床に投げられた人形は何も語らない
キャストドールを可愛がることは、当時の私の趣味だった。
流行でも反抗でもなく、ただ静かに好きなものだった。
服を替え、髪を整え、関節の角度を少しずつ直す。
時間をかけて触れていると、呼吸が整っていく。
誰にも説明しなくていい、自分の輪郭を確かめるような時間だった。
だからあの日も、特別なつもりはなかった。
「こういうのが趣味でね」
それくらいの軽さで、母に実物を見せただけだった。
理解してほしいとも、褒めてほしいとも思っていなかった。
せめて、否定されないで通り過ぎてくれれば、それでよかった。
冬の終わりの実家は、相変わらず広くて、少しだけ薄暗かった。
ストーブの前に座る母に、私はキャストドールを抱えて近づいた。
腕の中の重さは、いつもより確かで、少し緊張していたのを覚えている。
母は、ちらりと視線を向けただけだった。
「こちきたもの大事にして!」
声は低く、荒れていた。
続く言葉は方言で、さらに角が立った。
「人形だば、人形だべ。
いい年して、まだそだだもん宝物みでにして。
何考えでら!」
毒を孕んだ鋭い声が、静かな部屋に突き刺さった。
母が私の手からひったくったのは、数ヶ月分の給料を削り、慈しむようにして迎え入れたキャストドールであった。
「こちきたもの!」
吐き捨てられた言葉は、より一層剥き出しの敵意を帯びていた。
意味より先に、感情が叩きつけられた。
母は立ち上がり、私の手元にあったドールを乱暴に掴んだ。
そして、躊躇もなく、足元に投げ捨てた。
乾いた音を立てて、ドールは畳の上に投げ捨てられた。
精巧に作られた球体関節が、無残な角度で歪んで見えた。
絹のような光沢を放っていたドレスの裾が、埃にまみれて床に広がった。
母の足元で、無機質な硝子玉の瞳が、ただ虚空を見つめている。
頭の中が真っ白になった私は声も出せなかった。
体も動かなかった。
怒りよりも先に、「ああ、そうか」という諦めが来た。
蹂躙されたのは、投げ捨てられたのは、私そのものだ。
そう、静かに理解した。
母は、もうこちらを見ていなかった。
まるで、初めからそこに人形など存在しなかったかのように、台所へ戻り、やかんを火にかけた。
湯が沸くまでの、日常の音だけが部屋に戻ってきた。
私は、床に横たわるドールを見下ろしていた。
壊れているかどうかを確認する前に、胸の奥がひどく冷えていくのが分かった。
これは趣味を否定されたのではない。
「私が大切にしているものは、ここでは価値を持たない」
ただ、その事実を、音と動作で突きつけられただけだった。
拾い上げると、ドールは少し冷たくなっていた。
幸い、壊れてはいなかった。
けれど、あの音は、今でも耳の奥に残っている。
壊れたのはドールではなかった…。
元々、薄氷を履むような危うさで保たれていた母との距離は、あの日、投げ捨てられた振動とともに決定的に崩れ去った。
私は静かに、もう二度と、この人に心の鍵を預けることはないと決めた。
湯気の向こうで鼻歌を歌う母の背中は、もう、どこの誰とも知れぬほど遠くに感じられた。
了




