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私と消失

ただ一つの解

作者: 杞憂

 この世界にもしもまだ希望があるとするなら、それはきっと恐ろしく真っ赤に染まり上がっているのだろう。だって、私の目の前にあるヒトだったものは、こんなにも美しい深紅の花を咲かせているのだから。


 都心の一角にそびえ立つ高層マンション、およそ一般的なサラリーマンの収入では食費が全て家賃に吹っ飛ぶであろう高級住宅に、私の先生はかれこれ六年は住み続けている。私には、どうせ一人暮らしなのに家に無駄とも言える大金をつぎ込むことは、なんだか馬鹿らしく思えてしまう。三十路にも満たない若い私にとって住居とは、起きて食って寝る、ただそれだけ出来れば十分なものなのだ。


「何故そんな浪費をなさるのですか?」

 あるとき、ふと私はそんなことを尋ねた。

「使わないと減らんからだよ。君も作家として大成すればいずれ分かるさ」

 自慢の社長椅子に腰かけ、コーヒーを優雅に嗜んでいる姿で言われると、なるほど確かに貫禄が出ていた。

 先生は有名な推理小説家として、文壇に名を馳せている。世に出す作品は次々に実写化され、名声が名声を呼び、今ではその名を知らぬのはまだ言葉を解せない子供だけだろうとまで謳われている。端的に言うと、超がつくほどの売れっ子作家というわけだ。

 かくいう私はというと、そんな先生に憧れ、無理を言って先生のお手伝いをさせてもらっている、いわゆる見習い的な立場にいる。

 いつかは自分も先生に胸を張れるような作家になるという夢だけを追って生きていた。

 そう、あの時までは。


「正しいか間違っているかは関係なしに作家は自らの哲学を作品へと投ずる。これは場合によっては作品そのものの雰囲気を損なったり、誤った解釈を読者に与えてしまう、分かるね?」

「はい、大体は予想がつきます」

「では、わたしの作品からはどのような解釈が可能だね?」

 先生の突然の問いに、私は困惑してしまう。先生の作品はほぼミステリーで固められていて、哲学的なことは書かれていなかったような気がするのだ。

 私が悩みに悩んでいると、先生はひげをいじりながら答えを出した。

「死、だよ」

 そう言って先生は椅子から立ち上がり、全面がガラス窓となっている部屋の端に移動した。

 夕陽に染め上げられた街を一望できる最高の場所だ。

「少し、わたし自身の話をしようか」

「……はい」

 そこには、今まで私が見たことのない先生がいた。


「わたしには兄が一人いてね、病弱な奴だった。いつも咳ばっかりしていて、あぁ病気は何だったかな、もう忘れてしまったか。とにかく、兄がいたんだよ」

「わたしと兄は何だかんだで仲がいい兄弟でね、兄の調子が良いときには、よく二人で遊びにいったものだ。兄は律儀な奴だったから、わたしと遊ぶ約束はきちんと守ってくれて、わたしはそんな兄を尊敬していた」

「あれは冬頃だったか、兄の病気がひどくなって、とうとう寝たきりの状態になった。もちろんわたしは付きっ切りで看病したよ。だが、無意味だった。兄は本当に苦しそうだった。わたしには、何もできなかったんだ」

「兄は、わたしに殺してくれ、と言った。楽にしてくれ、と……。わたしは、わたしには、できなかった……。やがて、兄は息を引き取った。何でだろうなぁ、今でも分からないんだ。兄は、死の直前に一瞬だけ、笑ったんだ」

「死は恐ろしいものだ。生きているもの誰もがそう思っているはずだ。わたしもそうだった。なのに、なんで兄は笑ったのか……。それがわたしの求めるべき真理となった、というわけだ」

 先生はそこでいったん話を終えた。


「先生は、死の真理を求め続けているのですか?」

「そうだ。多くの研究をした。役に立ちそうな文献は片っ端から頭に詰め込んだ。この創作活動もその過程で得た副産物のようなものだ。だが、自ら死を綴ることは真理に最も近いことにも思うのだ」

 先生のそれは、もはや狂気と表現するほうが正しいのだろう。

 お兄さんを失ったことのショックを、新しい目的を作ることで弱めようとした、はずだったのだ。

 しかしそれはいつの間にか捻じ曲がり、死という概念に取りつかれてしまった。

 先生は既に亡者だったのだ。お兄さんが死んでしまったその時から。

「今日は兄の命日なんだよ。わたしはこれまで、仮説を論じて来たに過ぎん。全てを手に入れ、君という鑑賞者もそろった今こそ、わたしは実践できるのだ。真理に、たどり着けるのだ」

 嫌な予感がしていた。虫の知らせ、とでも言おうか。

 私は喉が異常に渇く気がした。先生が次の言葉を発するときが、最期に思えてならなかった。

「涼みに、屋上へ行こうか」


 高速エレベーターは、私の不安を無視するかのようにあっという間に私たちを屋上へ運んでしまった。

 空は沈みかけた夕陽で紅く染まっていた。

 こんなときでなかったら、しばらく見とれていたかもしれない。

 先生はいつの間にか転落防止のためのフェンスの向こう側に立っていた。足を踏み外したら落下してしまう状況に、私は思わず身震いしてしまう。

「現世には満足した。十分すぎるほどわたしは生きた。そろそろ潮時だ。旅立ちの時は来た」

「先生、早まらないでください……。わたし、先生にまだ何も教わっていません……。わたし……」

 段々と視界が歪んでくる。意地でも止めなきゃと思うのに、なぜか体が動かない。

 止めてはいけない。……そんな気がした。

「わたしが今この屋上から飛び降りれば、死の真理、真実を知ることができる。天国に昇るか、地獄に落ちるか、はたまた何もないのか。今まで悩みぬいた難問に、いよいよただ一つの解を当てはめることができるのだ。こんなに嬉しいことはない」

「先生……」

 こちらを振り向いた顔は、笑っていた。自ら死に飛び込もうとする先生は、最後の最期で笑っていた。

 先生にとって死は、希望だから。

「一つだけ、頼みがある。聞いてくれるか」

「……はい、先生」

「願わくば、こんな滑稽な終わり方をする男の話を、後世に伝えてほしい。そのためにも、お前は生きろ。生きて、生きて、生き抜け。わたしのような間抜けは、一人で十分だ」

 それだけを言って、先生は行った。私は思わずフェンスにつかまりビルの下を見る。

 ……そこには真っ赤な花が咲き乱れていた。人が点のように霞んで見える距離で、なぜかその深紅の花だけが眼に焼きついていた。




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