1話
月曜の夕暮れ。横浜文化大学の古びた木造校舎の廊下から、吹奏楽部の練習音が遠ざかっていく。
誰かが椅子を引く音が、その余韻を断ち切った。
観覧車の灯りは夢の残像のように窓に映り、部室は蛍光灯の唸りだけに支配されていた。
「……始めようか。」
拓真がノートPCを開いたまま、赤ペンで他人の原稿に書き込みをしている。
自分のファイルは空白のまま。冷静な分析屋は、進行役を当然のように買って出た。
「俺、一次通ったんだよ。某新人賞の。」
陽介が缶コーヒーを握りしめ、汗を拭いながら笑う。
その声は明るいが、どこか震えていた。
「まあ、俺が受賞したらみんなで打ち上げだな!」
誰も反応せず、笑いは空振りに終わった。
「へえ、すごいじゃん。」
結衣がスマホを机に置き、拍手をする。
画面には通知が点滅している。彼女はSNSで短編を発表し、フォロワー数は学内随一。
だが、匿名の批判が届いていることを、誰もが薄々感じていた。
「実はさ、俺……書籍化の話が来てるんだ。」
直哉が慎重な口調で切り出す。
椅子の背に掛けられた就活用のスーツが、場の空気をさらに重くする。
机の下では履歴書の封筒を靴で踏みつけていた。
「契約まで進んでるの?」結衣が問い返す。
「いや……編集者が飲み会で、『面白いから本にできるかも』って。」
直哉の声は小さくなり、スーツの袖を握りしめた。
沈黙が落ちる。蛍光灯の唸りだけが響く。
美咲がバイト帰りの制服姿で鞄を机に置き、ぽつりと呟いた。
制服の袖には油の匂いが染みついていた。
「……私、今週は何も書けなかった。ごめん。」
その言葉に、空気が揺らぐ。
誇張された成果と、正直な停滞。
嫉妬と虚栄心が交錯する報告会が、また始まった。
「一次通過って、どの賞?」拓真が問いかける。
「えっと……地方の新人賞で……」陽介は視線を泳がせる。
「二次は?」
「……まだ、結果待ち。」
結衣の眉がわずかに動いた。
「結果待ちって言うけど、本当は落ちてるんじゃない?」
陽介は言葉を詰まらせ、缶コーヒーを強く握りしめた。
「SNSで拡散されたって言っても、文学性は別だよね。」拓真が冷静に言う。
結衣は唇を噛み、スマホを握りしめる。
「いいね数しか誇れないって言うけど……あなたたちの原稿、誰が読んでるの?」
拓真の赤ペンが一瞬止まり、インクが滲んだ。
冷静さを装った彼の手が、わずかに震えていた。
「いや、それ俺の一次通過より曖昧じゃん。」陽介が直哉に皮肉を返す。
直哉は顔をしかめ、スーツの袖をさらに握り込んだ。
小さな衝突が、沈黙の中で火花を散らす。
「私、正直に言うね。」美咲が再び口を開いた。
「小説家になりたいけど、現実に負けてる。」
その言葉が、他の四人の胸を突いた。
虚栄を飾る報告よりも、停滞を認める誠実さが、場の空気を変えていく。
その瞬間、陽介のスマホが震えた。
画面には「二次落選」の通知。
結衣のスマホには「炎上コメント」が重なり、直哉はスーツの袖を握りしめたまま動けない。
拓真は赤ペンを落とし、インクの染みが机に広がった。
誰も口を開かず、蛍光灯の唸りだけが響いていた。
次に沈黙を破るのは、誰の嘘だろう。




