運ばない風
ポツリポツリ──と。
身体を軽く打ちつける冷たさによって、じわじわと意識が戻ってくるのを感じる。
にわか雨だろうか。冷たいとは言っても、水分に触れたときの条件反射のようなもので、水温としては生あたたかい。
手の平に落ちてきたそれを掴んでみようと力を入れてみるが、身体はうまく言うことを聞いてくれない。指先すら動かすことのできないこの感覚は、どこか金縛りにも近いものがある。脳はある程度、目を覚ましているというのに、肝心の身体の方はまだゆっくりと休暇を取っているようだ。
首元をくすぐる柔らかい感触。察するに、私は草の上にでも転がっているのではないだろうか。
横でさらさらと鳴るこの音は河のせせらぎか?瞼を開こうにも、休日を満喫している身体は聞く耳すら持ってはくれない。
それならいっそ、脳ももうひと眠り。休ませてみるか──と。消えそうな意識からさらに力を抜いたとき、せせらぎの隙間から感じたのは"旋律"だった。
旋律とは、聴覚に影響を与える音が高さや長さを伴い、それに律動を含めながら快感を与える楽音のことを指す。その音の根源が楽器であるならば、感じているものは"演奏"になるだろう。
だが、この美しくも儚いそれは声であるからして、これは"歌"だ。
思い出のアルバムを捲るようなあたたかいそれは、雲の隙間から静かに現れる春の陽のように心地が良い。
しかし、それを奏でる声はどこか愁いを帯び、重苦しい感情がむき出しになっている──雨のせいか、私にはそう感じられた。
木漏れ日のようなメロディと、降っては消える春の雪のような声。それは相反するはずなのに、足りない部分を互いに補い、一つの作品となって私にはこう届いた。
懐かしくも、悲しい旋律──。
こんな静かな河岸で。
誰が、何のために。
そう考えたところで、今の私に分かるはずもない。指先ひとつ、動かすことができないのだから。
私はその旋律の暖かさにゆっくりと身体を預けた。どこか懐かしさを感じるそれに包まれ、もう落ちているはずの瞼がさらに重くなっていくのは不思議だ。
──****。
ふたたび、意識がどこかに攫われそうになったとき。感じたその声は夢のものか現実のものか。
それは次に目を覚ましたときにでも考えよう。
どうか、やさしいその言葉を覚えていますように。
私は自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと意識を手放した──。
*********
「おはようございます」
窓の外でさえずる小鳥の鳴き声を聞きながら迎えた朝は、普段とそうかけ離れてはいないものの、口にしてみた挨拶の返事が私の耳に届くことはない。
あの河岸で意識を失ってから数日、私は今、目の前にいる白衣姿の女性と朝食を共にしている。
どこかのビンテージショップで高く値がつきそうな栗皮色の丸いテーブル。黄色のランションマットによく合っているそれは、良い歳の取り方をしていてどこか羨ましい。
メインディッシュと副菜。なんてものはこの部屋には存在していないが、数日経てばもうそれにも慣れてしまった。人間の順応力の高さには感心したものだ。
目の前に出されているのは、おそらく卵料理かなにかだろう。もちろん、今まで目にしたことはないが。
脇に添えられたフォークで正体を暴こうとつついてみるが、そう簡単にはいかない。一体これには、どうやって手をつけるのが正解なのか。
スクランブルエッグとオムレツの中間のような料理に戸惑っていると、目の前でそれをパン──小麦のようなものでできた柔らかい炭水化物──の端で器用に掬い上げ、彼女がぱくりと食べ始めた。
すっかり肩下まで伸び、食事を邪魔する髪の毛を耳にのけると、彼女の真似をして口の中へと放り込んでみる。塩味のなかに、ほのかだが甘さも感じるその味は申し分ない。薄味でもパンによく合い、単体で食べるにもなんら問題はなさそうだ。
私のたどたどしい様子を見て、向かいでうすら笑いを浮かべながらパンを頬張っている彼女こそ、博士である。
もっとも、見た目から勝手にそう呼んでいるだけで、本当の名は知らない。白衣を着て、胡散臭い眼鏡をかけているものだから、博士以外のあだ名の候補はないに等しかった。いま思えば先生という手もあったが、この様子では相当しないだろう。主菜か副菜かもわからない料理に、適当に添えられた主食。あちらこちらに転がる本の山と、菓子の袋のようなもの。散らかりきったその部屋は、きっと彼女の性格を表しているのだろう。
気温から考えると、季節は夏と秋の中間。あたたかい中にも涼しい風が吹き、汗をかくことなく比較的過ごしやすい朝だ。
淡々と皿から姿を消していくその料理。部屋に響くのはカトラリーがそれとぶつかる音だけだ。
食事中、博士との会話はない。
彼女との仲が険悪というわけでなく、食事中のルール──なんてものでもない。四六時中、博士との時間はこうなのだ。
いいや。博士との、でもない。
この世界の、誰とでも──だ。
河岸で目を覚ましたとき。二度目のそれは、身体もさすがに連休を明けたようだった。
言うことを聞くようになった足で立ち上がり、私はそこら中を歩き回った。見知らぬ風景に、感じたことのない風の匂い。しばらく歩いたところで、ここがどこなのかはわかりそうもなかったが、それでも歩くしか手はなかったのだ。手元には、財布もスマホも、何もなかったのだから。
身ひとつでなぜあんな森の奥に倒れていたのかは分からない。それ以前の最後の記憶と言えば、部屋で文愛を──。
私はひたすらに歩いた。家々の影がぼんやり見える、風の吹くその方向へ。
数時間経つとようやっと草原を抜け、道らしい道へと少しずつ入っていった。その影もずいぶんと近くなり、小さく見えていたそれはだんだんと大きく、明確に姿を現した。
規模からするとあれは町と呼べるだろう──とはいえ、都会と呼べるようなものでもないが、これでやっと休める。そう思いながらあとひと踏ん張りと、かかとで乾いた土を蹴り続けた。
近づくたびに感じる違和感を、その土の音でごまかして──。
ようやく町の端っこに足を踏み入れたころ、日はすっかり暮れ、あたりは暗くなっていた。
やはり、この町はなにか奇妙だ──。だが、その何かを解く前にもう少し中心部まで進んでみようと、そう考えていたとき、目の前の家からガサゴソと物音が鳴った。
レンガづくりの小さな家──といっても、連想される温暖な佇まいではない。独特な薄紫のカラーリングは、まるで竜胆のよう。それに加え、まわりには同じ色を纏った花の数々。ブドウのような形をしたそれが惜しげもなくひしめき合い、余計にその家を怪しく見せていた。
独特の趣味だな──そう思っていたとき、ゆっくりとドアが開いた。
まるで、私がそこにいるのを分かっていたかのように。
ドアから出てきたのは女性。夜でもわかるほどに明るい髪は緩いウェーブを描き、目の奥には翠玉のような瞳。それが玄関の灯りを反射して光り、まるで猫のようだった。
そんな派手なその見た目とは裏腹に、身を纏っているのは薄汚れたよれよれの白衣。平均身長ぐらいはあるのだろうが、それをゆうに超えた私と比べれば彼女は"小柄"に属し、《《着られている》》という表現が正しいだろう。
そのうえ、インチキくさい黒縁のめがね。それがプラス要素となり、私は彼女を、博士か?──そう思った。
黄味の強い髪色が博士を幼げに見せているが、顔つきからすると二十代半ばほど。年齢はさして、私と変わらなそうだった。
性別、年齢──そして、ほかに一致する部分がもう一つ。家の外見と同等にへんてこなその姿。どう見てもこの人は変わり者だ。私はそう思った。
どうしよう、声をかけたほうがいいだろうか。そう迷っていた私に、博士はニッと笑いかけた。
私は人とのコミュニケーションが得意ではない。人見知りこそしないが、私が話し出すと皆、堅いと言って苦い笑いを浮かべどこかへ行ってしまう。どうせ、あたりに人はいないし、同様にはみ出していそうなこの人なら、わけを話してもそれを信じてくれるかもしれない。そう思って、私は博士に声をかけた。
「あの、こんばんは」
「……?」
「…あ、ええと──」
何から伝えればいいか分からずに言い淀んだ。
ここはどこですか?──こんな時間にそんなことを聞けば、いくら変わっていそうとはいえ、きっとこの人だって不審に思うに違いない。首を傾げるだけの彼女に、このタイミングでおかしな問いかけをするのは間違いだ。だが、数時間飲まず食わずで歩きつづけた身体は悲鳴をあげているし、ドアの隙間から漂うおいしそうな匂いにお腹までそうなりそうで、私は必死に頭を回した。なにかいい手はないか──と。
こめかみを二、三度。指でとんとん叩いていると、博士が手招きをして半開きだったドアを大きく開けた。
「お邪魔してもいいんですか…?」
「!、!」
返答こそなかったが、何度も縦に揺れるその顔は了承の印。
私はありがたく、その家に足を踏み入れた。
そして、私の中にあった違和感はさらに大きく膨らむことになる。
最初は私に警戒しているのかと思ったが、なんど問いかけても、彼女は言葉を発しなかったのだ。ただ曖昧に笑ってめがねをクイッと動かしては、顎の下に手を当て頭をひねるだけ。私の耳がおかしいのかと思ったが、夜風が葉を揺らす音はたしかに届いているし、彼女は口を開く素振りも見せない。
耳が不自由なのだろうか?はたまた、喋ることが困難?もしそうなら、これからどうしたものか。なにか伝える方法があればいいのだが──そう思ったとき、思いついたように博士はトンッと手のひらを叩いて、棚から黒い紙と一本のペンを持ち出してきた。そしてその紙を指でつつくと、何か書いて!──そう指示した。
私はすぐにペンを取りその頭をカチッと叩いた。黒い紙なんかに書けるのか?──と疑問に思いながらもその尖端を走らせると、心配をよそにじわっと紙を染めたのは眩しいほどの純白色。
"声は聞こえていますか?"
まずはそう書いてみたが、彼女は頭を傾げるばかり。
"こえは、きこえていますか?"
念のためそう書いてみても反応はうかがえず、次に私は、指でトントンと耳を叩いて見せた。
「!…!、!」
納得したような顔に、縦に揺れる首。視覚も問題はなかった。
ということは、《《やはり》》彼女には私の言語が通じていないというわけだ。
紙を持ち出してきたときに薄々感じてはいた。棚に並ぶ分厚い本のタイトル。それがなにひとつ、私には読むことができなかったのだから。
古代エジプトのヒエログリフにも近いような、そうでないような。どこか記号みを帯びたそれに心当たりはなかった。こんな文字を使いこなす国があっただろうか。私と彼女同様に型を外れたその形。存在しているのであれば、目についてもおかしくはないはずだ。
だがそんなことはどうでもいい。今は目の前の状況をどうにかしなくては。そう思った私はまたペンを手に取ると、その文字の形をヒントにして、次は図を描いて見せた。
私は東の方の森から来ました。
目が覚めると、その奥で倒れていたのです。
自宅で過ごしているとき、急な頭痛に襲われ、気づいたときにはそこに。
数時間歩いてこの町を見つけ、今、ここにいます。
ここはどこですか?博士は、喋ることが困難なのですか?──
そんな複雑なこと、描いたところで伝わるわけがない。それに私は、美術の成績はいつも2だった。自分で見てもなにか分からないものを、他人が理解できるとは到底思えない。それでも、私は不器用ながらに黒を染めていった。
もう100年でも経てば、価値が見いだされるのではないかというそれが完成すると、私は彼女へそれを手渡した。
我ながら、彼女のことはよく表現できたと思う。そのめがねの形はうまく描けているし、ペンの色味のおかげで白衣も上々。まあ、それでもすべてを捉えることは難しいだろうけど──でたらめな図にそう思っていたが、彼女の反応は私の期待を裏切るものだった。
こくこくと頷いて、笑ったのだ。
そして私からペンを取り上げると、彼女が書き出したのは"〇"──。 それからスープのようなものとベットをひとつ。最後に、月を矢印で太陽へと繋いで口の端をあげた。
事情はわかった!
とりあえず夕食を食べて、今日はここで寝たらいいよ!
詳しいことは明日にでも!
もしくは、明日になればわかる!──おそらくはそんなところだろうと思った。口調はその身振り手振りから、なんとなく。見ず知らずのわけの分からない相手に、食事と寝床を与える人柄の良さからしても、きっと軽い感じの喋り方なのではないかと思ったのだ。
感謝の意を表して深く頭を下げると、私はその変わった色の家で夜を越した──。
そして翌朝、町の様子を見て私は気づくことになる。
それまで感じていた違和感の正体に。
太陽へと繋がれた月。その意味が、後者だったことにも。
喋ることができないのではない。
喋らないのだ。
彼女も、この町の人も。
いいや、この世界にいる──誰だって。
おかしかった。近づくたびに、町に足を踏み入れた瞬間に。
いくら夜とはいえ、ほんのわずかにも、それが風に乗らないことが。
この世界には、声がなかった──。