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床に投げられた人形は何も語らない

作者: 茶ヤマ
掲載日:2026/03/01

キャストドールを可愛がることは、当時の私の趣味だった。

流行でも反抗でもなく、ただ静かに好きなものだった。


服を替え、髪を整え、関節の角度を少しずつ直す。

時間をかけて触れていると、呼吸が整っていく。

誰にも説明しなくていい、自分の輪郭を確かめるような時間だった。


だからあの日も、特別なつもりはなかった。

「こういうのが趣味でね」

それくらいの軽さで、母に実物を見せただけだった。

理解してほしいとも、褒めてほしいとも思っていなかった。

せめて、否定されないで通り過ぎてくれれば、それでよかった。



冬の終わりの実家は、相変わらず広くて、少しだけ薄暗かった。

ストーブの前に座る母に、私はキャストドールを抱えて近づいた。

腕の中の重さは、いつもより確かで、少し緊張していたのを覚えている。


母は、ちらりと視線を向けただけだった。


「こちきたもの大事にして!」


声は低く、荒れていた。

続く言葉は方言で、さらに角が立った。


「人形だば、人形だべ。

いい年して、まだそだだもん宝物みでにして。

何考えでら!」


毒を孕んだ鋭い声が、静かな部屋に突き刺さった。

母が私の手からひったくったのは、数ヶ月分の給料を削り、慈しむようにして迎え入れたキャストドールであった。


「こちきたもの!」


吐き捨てられた言葉は、より一層剥き出しの敵意を帯びていた。

意味より先に、感情が叩きつけられた。


母は立ち上がり、私の手元にあったドールを乱暴に掴んだ。

そして、躊躇もなく、足元に投げ捨てた。


乾いた音を立てて、ドールは畳の上に投げ捨てられた。

精巧に作られた球体関節が、無残な角度で歪んで見えた。

絹のような光沢を放っていたドレスの裾が、埃にまみれて床に広がった。


母の足元で、無機質な硝子玉の瞳が、ただ虚空を見つめている。


頭の中が真っ白になった私は声も出せなかった。

体も動かなかった。

怒りよりも先に、「ああ、そうか」という諦めが来た。


蹂躙されたのは、投げ捨てられたのは、私そのものだ。

そう、静かに理解した。


母は、もうこちらを見ていなかった。

まるで、初めからそこに人形など存在しなかったかのように、台所へ戻り、やかんを火にかけた。

湯が沸くまでの、日常の音だけが部屋に戻ってきた。


私は、床に横たわるドールを見下ろしていた。

壊れているかどうかを確認する前に、胸の奥がひどく冷えていくのが分かった。


これは趣味を否定されたのではない。

「私が大切にしているものは、ここでは価値を持たない」

ただ、その事実を、音と動作で突きつけられただけだった。


拾い上げると、ドールは少し冷たくなっていた。

幸い、壊れてはいなかった。

けれど、あの音は、今でも耳の奥に残っている。


壊れたのはドールではなかった…。

元々、薄氷を履むような危うさで保たれていた母との距離は、あの日、投げ捨てられた振動とともに決定的に崩れ去った。


私は静かに、もう二度と、この人に心の鍵を預けることはないと決めた。

湯気の向こうで鼻歌を歌う母の背中は、もう、どこの誰とも知れぬほど遠くに感じられた。






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