で負けたとかって聞いたぜ」
レティシアはしばし当時のことを思い出すように目を伏せた。そして、ぽんと手を打つ。
「そう。賭けが成立しないからって、大穴ねらいでひーちゃんに賭けてたんですわ。ひーちゃんはちゃっかりしてるから、漁夫の利狙いで行くかも知れないって。結局一人負けで、半泣きしながら『人生真面目に生きるのが賢い』なんて言ってましたわよ」
「あの、クソガキ……」
肩を震わせながら拳を握りしめるヒツジ。そんな彼を見て、レティシアは吹き出した。
くすくすと笑い続けていると、ヒツジの視線を感じる。目の端に浮かんだ涙を拭いながら顔を上げると、いつになく優しい目をしたヒツジと視線があった。
「おまえがそうやって笑ってるのは、久しぶりに見た気がするよ」
ヒツジに頭を撫でられ、不思議そうにそのたくましい腕を見つめる。
「そりゃ、王家の人間としての勤めもあるから、多少は自分を偽らなくちゃならない場面もあるかも知れないけどさ、おまえは肩肘張りすぎだって。そんなの続けてたらくたびれちまうぜ」
顔をのぞき込まれ――これは彼が人に何かを諭すときの癖みたいな物なのだが、レティシアは数回瞬きをした。
な、と同意を求められ、レティシアは酷く冷静に口を開いた。
「何を言ってるんですの?」
きょとんとヒツジが目を丸くする。
レティシアは訳が分からずに彼の瞳を見つめ返した。
「えっと、だから、おまえが人と話すときに猫をかぶっているから、疲れるだろうなぁと、思って……」
「私、誰に対しても同じように接しているつもりですけれど?」
「それ、冗談だろ?」
レティシアは首を振った。まあ、多少はジェシカに厳しく当たることもあるが、それは彼女が悪いのだし。
すると、ヒツジは手を額に押し当ててがっくりとうなだれる。
「おいおい。自覚症状なしかよ」
「だから何が……」
ヒツジは呆れたような顔をして、空いている手をひらひらと振った。
「いや、いい……多分、俺が悪いんだ」
ますます分からないと言った顔をしてレティシアはヒツジを見つめるが、彼はもう自分の世界に入り込んでしまっているようだ。
「ディラックからレティシアを頼むって遺言残されてたんだけどなぁ。はぁ。副将軍なんて肩書きが付いて、忙しくて構ってやれなかった俺のせいだよな、やっぱり」
「だから、一体なにを言ってるんですのっ」
答えてくれないヒツジに腹を立て、レティシアは彼を怒鳴りつけた。