タンシアの獣(前)
血縁に憑いたわけではない。
血筋を妄信し、傲り高ぶる人間の言う通りに動いてやっていたのは、穏和だったからではなく面倒だったからにすぎない。
願いを断ったり、新しく守護する者を選定することによって引き起こされる煩わしさを考えれば、大人しくしていた方がましだと思ったのだ。
現状維持ぐらいなら、無為に過ごす日々も疎ましくならないと思っていた。
しかしそれすら面倒だと感じ出したら、後はもうどうでもよくなった。
我慢することを止めれば、長く守護していた国はあっけなく吹き飛んだ。
人が心安らかに暮らせるよう押さえ込んでいた自然が猛威を振るう。
辛うじて残ったのは、国境に沿った輪っかのような領土のみ。
それも隣接する国々が競うように併呑していった。
そこからは、荒ぶる気のままに大陸中をかけめぐった。
吹きすさぶ嵐の中に身を置いて、突風に巻き上げられてみる。
瀑布に飛び込み濁流の行き着くままに身を投じた時も心躍った。
自然のうねりの中で、暴れて過ごすのはただ楽しかった。
目の端で人の暮らしが崩壊していた。
赤児を見つけたのは偶然だ。
その泣き声を耳が拾った瞬間、この腕に囲っていた。乳飲み子の茫洋とした青い瞳が涙で潤んでいる。
乳を探しているのか額をこちらの胸にこすりつけてくる。
「タンシアッッ」
母親らしき女が叫ぶ。
この愛しい赤児の名前はタンシアというのか。
ああ、できればタンシアを我の手で取り上げ名付けたかったと、今でも強く思う。
強固な加護をつけて名付けたものを。
人の赤児は思いも寄らぬほど虚弱だった。タンシアの健康に一喜一憂する日々が続く。
まず確保したのが乳。
乳がいつも必要だった。一時期、考えるのはタンシアに与える乳のことばかりであった。悔しいことではあるが、それだけは自前で用意ができず人に頼るしか無かった。
あとは、全て私が世話をする。ひなが一日中、その成長を喜んだ。
抱き上げると声をあげ、もぞもぞと身体を動かしコテンと眠る。
くるりんと寝返るのが何故かいつも同じ方向なのが、おかしかった。
這いずり出したときもひたすら直進のみ。
尽くしても尽くしきれないほど、タンシアが愛おしかった。
乳飲み子であったタンシアに憑いたおかげで、半狂乱となった両親にその後数年に渡ってしつこく追いかけまわされることになる。
取り戻させることなど到底許すつもりはなかった。
しかしタンシアが長じたとき、彼等を選ぶかもしれないと不安ばかりが先に立つ。その可能性を考えるのも嫌だった。
力を使って、彼等を劣悪な砂漠の中心までおびき寄せた。本来なら人が行き着けない場所に水辺を作った。
完璧を期すために一族郎党を行きは酔い良いと誘い込んで、後は守護を外した。
砂の中に水が吸い込まれ、茂っていた緑は幻であったかのように立ち枯れた。
気が狂れて、こと切れたのをきっちりと確認してようやくタンシアが自分だけのものになったと安堵した。
悠久とも呼べる時を生きてきて、過ぎる時間の長さなど気にも留めることが無かった。
しかし、タンシアが体調を崩してつらいと泣き続けている時間がこたえる。あれは永久とも思える時間の進み具合だった。
あっという間に成長していく故に、人の命はとても儚い。タンシアを育てて、実感する毎日である。
すぐに熱を出しては長く寝込み、転んだだけで怪我をする。治癒を施す間もなく小さな傷から思いもかけないほどの血が流れて卒倒しそうになった。
だから、ありとあらゆる加護を集め施した。
東に霊験新たかな水があると聞けば浸かりに行き、一生抜け落ちないよう身体の芯まで浸透させた。水中に沈め息が続かなくなれば補給した。私の呼気をタンシアが貪ってくる。
何度も繰り返せば、タンシアの素潜り嫌いができあがる。特に足のつかないところを極端に嫌がった。
西に不老の果実が成ったと聞けば、全身から滴るほど味わいつくさせた。今もほんのりと身体から甘い香りがにじみ出る。また成った際には、連れていこう。
北と南の護玉鉱脈では、吟味を重ねて玉を選ぶ。作り上げた環玉でその肢体を思うがままに飾った。
混じり気が全く無い濃密な護玉は、体内に埋め込めるだけ埋め込んだ。軽減に努めたが、痛みが無くなることは無くいつも大層泣かれた。
護玉を受け入れさせる度にタンシアが泣きすさぶ。それすらも愛おしかった。
その叫びを封した唇と舌で味わい尽くし飲み干した。
痛いともがく指がこちらの肌を刺激する。押さえれば押さえるほど、痛みで跳ね上がろうとする体躯が密着してきた。
このまま溶け合ってしまいたいと抱き締め返す。私の命を分け与えてしまいたい。
護玉で延ばせる命数などたかだか数十年と知れている。
純度の高いもので、50年弱が精一杯。ほどんどの護玉は10年20年程度の延命にしかならない。
たかが10年のことで汲々とするとは。