トリスタン1
ジェシカの初恋話な過去編です。
寒い中、ジェシカは欠伸をかみ殺して座っていた。
ジェシカがいるのは、城から少し離れた所にある闘技場の貴賓室。
本日は騎士団のトーナメント試合の開催日である。トーナメント試合とは鎧兜を身に纏った騎士が馬を駆り、ランスを手にして技を競い合い闘うといった競技である。月に一度開催されるこのトーナメント試合は市民達の楽しみのひとつであった。
「顔が見えないんじゃあ、カッコイイ人を捜すことも出来ないですわ~」
退屈そうにジェシカが呟いていると、隣からおほんと咳払いをされた。ジェシカは舌を出しながら肩を竦める。今回のトーナメントはロキフェルに誘われて観戦に来たのだ。
熱心に試合を見ているのはレティシアだけで、ジェシカもロキフェルも退屈そうに試合場を見つめていた。そんな親子の後ろにはロキフェルの護衛が並んでいる。ジェシカのお目付役であるシーガルも同席しており、緊張した面もちでジェシカの隣に座っていた。
「あ、次はひーちゃんの番みたい」
浮かれた様子のレティシアは、馬を走らせて入場してくる副将軍を指しながら立ち上がった。
「首に巻かれているスカーフがあるでしょ? あれ、私が刺繍を入れてプレゼントしたんですの」
「……こんな遠くからじゃ刺繍の柄も見えませんわよ」
冷めたジェシカの意見に、レティシアは可愛らしく頬をふくらませる。
「そういえば、私をここに招待したのはヒツジ君なんだよ。たまには顔を出せと言われてねえ」
「え? ヒツジって何ですの。メーメー鳴く、あの動物ですか」
きょとんとしながら真顔で問うと、一同呆れたような顔をした。ジェシカはあれっと首を傾げて皆の顔を見回した。
「お姉さまっ。どうして、そんなにおばかなんですのっ。ひーちゃんの名前ですわよっ。ヒツジ・ガルディーガ!」
「あら。ひーちゃんってそんな名前でしたのね。私、小さい頃からずっとひーちゃんと呼んでいたので、知りませんでした」
「お願いですから、貴族の家名と名前と顔くらいは覚えてください」
必死にジェシカに訴えるレティシア。その横ではロキフェルがのんきそうに試合場を見ていた。
「私も苦手なんだよねぇ。名前と顔を覚えるのは」
「ほら、お父様もこう仰ってるんですから、問題はありませんわ」
レティシアはがくりと肩を落とした。あまりの情けなさに泣きそうな顔をしている。
「ひーちゃんが勝ちましたよ」
シーガルに言われて、ジェシカ達は試合場の方に視線をやった。丁度副将軍が勝ち名乗りを受けて頭を下げているところだった。
彼は馬を操って貴賓室の下へ向かってくると兜をはずし、レティシアに手招きをした。
彼女はそれに従って最前列まで駆けていき、観客席と試合場を分ける手すりの前で立ち止まる。すると、馬に乗った副将軍とレティシアの目線はほぼ同じになった。
副将軍はレティシアをひょいっと持ち上げて自分の馬に乗せる。彼はレティシアの頬にキスをして、観客達に手を振った。わあっと歓声が上がり、レティシアは頬を真っ赤に染めて、珍しくうろたえているようだ。
「まあ、レティとひーちゃんって仲が良いと思っていたらそう言うことでしたの」
「ええっ。ひーちゃんがロリコンだって噂は本当だったんですか?」
二人の年は一回りは離れているが、王女とそのお目付け役という関係から一緒にいる事が多いため、噂好きの貴族たちの的になっているようだ。
ジェシカとシーガルの悲鳴を聞きながら、ロキフェルは穏やかに笑っていた。
「レティは次の誕生日で晴れて結婚も出来る年になるだろう? レティに婚約を申し込む気があるなら、自分と争う覚悟で来いという宣戦布告みたいな物だね。レティを嫁に貰うと、王家と外戚関係になれるから、政略的に狙っている貴族も多いからなぁ」
「なるほど。ひーちゃんはレティ様を可愛がっていますからね。政略結婚の道具にさせたくないと言う訳ですか」
感心したように呟くシーガル。しかしジェシカは面白くなさそうな面もちで、はにかむ笑みを浮かべているレティシアを見つめた。
「レティったら、相変わらずみんなに可愛がられているんですのね」
少しだけふてくれた口調にロキフェルは苦笑いを浮かべる。
「トリスタン君がいたら、似たようなことをやっていたと思うよ? 彼はジェシカのことを可愛がってくれていたからね」
ジェシカは微かに視線を落として、目を細めた。
「私はちょっと、ヒツジ君に挨拶に行って来るよ」
ロキフェルは立ち上がり、護衛を連れて歩いていってしまった。
「トリスタンって誰ですか?」
「……私のいとこのお兄さまですわよ」
残された二人はぼんやりと試合を観戦していた。
ジェシカは目を伏せた。最近はあまり思い出さなくなった記憶だが、闘技場に来たことと、彼の名前が出たことで少し感慨深くなっているようだ。
彼は乗馬が得意だった。馬を思うがままに操り、試合場を駆けめぐっていた。聖騎士の称号を持つ彼は剣の腕も抜群で、次々と相手を蹴散らし、トーナメントを勝ち進んでいった。
幼いジェシカはトーナメントが行われる度に最前列を陣取って彼の応援をしていた。試合に勝つと、彼はジェシカの前に馬を走らせて、愛嬌のある笑みを浮かべてジェシカの手に口づけをしてくれた。それは騎士にとっての最上級の敬愛の証である。彼は、ジェシカのことを愛してくれていた。大切な妹として……
「私の、初恋の人でしたの」
唐突なその言葉に、シーガルは驚いた様な顔をしてジェシカのことを見た。
ジェシカは口元に笑みを浮かべながら、シーガルのことを見上げた。
「少し、お話ししてもよろしいかしら?」
* * * * *
トリスタン・アリアは、当時のアリア国の王子だった。
黒髪に焦げ茶色の瞳。背が高くて筋肉質な体躯の武骨な感じのする人だった。幼い頃に負った傷痕を隠すため、額にはいつもバンダナを巻いており、その外見は王族とは思えないとの評判を得ていた。もっとも、本人は全く気にしていない様であったが。
聖騎士の証である赤いマントを翻しながら彼はいつも城の中を走り回っていた。理由の一つは仕事が忙しいこと。そして、もう一つの理由は……
「待てっ」
「きゃ」
廊下を歩いていたジェシカは、角でトリスタンとぶつかって転びそうになった。慌ててトリスタンはジェシカの体を支え、はあと安堵の息をもらす。
「お兄さま。廊下を走ってはいけませんわよ」
驚きのあまり鼓動を高鳴らせたジェシカが注意をすると、彼は面目ないと呟いて頭を下げた。十も年上の彼だが、何故かとても可愛く感じられる。
その後彼は本来の目的を思い出したらしく、勢いよく顔を上げる。見えたのはばたばたと足音を立てて走っていく少女の後ろ姿。
「待て、レティ!」
呼び止められた少女はくるりと振り返った。肩までの淡い金色の髪に人形のような可愛らしい顔をしているその少女は、妹のレティシアである。彼女はその愛くるしい顔で、生意気そうにべーと舌を出すと、静止の声を聞かずに角を曲がっていった。
トリスタンも駆けだしたが、「きゃー」というレティシアの悲鳴を聞いて、足を止める。
ジェシカは驚きながらトリスタンの側に駆け寄っていった。
レティシアの腰に巻いてあるリボンをつまみながら、黒髪の青年が歩いてくる。彼女はじたばたともがいているが、何分手足が短いため拘束を解くことは叶わない。
「偉いぞ! ひーちゃん」
その男、ヒツジは歯を見せて笑った。彼はトリスタンの同僚であり、共に剣を学んだ幼なじみでもある。彫りの深い顔は整っており、表情には少しだけ子供っぽさが残っていた。
「離してよ、ひーちゃん! 離さないと、これからはめーめーヒツジって呼んでやるっ」
「ほう。良い度胸をしてるな、レティシア」
ヒツジはレティシアの顔を自分の方に向け、据わった目で睨み付けた。それにはさすがのレティシアも危機感を覚えたのか、ごまかすような笑みを浮かべる。
「レティ。観念しろ」
「やだもん、あたし、絶対に謝らないから」
トリスタンの方を向いて舌を出すレティシア。ジェシカは狼狽えながら、レティシアのことを見つめた。
「レティ。あなた、病み上がりでしょう? こんなところを走り回っていたらダメですわよ。ちゃんと寝てなさい」
「そうだぞ。だいたいどうしてお前はそう悪戯ばかりするんだ。お前の母親はそれは素晴らしい人だったんだぞ」
「そんなの、耳にたこができるくらい聞かされたっ」
「だったら少しは叔母上を見習っておしとやかにしろ。顔はそっくりなのに、どうしてこうも違うんだか」
呆れたように天井を仰ぐトリスタン。レティシアは今にも泣き出しそうな位に顔を歪める。
ジェシカは狼狽えて、ヒツジは肩を竦めて、それぞれトリスタンとレティシアを見守っていた。
「お前は……」
「トリスタンなんて、大嫌いっ!」
突然嫌いと言われ、トリスタンは渋い顔をした。
「ひーちゃんも嫌い、おねえさまも嫌い、おとうさまも嫌いっ。みんな大っ嫌いっ!」
彼女が叫ぶと同時にばちぱちっと静電気が走り、火花が散る。
ジェシカはトリスタンに抱きしめられ、彼のマントに包まれた。
「いてっ」
手に電撃が走ったため、ヒツジは思わずレティシアのりぼんを放した。その隙にレティシアは逃げだし、身軽に階段の手すりに飛び乗った。
放電が止む。
ジェシカはトリスタンに抱きしめられたまま、手すりから飛び降りようとするレティシアを見つめた。
「レティ! ここは、三階ですのよっ」
吹き抜けになっている階段の手すりから見える床は三階下のものだ。このままでは彼女は怪我をしてしまう。だというのに何のためらいもなしに彼女は手すりから飛び降りた。
「きゃー」
悲鳴を上げながら目を覆うジェシカ。
トリスタンとヒツジが慌てて階段に駆け寄り、下をのぞき込んだ彼らは安堵した顔をして手すりに寄りかかる。それを見たジェシカも慌てて彼らに近づいていった。
手すりから下を見ると、まず目に入ったのは真っ青なマント。近衛兵団に所属する者の証である。レティシアはそのマントの主の腕の中にいた。
「ディラック!」
ディラックと呼ばれた青年は訝しげな面もちで三階を見上げた。彼は突然降ってきたレティシアを抱きとめただけあってで、その他の事情については何も知らないはずだ。
きちんと整えられた焦げ茶色の髪に、それよりも濃い色の涼しげで知的な瞳。穏やかそうな雰囲気の美形の青年はレティシアのお目付役を受け持っている近衛兵団のディラックである。近衛兵団は騎士団や魔法兵団の選りすぐりで構成されており、彼、ディラックは元騎士団員でトリスタン達の同期であり、親友でもある。
彼は腕の中のレティシアとトリスタン達を見比べて、首を傾げてみせる。
「とりあえず、トリスタンが悪いよ」
「何だよ、それはっ」
何の根拠もない言葉にトリスタンは身を乗り出して異議を唱える。だがディラックは涼しい顔をしてレティシアを抱きしめながら頭を撫でている。レティシアは泣いているのか、ディラックの胸に顔を埋めたまま、顔を上げようとはしなかった。
「ほら、またレティシアを泣かせて……。だから嫌われるんだよ」
どうやら、彼女の「大嫌い」という怒鳴り声は下まで届いていたらしい。
「俺のことは好き?」
無邪気そうに笑って尋ねるディラック。レティシアは俯いたままこくこくと何度か頷いた。
「というわけで、レティシアは俺が貰っていくよ。じゃあな~」
彼は嬉しそうに頬を綻ばせて、レティシアを連れて歩いていってしまった。
その後ろ姿を見送るトリスタンは頭をかいていた。レティシアに嫌いと言われたことにショックを受けているのか、表情は暗い。
「ごめんなさい、お兄さま。レティがいつも悪さをして……」
「ジェシカが謝る事じゃないよ。だいたい、お目付役のディラックが甘やかすから、レティも図に乗るんだ」
ジェシカの頭を優しく撫でながら、トリスタンは安心させるように笑った。
ぽっと頬を染めてジェシカはトリスタンを見上げていた。
「それじゃ、レティも捕まったし、俺はそろそろ仕事に戻るな」
ジェシカは大きく頷いて、ヒツジと共に歩いていくトリスタンの大きな背中を見送った。
アリア国の王子であり、聖騎士であるトリスタン・アリア。ジェシカは優しく頼りになる彼のことが大好きだった。だが、それを言い出すことも出来ずに、いつも彼の背中を見つめていた。
ジェシカ・アリア、十二才。このころの彼女は、実は内気な女の子だったのである。
レティシアとトリスタンが毎日のように追い駆けっこをしていたある日、事件は起きた。
昼頃から姿を見せないレティシアを心配したジェシカは彼女の部屋を訪れたのだが、彼女はいなかった。
その代わりに机上には一通の書き置きが残されていた。
『9年という短い間ですがお世話になりました。あたしは旅に出ます。探さないでください。
レティシア』




