第一話 山奥の祠
室町に幕府が開かれた頃。東国の小さな村の山奥に祠があり、そこには男女の稲荷神が祀られていた。
男稲荷の名は笹鳴。女稲荷の名は山茶花という。一体いつからここにいたのか二人の稲荷には皆目検討もつかなかった。
稲荷ということは、元は狐だったのだろうか、それとも……。
しかし、狐のような耳も尾もないため見た目はただの人と変わらない。
二人が目覚めたときには、色違いの狐面を握りしめ、初夏の風が吹く祠の前に座り込んでいた互いの姿があるだけだった。
目覚めてから三年が経とうという頃に、山茶花は稲荷神の印である狐面を笹鳴に預け、一人山を降りた。
祠を離れるのはこれが初めてだった。
小さな祠は入り口の狭さから、中に入るのは不可能かと思われたが、祠の前に狐面をかざすと、瞬時に中に入ることができた。祠の中は、見た目からは想像がつかないほどの広さがあり、奥の間には一枚の手紙と金銀財宝が大量に供えられていた。
手紙を見つけた笹鳴は、読み書きができなかったため、山茶花が読みあげた。
『前世の願いここに叶えたり。山茶花、笹鳴。天から降りたる我が姫を待て』
二人はそれを読んで、首を傾げた。前世? 願い? 我が姫? なんのことだろうか。
特にやることもない。祠の中から紙と筆、その他諸々を見つけ出した山茶花は、その日から笹鳴に読み書きを教えることにした。
そのうち、村人が一人、また一人と参拝にやってくるようになった。
そんなことにはお構いなしに、二人は互いの知らないことを教え合い、日々を過ごした。笹鳴は山に住む兎や鹿、果ては熊とも心を通わせたが、山茶花は次第に麓の村に興味を持ち始めた。
麓に辿り着いた山茶花は、まずは試しと、興味本位で村を見て回っていた。すると、村の鍛冶屋が彼女を呼び止めた。
「嬢ちゃん、見ない顔だね。この村の者かい?」
「……いや」
ちょっと悩んでから、そう答えた。
この村の山奥に住んではいるが。
鍛冶屋は、山茶花を上から下まで眺めてから、
「いいかい、嬢ちゃん。月待の村の奥の山には二体のお稲荷さまがいらっしゃるんだ。この村に来たもんは、旅人だろうが引っ越しだろうがなんだろうが皆、初めにお参りするって決まりがあるんだ」
「そうなのか」
どうりで銭やら供物が集まるわけだ。
「……お嬢さんの一人旅ねぇ……。訴訟か何の用かは知らんが、偉い人に会うより先に行ってきな」
鍛冶屋は山茶花を、訴訟を起こしに来た良家の娘か何かと思い込んだようだ。
それもそのはず、祠に元からあった壺装束は、時代は遡るが、平安貴族が使うような豪華なものだった。それを着てきてしまったのだから無理もない。
「いや、私は……」
すると鍛冶屋は傷一つない綺麗な刀を山茶花に手渡した。
「ちょうどいい、この刀を山茶花様に奉納するところだったんだ。オレは次の仕事があるし渡してきてくれないか」
驚いた山茶花は、
「待て、初対面のどこの娘とも分からぬ私に……。それを奉納せず奪うかもしれないとは考えないのか」
鍛冶屋に刀を返そうとすると、
「できるもんならやってみろ、山茶花様はいつだって見ておられる」
そんな、「お天道様が見てる」みたいに言われても。村に降りたのはこれが初めてだ、まさか私の顔を知って言っている訳でもあるまい。
村人の稲荷に対する想いが今ひとつ分からない。しかし、自分を慕う者の願いを無下にするのも嫌だった。
「……分かった、預かろう」
「任せたぞ」
銀の山茶花が描かれた白鞘を両手で持ち直すと、鍛冶屋に問うた。
「そういえば、稲荷神は二体いらっしゃると言ったな。もう一体についても教えてくれないか?」
「笹鳴様のことか。それなら、というより月待の稲荷様のことなら、茶屋の女将が詳しい。刀を奉納した後に聞きに行きな」
山茶花は、一度出直すことに決め、鍛冶屋に礼を言った。
「世話になったな、これは無事届けよう」
そういうと、山茶花は祠に続く裏道に入って行った。
正直驚いた。自分の中でこの村の稲荷神としての自覚を持ったつもりは全くなかったから。
この村と自分たちのことが知りたい。手がかりを知るにもまずは、刀を置きに行かないとな。
鍛冶屋の家が見えなくなると、音も立てず姿を消した。