社会が歓迎する欲望。
行列に並ぶのが嫌いだ。何かを求めて群がっている人間の姿を下品だと感じるから、そこに自分が加わることを許容できない。目当ての店まで足を運んでも行列を見るとすぐに引き返す。しばらくはそこに寄り付く気持ちが起きず、結局その後一度も訪れないということはザラである。
しかし、行列を歓迎する人間がいることも理解している。何なら、行列だからとりあえず並ぶという奇特な御仁もいるらしい。これは、元々は興味がなかった映画なのに、大ヒットしているという宣伝を目にしてから映画館に駆けつける心理と同じように思える。
多くの人間が欲しがるものを自分も欲しがるという精神、行動は社会が肯定する欲望のあり方である。現代社会は欲望を肯定する社会だが、その欲望の中身は極めてマスなものである。
マスコミ嫌いの声が大きい現代社会だが、そんなことを言う人間に限ってマスな行動を取りがちである。
マスコミを嫌うという言動が実はマスなものであり、ちょっと滑稽である。家にテレビがない、新聞は読んでいないということを、別に聞いてもいないのにどこか自慢げに話す人間のなんと多いことか。
なぜ社会が肯定する欲望がマスな内容かというと、その方が金になるからである。反対に、個性的で、金に結びつかないような欲望に対して社会は割と冷淡である。マニアックな欲望を持っている側は別に多数派になりたいわけではないだろうから、そのままで不都合はないが、そのマニアックな欲望が何かのきっかけで金になると知れ渡ると、一転、社会に肯定され、多くの人間が群がることになる。こうなってしまうと、元からの愛好家にとっては迷惑千万である。
お金持ちになりたい、注目を集める人間になりたい、他人から褒められたいといったような欲望に対して、社会は極めて寛容であり、多くの企業や団体はそのためのインフラ整備、チャンスの提供に余念がない。日々新しいツールが開発され、様々なネットワークを通じてばら撒かれている。
そのような欲望を叶えることが社会、企業や団体にとっての利益になるからであり、その方向に進むように人間を誘導しているという見方もできる。
欲望とは本来、極めて個性的なものであり、人生において何を求めるかということは、その人間の世界観そのものであると言っても過言ではない。
社会に歓迎される種類の欲望に熱中することは、自分自身の個性を画一的なものに作り替えることにもなりかねない。自分の欲望、何かを好きだという気持ちがどこに由来するものなのか、時には立ち止まって考えてみることも大切だと思う。終わり




