ホワイトホース
ホワイトホース
僕は布団にくるまって、そっと後ろから抱きしめていました。抱きしめられている君の目には、きっと映画がうつっていたのだと思います。僕も同じ映画を、その君の頭越しに眺めながら、そっと後ろから抱きしめていました。
グラスの中のウィスキーは、ちっとも減りません。
映画は、とても素敵な時間を描いていました。ここは、僕の部屋なのに、まるで映画が主人公で、こちらが脇役のような、そんな錯覚におちいる程でした。しかし、ありがたいことに、後ろから女を抱きしめる男の役を頂戴した僕と、不幸にも、後ろから男に抱きしめられる女の役を渡された君は、そんな役柄でも、二人で力を合わせて演じていたのだと思います。演じていたと言っても、特に大きな演技は求められていなかったように記憶していますが、君は時々「クスクス」と笑う、台詞とも言えないような台詞を少しだけ任されていて、そこも上手にこなしていました。でも、概ね、僕らに動きがなかったのは事実です。ただただ、脇役は、任されたものを目立たぬように、やっていればよかったのでしょう。
一方で、やはり、主人公の映画の立ち回りは大変面白いもので、どんなわずかなカットでも、どんな些細な台詞でも、この部屋を自らのカラーに染めてしまうのでした。僕らが演技を忘れて、ただただ、彼を見つめていたことも頷けます。もちろん、グラスの中のウィスキーは、ちっとも減りません。僕には、ウィスキーを飲む演技などは与えられていなかったのですから。君も、彼の演技を見ているうちに、だんだんと「クスクス」の台詞にも力がこもってしまうようでしたが、やはり、僕らにはそれ以上のことは求められていなかったのです。脇役は、ずっと同じことを、指示があるまで静かにやっていればよいのです。
しかし、それなのに、僕は不安を感じてしまいました。動きのないこの時間と、ぼやけたこの役回りに、恥ずかしながら、脇役には不必要な「感情」という火薬を持ち込み、あろうことか、それを爆発させようとしていたのです。今となっては、蚊の鳴くような声でしか申し上げられませんが、僕は、一瞬の主人公を夢見たのです。君はどうだったのか知りませんが、だって、ここは僕の部屋なのですから。
たしか、そんな時でした。グラスの中の氷が溶けたのは。氷は、カタッという小さな音を立て(その音は例えるなら、ドアをゆっくりと、そうっと開けるような音だったと思います)、そして初めて、ウィスキーを揺らしました。少し大げさだとは思いますが、その台本にない音と映像は、この部屋の空気、いや、この舞台の空気を変えたのです。
主人公の彼は、そんなことには動じません。彼は、彼の魅力ある演技を続けています。君も、それに対して、「クスクス」とあの台詞をはさみます。もう、君の笑い方と言ったら、それはそれは上手で、演技なのかどうかを疑うほど(今思えば演技なんかじゃなかったのかもしれません)でした。でも、たしかに、空気は変わったのです。シーンが変わったのです。次のシーンでは、ついに脇役だった僕が、あの、後ろから女を抱きしめるだけだった男が、声を出して君を笑わせる場面なのです。
かくして、名脇役は、心の中でそっと覚悟を決めました。自ずと、女を抱く腕に力が入ったのも、この頃からです。(僕にとっては都合のいいことに、君はまだ気づいていなかったようですが。)
僕は、ウィスキーを、ぐっと飲み干すことを決めました。「ホワイトホース」、つまり、白馬という名のウィスキーを飲み干すことにしたのです。もちろん、当初の台本には、そんな場面はありませんでしたが、それを合図に、次のシーンへと切り替わる手はずになっていました。
名脇役(後の主人公)は、静かに、女を抱いていた腕をほどき、グラスに手を伸ばします。この時、君は、「そんなの聞いてないよ」とでも言うような、可愛らしい、驚いた顔をしたようでしたが、少し喜んでくれていたようにも思えます。それが、世紀の勘違いとも言うべき引き金となり、ぐっとホワイトホースが僕の中に滑り込んできました。
白馬は物凄い勢いで僕の喉を駆け降ります。この瞬間、僕は少し、いや、たっぷりとした優越感に浸りました。その優越の湖を泳ぎ切った時に、白馬にまたがる者は、あの脇役であった僕であって、主人公だった彼ではないのですから。僕は、さっそうと白馬を乗りこなし、勝者の歌を高らかに歌い上げながら、この広い、広い世界を駆け巡るのです。「そうだ、忘れてはいないよ、しっかりと君を乗せてあげるから。ちゃんと掴まっているんだよ。僕が主人公になったからには、君はヒロインになるのだから。恐がったりなんかしちゃ、いけないよ。」
今度は、僕が、後ろから抱きしめられる形になりますが、二人は白馬と共に、この狭い部屋からなる、広い世界を駆け巡ります。「ほら、床に散らばる本は、魔法の書に変わり、さっきまで包まっていた布団は、空飛ぶ絨毯だ。蛇口かと思いきや、鮮やかに噴水が飛び踊り、ねぇ、空を見てごらん。洗濯物なんかじゃない、オーロラが空一面に広がっているんだ! 埃を被っていた、小さな鏡をよく見てよ。僕らを映す、大きな、とても大きなカメラだよ。そうそう、僕たちは映画撮影中の大スターなのだから、二人だけでこっそり愛し合うのは、もうちょっと後にしておきましょう。」 こんな長い台詞、僕なんかに覚えられるでしょうか。少し不安です。でも、大丈夫。ほら、白馬が、身体中を駆け抜けています。ホワイトホースは、僕の身体中を駆け抜けていきます。
……ごめんなさい、少し酔ってきたようです。僕は、映画にいちいち一言を付けては、君を笑わせたくてウズウズしています。それなのに君は、まだ「クスクス」とやっているではありませんか。もっと大きな声で笑っていいのに、僕の目を見て、大声で笑って欲しいのに。君は、まだ脇役のまま、昔の主人公を支えているのでしょうか。それとも、白馬に跨った新しき主人公では、荷が重いとでも言うのでしょうか。
僕は、優越の湖が瞬く間に乾いていることに慌て、再びグラスに手を伸ばしたのです。
そこで、気が付きました。さっき、ほとんど飲み干したつもりのウィスキーが、まだ半分以上も残っていることに、気づいてしまったのです。都合の悪いことに、今度は君もすぐに気づいたのでしょう。残念と、憐れみと、優しさが、絶妙にからまりあった表情で、僕の目を見ています。「白馬なんて全部嘘だったのね。」 ―――全てを見透かされた僕は、もう一度ウィスキーをひと思いにやってやろうかとも考えましたが、どうしてもそれが、出来ませんでした。
最初から、白馬になんて乗れなかったのです。脇役は脇役として、出しゃばらなければよかったのです。それなのに、遠い小さいプライドにすがったせいで、結果、こんな惨めな役を当てられてしまいました。君を白馬で迎えに行って、後ろに乗せてやるなんて大見得はどこへやら、泥沼に足を取られ、純白のペンキは見る見るうちにはがれ落ち、今や駄馬が哀れな顔をして、もがいているだけです。空にも救いを求めてみましたが、洗濯物はなんど見ても、ただの洗濯物でした。
大変長くなってしまいましたが、夢をあきらめた者は、せめて昔に戻りたいという、小さな夢を抱きなおすのかもしれません。僕もその例にもれず、もう一度君を抱きしめたいと願い、水を一杯飲み干してから、君の後ろに、ちょこんと座ってみました。そして、自意識で凝り固まった勇気を振り絞り、そっと後ろから抱きしめました。君はとても優しいから、何も言わずに、かつての脇役を受け入れてくれたようでした。君の髪の香りに、大きく抱かれた形の僕は、やっと、あの映画で「クスクス」と笑うことができました。ささやかながら、僕にも台詞ができたようです。僕には、これくらいが一番です。みっともない話ですが、これくらいの台詞で嬉しくなりました。君と同じ布団の中で、君と同じ映画を見ながら、君と同じ台詞を囁ければ、それだけで十分すぎるのです。(今になって思い返してみれば、君がこっそりと分けてくれた台詞だったのかもしれません。君は本当に優しいですから。)
グラスの中のウィスキーは、ちっとも減りません。氷は、何度か、カタッという小さい音を立てて、ウィスキーを揺らしていましたが、その音は例えるなら、ドアをゆっくりと、そうっと閉めるような音だったと思います。