とある師弟の一日
初めまして、さねちかと申します。
えー、此度の駄作は小生がずっと考案を練っている古代風戦記の没案になります。投稿した理由は……まあ、誰の目にも晒さないって空しくね?とか考えちゃったからです。
世界観が分かりづらいのは小生の設定が大雑把過ぎるから。
古代風戦記書きたい。生活水準は? 身分制度は? 店とかどんな感じ? え、このキャラの生い立ちだとどんな考え方になるの? てか、庶民と貴族って会わんだろ。いや、でもなあ、ダビデ王とか元羊飼いだし。誰か古代の資料ください←
※投稿時間が夜のためテンションがおかしくなっております。
麗らかな昼下がりの頃であった。天高く馬肥ゆる秋とはよく言ったもので、空はまるで水中のような透明感で溢れている。その下に広がる麦畑は白光を受けて艶やかな金色の穂波を描いていた。窓型に切り取られたその風景はまるで精密な絵画のようでさえあった。
風光る絶景を独り占めする部屋の主は齢十四の少年、故シャトナ卿吏の息子であり名をイシュクという。黒髪黒目、青黒い膚をしたラードム人の少年はけれども、肌の濃さ、即ち血の濃さに比べて筋肉質で大柄な民族的特徴より外れた小柄な体躯をしていた。
邸の自室にてイシュクが籐椅子に深く凭れて微睡んでいるところ、さらりと緞帳が大きく揺れ動いた。重たい瞼を上げれば、黒瞳に佇む侍従の姿が映り込む。
老いた侍従は礼を取ったまま告げる。
「イシュク様。若衆のガヴリエル様が面会を乞われております」
「通してくれ」
見慣れた侍従が去った後、イシュクは気怠げな息を吐いた。面会を疎うてのものではなく、頭を重たくする眠気に対するものであった。
若衆が先触れのない面会を乞う行為は珍しいことではなかった。己の師事する念者に付き纏うて剣技を精進する行為は好ましいことである。中にはそうしたやり取りを経てすっかり心許され、念者の邸に居を移す若衆もいると言う。
それに比べればイシュクの若衆であるガヴリエルの訪れは寧ろ少ない方であった。
若衆のガヴリエルはすぐに部屋に押し入って来た。大股に踏み出すたび、側体で織り成された外衣の縦襞は優雅に揺れる。その風体はどう見ても剣技の打ち合いに来たように思えなかった。
イシュクの眼前で彼を見下ろすように立ち止まったガヴリエルは、いつもなら白雪のような桃顔を真赤に染め上げていた。虫の居所が頗る悪そうな上、更に身に余る怒りを知らしめるように華奢な身は打ち震えている。
「どういうことか、説明願おうか」
ガヴリエルは挨拶も抜きにして、声高な声で詰め寄る。
「来客の身でありながら入室の礼も無し。その上、第一声がそれか。随分とご立派な身上だな」
イシュクは若衆の余りにも礼を欠いた態度を呆れたような口調で皮肉った。若衆に生活態度や礼儀を教える念者の役目としては叱るべきところなのだろうが、未だに続く心地好い気分を害したくなかったので止めた。
一度瞼を閉じて深く呼吸する。次に瞼が上がったとき、ガヴリエルの灰青をした双眸は未だにイシュクを苛正しそうに睨んでいた。
「それで、俺は何について説明すればいいのだろうか」
「とぼけるな! ラハムワディーナ統領が昨日の遅く入山された。だが生憎、俺はその予定を知らず、御姿を拝見に参れなかった。貴兄はそのことを知っていて俺に黙っていただろう」
ガヴリエルはそう唸った。興奮しているらしく瞳孔が丸く開き、灰青をした虹彩の幅が狭まる。
その様は猫のようだと喩えるよりも狼を引き合いに出した方がプロォーツェラが一派、狼族の少年を喩えるならしっくりくる。
イシュクははて、と首を傾げた。
「それは俺も初めて知ったな。ラードム王が獣の多発に際して自ら出兵されたとは聞き及んでいたが、まさか神託を授かる聖塔に入門されるとはーー」
尻すぼみになった言葉は最終的にそういうことか、と独り納得するものに変わった。ガヴリエルは柳眉を寄せてイシュクを批難する。
「独りで勝手に納得なされるのは貴兄の悪癖だ」
「悪かった」
そう謝りながらイシュクは不満足そうな少年ではなく下界を流し見た。南開きの窓からは西寄りの太陽が窺える。
瞬く後、イシュクは籐椅子から立ち上がると、緞帳の向こうへ声を掛けた。
「居住区へ出る。下の駅家に言づけて馬を二頭用意させてくれ」
かしこまりました、と姿を現さぬまま先刻の侍従が答える。
イシュクは傍らの机上に放置した頭布を掴むと、手際よく頭と言わず面まで覆うように巻く。仕上げに細長い銀細工の留め具が挿された。
暫し呆然としていたガヴリエルはようやっと言葉を紡いだ。
「居住区なんぞに出て何をする気だ」
「お前はラードム王にお目通りしたいのだろう。ならば、会わせてやろうという魂胆さ」
今でこそイシュクの利発そうな面は隠されているが、口元は厭らしく笑みを浮かべているに違いない。憮然とした表情を浮かべて、ガヴリエルは口を噤んだ。こうなれば梃子でも口を割らぬと五年来の付き合い上知っているせいであった。
緞帳の向こうから平たい宝石箱を恭しく持った少女が俯き加減のまま、イシュクの前に静々と進み出た。流れるような所作で平たい宝石箱を差し出し、少女は礼を欠かぬ角度で面を上げた。
さらりと、緩く波打つ豊かな黒髪が薄く色づいた侍童の頬を撫でる。滑らかな象牙色の顔に浮かぶ双つの眸は漆を塗った黒檀のように濡っており、男を誘うような色香を宿していた。
「イシュク様には金賞牌を、シルヴァナ女卿吏のご子息様には瞳に合わせて青玉の宝飾品をご用意しました」
少女の声はか細く、鈴の音を転がすように愛らしかった。
「そうか」
イシュクは平たい宝石箱の蓋を開け、剣闘士と獅子が描かれた金賞牌の装身具を留め針で外套の右肩元に縫い留めた。
剣闘士は闘技場で優勝を修めたことを、獅子は荒野に野生する獅子を討ち取ったことを、それぞれ武人として誇るべき力の有り様を目に見えて示す代物だ。
イシュクが身なりを整え終えて振り向くと、ガヴリエルの視線は彼を通り越して背後に居る少女へ注がれていた。
「イシュク。俺の記憶が正しければ、そのロマシュ人は貴兄が二年前に買ったばかりの奴隷だったはずだが、いつの間に自由民へ引き上げたんだ」
奴隷を自由民に引き上げるには、主人が相応の働きを認める必要がある。ガヴリエルは自由民へ引き上げる早さを暗に咎めた。
「この少女は自由民ではない。未だ奴隷身分だ」
「それならば何故、侍女の役割を奴隷が代行しているのか。理由を是非とも聞かせてもらいたい」
「俺はしがない武人だ。身の回りをさせる侍女を雇う余裕などない。それにエストレーリャは見立てが一番いい。お前だって笑われるのは嫌だろう」
しれっとイシュクは理由を述べた。
宝飾を身に纏うことは洒落た衣類を着ることと意味が異なる。美しさの感性を競うためではなく、見知らぬ土地へ行くとき貴族という己の身分を明らかにするため必要なことだった。
たとえ大商人であろうとも貝細工や硝子飾りがせいぜい。それは古来よりの慣習のせいであっただろうし、貴族のように武術を習わねば、法を施行する権利も後ろ盾も持たぬ平民が分不相応な装いをしても禍を招くだけだからでもあった。
しかし、幾ら刺繍が見事な衣服を着ても、けばけばしく宝飾を纏えば感性を疑われるのが近年の風潮だ。故に少女の稀有な感性を喜ばしく思えとイシュクは言い募る。
エストレーリャは決して友好的ではない視線に怯えながら、ガヴリエルへ近寄った。
青玉の宝飾は確かに優雅な風体のガヴリエルに合う、大振な代物が選ばれている。
ガヴリエルは憮然とした面持ちで宝飾を手に取った。
貴族は大まかな二つに分類することができる。卿吏という肩書を持つ領主と、そうではない文武官とである。特に前者に至っては領地を所有している分、財や武力を蓄えやすい側面があるので神都に配偶者か、跡継ぎたる子息が居ればそちらを住まわせる義務があった。云わば、反逆に対する質であった。
イシュクの暮らす邸は神都でも神託を授かる聖塔の空中庭園の中ほどに在った。
聖塔の最上階、祭壇は第十一代皇帝の首を撥ねた反乱の折、熱湯の堀に渡された橋が壊れて以来、誰も辿り着いたことはない。堀を満たす熱湯は排水用の窓より滝となり落ち、滝壺の泉より引いた水路は整然と足元を奔る。
湯気により冬期でも一定以上の暖かさが約束された空間は、芳香豊かな草花や喬木が艶やかな葉を茂らせる。豊かな鳥声やアプトゥの滝音が絶えぬ人工林は、樹冠の隙間から零れる光芒が躍るのみで、どこか背徳的な薄暗ささえ孕んでいる。
里長から卿吏へ成り上がった者や卿吏の妻となった者、領主ではない貴族やその子息などが足を踏み入れて開口一番、ここは理想郷だと惚ける。古代王朝の頃より維持、補修される空中庭園はそのような場所であった。
空気に混じる柑橘類の香りが思考に掛かった靄を取り払う。
頭が冴える香りを楽しみながら、イシュクはちらりと隣を歩く少年を見下ろした。ガヴリエルの背丈はイシュクの胸ほどしかあらず、その表情を窺うことはできない。黒瞳には子供特有の柔らかな手触りがしそうな銀髪ばかりが映る。
「イシュク。貴兄は世間体を気にしたことはあるか」
ガヴリエルが唐突にそう質す。
「変わり者と揶揄される俺が世間体を気にしていると思うか」
間髪入れずに答えれば、弾けるように上を向いた桃顔が見る間に苦々しい色を浮かべた。
「もしやとは思うが俺以外が訪れた場合でも、あのロマシュ人奴隷を人前に出させているのではあるまいな。先の一件で十分な報酬は貰ったはず。なのに、何故、人を雇わない」
「先を見据えて節約しているからな。故シャトナ卿吏の奥方がいつ新しい夫を迎えるか予想できぬ以上、ある程度、最悪の想定に備えておくべきだろう」
ガヴリエルは複雑そうな表情を浮かべた。実母をよそよそしく呼ぶ態度に未だ慣れぬのだ。
貴族位の譲渡は土地を占める三民族の間でも問題になっていた。
農耕民族であるプロォーツェラは血縁を重んじ、貴族の位も息子娘へ引き継がれる。一方で嫁婿が同じく貴族を名乗ることを許さない。
ヘテ人はそれより甘く、嫁婿やはてはその二等親にまで貴族を名乗ることを許す。
これに対してラードム人は複雑な譲渡方法を用いていた。娘を媒介にその夫へ貴族位を譲渡するのだ。
娘は成人を終えても生家に留め置かれ、父親の決めた相手と婚姻を結ぶ。代わりに終身を父親か夫の庇護下に置き、両親が身罷れば遺産を継ぐことができる。だが、息子は成人すると手切れ金と剣弓一式を与えられ、生家を追い出される。縁切りを終えているので両親が身罷っても当然、遺産は手に入らない。
悪習だとなじる声はいつの時代もちらほらと散見されるが、向上心の強い者がのし上がれる機構が繁栄を支える面が強く、廃れる気配は一向にない。
十二の成人を超えたイシュクも当然、生家であるシャトナ卿吏の邸を出て居住区へ越す予定だった。シャトナ卿吏が在ろうことか神託を授かる聖塔の宮廷で起こった陰謀に巻き込まれ夭逝するまでは。
シャトナ卿吏の妻ネシャートの父親、つまりイシュクの祖父は既に亡く、彼女は確固たる後ろ楯がない。新たな夫を迎えるか、封土を返上し慎ましく神殿で余生を過ごすか。ネシャートは前者を選び、その間、シャトナ卿吏の座を欲す愚鈍から彼女を護るためイシュクは未だに邸に居残っているのである。
「婿養子に入る宛はないのか。俺の知るラードム人は知人を介してその父親と知り合い、妹と許婚になったと自慢していた」
若衆にそのようなことを心配されるなど可笑しくて、イシュクは思わず笑声を漏らした。
「心配するな。ニンティの森で行われる獣狩りでお前が生き残れるよう、あと一年は念者の役割を果たすさ」
「それは当たり前だ。獣狩りほど上の者の目に留まり易いものはない……試しに合格して宮廷に上がるよりも、お声掛けしてもらった方が高級官僚は確実だ」
ガヴリエルが零した言葉はイシュクに向けたものではない。シルヴァナ女卿吏の息子たるガヴリエルはけれども、地方領主の座より政の中枢たる宮廷に高官として食い込む野心を抱いていた。
齢十の少年が抱くには昏い野望であった。
「そう気負うな。俺はお前が抜擢されるよう最善を尽くすと約束したはずだ」
イシュクがそう真面目くさって言う。
「エールの御前で誓えるか?」
と、ガヴリエルはイシュクに問い掛けた。
エールは契約の使徒にして死の御使い、そしてプロォーツェラが何よりも畏れる荒神であった。大いなる冬に危急してプロォーツェラが捨てた故郷、グリマーレ海峡を挟んだ向こう岸、北域の森には契約を破りし者が人生の最期に辿り着く煉獄へと通ずる根が在ると言う。
イシュクは「誓う」と短く、しかしはっきりと答えた。
やがて前方に開けた空間が現れた。繁る樹冠が日差しを遮る暗がりに在ってなお、白光眩い空間は目に痛い。
湿り土が途切れ、瀝青の地面を革靴が踏む。視界が一気に開けたそこは空中庭園の外苑に当たる部分であった。下界を俯瞰すれば、地上六十メートルに及ぶ高さからの展望が広がる。
さて、とイシュクはガヴリエルに顔を向けた。
「下まで階段を降りるのも面倒だ。索道を使うが、異論はないな」
そう問いながらも、既に索道の駅の目に痛い白壁は眼前に在る。
真南に在る階段をただひたすら下るなど、御免被りたかったのでガヴリエルは文句を言わなかった。
索道の駅は空中庭園に西と東に二つずつ、計四か所存在する。真南寄りの邸に住むイシュク達は西南の駅へ足を踏み入れた。昼下がりのため、索道の駅は空いていた。
イシュクは受付台に銀貨二枚を置いた。駅戸はそれを受け取り
「どうぞお乗りになってお待ちください」
と言い残し、奥へ向かった。
地面から浮いた車体は乗り込むに当たり不安定に揺れる。
「どうも俺は索道は好かない」
備え付けの長椅子に座りながら、ガヴリエルはそうぼやいた。
イシュクの目元が綻ぶ。頭布を巻く習慣がある少年なだけあって、付き合いが長ければ感情の機微は涼やかな目元の変化で分かる。随分と面白そうであった。
「乗馬の揺れとさほど変わらぬと思うがな」
「さほどどころか全く別物だ。そういえば貴兄は乗馬をあまり嗜まぬようだが、故あってのことなのか」
これは余計なことを言ったと、イシュクは車体の壁に凭れ掛かった。こつりと、頭を壁に預け天井を見上げる。黒瞳は茫洋として、遠くに思いを馳せているようだった。
「まあ、そうだな。転機は十一で参加した獣狩りにあった。ニンティの森は深いように見えて疎林だ。地性植物がよく育ち、馬脚なんぞ何の足しにもならない。ガヴリエル、お前は獣狩りをどのようなものだと心得ている」
薄桃色の薄い唇へ指を当てて、ガヴリエルは一瞬思案した。
「クル山脈より下り来たり、人畜に被害を齎す獣を駆逐する貴人の義務だと、教導師は教えてくれた。だが実際は、海に浮かぶ島という土地柄、他国との戦争もない平和な時代を迎えた軍兵が実戦経験を積むための模擬戦といったところだろうか」
知的好奇心に満ちた灰青の双眸がじっとイシュクを見つめる。
ガヴリエルが指す教導師とやらは外海侵出を提唱し、ロマシュ人の国との戦争を肯定している左派のろくでなしだろうと、イシュクは遠からぬことを思った。同時にイシュクはこの生真面目で少し頑固な若衆を気に入っているので、偏った視点から教えを諭す教導師を心中で罵った。
「まず根本が間違っている。ガヴリエル、この島における人間の歴史は常に獣との争いに重点を置いているんだ」
ごうんと、漸く車体が緩やかな下降を始める。
イシュクは隣席へガヴリエルを手招き、壁とほとんど見分けがつかない覗き窓の細い蔀を開けた。車体が滑る索道は西へ伸びており、イシュクは右側の椅子に座っていた。見える景色は北側のものだった。
遥か遠く、青くけぶる山脈をクル山脈。その最高峰をクル山と敬称する。斜面を覆う樹木は年中翠黛しており、山頂は雲に隠れ全容を現さない。昔の哲学者はクル山の頂きにこそ神の都は存在し、故に神託を授かる聖塔を神都などと呼ばせるは罰当たりだと吠えた、などという逸話もある。
獣はあの山脈から森を盆地を越え、平原へ遣って来ようとする。
「理想郷、楽園、常春の地。外海の民族が様々な異称で呼ぶこの島へどの民族より先駆けて到達したのは、ファム内海に面する土地を辛くも追われたヘテ人達だった。彼らの古い詩を聞いたことはあるか?」
ガヴリエルは眉間に皺を寄せて難しい顔をした。
「ヘテ人貴族と繋がりは持たぬよう母様からきつく厳命されている」
そうだったな、とイシュクは肩を竦めた。
ヘテ人貴族はプロォーツェラが一派、蝙蝠族と繋がりが深い為、他のプロォーツェラの部族から嫌厭されている傾向がある。とてもではないが狼族のガヴリエルがわざわざ付き合いをするはずがなかった。
イシュクは再度、別の形で問うた。
「ヘテ人の市井文化に触れたことはあるか?」
「ない」
イシュクは頭を軽く左右に振った。しゃらりと、頭布の留め具飾りが悲しげな音を響かせる。
「いい機会だな。居住区に下りたら、よく市井の文化に触れておけ」
訝しい様子ではあったが、ガヴリエルは素直に頷いた。
「先程の件だが、ヘテ人の詩に何が記されているというのか?」
「彼らヘテ人が二つに分かれ、片方が海向こうにベラハレツ王国を建てる以前の土地の歴史が詠われている」
ガヴリエルは目を丸くした。もしそれが真実だとすれば一千二百以上前の詩歌が歌い継がれていることになる。そして何よりも、
「よく始皇帝に根絶やしにされなかったものだ」
と、感想を漏らした。
「根絶やしにされないさ。内容は冷厳王の治世を批判するものではなく、寧ろ彼の少数民族が島全土を統治する正統性を裏付けるような代物だったのだから。詠い始めは確か、
弾けて雷と蛇と風が成る
雷恋狂い蛇焦がす
風が亡骸浚いて海と大地成る
黒と赤よ 至尊の色は此処に始れり
だったはずだが、俺の下手な歌より吟遊詩人の歌を聞いた方がいいだろう。降りるぞ」
イシュクは颯爽と車体を後にした。黒膚の少年は自らの歌を下手だと言うが、声変わり前の音は高く澄み聴いていて心地好い。ガヴリエルは暫し恍惚と余韻に浸った後、慌ててイシュクに続いた。
索道の駅は通りに面している。
先ほどまで居た閑静な空中庭園とは一転し、通りの両脇には摩天楼が軒並みを揃える。宮廷に仕える者たちの邸である。空中庭園や聖塔の麓に広がる森に属する邸と比べて一戸当たりの敷地が狭く、また隣同士の距離が離れていないことが特徴的だ。
二人は通りの端、街路樹の木陰に佇む。
ガヴリエルは興味深そうに摩天楼を見上げる。基本的に彼は郷吏が住まう区画から出ることがない。午前は教導師が授業をし、午後は軍事や統治を学び、夕餉の席に友人知人らを招待して交友を深め一日を終える。押し並べて未成年の貴族子弟は斯様な一日を送るものだ。
「渡るぞ」
二人は道向こうに在る厩へ渡った。
木製の扉を開ければ、客の来店を報せる鈴の音ががらがらと鳴り響く。注意を促され、受付台に座る駅戸が台帳から顔を上げた。馴染みの客を見つけ、その顔に笑みが浮かぶ。
「いつもお世話になっております、イシュク様。話は聞いております。どうぞ、裏手にお回り下さい」
「分かった。ところで一頭はしっかりと錦飾りを着けてあるな?」
「勿論でございます。抜かりはありませんのでご安心を」
「ならばいい」
厩内は索道の駅と打って変わって混雑していた。平時ならば客人は武人と相場が決まっているのだが、今日ばかりは貴族の姿が多い。
イシュクは人混みを縫うように進んだ。その後に続くガヴリエルは首を忙しなく巡らせて、物珍しげな様子だった。
貴族は狩猟のときこそ馬に乗るが、移動は臥輿か徒歩が主だ。大勢の人間ーー自らが庇護する後援者を引きつれて街中を遊興し、権威を知らしめるのだ。
余談だが、公共の橋や道を整備するのも彼らの役割であり、彼らはその所業を明らかにするため己の名を橋や道路につける。橋や道についた名を冠する貴族は必然的に慕われ、その後援者の数を増やし、権威を増していくのだ。
イシュクは厩内を畜舎に抜ける扉目指して進みながら、半歩後ろを歩くガヴリエルに声を掛けた。
「どうした、ガヴール」
「何故、斯様に貴人の姿が多いのだ?」
「礼儀の問題だろう。ラードム王と会い見えに行くのに、臥興なぞ失礼極まりない。かと言って、闘技場までは遠いから徒歩も嫌だろうしな」
何のこともないようにイシュクは閾を跨ぎ、畜舎へ向かう。早足になったガヴリエルがその隣へ追い付いた。イシュクを仰ぐ灰青の瞳は閃きを宿していた。
「そうか! ラハムワディーナ統領は獣退治にあたって、勇士を探しておられるのだな!」
「おそらくな。急ぐぞ、ガヴール。闘技場は日没以降、閉まってしまう。あまり時間がないぞ」
西寄りの太陽は更に傾きを増している。畜舎から牽引された馬に颯爽と飛び乗り、その尻を打つ。馬は嘶くと、蹄で力強く地面を蹴った。
通りは遥か遠くまで伸びている。摩天楼の連なりは蜥蜴の尾のように綺麗な断面で途切れ、その先には農圃のみが広がる。
街道から所々、農道が分かれ、たわわに実る稲穂に埋もれて消えた。
宿舎への帰路を辿る小作人が西日に煌めく錦飾りに気づき、深く礼を取る。中には顔を隠す仕草をする娘もいたが、イシュクは特に気に掛けなかった。
見目麗しい小作人女房が貴族の手籠めにされるなぞ、珍しい話でもない。誰ぞの目につかぬようにとした仕草だろうが、余計に目立ってしまっている。だが、それを指摘してやるほどイシュクは酔狂ではなかった。
白光は色味を帯び、景色は蕩けたものへと変貌していく。
「毎度思うのだが、居住区までが遠すぎる」
イシュクの声が風に流され、ガヴリエルの耳に届く。ガヴリエルは声を張り上げて答えた。
「仕方がないだろう! 神都に住む貴族の食料を賄えば、このくらいの広さになるのだから!」
「俺はこの都を設計した偉人を恨む。第三まで設けられた環状城壁は、ああ、素晴らしいものさ。しかし、ここまで貴族と平民を分け隔てる必要もなかっただろに」
「何を言う! 神託を授かる聖塔に住まうのは我々だけではなく、陛下も居られるのだぞ!」
ガヴリエルはそう怒鳴った。イシュクの言葉は栄えある皇帝を軽視しているように聞こえて、彼は気分を害したのだ。
口にこそしないが、イシュクは皇帝を好んでいなかった。
カンガ帝国が現皇帝、アヌガル十二世。先帝である十一世を弑し、その玉座を強奪した男である。刃向うものには容赦なく、正妃であったプロォーツェラ王女をも手に掛け、亡骸を正門通りにうち捨てた。
民草は皇帝を渾名して怨帝と恐れ戦く。
在位僅か七年にして斯様な渾名を冠すれば、自ずから善人ではあるまいと、察しはついた。
察しはついているだろうに、ガブリエルは頑なに皇帝を崇拝する。その盲目さに隠された真実を知るイシュクは、ただ相槌を打つことしかしてやれない。
「そうだな。言い方が悪かった。だが、もう少し楽な手段が在ればいいと思わないか?」
「否! 貴兄は乗馬に慣れるべきだ!」
「これは手厳しいな」
イシュクは苦笑した。ガブリエルの騎馬は既に鼻面をイシュクの騎馬と並べんばかりに近づいている。ここで追い抜かれては念者の名折れ。イシュクは手綱さばきで馬脚を速めさせた。
また二頭の間に差が生じる。これを面白く思えぬガヴリエルは鋭い呼気を発し、馬の尻を鞭で叩いた。馬は目を剥いて、激しく体を動かした。
「落ち着け」と、渋面を浮かべて桃顔の少年は手綱を引き絞った。
「ガヴール。無理はするな。それはお前が慣れた馬ではないのだから、下手をすると振り落されるぞ」
そう忠告されて、ガヴリエルは悔しそうに眉間に皺を寄せた。それでも彼は大人しく従った。イシュクの知らぬ間に己の能力を過信しない客観性を養っていたようだ。
イシュクは目元を綻ばせた。馬を宥めすかせ終えてガヴリエルが近づいてくる。白雪の如き肌を上気させたまま、ガヴリエルは正面から見据えてくるイシュクに問うた。
「貴兄は何を笑っている?」
「気にするな。ただの思い出し笑いだ」
「思い出してまで笑われるようなへまをした記憶はない」
ぶすっとした口調でガヴリエルは呟く。彼の隣を並走するイシュクは思わず吹き出した。
「違う違う。先ほどお前は俺の言うことを聞いて、馬を宥めすかしただろう。これがもし出会った頃のお前だったなら、俺と張り合って馬をさらに怒らせていたことだろうと思ってな。ガヴール、お前の成長ぶりが微笑ましく思えたんだよ」
「当たり前だ。俺はもう七つの子供ではない」
そう強調しながら、ガブリエルは口元を緩ませた。
イシュクはガヴリエルが認め、師事する念者だ。敬愛する念者に褒められ、少年の胸は喜びで溢れていた。
落影が背伸びをする頃、漸く二頭は第二環状城壁の内側へと入った。城門沿いに屹立する兵詰所。その間近に在る厩に馬を預け、二人は闘技場を目指す。城門を潜ってすぐ宿場街が広がる。貴人向けの宿場街には客寄せの呼子はいない。だが閑静な印象を受けぬのは忙しく行き交う後援者や商人の姿が在るからだろう。彼らは西日に煌めく青玉の首飾りに目敏く気づき、自然な動きでガヴリエルに道の真ん中を譲る。
碁盤目状に交差する四辻の真ん中には必ず法の碑が聳える。始皇帝が定めた六十の法を刻んだ碑はけれども、最早、何処にも存在し得ない。何故ならば代を重ねる毎に、繁栄が増す毎に、法は整備され、細分化される。七人議会が新たな法を一つでも制定すれば、全ての四辻に置かれた法の碑は一月経たずして挿げ替えられるのだから。
神都の目鼻先ということもあって、第二環状城壁内の四辻に配置された碑は黒大理石で誂えられている。西日を受けて表面が黒々と光沢を放つ。先日たって新たに制定された法は決闘に関するものであった。
曰く、決闘を申し出たものが決闘を申し込まれたものを前にして逃亡したならば、その人は死なねばならない。
二男以降の貴族子弟が奉公先を出奔し、腕に覚えがあることをいいことに決闘を乱用した結果である。決闘は命と誇りを賭けた神聖なものだ。どちらか一方が死に、勝敗が着くまで続けられるものであった。しかし昨今は気に入った女の夫に面白半分で決闘を申し出る愚者が散見される。無論、命の奪い合いに発展しない。ただ相手を侮辱するためだけに決闘を申し込むのだ。性質の悪さが過ぎ、遂に七人議会が重い腰を上げたのだ。
「嘆かわしいな」
イシュクは独り言ちた。半歩後ろを歩むガヴリエルが聞き返す。独り言だと、イシュクは答えた。
宿場街も終わりに近づけば、石造りの円形競技場が人工林の合間から顔を覗かせる。闘技場はあの複合施設の一部であった。
間違えた。短編小説にしてしまった。
……おいおい内容は増えていきます。すみませんでした。