腐った日常
「まもなく午前9時をお伝えします」
ラジオから流れる時報は毎日何秒と狂わず流れている。
俺もいつも通り目的地まであと信号2つと行ったところだ。視界に入る車の何割かも見知ったのがいる。人間は何て正確な生き物なんだと感心しつつ握り飯を口に放り込む。
先程から聞き流してるニュースは晴れ時々曇りといったところだ。
晴れは芸能人、スポーツ選手が大会で勝ったと言ったニュースで、曇りは国内に軍用クラスの銃が密輸されている証拠を海保が掴んだといった具合だ。出所は東南アジアではないかと専門家が指摘している。
東南アジアは前の仕事の時からお熱い状況だった。宗教、人種、格差のカオスが化学反応を起こしている状況だった。
米を噛み締め茶で胃に流し込む。サンドウィッチも片手で食うために開発されたと言うが握り飯も大概だ。
歩行者用信号機が青色の余韻を残しつつ赤に変わる。
ペットボトルのキャップを閉め足先でアクセルをつつく。
いつもの駐車場の入り口から入場する、朝救急車とすれ違う。朝から不幸なことだ。
車を枠の中に収めエンジンを切りドアを開ける。
冷たく乾いた風が神経を切り裂く。思わず肩を縮め足を早める。
自動ドアが開くと暖房の暖かさと薬品の香りが体を包む。感染防止のマスクを付けエレベーターを待つ。到着を知らせる鐘の音が廊下をこだまする。車椅子の少年が降りてくるのでドアを支えてやる。
すれ違いざまに礼を言われたので軽く会釈をする。いい奴なら早く良くなって欲しいものだ。
目的の階のボタンを押すと扉がカラカラと閉まっていく。
「ああー!待ってくださーい!」
バタバタと地面を叩く音と悲鳴にも近い叫び声が閉じかけた扉を開かんとばかりに飛び込んでくる。
咄嗟にボタンを押し扉を開く。
開きかけたドアに白衣の女性が足をひっかける。勢いをそのままにエレベーターの床にずっこける。
衝撃でエレベーターが揺れる。一瞬止まるのではと思ったが最悪の事態は回避できたようだ。
「大丈夫ですか?」
声をかけると女性はポップコーンが弾けるように飛び上がる。
「だっだだ大丈夫です!ご迷惑をおかけでしました」
お次は壊れたようにお辞儀の嵐である。お手本のようなドジっ子ムーブ正直感服する。
「桃井さん、俺ですよ何やってんですか?」
桃井由紀、この病院の看護師だ。性格は真面目で優しく向いているとは思うのだがいかんせんノーベル賞受賞もののドジっ子なのでいい意味でも悪い意味でも目立っている。
「あちゃ~、剣崎さんでしたか。今日も沙織ちゃんのお見舞いですか?」
「そんなところ、桃井さんは?何階?」
「私も同じ病室です」
ボタンを押し扉を閉める。
「沙織は元気ですか?」
「元気です。むしろ私が元気貰っちゃてるぐらい」
「ははっなら安心だ」
僅かな浮遊感のあと、扉が開く。
エレベーターからすぐ近くの扉を開く。
中はベットが整列していてその一番奥、陽の光が一番当たる場所が彼女の居場所だ。
「あっ!りゅうじだーおはよー!」
此方に気付くなり寝巻きにニット帽姿の笑顔を見せてくれる。
「おう、今日も来てやったぞ。いい子にしてたか?」
ベット脇の椅子に腰掛ける。
「隆二さん毎日来てくれてるねーいい子にしてて良かったねー」
桃井さんが温度計を沙織に付ける。
「モモちゃんも毎日来てるじゃん、しかもりゅうじよりもたくさん!おしごと?してるの〜?」
大きな頭を傾げ無垢な質問を投げかける。
「してるよ〜今だってこうしてしてるじゃん!」
桃井さんがわざとらしく頰を膨らませ沙織と向き合う。
「あんまり看護師さんを困らせるんじゃないぞ?沙織のためにみんな一生懸命やってくれてるんだから約束だぞ?」
桃井さんと沙織の仲の良さに若干嫉妬しつつ軽く注意する。
「はーい」
短い手を挙げ約束を契る。
軽く頭を撫でてやるとニット帽が直接肌を擦っている感覚が伝わってくる。痛ましい感情を抑える。
「そうだ今日は土産に漫画を買ってきたぞ、読むか?」
「うん、読むー!」
そんなこんなで時間を潰し職場に向かう、それが今の俺の日常だ。
あの仕事を辞めてから俺はチェーン居酒屋の正社員として働いている。給料はいいとは言えないがこれが一番マシだったし深夜に働けば沙織と会う時間を稼げる。
「剣崎さん、10番テーブルお願いします」
人手が足りないせいか俺まで給仕係だ。
10番は個室だ、障子をあけボールペンとオーダー表を取り出す。
個室には長髪の女性と短髪の外国人風の少女が座っていた。
「お待たせしましたご注文をどうぞ」
「注文は、"君"だ」
待ってましたといわんばかりに俺に指をさす。
場が凍り付く。いや待てこれは聞き違いだ絶対にそうだ。聞き間違える難易度が魔界村レベルだが聞き間違いだろう。
「あの、お客様?申し訳ないのですがもう一度お願いします」
「聞こえなかったか?君が欲しいと言ったんだよ私は」
面倒な客が来た、いったいどれほど酔ったらこんなことを言えるのかこの人は、というか隣のお嬢さんもこんな事になる前に止めなさいよなんでまだ澄まし顔で飯食ってるの?困惑する頭をボールペンで掻く。
「お客様、差し出がましいとは思いますが今日はもうお帰りになられたほうが宜しいのではないでしょうか?」
というか本気で帰ってほしい、経験上この手の客は面倒ごとしか起こさない。
「もしかして今私のことをたちの悪い酔っ払いだだとか思ってないか?」
それ以外に何があるというんだ。思わず吐き出しそうになった言葉を飲み込む。
「いやいや今の私は素面だぞ。なんだったら鉄骨綱渡りでもできるほどに」
迷惑だからやめてくれ、あと素面のほうが余計に怖い。
「でしたらここはホストクラブとかじゃないんですそういったことはお判りでしょう?」
「バカ言うな、私は君みたいな男は趣味じゃない」
あれ、これ殴っちゃだめですか?俺はなんか悪いことしたなんでこんな仕打ちを受けてるの?衝動を抑える。
「じゃあどういう意味です?」
「こういう意味だ」
髪の長い女性はパンフレットと紙切れを取り出す。
「私はこの会社の人間でね。色々と手広くやらせてもらってて紛争地での警備なんかもやってる。率直に言って君の能力を評価している、うちに来ないか?剣崎隆二君?」
会社の人間も何も名刺の苗字と社名が一致してる上にその若さで警備部長という時点で相手の背景がわかってしまう。でもまあ、もう関係のない話なのである。
「お気持ちは有り難く受け取っておきます。ですが、俺はこの手の事は引退したので」
立ち上がり回れ右をする。もうあんな事は御免だ。
「沙織ちゃん、体の調子はどうだって?」
ピタリと足が止まる。
「…何処まで知ってる?」
「いやなに、私はただ単に娘さんの調子を聞いただけだよ」
女は枝豆を1つとりだと口に放り込んだ。
「世知辛いご時世だ、何をするにも金が必要だろう?教育も生活も健康もね。ウチならそれなりの金は保証するよ。それにだ、今の状態にいつまでも甘んじていいと思っていないのは君なんじゃないか?いつか君も腐りきって空虚な人間になってしまうよ?」
確かにこの女性の言う事は正しいだが…
「まあ、急な話だ一度持ち帰るといい。興味があるなら是非とも連絡をくれ、その時は歓迎するよ」
虚空を見上げため息をつく。差し出されたパンフレットに手を伸ばす。
「それじゃあ、また後日」
「気が早いですね、まだ行くとは誰も…」
「来るよ、君は。だって君はそういう人間だろう?それに長くは続かんぞ、こんな仕事とっくに賞味期限切れだ」
この人は今日会ったばかりなのにまるで10年来の付き合いのように話す。なんだか今の言葉も見透かされてそうです気持ちが悪い。
渡された名刺を眺める。 Souda Logistics and Security Corporation、どこかで見たような社名だがいまいちピンと来ない。
渡されたパンフレットを開く、言いたい事は大まかにSLSCはロジスティックス事業と警護事業で食べてる会社で日本資本、今じゃ国内敵なし、海外でも絶賛売り出し中という訳だ。
そしてクライアントには自衛隊、活動実績の中には俺の派遣地まで書いてあった。となればあの時よく見た会社はここであったということだ。
パソコンを起動しネットを開く。参考までにネットでも調べてみるのも悪くない。社名で検索すると真っ先に出てくるのはホームページと傭兵を雇う殺人企業だと騒ぎ立てるサイトばかりだった。自衛隊にもこういう事を言う奴がいるが全く変わらないような人間で思わず苦笑いをする。
自衛隊時代の同僚のミリタリーオタクがしょっちゅう見てたサイトがあった事を思い出す。そこを当たった方が良さそうだ。
慣れない作業で探すのには手間取ったがどうやらこの会社について言われてるのは左右田財閥が関わったから金持ちということ。
その金で他所から色んな人間を引っ張って来て多国籍ながらかなり質のいい人材を揃えたということ。
政府とコネがあるから国からの許可があれば国内でも銃器の携行が可能になる法律を作らせたとのこと。
総評は清廉潔白な企業という訳ではないがドス黒でもないとの事だ。コイツ暇人だなと内心呆れつつパソコンを閉じる。
敷きっぱなしの布団に倒れ込み天を仰ぐ。綿が駄目になっているのかフローリングの硬さが布団越しに伝わる。
蛍光灯に照らされた手を眺める。銃把を握った証のタコ、何万回も引き金を引く事でできるタコ、あの時から何も変わってはいなかった。
相棒を撃ったあの少女兵を殺した後は胃が空になるまで吐いた。引き金を引かなかった事に後悔した。しかし同時に引き金を引いた事も後悔した。親友を殺され俺自身も危険な状況であるのに俺の心は殺した事を未だに拒絶している。じゃああの時引き金を引かせたのは一体何者なんだ?俺の中に殺人鬼でも住んでいるとでも?
腕で顔を覆う。答えは出ない、ただあの時俺はためらったという結果は変わらない。それで失ったものも変わらないのだ。今日はもう疲れた、思考を落ち着かせるとゆっくりと意識が底に沈んでいった。