5話
沈黙は続いていた。
めくれた原稿の紙片が、蛍光灯の光を受けて微かに揺れていた。
インクは涙の跡のように滲み、曲がった線が名前の断片を歪ませていた。
頭文字の「N」だけが浮かび上がり、苗字の断片のように見えた。
それは誰かの叫びを封じ込めた痕跡のようで、見る者の心を締め付けた。
全員が自分の名前ではないかと恐れ、沈黙の中で互いの視線を避けた。
黒い波のような文字列が視界を覆い、読者を挑発するかのように揺れていた。
紙片は秘密を暴く予兆のように震え、未来を告げる影のように存在感を増していた。
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美咲が息を呑み、指先を震わせながら紙を押さえた。
「……これ、読んでもいい?」
声は誠実さを帯びていたが、奥底には恐れが潜んでいた。
唇を噛み、視線を落とす仕草がその揺れを隠しきれなかった。
心の中では「読んではいけない」と罪悪感が囁いたが、好奇心が手を止めさせなかった。
拓真の手が鋭く遮った。
「駄目だ。」
声は低く、しかし震えていた。
額に汗が滲み、呼吸は浅く、赤ペンの先が机を突いて残響を響かせた。
その音は沈黙の中で擦れる呼吸と重なり、緊張をさらに濃くした。
心の奥では「読まれたらすべてが崩れる」と防衛の声が叫んでいた。
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結衣が髪を払う仕草で不安を隠しながら、冷ややかに言った。
「隠したって無駄よ。もう見えてる。名前が。」
その笑みの裏には、わずかな不安が揺れていた。
指先はわずかに震え、彼女自身も自分の言葉が裏返されることを恐れていた。
心の奥では「挑発しなければ自分が暴かれる」と恐れが膨らんでいた。
陽介の視線が泳ぎ、声が途切れ途切れに漏れた。
「……誰の名前なんだ?」
缶コーヒーを握る手は汗で滑り、潰れそうに歪んでいた。
彼は机から窓へと視線を泳がせ、誰とも目を合わせようとしなかった。
心の中では「俺の名前じゃないだろうな」と自己防衛の声が響き続けていた。
直哉の唇が震え、短く言葉を吐いた。
「……俺じゃないよな。」
その一言は重く響き、沈黙をさらに深めた。
彼もまた視線を逸らし、机の木目を追う仕草で恐れを隠しきれなかった。
心の中では「もし俺だったら、すべてが終わる」と諦念が心を覆っていた。
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美咲は再び紙片をめくった。
そこには、確かに名前が記されていた。
しかし文字は滲み、誰のものか判然としなかった。
頭文字だけが浮かび上がり、全員が自分の名前ではないかと恐れた。
「……これ、誰の名前?」
美咲の声は震え、部室の空気を裂いた。
拓真は目を閉じ、低く呟いた。
「それは……俺が書いた。けれど、真実じゃない。」
心の奥では「嘘だと認めるしかない」と自分に言い聞かせていた。
結衣が鋭く言い放つ。
「嘘だって言うなら、なぜ名前を書くの?」
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沈黙が破られそうで破られない瞬間が続いた。
誰もが原稿に触れたい衝動を抱えながら、恐れに縛られて動けなかった。
誰かの喉が鳴り、呼吸が擦れる音が沈黙に混じった。
窓の外で風が鳴り、椅子が再び軋む音が沈黙を裂いた。
時計の秒針が一瞬だけ響き、外の車のクラクションが遠くで鳴った。
誰かが声を出しかけて止まり、沈黙はさらに重くなった。
時間が引き延ばされたように感じられ、緊張はさらに濃くなった。
観覧車の灯りが窓に揺れ、外の世界は遠ざかるように見えた。
めくれた断片の文字は、秘密を暴く予兆のように揺れ、まるで未来を告げる影のようだった。
沈黙は未来を閉ざす扉のように感じられ、誰もがその前で立ち尽くしていた。
しかし誰の名前か分からないまま、沈黙だけが深く積もっていった。
呼吸は荒く、心臓の鼓動が重く響いた。
誰もが自分の嘘を思い返し、その暴かれる瞬間を恐れていた。
沈黙は重く、誰もが次の言葉を恐れていた。
観覧車の灯りは遠ざかり、外の世界も沈黙に呑まれていった。
次に暴かれるのは――その名前の真実か、それとも別の嘘か。




